伊井暇幻読本・南総里見八犬伝
 
「膨張の欲望」
 
―――神々の輪舞シリーズ7―――
 
 前回、新井白石の「琉球事略」と、琉球側の史書「中山世鑑」を引き、そのまま無責任に話を終えた。考察を加えよう。

 まず、両者の出だしは似ているし、「琉球国事略」は為朝が琉球に渡った事情を「為朝海に浮て流に随ひて国を求め流●(ムシヘンに乢のツクリ)に至る」と書いている。「中山世鑑」は、「大嶋ヲ管領スルノミナラス都テ五嶋ヲ打順タリ去程ニ昔ノ兵共尋下テ付順シカハ威勢漸ク盛ニソ成ニケリ永万ノ比嶋嶼ヲ征伐シ給ノ次ニ舟潮流ニ従テ始テ琉●(ミズチ/虫に軋のツクリ)ニ至リ」と述べている。両者ともに為朝の〈強い意思〉は感じられない。成り行きで、琉球まで行っちゃったのである。
 ところで白石は、八代将軍・徳川吉宗の登場を以て、幕府の中枢から排除される。後の吉宗の政策を見ると、本質的に白石と全く違っているワケではない。にも関わらず、排除されたことは、単に史的な人間関係とやらが相容れなかっただけのようにも見える。また、そのような皮相の見方を否定するわけではないが、政治家の人間関係なんざ遊女と同じ、金なり何なりで切れたり結んだりする程度のモノだから、実は余り考慮に入れなくとも良い。吉宗と白石の訣別には、より本質的な原因がなければならぬ。
 簡単に云っちゃうと、それは〈時代の要請〉であった。だいたい「幕府」は非常時の政府、もしくは私的な権力である。理論上の正当権力は天皇だけだ。天皇OBが上皇とか法王になって私的なラインを使って実質的な権勢を振るい、天皇を蔑ろにしていた院政期、そのような時代に、下品な大顔面野郎・頼朝が鎌倉に「幕府」を建てた。「幕府」は字義通り将軍の居所であり戦時に於ける実質的な権力に過ぎない。尤も、戦地に於いては皇帝も軍礼を以て遇せられる。将軍、天皇の軍事的側面を特に別の個人に切り離して行使させる存在、将軍が権力を振るうとは、非常時に限られる。令外官としての征夷大将軍は坂上田村麻呂あたりまで遡れ得るが、官名がなくとも日本書紀に於ける日本武尊、関東・常陸国風土記では「天皇」と呼ばれた彼が、まさにソレに当たる。将軍は、「天皇」の一側面を表現する存在に過ぎぬから、十全な「天皇」ではない。「天皇」(の一部)ではあるものの、「天皇」そのものではない。
 家康の個人的神通力が五代までで、ほぼ消費された。〈組織の時代〉となった。確立してしまった権力は、英雄的な王その人ではなく、有能な官僚群によって国政が動かされる時代、〈守成〉の時代へと流れる。有能な人材を確保するためには、供給源が広い方が良い。一部の階級のみを対象とするのではなく、より広い集合を供給源とせねばならない。背景として、社会全体の余剰生産物が増加し教養・知識の保持が、極めて限られた集団の独占から開放されなけれならない。
 まさしく、十八世紀の日本が、そのような状況であった。古河出身の浪人・新井白石が能力を買われて、幕府の中枢に入り込む。が、「能力」なんてのは見えにくい。バカは賢者の云うことが理解できないから、賢者の価値が解らない。勢い、官僚同士バカ主体の〈人間関係合戦〉となり、悪貨が良貨を駆逐する。しかも、自分が抜擢される背景となった剰余生産物の増加/経済の進展を、正に自らの学問的良心によって否定しようとした白石の政策は、必ずしも万人の支持を得るものではなかった。超越者を失った幕府は、マキャベリではないが、バカによるバカに対する闘争が繰り広げられることになる。如何な白石とて、当時に於ける「超越者/家康の血を引く者」ではないのだから、バカ合戦に放り込まれることになる。このバカのフライド・チキン、揚げ足取り試合を収めるには、英雄/超越者が必要だった。それが「時代の要請」であったのだ。吉宗が登場し、差し当たって幕府権力は安定した(別に吉宗が本質として超越者だったと談じているのではなく、吉宗のような超越者の最低限の資質、「家康の血を引く者」が出てこないと纏まらなかったってだけの話なんであるが)。
 このように歴史の表舞台から退場させられた白石だったが、彼は本来、学者であり、政治の中枢から外されても、〈生きていた〉。死ぬ間際までシドッチに取材した「采覧異言」に筆を入れ続けていたと伝えられるし、齢六十を過ぎて彼は「琉球国事略」の増補改訂版「南島志」を書いた。序に「享保己亥十二月戊午源君美」とあるから享保四年の作だろう。幕府を罷免されたのが元年だから、三年以上が経っている。そして、此の「南島志」中、為朝に関する記述が微妙に「琉球国事略」と違っている。

