八犬伝第九輯下套下引

 

余性也僻る常非同好知音不交也る是以微躯生於江門、而交遊罕于江門。唯遠方有二三子在、所謂和歌山篠斎、南海黙老、松坂桂■片に聰のツクリ/(名ハ久足)是已。約這個三才子、毎見余戯墨諸編、相喜評定、寄之于余、以問当否為娯楽。故郵書来往、不為遠千里。譬如■燕のレンガが鳥/去雁来春秋不虚。今茲逮本伝結局、三才子逆聞之、或詩或■ゴンベンに哥/、各詠所其長、祝頌是書有始有終。句々皆金玉、不但増拙著之光耳、褒賞幾過分矣。雖慚愧不知所閣、然不可蔵秘篋且為■ムシヘンに覃/■アナカンムリに果/也。即便附載於此、以代小序云。時戊戌端月。

蓑笠漁隠

 

余が性や僻めり。常{かつ}て同好の知音にあらざれば交わらず。是を以て、微躯を江門に生して、しこうして江門に交遊することは罕なり。ただ遠方に二三子あり。いわゆる和歌山の篠斎南海黙老、松坂の桂■片に聰のツクリ/(名ハ久足)、是のみ。およそこの、この三才子は余が戯墨の諸編を見るごとに、相喜びて評定し、余に之を寄し、当否を問うを以て娯楽と為す。故に郵書の来往は千里を遠しとせず。譬えば■燕のレンガが鳥/去り雁来りて春秋の虚しからざるがごとし。今茲、本伝の局を結ぶに逮{およ}び、三才子逆って之を聞きて、あるいは詩あるいは■ゴンベンに哥/おのおのその長ずる所を詠じて、この書の始めありて終わりあるを祝頌す。句々は皆、金玉のごとし。ただ拙著の光を増すのみならずして、褒め賞すること幾(ほとん/ど分に過ぎたり。慚愧するといえども、閣く所を知らず。しかれども秘篋に蔵してかつ為■ムシヘンに覃/■アナカンムリに果/となすばからず。即ち、すなわち此に附け小序に代えると云う。時に戊戌の端月。

蓑笠漁隠

 

頃者聞本伝団円、寔可羨称也。因題短韻一律、以寄于著作堂梧下

黙老半漁

 

発研新史褒称周、都鄙競需俟速郵。繍口錦心優水滸、狗譚猫話圧西遊。

毫鋒靡敵芳流閣、文焔摩空円塚丘。騒客雅人比拱璧、珍篇何復有朋儔。

 

このごろ本伝団円となるべきを聞く。まことに羨称すべきなり。よりて短韻一律を以て著作堂梧下に寄す。

黙老半漁

新史を発研し周を褒め称う。都鄙ともに競い需めて速郵を俟つ。繍口錦心、水滸に優れ、狗譚猫話、西遊を圧す。毫鋒にて敵を靡かせたる芳流閣、文焔にて空を摩したる円塚丘。騒客雅人とも拱璧と比ぶ。珍篇また何ぞある、朋に儔あれ

 

里見八犬伝をほむる長歌小津久足

 

筆の海机のしまにいさりする人はおほけど海幸は得がてにすとふ

文の苑詞のはやしかりくらすひとはあれども山幸はいとりかねとふ

しかれどもわがせの君は朝よひに蓑笠きつ丶海さちもその山さちも

ものさはにとり得てあればみのかさにかくれもあへず世にひろく名はあらはれて

人みなのよろこぶ書を家の名のあらはしつくりむねにみち牛に汗する

まきまきは世にはびこりてこもまくらたかき人たちしづたまきいやしき人も

みやびをもをとめのとも丶お鮒お鮒めでよろこびぬいやひろくよろこぶ中に

鳥が啼あづまの国にいにしへに有けることのくすはしきこと丶いひつく

かの見ゆる里見の家をまもりたる八の犬とふ氏人のつたへをしるす

書はしも世にぬけ出て天の下ゆすりとよもし新しき年のはじめに

うぐひすの初音はあれど梓弓春にしなればさきいづる花はあれども

つかの木のいやつきつきにこのふみのいづるをまちぬかくばかりたへなるふみの

石の上ふるきむかしゆ今までにありとはきかずいまよりの千年の後に

たれしかもあらはしいでむ文国と名におふ国にいにしへゆ其名聞えて

かずかずの星のかたちをおりなせるそのからにしきしきしまのやまとの国に

このふみにいかでかしかんこのふみにあにまさらめやこのふみをめづる人らは

このふみの名にあふ犬の家内をまもるがごとくよそにはも出しもやらず

家人のなづるごとくにかたはらを手はなしもせずあく時のあらずといへば

鳥の跡それにはあらぬ犬の跡いやとほき世にのこらざらめや

 

反歌

唐錦大和にしきをおりまぜてあやにおもしろくつづる書はも

骨をかへかたちうばひてから鳥をくひふせし犬はゆ丶しきろかも

 

八犬伝跋文にかへてよめる長歌みしか歌篠斎野叟

事繁き塵の世よそにかろらかにかくれ蓑笠かくろひてからのやまとの

ふみの海あさりおきなとあけくれに机の小船うけすゑて筆の釣竿

手にまかせうまぬすさびの年月にやがてあまたの巻を成すいにしへいまの

物語かれとこれとをとりもかへあると無きとのなかそらにたつのたかとの

海の市くしくあやしくめづらしくたへにたくみにこまやかに思ひ構へて

さらに又にはよき波路まさみちのよきをば勧め横走る浦の蘆蟹

あしきをは懲らししめしてねもころにさとすこ丶ろは幾千尋深くもしつく

真白玉詞の玉藻数々にあかすあかれすもてはやし磯山さくら

ゑる板に春あたらしくさく花を誰も待つ丶いそめぐり中にも是は

かたりこと殊に長かるしなが鳥安房の洲崎に光り出し八つのくしたま

その玉のやつらの文字をなのりそは海の浜藻のそれならで富山に根ざす

いのこ草犬の氏なるとりとりのたけをますら雄さまさまに勇みすぐれて

まめやかに厚きおこなひいづれともまさりおとらずとりよろふやたりのつたへ

あら玉のとしの緒長く巻長くつらねつらねて今ことし玉まろらかに

数またくぬきとめよせて緒を結ひみがく光りのいよ丶世にかかやきわたる

八つの玉四方にめで見ぬ人はあらしな

 

かの星の百まり八つのそれよりも此くし玉やひかりまさらむ

 

蓑笠漁隠曰、所録前後、■遙のツクリに系/客歳到来遅速而已。非選択以為伯季也。江湖繙閲百君子、其熟思之。

董斎盛義書

 

蓑笠漁隠曰く、録する所に前後は、客歳において到来の遅速によるのみ。伯季を為すに選択を以てするにあらず。江湖に繙き閲する百君子、それ熟{ふか}く之を思え。

董斎盛義の書す

 

読書自嘆

 

休向世間訴不平、疎狂聊爾錯人情、談来未了書中趣、空為浮名過此生

琴嶺興継稿

 

世間に向かうを休め不平を訴う。疎狂たりて聊爾に人情を錯す。談じ来りて、いまだ書中の趣を了えず。空しきかな、浮き名を為して、この生を過ごす。

琴嶺興継の稿

 

