★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「虚ならざるか稗史」★

 聞かれもせぬに口語訳をする。やや巫山戯た部分もあるが、大筋は変えていない。内容を確認されたいむきは、大正新修大蔵経を参照されたい。
     ◆口語訳◆

佛説長者女菴提遮師子吼了義經
漢譯した人の名は記録されていない。今のところ梁代に譯されたものとして、書き留めておく。

私は次の様に聞いた。
佛は北東印度の舍衛國は祇樹給孤獨園に、数え切れないほどの出家男女、在家仏教者男女、そして菩薩位の宗教者と共に留まっていた。シュラーヴァスティー(マヘート)の西二十餘里に長提村があり、婆私膩迦という婆羅門が住んでいた。博く学問し、深く敬虔に仏教を信じていた。婆羅門は大規模な法会を催そうと考え、佛と僧のもとへ行き、来てくれるようにと願った。佛は承知した。婆羅門は家に還った。時が来て、佛と眷属は村に向かい、婆羅門の屋敷に着いた。長者は佛に会い、欣喜し雀躍することを自制できなかった。すぐさま諸眷属を率いて佛のもとに集まり、それぞれ佛に恭しく拝礼した。
婆羅門には菴提遮という名の長女がいた。既に嫁ぎ正妻となっていたが、暫くして夫と別居して実家に戻り、父母の世話をしていた。容貌は端正で自制心が甚だ強く、気遣いも出来て腰が低かった。度量が大きく(もしくは巨乳で)夫婦仲も良かった。親戚の面倒をよく見て、夫に仕える様は、まるで煉獄にあるように抜群に従順で、同じくする者を見たことがない。
彼女の父母や眷屬は全員、出てきて佛に対面したが、彼女だけは部屋に籠もりきりだった。彼女は何時の間にか出現したのであって、両親ですら実は覚えがなかった。このため菴提遮と名づけていた。すぐに佛は、長者に娘がいて部屋に閉じこもり出てこないことを知り、理由も悟った。彼女が出てくれば、人々の救済に資すると考えた。
佛は長者に言った。「お前の眷屬は総て出てきたか」。婆羅門は佛の前に跪き、娘が出てきてないことを恥じて説明しようとしたが、言い出せないでいた。佛は意中を察し、話題を変えて言った。「よい時間だ。準備した場所に行って法会を始めよう」。婆羅門は佛の説教を聞いて、饗応した。皆は食事を終えたが、件の娘だけは何も口にしていなかった。
佛は一人の女性を出現させて、鉢に残した食事を菴提遮のもとへ持って行かせた。出現した女性は、偈を歌って言った。「此れは如來が残した食事です。この上なく貴い人が賜ったものです。私は佛に言われて来ました。どうか、慈しみの心をもって、清浄な気持ちで受け取ってください」。菴提遮は即座に偈を歌い、嘆いて言った。「あぁ、佛は私が部屋に閉じこもっていると知ってはいるが、その本当の理由が解っていないのではないか。食事を与えてくれたので、会って私のことを如何ように考えているか訊いてみたいものだ」。また続いて偈を歌い女性に答えた。「私は思念を廻らせる。大聖は行きたい所に移動する。両者は同じことをしている。清浄な気持ちになれと言う以上、私を清浄ではないと決め付けていることになる。なぜ私が清浄でないと言い切るのか」。言われた女性は掻き消えた。
菴提遮は念力を込めて偈を歌った。「私の夫よ、いま何処にいるのか。どうか此処に来て、一緒に佛に会いましょう。会って私の心が清浄であることを認めさせたいのです。さあ早く此処に来て、一緒に佛に会いに行きましょう」。菴提遮の清らかな心の力で思いが通じ、夫は遣って来た。菴提遮は夫が来たことを喜び、偈を歌った。「あぁ佛よ、有り難うございます。私は自分の心が清浄であることを証明したくて溜まらなくなり、異性である佛に独りで会いに行き兼ねませんでした。夫に私の思いを通じさせ、そのような淫らな行為をさせないよう救ってくださいました。これで夫同伴で異性である佛や僧侶のもとに行けます」。夫は菴提遮の偈を聞いて、偈を歌って窘めた。「あぁ戒律とは其の本旨を遵守すべきものであって、言葉面を厳守しても却って戒律を破ることもあるのだ。善なる存在は劣情など起こさないのだから、元々清浄であって、会いに行っても戒律を破ることにはならない。君は異性に人妻が一人で会いに行ってはならないとの戒律を守り部屋に閉じこもり法会に参加しなかった。このため佛に労をとらせ、食事を持ってこさせた。戒律を守ろうとしてのことではあるが、佛に労をとらせるような、大それたことをしてしまったのだよ」。