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……詔令太宰府重修建南島牌是歳孝謙天皇天平勝宝六年也自是之後史闕不詳(按延喜式太宰府別貢有南島方物蓋養老天平間以南島隷太宰府故史亦略不尽挙而巳)後四百二十八年而王舜天当其国先是保元之乱故将軍源朝臣義家孫廷尉為義子為朝竄伊豆州及平氏檀権朝政日衰常憤憤欲復祖業因浮海上略諸島之地遂至南島為朝為人魁岸絶力●(ケモノヘンに爰)臂善射南島人皆以為神莫不服者乃●(ケモノヘンに旬)其地而還居未幾官兵襲攻之竟自殺有遺孤在南中母大里按司妹育于母氏幼而岐嶷有乃父之風及長衆推為浦添按司方是時島兵起戦闘不息按司年二十二乃率其衆一匡清乱挙国尊称以為舜天王是已是歳文治三年也(宋淳煕十四年也事出中山世系図序據保元紀事及世系図序永万元年春為朝年二十八而至南島明年舜天生是歳仁安元年也嘉応二年夏為朝自殺年三十三大里浦添並中山地名○東鑑云文治四年夏五月貴賀井島降先是源頼朝欲撃貴賀井島衆諫之乃已是歳春三月鎮西人藤信房献島地及渤路図且請撃之遂命西海鎮将藤遠景及信房等率兵撃之島人乃降按貴賀井蓋鬼界也其事適当舜天為王之初而東鑑所載止此不得其詳以俟後考)(「南島志」)
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 「琉球事略」と比べて、表記が〈濃く〉なっているように思う。勿論、此等は白石の妄想による作文ではなく、幾つもの典拠があろうが、選択し表記した所は白石のモノであるので、其処に白石の意思を見ねばならない。即ち「南島志」では「保元之乱故将軍源朝臣義家孫廷尉為義子為朝竄伊豆州及平氏檀権朝政日衰常憤憤欲復祖業因浮海上略諸島之地遂至南島」と、海に乗り出した動機が明確に表現されている。「中山世鑑」と、ソレを引いたと思しき「琉球国事略」が、成り行きで琉球に辿り着いた如く表現しているに対して、「南島志」は「常憤憤欲復祖業」なる〈強い動機〉が「至南島」にまでかかっている。表記に於いて琉球支配に対する為朝の意思を明確化もしくは強化することは一般に、日本による琉球支配の強化を指向する心性と無縁ではない。「琉球国事略」と「南島志」との間にある白石個人の変化に就いて私は語る資格がないが、日本周辺で活発化する西欧列強の活動に、幕府もしくは知識人たちは危機感を募らせ始めていた。そのことが琉球支配の強化/為朝の意思明確化に繋がった……のかもしれない。

 一方、「中山世鑑」が長々と為朝の事跡を述べている点も興味深い。世鑑が書かれたのは、琉球が薩摩藩に侵攻せられて暫く経った頃だ。著者は羽地朝秀またの名を尚象賢、王の下で実際に政治を摂る立場にあった。
 一応、為朝が琉球王家の祖だとは、遅くとも十六世紀の五山僧たちの間で囁かれていた。例えば月舟寿桂の「幻雲文集」には、