蓑笠漁隠又曰、是詩故児弱冠時所偶作曩撈遺篋而得之雖題詠非犬士之事然其要似夙知吾意衷而有所志因録備遺忘蓋彼之短命不見是書結局而逝矣不得無遺憾也

 盛義

 

蓑笠漁隠また曰く、この詩は故児の弱冠たる時にたまたま作るものなり。さきに遺篋を撈りて、しこうして之を得る。題詠は犬士の事にあらざれども、しかれどもその要は、吾が意衷を夙く知りて志す所あるに似る。よりて録して、遺忘に備う。けだし彼が短命、この書の結局を見ずして逝きぬるか。遺憾なきことを得ざるなり。

盛義

 

★試記:世間の人間関係から自由な立場をとり、社会矛盾を指摘する。ぶっきらぼうな書きざまで、人間関係とやらに絡め取られてしまいがちな人情を、ちょいと煙に巻く。話は進んできたものの、物語は、まだ終わっていない。人生を生きるに、このように浮き名を流して過ごすことは、空しいのではないか

 

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口絵

 

【竹林巽風が開いている掛け軸に「深窓猶有破隙吹雪小姐」。胡座を掻いた直塚紀二六が巽風を睨み付けている。立ち上がった細河政元が紀二六を見下ろしている。政元の紋は「河」字。絵の周りに花】

 

奇貨忘神祐讒聞禁使臣欲譴蛇足過驚虎魄傷人 題政元及巽風

 

奇貨に神祐を忘れ、讒を聞き使臣を禁む。蛇足の過を譴せんとして虎魄の人を傷るに驚く。政元及巽風に題す

 

管領政元くわんれいまさもと・竹林巽風たけはやしそんふう・直塚紀二六ひたつかきじろく

 

【金床を前に鎚を持つ再太郎。仕込み杖を手に立つ堀内雑魚太郎貞住。左上に小森倶一郎高宗と田税力助逸友の肖像小枠。貞住の紋が「内」ではない。分銅か。絵の周りは紅葉か】

 

大刀つくるたくみのともハはた加にて打のはせと母きる物はなし半聞{閑カ}人

 

堀内雑魚太郎貞住ほりうちざこたらうさだすミ・鍛冶子再太郎かぢこさいたらう・田税力助逸友・小森倶一郎高宗

 

★試記:大刀作る匠の友は裸にて、打ち延ばせども着る物はなし

 

【美々しい軍装の関東軍幹部。足利成氏が中央右寄りに立ち軍配を握る。主将の如き振る舞い。右端に山内上杉顕定。左側に日の丸扇を開いた扇谷上杉定正と千葉介自胤。顕定・定正・自胤は座って成氏を睨んでいる。立位の巨田助友は、大石憲重を正視で睨み、座った憲重は助友を横目で睨んでいる。そんな内部抗争なぞ知らぬ顔で、長尾景春は弓の弦を引いて確認の仕草。既に景春の心は、上杉家の外にあるようだ。横堀在村は刀を抜いて手に掲げ明後日を向いている。絵の周りに桜】

 

赤壁阿瞞勢勿負焼殫艨艦有周郎 題阪東四将四大夫

 

赤壁に阿瞞勢ひ負{たの}むこと勿れ艨艦を焼きつくす周郎あり 阪東四将四大夫に題す

 

山内顕定やまのうちあきさだ・巨田助友おほたすけとも・足利成氏あしかがなりうじ・長尾景春ながをかげはる・大石憲重おほいしのりしげ・扇谷定正あふぎがやつさだまさ・千葉介自胤ちはのすけよりたね・横堀在村よこほりありむら

 

★八犬伝世界は、近世に流通していた軍記などから大きく懸け離れている。山内上杉家の家宰になりそこなった重臣長尾景春が、何時の間にか扇谷上杉家を出自としていたり、景春の白井長尾家と別系統の越後長尾家が統合していたりする。堀越公方足利政知は史実より遙かに早く抹殺され、後北条家が既に大勢力に成長している……勿論、馬琴は確信犯だ。稗史だから史実との乖離は、当然とも言える。ただ、「懸け離れ」方が非常に興味深い。足利成氏・山内上杉顕定・扇谷上杉定正といった、関東を戦国修羅の世に突き落とした三馬鹿トリオの相互関係は、概ね軍記などから浮かび上がる所に庶い。そして此の三馬鹿に就いて馬琴は、一般に云われるより暗愚に描いたと公言している{南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評}。しかも、同じ箇所で「史実の善人を悪人には描かない」と宣言した舌の根も乾かぬ裡に、である。こう書けば矛盾しているが、馬琴は、彼なりの根拠を挙げて、三馬鹿を暗愚と決め付けている。馬琴にとっては、誹謗中傷の積もりはないようだ。他の登場人物は、実在の人物であっても好き放題に配置換えなどして歴史を【修正】しまくっているのだが、三馬鹿の相互関係は概ね、近世軍記水準に沿っている。且つ、足利政知もしくは堀越御所家を早く消滅させ、何となく足利成氏が許我御所を名乗り、関東公方のような、そうでないような顔をして彷徨いている。
八犬伝世界は、軍記類から浮かび上がる戦国期関東像を馬琴が都合良く捩じ曲げたものだ。足利成氏は関東公方すなわち関東の王として暗愚を尽くす。欠格王である。真に王たる資格を有する里見家の引き立て役だ。また、三馬鹿の相互関係を八犬伝世界の、背景の軸に据えたならば、懲悪の対象となるべき暗愚なる者の典型例として引っ張り出したに違いない。足利成氏に就いては、父の持氏が上杉家に滅ぼされたことを、尊氏の余殃と断定し、己の為すべき時務を思わず、親の敵だとか何だとか云って、関東管領上杉憲忠を殺し、結果として関東を戦国時代に陥れた張本人だと、馬琴は決め付けた。両上杉家に就いては、足利持氏を滅ぼして関東管領職を奪ったこと、権柄を奪いながら仁義によって正しい政治を行わず関東足利家を蔑ろにし続けたこと、を以て弾劾している。更に定正に就いては、忠義の良臣太田道灌を迫害し遂には殺した暗愚を厳しく責めている。結局するところ、三馬鹿は共に臣下としての忠に悖り下剋上を犯した者であり、特に厳しく追及されている成氏と定正は、人の上に立つ者としての資質に欠けていたが故に、八犬伝で筆誅を加えられていることが解る。実際には最大勢力であった顕定が悪役として影が薄いところからも、成氏と定正の暗愚ぶりを強調して提示したかったと思われる。特に、横堀在村に操られ最も信頼すべき里見・結城氏に見離された成氏が現八・信乃を信じなかったこと、定正が籠山縁連など佞臣を重んじ河鯉・太田両家を迫害したことを、馬琴は書きたかったのではないか。彼自身も宮仕えで苦労したようだし、何より八犬伝は大衆文学/稗史であるから、責務を果たさぬ権力者に厳しい目を向けるのが当然だ

 

【里見八姫から何度か登場している浜路姫を除いた七姫。合奏の光景。静峯は縦笛を持ち牡丹模様の上着。城之戸は琵琶を弾じ着衣に波模様。鄙木は笙を吹いており上着は蔦葉模様。竹野は琴を弾いている。栞は鼓を持っている。帯に牡丹模様。小波は笛を持っている。着衣は波に鳥模様。弟は鳳凰模様の銅鑼を打っている】