すぐさま菴提遮は夫を先に立て、佛のもとに向かった。それぞれ佛と其の眷属に恭しく礼拝した。菴提遮は偈を歌って嘆いて見せた。「十方の佛格が悟りを開くため救い護り神秘の真理を設定しようとして、佛が私に残した食事を与えてくださったと思っています。しかし偉大な聖人は滅多に出現するものではありません。俗なる私には佛に対する疑いが残っています。誰が真理の法則に就いて受け答えできるでしょうか、誰が人々に真理に向かう心の種を植え付ける者でしょうか」。舍利弗は佛に尋ねた。「世尊よ、此の女性は一体、何者なのか。閉じこもっていたのに、忽ち此処に来た。また、このような法偈を歌い、あまつさえ勿体なくも佛の食べ残しを得たと言っている」。佛は舍利弗に言った。「何者ってたって、長者の娘ぢゃん」。舎利弗は再び尋ねた。「この女性は一体、何処から来たのか。何故して此のように悟りを開いているのか」。佛は舍利弗に言った。「何処からってったって、この女性は別に遠くから来たわけぢゃねぇよ。部屋にいただけのことだ。其の理由は単に、父母や眷属はいるが、自分の夫同伴でないと異性である君たちに会うことが憚られたからだな。だから両親の言うことを聴かなかった。軽々しく君たちに会いに来ようとしなかっただけのことだ」。舍利弗は佛に尋ねた。「此の女性は、如何ような善きことをした故に長者の家に生まれ、此のように美貌なのか。また、如何ような理由で、此のような立派な男と巡り会い正妻となって、全く浮気心を起こさず、夫が不在の時には、俗心を離れ劣情など催さない佛や僧侶にすら会おうとせぬほど自律できるのか」。佛は舍利弗に言った。「お前なぁ、俺に訊くなよ。自分で彼女に訊きゃぁいいだろ」。
舍利弗は菴提遮に尋ねた。「貴女は如何ような因縁で長者の家に生れたのか。また何故に此のような立派な漢をモノにして、しかも浮気心を全く起こさず、俗世を離れた私たち仏教者にさえ、夫不在の折りには会わないほど自律し自戒できるのか」。菴提遮は偈を歌い、答えとした。「私は貧しい家に生まれなかったから、この長者の家に生まれたの。女であるという状態に偏執しないから、清淨な夫を射止めることが出来た。私は自分の部屋を夢幻の……無限の宇宙と考えた。だから出なくても何の不自由もなかった。それを解っていて佛は私に食べ残しを与えた。あぁ、でも大徳は、真実の理由が解っちゃいない。私は自分の部屋を境界としてたけれども、大徳は境界というものを全く自ら設定せず、何者にも束縛されない自由な精神をもっている。だからこそ、大自在と呼ばれているのよね。私は肉体こそ部屋の中に閉じこもっていたけれども、思念は自由に廻らせていたから、佛を目の当たりにしていると同じ状態にあった。阿羅漢って言ぅの? 常に目では見えない概念に隨っている。大聖の存在意義は、形ぢゃないわ。其の唱える理念よ。でも形もあるから、人に見られる実体を持っていて、その状態を離れることは出来ない。形のない声を聞いて其の形を見ることを、偉大な力を持った人と謂う。あぁ、大徳よ、拙い方便を貴く考え、私の心の真実を知らずに却って逆の者として私を認識している」。舍利弗は默然として言い淀み、心の中で呟いた。「何て女だ。こんなこと言ってからに。私は到底、及ばない」。即座に佛は舎利弗の意中を察して言った。「お前なぁ、一方的に議論を止めて、別の事を考えんなよ。彼女の言葉は、既に他の如何な説教よりも価値がある。仏教として、これ以上のものはないな。本当だぜ」。
文殊師利が菴提遮に尋ねた。「ねぇ貴女、生死の意味を知ってる?」。菴提遮は答えた。「佛の力を使って知る」。文殊師利が再び尋ねる。「知ってるなら、生の意味を言ってみなさいよ」。答えて、「生とは、生きていないけれども生きているってこと」。文殊師利は尋ねる。「それって、如何いぅことよ」。答えて、「突き詰めて考えると、人間をも構成する物理的物質及びその現象、地水火風の四大元素は結局、始源から勝手に絶対として存在してるわけぢゃないけど、それ其の者としても相互にも円満に組み合わさって、時と場合に応じて、色んなモノを形づくるわ。だからこそ、生の意味なのよ」。文殊師利は尋ねた。「地水火風を突き詰めると始源から絶対として勝手に存在していたわけではなく、それ其の者としても相互にも円満に組み合わさっていることを、貴女は生の意味だと言うけど、和合・結合を固定された状態と考えれば即ち、生の状態ではないってことになるんじゃない? 生って逆に、流動している状態のことでしょ。なのに生の意味があるって言ぅのは、ちょっとねぇ……」。菴提遮は答えた。「生きている状態にあって生がなければ、言い換えれば、生命が維持されていて、流動していないで固定された瞬間にあれば、正しく生としなければならない。だから、生の意味ってことになるわ」。