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鶴翁字銘略(并序)
吾近観大明一統志琉球古未詳何国漢魏以来不通中華隋大業中令羽騎尉朱寛訪求異俗始至其国語言不通掠一人以返後遣武賁良将陳稜率兵至其都虜男女五千人還唐宋時未嘗朝貢元遣使招諭之不従本朝洪武中其国分為三曰中山王曰山南王曰北山王皆遣使朝貢永楽初其国王嗣立皆受朝廷冊封自後惟中山王来朝至今不絶其山南山北二王蓋為所併余疑琉球乃夷一也耶不可得而知焉吾国有一小説相伝曰源義朝舎弟鎮西八郎為朝膂力絶人挽弓則挽強其箭長而大森々如矛見之勇気払膺懦夫亦立嘗与平清盛有隙雖有保元勲功一旦党信頼其名入叛臣伝人皆惜焉然而竄謫海外走赴琉球駆役鬼神為創業主厥孫世々出于源氏為吾附庸也与一統志所載不同将信耶将不信耶此者有僧智仙字鶴翁者自琉球来隷名東福頗遊於芸就予●(不のしたに見)述鶴翁義話次及其国風俗仙曰無郡県而唯一国也海上有二十九島皆属琉球国人不識字以商賈為利有一聚落曰久来村昔大唐人自余輩来居此地而成村頗有文字子孫相継而学令彼有文者製隣国往還之書近来無為学者或赴大唐而入小学但浅陋不足取焉彼王毎即位必建一寺故多僧侶然儒亦不学禅亦不参不知祖宗所由而興矣仙是司僧省而近侍其王紅楼供奉臣僧也自称我是前席関東円覚仙巌和尚徒也仙岩琉球人而粗有禅文居国之龍翔寺也抑前年夏秋之交中山王以僧為使斎大明皇帝与日本国書来且曰嘉靖以来大明日本両国不和違先王盟自今而後両国尋盟如先王時蓋大明俾中山王為之地也吾王亦所欲也命予製遣大明表使僧欣然持皈矣使僧即仙所稔也韓氏外伝田繞曰夫黄鶴一挙千里集君華池啄君稲粱君猶貴之其従来遠也智仙一挙雖華池稲粱之求自遠方来不亦悦乎鶴鳴于九皐声聞於天翁之謂也他日業成皈郷則蘇耽乎令威乎実一仙翁也若拝其王以献寿則国人対王必曰繍嶺宮前鶴髪翁猶唱開元太平曲雖然干戈将息太平有象遅留以観国光則知国為東方君子国因作銘贈之銘曰
鳳兮々々長于羽虫覧徳輝下栖帝梧桐雖呈嘉瑞何若仙風有島々々厥寿無窮風塵表物不入樊籠更数千歳厥色不同或白或玄紅青▲▲以産赤壁以●(羽に中)弱流九万咫▲▲蓬莱宮今従海島到日本東千松林下清●(クチヘンに戻)響空安巣択木一个野翁列●(宛に鳥)班上入●(毛みっつ)●(シメスヘンに内)中子孫須長欝彼禅叢勿皈々々克始克終
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とある。此に拠ると、琉球から来た僧侶が語った話として、琉球の王祖が源為朝だとの説を紹介している。そして、此処で目を惹くのが、此の僧侶「智仙」が「鶴」「仙翁/仙人」と連想話の部分と、仙人が「寿(寿命)」と深く関わっている点、更に銘本文で琉球が楽園/蓬莱に擬せられている点である。この時には、まだ日本による琉球への膨張欲は発動していない。まだ見ぬ異国への妄想/イマジネーションによる産物だろう。
 また、保元物語にも為朝が鬼界が島に渡ったとは書いており、白石の著作にも、鬼界が島を琉球に比定する説が紹介されているので、両者が接続し〈為朝が琉球に渡って王祖となった〉なんて俗説が生まれたか。俗説でも人々に広く信じられ定着すれば、伝説/神話となって、史書に取り上げられる。ただ、「中山世鑑」の場合は、それほど事情は単純でない。