 

姫小まつ結はば八つの玉さ丶き誰かてにとりてねの月そ満らむ ■頼のした鳥/斎

 

里見後の八犬女の中五の君浜路姫の端像ハ既に前輯に出たれバ今略之

 

女一君静岑姫いちのきミしづねひめ・女二君城之戸姫にのきミきのとひめ・女七君小波姫しちのきミをなミひめ・女六君栞姫ろくのきミしをりひめ・女四君竹野姫しのきミたけのひめ・女三君鄙木姫さんのきミひなきひめ・女八君弟姫はちのきミいろとひめ

 

★試記:姫小松結はば八つの玉ささき誰が手にとりて子の月ぞ満らん/子月とは十一月だが、十二支の始まりの月でもある。一年の周期は、陽が徐々に強まり午に於いて旺さか/んとなるが同時に陰が増勢に転ずる。此の陰気が最も強く陽が最も弱い状態にある時が、子だ。陽気が最も弱い時こそは気がプラスに転ずる秋トキだ。同時に陰気は下降線を辿り始める。故に句にある「子の月ぞ満」とは、近世後期から「七五三」を行うようになった吉日であり、陽へのエネルギーが最大となるよう期待される十一月十五日を指すであろう。これが八犬士が里見八姫と見合い……御簾を隔て不可視の状態だったから「見合い」と言えないが、まぁ見合いをした期日とも思う。但し、本文からは期日を断定できない。また、婚礼は翌年二月下旬に行われる

★鳳凰は皇后の象徴。笙の形は鳳凰に擬えられる。鄙木が蔦葉模様の上着を着るのは、蔦葉紋を使う大角に因むか

 

 

 

本伝出像の人物に面貌の老たると弱く見ゆると本文に合ざるあり。看官疑ひ思ふべければ聊爰に論弁す。譬ば金碗大輔孝徳入道丶大法師は嘉吉元年辛酉の秋父孝吉の自殺の時彼身は甫の五歳なり。恁而長禄二年に至りて伏姫富山に事ありし日孝徳死刑を宥められ祝髪行脚の僧になりしは乃二十二歳の時なり。是等の年紀は第十五回に夙く作者の自注あり。今これをもて僂れば文明十年戊戌の夏丶大が行徳なる古那屋にて信乃(時に十九歳)現八(時に二十歳)小文吾(時に二十歳)親兵衛(初名は真平時に四歳)等に邂逅しける時丶大は四十二歳になりぬ。是より又六稔を歴て文明十五年癸卯の夏丶大が宿望成就の日八犬士を相伴ふて安房へ帰り来にけるは年四十七の時にて五十にはいまだ至らず。本文にはその折々に年紀を具に誌さねども創よりして推考へなば看官紛れあるべくもあらず。■しか/るに第七十三回なる甲斐の指月院の段(前柳川重信画)よりして吾如意ならぬ処をいはば丶大の面貌翁備て六旬許の老僧に似たり。後にこれを画く者其を亦本にせざるもなければ弥老て相応しからず。

 

又蜑崎照文は長禄元年にその父輝武が富山川に溺死しし時いまだ彼名を出さねども必是少年なるべし。是よりして二十二年を歴て文明十年戊戌の夏照文行徳にて出世の時齢は三十有余にて丶大には弟ならむに是より後光陰は才に六稔の程なるに出像の面貌翁■骨に尭/て五十あまりの人に見ゆめり。

 

又八犬士の内中犬田小文吾は髫歳より角觝を嗜て大漢なるよしは本文に粗見えたり。■しか/るに出像は凡庸にて自余の犬士に殊なりとは見えず。惟第六輯の画工英泉のみこの意をや得たりけん。第五十八回に小文吾が市河にて依介夫婦に再会の段の出像には全身肥満の大漢を画きしに看官は前々なる出像に眼熟れて妙とせず。こも只■隠のしたに木/るに過たりといはまし。

 

又扇谷定正は修理大夫持朝の季子なり。此管領は享徳年間よりして鎌倉扇谷の館に在ししかば時の人相称えて扇谷殿といひけり。かくて定正鎌倉を退くの後明応二年十月五日に卒りぬ。享年五十二歳。事実は鎌倉管領九代記に詳なり。因て定正卒去の年道節信乃等が復讐は定正四十二歳の時なり。然るをこの段の出像には定正の面貌最弱かり。吾一知音の細評にその弱かるを疑ふて云云と問れしよしあり。

 

但この差錯のみならず人に誂へてものしぬれば不如意なる事多かれども就中今論つらふ人々は本伝中なる有名にて殊に尤き者なれば見巧者なるは疑ふて其をしも作者の愆なめりといはざることを得ざるべし。然りけれども人はうち見によらず其齢より面貌の老たるあり弱きもあれば只管に年歳を数へてその面貌の合ざるを訂さば反て理評にならむ。況本伝は画工一筆にあらず。各作者の画稿に拠て潤色して誉を取まく欲す。こ丶をもて婢妾までも画くに美人ならぬはなし。画工と作者の用心の同じからぬを知るに足らむか。

 

畢竟遊戯三昧なる出像は婦幼の与にして和漢稗史の花なれども是ある故に作者の趣向をはやく知らる丶をいかがはせむ。花を愛るは実を思はず、実を嗜るは花をも観るめり。誠に好みて善読者は必文を先にして後に出像を観るといふ。画に縁りて事の趣を夙く悟れば読見る時に興薄からむを■澤のツクリに攵/へばなり。現看官にも用心あり。有るが中にて恁る知音は世に又多く得易からねば漫に戯房をうち開して出像の上にまで自評しつ。人の疑難を解くよしは本伝結局大団円に遺憾なからしむ為なりかし。

 

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第百三十六回

 

「政元権を弄びて正副使を分つ犬江別に臨て忠良僕を借る」

 

【宿の部屋。照文に寄り添って親兵衛が何か囁いている。親兵衛の紋は半ば隠れているが「山」が見えるので、いつもの「杣」字か。メイドが行灯を運び込んでいる。床の間に白帆紋のついた照文の上下や矢立。矢立は船中で使っていたものか。代四郎は自分の頭頂を押さえている。考え事の仕草か。若党と同じ菖蒲革模様の着衣。部屋の中央に急須。五三桐紋が付いている。宿屋の紋か。信乃の守護が親兵衛に及んでいることを示すか。瓢箪模様の襖の手前から旅装の紀二六が聞き耳を立てている。胴は半ば隠れているが、「キ」字が見える。通常は照文の白帆紋を使う】

 

親兵衛機に臨て意見を密談す

 

げぢよ・わかたう・しん兵衛・てる文・代四郎

 

★此処でも照文の紋は、三つ帆

 

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第百三十七回

 

「能弁軍記を講じて餅を薦む窮鳥旧巣に還りて巧に囀る」

 

【湯上がりの塩谷判官妻。解いた髪、やや乱れた鬢、袂の端で軽く顔を仰ぐ仕草が、桃色に上気した艶やかな肌を想像させる。絵師の手柄。着衣は陰陽の菊花紋。ぽっちゃりした少女が角盥を捧げている。右上の窓から遣り手婆の如き中年女が手引きしたか高師直が覗いている。五三桐紋】

 

太平記巻の第二十二高師直塩谷高貞の正室の出浴を偸見る処

 

師直もろなほ・手引のおうな・小婢めのわらハ・塩谷正室ゑんやのおくがた

 

★高師直の紋は太平記から推して輪違だが、歌舞伎の忠臣蔵では桐紋を使う場合があるようなので、江戸の読者には、桐紋の方が馴染み易かっただろう。細河政元の僕たちが太平記読みを称する紀二六に師直横恋慕の場面をせがみ暗唱させたのは、馬琴の読者サービスでもあったろうが、足利尊氏の執事であった師直を、室町幕府管領である政元に擬すためだ。仮名手本忠臣蔵で塩谷判官の妻は顔世御前だが{太平記では名前未詳}、顔世の着衣には菊花模様もあったようだ。が、此ほど大胆で典型的な菊花紋は如何だろうか。近代以降のように菊花紋への制限が厳しくなかったとはいえ、余りにも……。まぁそれは措き、雨月物語でも菊花の契りといえば、義兄弟の熱い関係を描いていたが、勿論、師直が政元ならば塩谷判官妻は親兵衛である。其れが菊花紋なのだから、菊花門の話となる。当然である。ただ此処で問題となる点は、師直が「横恋慕」した事実である。横恋慕するためには、親兵衛には予め定まった愛人がいなければならない。信乃である。信乃は伏姫だったとき、気のレベルではあったが、八房だった親兵衛に姦された。今生で信乃/伏姫/金碗八郎は、親兵衛/八房/玉梓を姦さねばならない。但し此は同性愛とは限らない。前髪を立てている親兵衛は、女性ではないものの男性とも認めがたいからだ

 

【花盛りの中で暴れる香西二六郎。藤原持通の牛飼舎人が二六郎に持ち上げられている。臑毛が濃い。同じく臑毛の濃い男が転げている。牛飼舎人一人が斬られて転倒中。雑掌一人も血を噴き出している。もう一人の雑掌が十手を振り上げている。画面奥に関白の牛車】

 

二六郎酔狂摂家の従者と力戦す

 

とどむるや小田にまわる水車いぼしり虫の身をバはからむ

 

関白もちミち公・二六郎

 

★試記:止むるや小田に回る水車、蟷螂虫の身をば測らむ/如何でも良いが、画面中央やや右よりの従者は、【外人ポーズ】をとっている

 

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第百三十八回

 

「士卒矛盾して自家を防ぐ餅書教に因て秘密を告ぐ」

 

【太平記から、備後三郎高徳が後醍醐帝奪還に失敗しつつも桜樹に「天莫空勾踐、時非無范蠡」と書き付け帝を励ます段を描く。警護の武士四人は幸せそうな寝顔】

 

太平記巻の第四備後の三郎高徳桜樹に詩を題する処

 

けいごの武士・たかのり

 

★児島備後三郎高徳が樹に天莫と書いているが、これは「天莫空勾践、時非無范蠡」と書く途中。「呉越同舟」との俚諺を生むほど憎しみ合った春秋期中国の両国の物語を下敷きにしている。って云ぅか、太平記巻四「備後三郎高徳が事付けたり呉越軍の事」は高徳なんて放っといて、呉越の話が大部分を占める。だいたい高徳、後には南朝の忠臣として頑張り抜くが、デビューの此処では、なかなか間抜けなオジサンだ。鎌倉幕府との戦いを決意した後醍醐帝は、笠置に籠もるが破れた。朝廷に心を寄せる高徳も時を同じくして兵を挙げたものの、頼みにしていた楠正成も赤坂で自害したと聞き/風評に過ぎず正成は後にも大活躍する/途方に暮れた。しかし帝が隠岐に流されると聞いて、途中で帝を奪還しようと思い立った。一族と共に備前・播磨の境、船坂山の頂上で待ち伏せした。帝を護送する一行が余りにも遅いため調べてみると、別のルートを採ったことが判明。美作の杉坂まで急行し待ち伏せするが、既に帝は先に進んでいた。諦めた同族は散り散りになって、高徳を置き去りに自荘へ戻った。善い奴だから皆も心動かされ言うことを聴いてやったものの、此処まで図に当たらなければ、呆れて当然だ。それでも高徳は、せめて帝に自分の忠義を知って貰おうと、監禁場所へ如何にか潜入し、挿絵の句を書き付けた。間抜けなオジサンの負け惜しみに過ぎないが、【間抜け】と【忠】は、道節を見ても解るように、親近性が高い。高徳は、如何にも太平記好みの人物だ。此の間抜けオヤジの句から始まり、長々と呉越説話が続く。太平記は時々こういうことをする。馬琴の蘊蓄披露癖も太平記に影響されてか。勾践は血気にはやって、愚かにも敵に捕らえられた挙げ句、再起のため敵王の尿道結石を舐めた後の越王。范蠡は、捕らわれている越王の為に肺肝を砕き奔走した忠臣。手紙を入れた魚を越王の牢に放り込んで励ましたりしている。太平記が再び利用される親兵衛の京都滞在記第百三十八回で、親兵衛が変態管領に囲われたとき紀二六に手紙入り餅を差し入れさせた。呉越の話は、別嬪の誉れ高い西施も越王の愛人だし、会稽山とか肝を舐める男とか有名な話がテンコ盛りである

 

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第百三十九回

 

「五条の頭に代四郎憂を啓く撃剣の場に親兵衛武芸を見す」

 

【政元邸庭。親兵衛が鉄扇で鞍馬海伝真賢を打ち倒した場面。右手に、桶を脇に置いた介添二人がおり一人は太刀を持っている。介添を務める海伝の弟子は左側にいるので、右手は親兵衛の介添か】

 

第一戦親兵衛海伝を懲す

 

かいそひ・かいそひ・しん兵衛・じつけんし・じつけんし・かいでん・なほみち・まさのり・ひろまさ・かいでんもんじん・しゆひつ・また六・しゆひつ・まさもと・かい伝もんじん・第二ばんたてぬき・たてぬきもんじん・たてぬきもんじん

 

★「しゆひつ」は恐らく鎌倉幕府官職名である「執筆しゅひつ/書記」を頭に置くか

★竹刀の相手に鉄扇を使うのは如何か。長さでは不利だが、親兵衛は海伝の手骨を砕いた。剣術稽古で怪我をしないよう竹刀が普及した時期は江戸後期といわれている

 

【馬で互いに乗り合わせ槍を使う親兵衛と澄月香車介直道。紀内鬼平五景紀が石を片手に親兵衛を狙う】

 

第三戦親兵衛直道景紀を懲す

 

かいそひ・直みち門人・しん兵衛・なほみち・かげとし

 

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第百四十回

 

「犬江仁名を華夏に揚ぐ左京兆恩を東臣に厚くす」

 

【徳用を片手で頭上に差し上げる親兵衛。倒れた堅削が徳用の馬の蹄に懸けられている。背景で驚く介添の仕草・表情が絶品】

 

第五戦犬江親兵衛兇禿を懲らす

 

しん兵衛・かいそひ・かいそひ

 