 十七世紀初頭、慶長十四(一六〇九)年に「島津入り」、琉球は薩摩藩の侵略を受け植民地となる。この時、薩摩藩が用いた論理は、島津家が室町将軍・足利義教から琉球を拝領したとする伝承であった。
 民族性を否定され混乱する琉球社会に於いて、極めて有能な政治家が立ち上がる。これが尚象賢、羽地朝秀である。彼は薩摩藩とも積極的に交流し、信頼を得た。その信頼を担保に、為朝琉球王祖説を明確に打ち出した。「中山世鑑」である。先学の論に拠れば、羽地朝秀が為朝王祖論を持ち出した理由は、国王が祖神崇拝の為に行う久高島参詣を簡略化させるためであった。日本では遠方に祖神を祀る神社があっても、自分の居所近くに勧請してしまう。久高島参詣は出費がかさみ、琉球人に重くのしかかっていた。日本流に簡略化することが、人々を救うことになる。台所が火の車なのに「日光御社参」なんかした、どこぞのトーヘンボクとは違って愛国の政治家だと言える。
 為朝王祖説は、足利将軍と琉球王家を同格とする。何たって、足利尊氏は、為朝の子孫だ(といぅことになっている)。即ち此の時点で薩摩藩が主張する嘉吉付庸説、室町将軍から琉球を与えられたとする伝承は、根拠を喪う。自分と同格のモノを、通常は、臣下に与えたりはしない。また、より重要なことは、当時の琉球王家は、舜天王の系統ではない点だ。舜天王は単に天孫氏断絶後に王となった「人皇の始」であって、その系統も三代で絶え、他家に禅譲される。後に王家となった尚氏が長く続いたようにも見えるが、実は此も途中で断絶して、他家の者が尚を名乗って王となっている。
 複数の王朝によってリレーされた場合、各王朝は同格であり、舜天王が室町将軍と同格ならば、その後の王朝、当時の第二尚王朝も室町幕府と同格であることになり、〈室町王朝〉と〈江戸王朝〉とが同様に同格であるならば、江戸幕府と琉球王朝は同格となる。「中山世鑑」が為朝を琉球王祖として持ち出した理由は、まさに此の点であったろう。更に言えば、日本人を出自とする舜天王朝/為朝王朝が僅か三代で断絶し、琉球人による王朝に平和的な禅譲が為されることで、暗に、琉球人が日本人と同格であると主張している。これは日本による琉球支配の正当性に、疑問符を突きつける所作に外ならない。舜天王朝最後の義本王が禅譲した相手、英祖は天孫氏であったとの説もあるから、天孫氏→(簒奪者)利勇→舜天王朝→天孫氏との構図も仄見える。国内の混乱を糺すため、一時期、外部の血を入れた、とも読めるのだ。
 白石の「南島志」も、複数の王朝によってリレーされたことを隠してはいない。また、英祖を琉球初の〈統一王朝〉を闢いた者として扱っており、舜天王朝までは一部を支配していたに過ぎないとも考えている。但し、舜天統の後を襲った英祖統に代わる中山王察度が「浦添按司」の子であったことから、察度が舜天王の後胤である可能性を指摘し、天孫統→(簒奪者)利勇→舜天統→天孫統→舜天統……天孫統と舜天統との循環を見ようとしている。場合によっては、日本が琉球に介入することを認めさせようとする論理だ。〈言い掛かり〉にしか聞こえないが、まだしも遠慮を感じる。結局、「南島志」は「中山世鑑」よりは、日本の琉球支配を正当化しようとする、都合の良い歴史解釈への意思を垣間見せるものの、大筋を「中山世鑑」など正史とされるものに拠っていることが判る。

 しかし、問題となるのは我らが「椿説弓張月」である。馬琴は残篇巻之五に、「(舜天王を嗣いだ)第二世の王舜馬順煕王は在位十一年にして宝治四年に卒す享年六十四歳舜馬順煕のおん子すなわち位を嗣給ふ諱は義本王とす。南島ますます無事にして道ある世こそめでたけれ(以下係于日本之事)」と、琉球に関する記述を無理矢理に終えている。これでは、琉球に関する情報を持っていなかった当時の読者に、〈為朝王朝〉が存続しているような錯覚を起こさせてしまう。しかし実は、この義本王は天命を失っていたらしく、疫病が流行し琉球は混乱、英祖王に禅譲する。それを「ますます無事にして」とは虚偽以外の何者でもない。……って、まぁ弓張月はフィクションだから、元々虚偽以外の何者でもないのだが。

 ところで序(ついで)に言うだけだが、弓張月末尾「為朝神社并南島地名弁略」でも「南島志」を引いている。それには、私が引用した部分の前に「舜天王譜云」なんて字句が入っている。私が使ったのは、国書刊行会が明治三十九年に発行した「新井白石全集第三(今泉定介編集校訂)」で、例言には「広白石叢書写本をもととし、甘雨亭叢書に収むる所を以て校訂したり」とある。当時、南島志のような〈有用な情報〉は、なかなか刊行されなかった。拠らしむべし、知らしむべからず、ってのが古今東西(?)日本の政権が伝統的にとっている政策だからだ。「有用な情報」が民間で集中的かつ長期的に蓄積されれば、政権が自由濫望で利権がらみの政策を行うことが出来なくなるし、批判され易くなる。結局、権力というものが今だに成熟しておらず、為政者達に覚悟も自信もないんだろう。でも当時は、「有用情報」だったら一所懸命に書き写していた知識層がいた。南島志も写本の形で流通していたようだ。ただ、写本は〈伝言ゲーム〉ほどには酷くないにせよ、誤字脱字落丁して写すこともママある。間違いや勝手な挿入省略がある方が当たり前なのだ。だから、幾通りもの「南島志」がある筈なのだ。如何やら馬琴は、私とは違う「南島志」を引いたらしい。