★地面に落ちている八十二斤の鹿杖は関羽に擬したものだった。第百三十五回末尾「雲長在[#(レ)]厄豈[#(レ)「ヤ」]忘[#(レ)]漢《うんちやうやくにありあにかんをわすれん》。|千里独行虚[#(二)]五関[#(一)]《せんりどくこうごくわんむなし》。五たりの仇はものかはから国の虎を搏めり日本ますら夫」{第百三十五回}でも親兵衛は関羽に擬せられていた。尤も、円塚山で龍虎の如く激しく争った道節と荘介の武勇の喩えに関羽は引かれていた。親兵衛を関羽と密接につなぐ必要は全く感じないが、関羽が江戸庶民にも馴染み深い英雄であったことだけは確認できよう

 

三国演義の第二十七回「美髯公千里走単騎、漢寿侯五関斬六将」である。曹操に愛され抑留された関羽が、劉備玄徳のもとに戻ろうとしたとき、東嶺関の守将が「曹操の許可証を見せろ。ないなら問い合わせるから待ってくれ。待てないなら劉備の妻を人質として置いていけ」と云う。至極まっとうな対応だが、苛立った関羽は守将を倒して通過する。

 

     ◆

前至一関、名東嶺関。把関将姓孔名秀、引五百軍兵在嶺上把守。当日関公押車仗上嶺、軍士報知孔秀、秀出関来迎。関公下馬、与孔秀施礼。秀曰、將軍何往。公曰、某辞丞相、特往河北尋兄。秀曰、河北袁紹、正是丞相対頭、将軍此去、必有丞相文憑。公曰、因行期慌迫、不曾討得。秀曰、既無文憑、待我差人稟過丞相、方可放行。関公曰、待去稟時、須誤了我行程。秀曰、法度所拘、不得不如此。関公曰、汝不容我過関乎。秀曰、汝要過去、留下老小爲質。関公大怒、挙刀就殺孔秀。秀退入関去、鳴鼓聚軍、披挂上馬、殺下関来、大喝曰、汝敢過去■麻したチョンとム/。関公約退車仗、縦馬提刀、竟不打話、直取孔秀。秀挺鎗来迎。両馬相交、只一合、鋼刀起処、孔秀屍馬下。衆軍便走。関公曰、軍士休走、吾殺孔秀、不得已也、与汝等無干、借汝衆軍之口、伝語曹丞相、言孔秀欲害我、我故殺之。衆軍倶拝於馬前。関公即請二夫人車仗出関、望洛陽進発。

     ◆

 

こんな乱暴を五回繰り返し六人の武将を倒して劉備のもとに帰る。但し、此れだけ見ると単なる乱暴者だが、関羽は曹操に降るとき、「劉備の居所が分かったら即座に出て行く」を条件として認めさせていた。曹操は関羽の身も心も我が物にしたくてプレゼント攻勢、錦の戦袍は解るが、錦の鬚袋{ }まで与えた。関羽が、自慢の鬚が抜けるのを心配していたからだ{それも如何かと思うが}。関羽は素直に鬚を鬚袋に入れて闊歩していたが、帝が「なんで顎に袋ぶら下げてんだ」と至極まっとうな疑問を抱いた。袋から出したところを見ると、まことに美しい鬚であった。帝は「宮廷では鬚を隠すな」と命じた。帝も関羽の鬚に惚れたらしい。戦袍も、関羽が古びたのを着ていたから新品を曹操が贈ったのだ。関羽は新品を下に着込み、旧来のものを上に羽織った。曹操が「新品を大事に着てるんだ。倹約家だね」と、背後から関羽の豊満な胸をまさぐり耳たぶを舐めながら{ }、囁いた。しかし関羽は「兄貴の劉備に貰った方を上に着ているのだ」と答えた。曹操は、拗ねた。毛野に攻略された五十子城で河堀殿が着物を与えた時の音音らの態度と共通である{第百七十九回下}。

一般に曹操は関羽のギッチリ肉の詰まった肉体を堪能したと思われているだろうが、如斯き分野に全く疎い筆者には、せいぜい曹操が関羽の鬚に肌を撫でさせ巻き付けて「はぁはぁ」する場面ぐらいしか想像できない。曹操には、何をしても不思議とは思わせない雰囲気があるので、あんな事や、そんな事や、こんな事……此処には書けないエゲツナイ事どもを関羽と繰り広げていたに違いない。

関羽はプレゼントを貰っても喜ばなかったが、赤兎馬を貰ったときだけは、いたく喜んだ。曹操は拗ねた。それまで美女や金や美しい着物を贈っても、関羽は曹操を拝んだりしなかった。なのに赤兎馬を貰った関羽は、曹操を再拝したのだ。

恐らく曹操は自分のものが馬並ではないので、馬を悦ぶ関羽が自分に満足できていないと覚ったのだろう。

 

     ◆

忽一日、操請関公宴。臨散、送公出府、見公馬痩。操曰、公馬因何而痩。関公曰、賤躯頗重、馬不能載、因此常痩。操令左右備一馬来。須臾牽至。那馬身如火炭、状甚雄偉。操指曰、公識此馬否。公曰、莫非呂布所騎赤兔馬乎。操曰、然也。遂并鞍轡送与関公。関公再拜称謝。操不ス曰、吾累送美女金帛、公未嘗下拝、今吾贈馬、乃喜而再拜、何賤人而貴畜耶。関公曰、吾知此馬日行千里、今幸得之、若知兄長下落、可一日而見面矣。操愕然而悔。関公辞去。後人有詩歎曰、威傾三国著英豪、一宅分居義気高、奸相枉将虚礼待、豈知関羽不降曹。

     ◆

 

関羽は、悦ぶ理由を「日に千里を走る赤兎馬なら、愛しい劉備のもとへ、すぐに辿り着ける」と云った。八犬伝第百四十四回、自分を抑留する細川政元から名馬走帆を貰ったとき、親兵衛の台詞も同様であった。

 

     ◆

喜び気色に見れしを、政元倒に訝りて、やよ親兵衛、我只和郎を愛るの故に、いぬる比より幾番となく、名刀、家の花号ある衣裳、或は金銀調度の類、世に稀なるを与へしに、毫も喜ぶ気色なく其折毎に固辞れしに、那馬をのみ愛悦びて受しは甚なる意ぞや、と詰れば、親兵衛……中略……思ひかけなき千里の名馬を賜りし喜びは別義にも候はず、今にもあれ身の暇を賜りて安房へ還る折を得ば、這走帆にうち乗りて千里の遠きも只一日に稲村の城に到らんと思へば辞ひ奉らで受奉り候ひき……中略……といふに政元苦笑して今さら悔しく思ふものから、却已べきにあらざれば、

     ◆

 

また、関羽は予め劉備の行方が解ったら曹操のもとを去ると宣言し許されていた。ただ曹操の愛への見返りに何か手柄を立ててから去ろうと考えていた。袁紹の部将である顔良・文醜を討ち取ったことで恩義を返したと自ら解釈した関羽は、漸く曹操のもとを離れる。親兵衛が虎退治と引き替えに安房への帰還を許されていた事情と重なる。また関羽は立ち去るに当たって、「一面将累次所受金銀、一一封置庫中、懸漢寿亭侯印於堂上」{三国演義第二十六回}と、赤兎馬以外のプレゼントに封をして倉に入れた。八犬伝第百四十六回、虎退治に向かう親兵衛の態度と共通である。

 

     ◆

這月属管領家の恩賜の衣裳武器調度は、其折々の目録を相添て始よりして各位に関けまゐらせたれば今なほあらん……中略……因て返し奉らまく欲す、異日宜くこのよしを聞え上られんことを願ふのみ……中略……我幸ひに虎を対治の功成らば、恩賞には身の暇を給はりて安房へ還さるべき約束あり、この余は千金万金の賜なりとも願しからず、明日は必件の一義を聞え上て那おん東西を宝庫へ返し納め給ひね{第百四十六回}

     ◆

 

馬琴は、かなり執拗に親兵衛を関羽に重ねている。筆者の読解力では三国演義に曹操と関羽の男色関係は探り得ないのだが、中国小説に造形の深かった馬琴は、曹操が「お鬚が擽ったぁい」などと甘えつつ関羽の浅黒い肌に貪り付いて色々致したと察知したのであろうか。親兵衛は細河政元に愛され肉体を求められた。尤も淫婦玉梓の後身である八房の影響を最も濃く受けている親兵衛が、男どもの劣情を掻き立ててしまうことは宿命ともいえる

 

     ◆

第二十四回「国賊行兇殺貴妃、皇叔敗走投袁紹」

且説、曹操当夜取了小沛、隨即進兵攻徐州。糜竺簡雍守把不住、只得棄城而走。陳登献了徐州。曹操大軍入城、安民已畢、隨喚衆謀士議取下■丕にオオザト/。荀ケ曰、雲長保護玄徳妻小、死守此城、若不速取、恐爲袁紹所竊。操曰、吾素愛雲長武芸人材、欲得之以爲己用、不若令人説之使降。郭嘉曰、雲長義気深重、必不肯降、若使人説之、恐被其害。帳下一人出曰、某与関公有一面之交、願往説之。衆視之、乃張遼也。程c曰、文遠雖与雲長有旧、吾観此人、非可以言詞説也、某有一計、使此人進退無路、然後用文遠説之、彼必帰丞相矣。

正是、整備窩弓射猛虎、安排香餌釣鰲魚。未知其計若何、且聴下文分解。

 

第二十五回「屯土山関公約三事、救白馬曹操解重囲」

……中略……

公曰、一者、吾与皇叔設誓、共扶漢室、吾今只降漢帝、不降曹操、二者、二嫂処請給皇叔俸禄養贍、一応上下人等、皆不許到門、三者、但知劉皇叔去向、不管千里万里、便当辞去、三者欠一、断不肯降、望文遠急急回報。

張遼応諾、遂上馬、回見曹操、先説降漢不降曹之事。操笑曰、吾爲漢相、漢即吾也、此可従之。遼又言、二夫人欲請皇叔俸給、并上下人等不許到門。操曰、吾於皇叔俸内、更加倍与之、至於厳禁内外、乃是家法、又何疑焉。遼又曰、但知玄徳信息、雖遠必往。操搖首曰、然則吾養雲長何用、此事却難従。遼曰、豈不聞、豫譲衆人国士之論乎、劉玄徳待雲長不過恩厚耳、丞相更施厚恩以結其心、何憂雲長之不服也。操曰、文遠之言甚当、吾願従此三事。

……中略……

一日、操見関公所穿緑錦戦袍已旧、即度其身品、取異錦作戦袍一領相贈。関公受之、穿於衣底、上仍用旧袍罩之。操笑曰、雲長何如此之倹乎。公曰、某非倹也。旧袍乃劉皇叔所賜、某穿之如見兄面。不敢以丞相之新賜而忘兄長之旧賜、故穿於上。操歎曰、眞義士也。然口雖称羨、心実不ス。

……中略……

公酔、自綽其髯而言曰、生不能報国家、而背其兄、徒爲人也。操問曰、雲長髯数乎。公曰、約数百根。毎秋月約退三五根、冬月多、以p紗嚢裹之、恐其断也。操以紗錦作嚢、与関公護髯。

次日、早朝見帝。帝見関公一紗錦嚢垂於胸次、帝問之。関公奏曰、臣髯頗長、丞相賜嚢貯之。帝令当殿披拂、過於其腹。帝曰、真美髯公也。因此、人皆呼爲美髯公。

忽一日、操請関公宴。臨散、送公出府、見公馬痩。操曰、公馬因何而痩。関公曰、賤躯頗重、馬不能載、因此常痩。操令左右備一馬来。須臾牽至。那馬身如火炭、状甚雄偉。操指曰、公識此馬否。公曰、莫非呂布所騎赤兔馬乎。操曰、然也。遂并鞍轡送与関公。関公再拜称謝。操不ス曰、吾累送美女金帛、公未嘗下拝、今吾贈馬、乃喜而再拜、何賤人而貴畜耶。関公曰、吾知此馬日行千里、今幸得之、若知兄長下落、可一日而見面矣。操愕然而悔。関公辞去。後人有詩歎曰、威傾三国著英豪、一宅分居義気高、奸相枉将虚礼待、豈知関羽不降曹。

……中略……

公曰、吾固知曹公待吾甚厚、奈吾受劉皇叔厚恩、誓以共死、不可背之、吾終不留此、要必立效以報曹公、然後去耳。

……中略……

第二十六回「袁本初敗兵折将、関雲長挂印封金」

……中略……

一面将累次所受金銀、一一封置庫中、懸漢寿亭侯印於堂上、請二夫人上車。関公上赤兔馬、手提青龍刀、率領旧日跟隨人役、護送車仗、逕出北門。

……中略……

第二十七回「美髯公千里走単騎、漢寿侯五関斬六将」

……中略……

操笑曰、雲長天下義士、恨吾福薄、不得相留、錦袍一領、略表寸心。令一将下馬、双手捧袍過来。雲長恐有他変、不敢下馬、用青龍刀尖挑錦袍披於身上、勒馬回頭称謝曰、蒙丞相賜袍、異日更得相会。遂下橋望北而去。許■コロモヘンに者/曰、此人無礼太甚、何不擒之。操曰、彼一人一騎、吾数十余人、安得不疑、吾言既出、不可追也。曹操自引衆将回城、於路歎想雲長不已。不説曹操自回。

……後略

      ◆

 

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第百四十一回

 

「悪報明を失ふと更に懺悔を事とす神助■オンナヘンに戸/に因て反て冥罰と成る」

 

【箕梨屋店頭。客が虎の絵馬を見ている。薬師参りの女性が傍らに佇んでいる。於兎子が応対している。鼠と猪らしきものも出している。家族の十二支であろうか。猿はナマケモノのように手長。巽が兎の絵馬を描きつつある。屋根に雀。画面奥に美稚児。店の看板の絵馬は虎で「御あつらへ御好次第」「元祖十二支御絵額所当むらみなし屋」】

 

薬師院村に巽絵額を売る

 

うるハしのちご・やくしまゐりのたび人・たび人・たつミ・おとこ{看板に「御あつらへ御好次■第の略字/」}

 

【巽と於兎子が睨み合っている。於兎子が手にする包丁を酒樽で圧する樵六。壁に兎の絵など。外から犬が覗いている】

 