 此処で、弓張月末尾に載す「為朝神社并南島地名弁略」を読むことにしよう。まず気になるのが、

     ◆
……琉球の地名に九州の地名を擬たりとおもうふもの少からず肥後に佐敷と唱る所あり水俣(弓張月のフリガナはミヅマタ)へ四里半八代へも遠からず琉球山南省に又佐敷と唱る間切あり肥後に浜村といふ漁村あれば琉球の勝連にも又浜村といふ村里ありこの余の郷名大かたこの方に似たり
     ◆

である。九州と琉球に地名の相似があると云っている。例示されている「佐敷」と「浜村」は共に肥後であるから、九州の中でも特に、阿蘇のある肥後と琉球の間に、馬琴は相似を見たいようだ。……通例ならば、「見たい」ではなく「見ている」だろうって? 其処が問題なのである。二つのモノに共通性があることを強調する場合、単に共通しているモノを取り出せば良いワケぢゃない。両者で共通し、且つ他のモノとは違った部分を取り出してこそ、両者の共通性が強調できる。「佐敷」は良い。しかし、「浜村」なんて地名は、別に肥後に特有なものではなかろう。古代からの地名を網羅した信頼すべき歴史地名辞典である「角川日本地名大辞典」(別巻U日本地名総覧一九九〇)には、馬琴が挙げたと思しき熊本県津奈木町の「浜村」の他、秋田県琴丘町、静岡県大須賀町、鳥取県気高町、島根県出雲市にあるし、香川県、高知県、長崎県にもある。大分県の真玉町にもあるけれども、沖縄県の「浜村」は、「はま村」と表記するらしい。「新日本地名索引」(第一巻アボック社出版局一九九三)には、これは現在の地名に限られ何時から呼ばれたかまでは判らぬのだが、「浜村」なんて新し目の地名ではあるまい。上記の他に石川県金沢市、鹿児島県穎娃町、鹿児島県加治木町の「浜村」が載せられている。ウジャウジャあるのだ。だいたい、「浜村」なんて、「浜」にある「村」なら、そぉ呼びたくなるだろう。「浜」も「村」も、アリキタリだ。よって、アリガチな地名になるのは仕方がない。両者の共通性を強調したいのだったら、こんな不適切な地名も珍しい。こんな例を挙げた時点で、馬琴が肥後と琉球の間にある共通性を〈敢えて見たかった〉ことが知れる。また、

     ◆
○袋中の説に南中畏るべきの甚しきものは毒蛇也昔その王大成(成当作城)毒蛇にあへることありといへり天朝神代に山田の大蛇ありこの後日本武尊近江膽吹山にて毒蛇を●(イシヘンに欠)たまひしが蛇毒のために薨れたまひきかヽれば天朝の古俗毒蛇を畏るヽこと南中に異ならず今なほ畏るべきものに譬て鬼といふ蛇といふ彼我その俗亦相似たり
     ◆

に至っては、馬琴が酔っ払ってるとしか思えない。まぁ私も酔っ払っているから、酔っ払い同士の無益な議論と受け取っていただいて結構なのだけれども、仏説にも多く毒蛇が登場することを知らぬ馬琴ではあるまい。真言陀羅尼(おまじない)にも毒蛇を避ける為のものは多い。だって「毒蛇」なんだから、温帯・熱帯に位置する亜細亜世界共通で、恐怖の的だったろう。
 幼少期、私は蛇を見つけると、捕まえて遊んだものだ。蛇は身近であったし、毒蛇なら今でも怖い。にも拘わらず、広大な世界の中で馬琴が「毒蛇」を以て、琉球と日本の二点を〈敢えて結びつけようとしている〉ことは、強調しておかねばならない。次回は引き続き、馬琴の琉球に対する思い入れを追及(ママ)する。お粗末様。
 
 
 

 

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