一■缶に尊/を費して樵六夫妻を和ぐ

 

おとこ・しやう六・たつミ

 

★犬の表情が怪しくも可愛い。「箕梨」との屋号は、巽・於兎子が名乗ると、実{じつ}無し、に思えてくる

 

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第百四十二回

 

「両滅を誣て辰巳誑簡を貽す故事を尋て政元名画を疑ふ」

 

【箕梨屋店前。「{十二}支御絵額{御好次}第いろ/\」の看板。美少年が背後から撃たれ苦しそうな表情で仰け反っている。傍らに薄墨で描かれているのは於兎子か。巽が店先から眺めている。樵六は着弾を見届けているが、於兎子だとは気付いていない。於兎子と樵六の間を蜻蛉が縦隊非行】

 

残忍吹毛求疵短慮窮賊智出

 

残忍毛を吹き疵を求め、短慮の窮賊に智出ずる

 

たつミ・うるハしのちご・しよう六

 

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第百四十三回

 

「虎眼に点して巽風公文庁を閙す衆口を■澤のツクリに攵/ふて京兆禄斎屋を誅す」

 

【虎が巽風の頭を咥えている。紀内鬼平五景紀が石を振り上げて構えている。香西復六は政元の前に頑張っているが近習の五人ばかりは政元の後にいる】

 

画虎是不画巽風喪元{ぐわここれぐわならずそんふうかうべをうしなふ}

 

政もと・きんじゆ・また六・有司・やうし・かげとし・力士・力士・力士・りきし・力士・力士・りきし・そんふう・力士・りきし・よ市・力士・力士・力士・りきし・まさのり・力士

 

★本文に「力士は准備の糞汁と獣の鮮血腸なンどを濺ぐ者は濺掛け手槍鉤索を操る士卒は駈止んと欲すれども幻術の虎ならざれば穢物にも破られず又胎生の獣ならねば投石器械鉤索なンどの及ぶべき所にあらず」とある

 

【洛外東の札辻。獄門台の上に泥で支えられた巽風の生首。薄墨で虎を描く。傍らに大型の地蔵菩薩座像。横に石碑、表記は恐らく「南無妙法蓮華経」。組子を率いた種子嶋中太正告が座る。旅人が跪き対面している。巽風の旧悪を語っているか。画面奥の田に鳥の群。畦道に虚無僧】

 

申明亭に行客巽風の積悪を詳にす

 

まさのり・そんふう首級・たびびと

 

★裁きの場には、閻魔の本体である地蔵が登場する

 

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第百四十四回

 

「犬江前諾して関符を請ふ澄月が一謀五虎を殲す」

 

【馬上の親兵衛に紀二六が話しかけている。足下に「餅」字の箱。親兵衛には監視役か若侍二人が従う。左上に吹雪姫を唐櫃に押し込め掠い出す徳用と堅削の小枠】

 

邸中の騎馬仁紀二六に逢ふ

 

わかさむらひ・わかさむらひ・しん兵衛・きじ六

 

この小出像の本文ハ第百四十五回につまびらかに見えたり

 

【鞍馬海伝真賢が澄月香車介直道の背に切りつけつつ眼八の槍を握り止めている。耳九郎の槍も迫っている。直道の助太刀も直道に斬りかかっている。種子嶋中太正告と直道の助太刀が向かい合う。紀内鬼平五景紀は既に生首。無敵斎経緯は額を斬られ座っている。画面奥から鉄砲隊を率いた三田利吾師平・藻洲千重介が様子を窺っている】

 

香車大く進ミて歩兵に攫はる

 

み丶九郎・なほミちすけたち・なほみちすけたち・なほみちともひと・かん八・まさのり・なほみちすけたち・たてぬき・ちへさく・あし平・さねたか・なほみち・かげとし

 

★藻洲千重介はいるが「ちへさく」は不明。「ちへすけ」の誤写か

 

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第百四十五回

 

「五頭を献りて衆奸卒数頭を喪ふ脚小を櫃にして悪師徒手足を断る」

 

【小堂に縛り上げられている吹雪姫。脇に唐櫃。階段に倒れ込む血塗れの堅削。手前で徳用が画虎に肩胛骨辺りを食われている。石灯籠に「北白川講中元応二年庚申七月」。堂の本尊は青面金剛庚申、よって庚申堂と知れる。元応二年は後醍醐帝御宇】

 

悪窮逢虎害天罰豈応愆

 

悪は窮して虎害に逢う、天罰は豈に愆ちて応ぜんや

 

とくよう・ふびきひめ・けんさく

 

★第九十七回に於いて、祇園祭のとき但鳥跖六業因は腹中から悪行を暴く声が発したゆえに捕らえられた。背景は庚申三尸信仰である。祇園神社は京八坂にあるが、八坂には青面金剛を本尊とする大黒山金剛寺庚申堂がある。日本最古の庚申堂と称し日本三庚申に数えられている。所謂、八坂庚申堂である。八犬伝で断罪の場面に地蔵が然り気なく立っていたりするが、地蔵が地獄の裁判官の相貌を隠し持っている故であろう。対して庚申は、業因の例からすれば、告発・暴露の側面が強調されている。第二十三回、亀篠は庚申待にかこつけ簸上宮六を接待した。宮六は浜路を見初め劣情を抱いた。其れまで隠されていた浜路の美貌が暴露され、物語が動く。第三十五回、古那屋では其れまで小文吾と敵対していた山林房八が杣木朴平の孫だと暴露され信乃のため赤心を露わにして義死する。隠されていた事情が暴かれ、物語が動く。なお、屋内の様子を密かに塩浜鹹四郎・板扱均太・牛根孟六が窺っており、暴露しようとするが現八らに殺される。三人の密告未遂は、其の侭、三尸の置き換えだろう。第四十三回には、荘介が処刑されかけるが信乃らに助けられた。処刑場は庚申塚の辺であった。荘介は義/金気の犬士である。且つ、「額蔵{額を隠す}」から顕わな存在となる。一種の暴露である。第六十回、幽霊となった赤岩一角が、自分に化けた偽一角の正体と悪事を暴露したのは、庚申山であった。第七十三回、小文吾暗殺に失敗した船虫は、次団太によって庚申堂に吊され折檻を受けた。所の掟として、犯罪容疑者を庚申堂で三日間責め苛み、生き延びれば赦免し死ねば川に流すことになっていた。実際は十分に断罪の側面が強いが、最終的な判決は【天もしくは容疑者の運】に任せる。天に容疑者を告発する場所が、庚申堂であった。八犬伝に於いて、庚申は、ほぼ一貫して告発・暴露の刻であり場所である

★元応二年は確かに庚申年である。そして七月は甲申であった。画虎を通じて悪僧徳用に天罰が降った場所が庚申堂であった。庚申は、但鳥跖六業因の例から推しても、罪が明らかになる場所もしくは刻であった。また、庚申堂に燈籠を奉納するに当たって、庚申年が選ばれることも自然である。但し、文明年間以前の庚申年は、何度もあった。直近は永享十二(一四四〇)年だ。よって、康暦二(一三八〇)年も文応元(一二六〇)年も正治二(一二〇〇)年も保延六(一一四〇)年も、庚申年であった。このうち、何故に元応二年が選ばれたかを考えてみる。

もしかしたら馬琴は、「燈籠だから百五十年ぐらい経ったものが風格もあって好いなぁ」と思ったのかもしれない。庚申であれば何時でも良かったが、何となく舞台となる文明年間から百数十年遡った年号を使っただけかもしれぬ。

が、何等かの意味を込めたと仮定するならば、筆者は、「元応二年」と観音との関係を想定したい。何時の頃から伝わるか未詳だが、下野国芳賀郡には、以下の如き口碑が残っている。

 

     ◆

29境沢の観音

 昔といっても、これは、年代のはっきりしている話でな。元応二年(一三二〇)というから、今から六〇〇年も昔のことじゃった。

 足利尊氏は、まだ一五歳じゃったが、昔の一五歳は、元服もして、りっぱな一人前の武士になっておった。しかも足利氏は大豪族の武士の家じゃったから、一五歳の尊氏は、もうりっぱな武将というものよ。今の子供たちからすれば、うらやましいことよのう。

 尊氏がその一五歳の七月九日の夜、大将軍になって、多くの武将を従えて広野を進軍しておった夢を見た。

 行く手に、ぽつりと人影が一つ現われおった。怪しいやつよと近づいて見ると、それは僧侶のようでもあるし、かといって、今まで見たこともないおかしな服装をsぃておる。尊氏は、何やら不思議な力を感じて、思わずその場にひれ伏してしもうた。

 ひれ伏しておる尊氏の耳に、その不思議な僧のような者のお告げが重々しく響いた。「予は、下野芳賀郡根本郷境沢と称する所の土中に、久しく住める観世音なるぞ。汝、武運長久をこいねがい、大将軍を望まんには、来りてわが体を拝せよ。」

 尊氏は、思わず、「は、はあ……っ」と声に出して顔を上げたときに、夢が覚めてしもうた。

 尊氏は、不思議な夢を見たものよ……と思うたが、日ごろ観世音菩薩を厚く信仰しておったので、「これは神夢に違いない。このままにしておくべきことではない。」と思うた。そこで、急いで旅の支度を整えると、わずかの供を連れて出かけてしもうた。

 尊氏は、長い旅の果てに、やっとのことで、境沢の地を探しあてることができた。そうして、土の中を深く掘ってみると、果たして聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩の二体の石の尊像が現われたわ。

 喜びに胸躍らせた尊氏は、なお家来が掘り進めるのを見て、思わず声を上げそうになった。黒蛇と白蛇が、二体の尊像を護るようにして、じっとうずくまっておったのじゃ。

 尊氏は、思わず合掌すると、黒蛇と白蛇は、どこかへ消えてしもうたと。

 尊氏は、この地にお堂を建てて、二体の観世音菩薩を本尊として祭られた。これが今の観世音で、「境沢観音」といっておる。

 のちに尊氏は、征夷大将軍となって室町幕府を開いたわけじゃが、これも境沢観音のお陰じゃというて、幕府を開くと、その年のうちに観音堂をりっぱに改築されたと伝えられておる。そして、そればかりではない。五年後の康永二年(一三四三)には愛宕下に能仁寺尾建立して、境沢の観音堂を守護されたというから、この二体の観世音菩薩をどんなに尊崇されたか、想像できるというものじゃ。(真岡の民話{真岡市教育委員会社会教育課一九八一刊})

{真岡市史第五巻民俗編・昭和六十一年刊}

     ◆

 

引用文中にある「一五歳」は、数えではなく満年齢だ。元応元年、数え年十五のとき尊氏は元服し従五位下治部大輔に叙せられた。此の一事を以てしても、足利家が鎌倉幕府で最高級に有力な御家人であったことが解ろうけれども、其れは措き、伝承にも拘わらず「元応二年七月九日」と日付まで特定している点が、なかなかアヤシくもある。龍を統べる観音が蛇に守られており、しかも蛇が黒白の対称的な二匹であることが、意味あり気だ。出土した石像も、観音大悲の本体といえる聖観音と、観音のなかでは異例に恐ろしい風貌の馬頭観音であるとの、対称性もある。元より馬頭観音は、観音らしい大悲を秘めつつ表面は恐ろしい、との両義性を表現するものであるが、聖観音と並び立つことで、其の両義性が、より強調されている。五行で云えば、仁/大悲を秘めた厳しい義/刑戮の論理、ともなろうか。里見家は、仁を堅持する源氏/金気/義を表現していた。人君の資質である。

ちなみに、「境沢観音」は能仁寺の奥院であるが、幕末に成立した下野国誌には、以下の如くある。

 

     ◆

能仁寺

芳賀郡根本村にあり、圭田十五石大雄山と号す、仏国国師の法嗣、不識妙宥和尚の開基、臨済宗にて関東名藍の地と唱ふるなり、本尊釈迦如来座像にて二尺八寸許、恵心僧都の作と云、但し悉陀太子と申せし時のかたちにや、いと若き御姿にて瑤珞をいたゞき給へり、脇士文殊普賢各一尺許、本堂七間四面なり、さて当寺ハ釈尊の瑞像を安置するに依て、能人寺ととハいへるなるべし、能人ハ則釈迦の翻訳なり、毎歳四月八日参詣のものおほし、{下野国誌巻七}

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如何にも素っ気ない御座なりな記述であるが、寺伝では応永末期に称光天皇から「関東名藍」の扁額を賜ったとか開基が足利尊氏だったとか云っているようだ。「関東名藍」は下野国誌にも現れる語彙であり、下野国誌の「開基」{開山時の檀越}を開山{開山時の責任者僧侶}の意味とすれば、不識でも齟齬はない。開基と開山は、混用される言葉だ。また、当寺は延徳年間頃までには、十刹に列している。十刹とは、臨済宗寺院支配体制の用語だ。五山・十刹・諸山の三階級に分ける。なんだか、最高級五・第二級十・その他大勢、みたいだが、五とか十とかは便宜上の数字と考えた方が良い。中世にあって、京と鎌倉が二大都市だったわけだが、五山体制も、京都五山と鎌倉五山に分かれる。国政面でも、京都室町に幕府があり、鎌倉には関東府が置かれていた。時代によって動くが、基準とすべき応永年間以降で、京都は南禅寺を五山上位とし其の下に五寺院が列した。実は六山である。鎌倉には建長寺以下の五寺院である。十刹は至徳年間頃までは、京都・東国とも各十箇寺であったが、後に全国で六十以上が「十刹」として数えられるようになった。よって、「十刹」とはいえ、当初から列していなかった能仁寺が、足利尊氏との特別な関係を認知されていなかったことは容易に推測できる。とは云え、下野には最大二箇寺しか十刹はないのであり、地元では相当の勢力/権威を認められていたと思しい。少なくとも当地に於いては「関東名藍」と称するに不自然を感じさせなかったのであろう。よって当地{のみ}に於いては、幕府を開いた征夷大将軍すなわち最高級の権威と関係づける説話も、説得力を有したであろう。

もしも此の説話が近世までに成立し馬琴の耳に入っていたならば、挿絵にある「元応二年庚申七月」は、此の説話と関わりがある可能性が生ずる。現時点で其れは証明できないが、ついでの話として書いておく

 

 

 

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