文殊は尋ねた。「ぢゃぁ、死の意味って?」。答えて、「死は、死んでない死のことよ」。文殊は尋ねた。「それって、如何いぅこと?」。答えて、「突き詰めて考えると、地水火風は結局、始源から絶対として勝手に存在してるんぢゃないけれど、それ其の者としても相互にも分解するでしょ。時と場合によって。だから此のことを、死の意味だと言うのよ」。文殊は尋ねた。「だから、ちょっと待ってってば。地水火風が始源から絶対として自ずから存在しておらず、其れ其の者としても相互にも分解してるならば、それは固定された状態ではなく流動している状態だから、それこそ死んでないことになるわよ。如何いぅことよ?」。答えて、「死んでいる状態にあっても其の人の心が亡んでない生きた状態であるとすれば、これは正しく死んでるってこと」。
文殊師利は尋ねた。「ぢゃぁ、常(永遠不変)ってのは如何いぅ意味?」。答えて、「突き詰めて考えると、法則といぅものは結局、出来たり無くなったり、幻のようなもの。此を常っていぅのよ」。文殊は尋ねた。「ちょっと待ってよ。それって常時移り変わるってことなんじゃない。なのに……」。答えて、「諸々の法則に於いて、生っていぅものが始源から絶対として自ら存在するものでないならば、滅だって同じ。また、移り変わることも、同じ。だから、此の、始源から絶対として自ずから存在していないって法則そのものを、常だって言ったのよ」。文殊は尋ねた。
「ぢゃぁ、無常は?」。答えて、「考えてみれば、法則って結局、生じたり無くなったりするものではないのよ。法則の核心たる真理は厳然として始源から存在している。そして、無常たるべきことこそ、其の法則。だから、なるものこそ、常に移り変わるって法則」。文殊は尋ねた。「えぇっ、それって常(永久不変)ってことなんぢゃない?」。答えて、「だから、法則っていぅものは表現の仕方で自由に形を変えて固定できない。これが、無常の正体よ」。
文殊は尋ねた。「空って、如何いぅことなの?」。答えて、「法則の形っていぅものを突き詰めて考えると、法則は概念の公式であって、物質的な形状をもつものぢゃないわよね。空の状態と庶いんだけど、でも全くの空、虚無ではなくって、壊れずに今も存在している。これは、空ならざる空の状態、有ならざる有の状態って言うべきよね。有と空は隔絶し絶対として背反のものではないの。有にして空って所かな」。文殊が尋ねた。「ちょっと待ってよ。もしも不空の空であって不有の有なら、やっぱり有は無(空)ってことになるんぢゃないの? 一体、如何いぅことなのよ」。菴提遮は偈を歌って答えとした。「あぁ、本物の大徳は、本物の空の意味を知らない。形ある者は、始源から絶対として自ずから存在していた訳ではない。発生し組み合わさり、現在に至っている。だったら空みたいなもんでしょ。空ってのも、始源から絶対として無であったならば、無からは何も生じないのだから、形ある者が生成される筈もない。空は始源から絶対として無ではないから、其処から様々なものが生じたのよ」。
文殊師利は尋ねた。「生きていて、でも生きていない状態であることを明らかに知っている者のうち、生きることを死滅した存在のように固定した実体と考える者は、いるかなぁ」。答えて、「いるわよ。元から賢いとしても、未熟なわけ。未熟だから、生きている状態を、固定された実体として捉えちゃうのよ」。文殊が尋ねた。「とっても莫迦で、生の性質を知らずに、でも結局、固定した実体を生とは考えない者はいるかしら?」。答えて、「いる訳ないでしょ。如何いぅことかって? それはね、もしも生ってものの性質を理解しなければ、ジタバタして敵対する者を排除し漸く安心できる場所を得たとしても、心の中では常に何かと敵対してしまっていて、不安に陥るものよ。例えば、恐怖を、実体あるモノの如くに捉えてしまうの。そんな奴いないって? いいえ、沢山いるわ。恐怖って結局、自然物をも含む他者と自己との相対的関係に対する感覚よね。位相の引き算、ベクトルね。そして世は無常とすれば、絶えず位相を変えつつ流動している、即ち生きている人間同士の間に在る恐怖は、互いに軌跡が全く同一でないならば、相対的位置関係も絶えず変化しているってことになる。川底の小さな礫は複雑な流れに僅かかもしれないけど干渉し、其の複雑な流れが川底の礫を微妙に動かし……(以下繰り返し)。則ち、其の変化に伴って、人間の感情も変わり得る。でも、人間は、絶えず流動する現在に生きている積もりでも、過去の記憶の集積によって自らの裡に環境としての現在を静態的に固定して描いてしまう。固定して描いてしまった現在に於ける配置図は、既に関係性そのものではなく、実体としての衣裳を纏う。自分も相手も、総てが絶えず流動しているってのにね。一方、対象に向ける逆に生ってものの性質を見極めれば、危ない状態にあっても希望を常に抱いてられる。恐怖の原因となっている位置関係が、絶えず変化してるんだから、消滅もし得るでしょ。増幅もし得るけれども、でも、生を肯定し、生へ向かう指向性があれば、絶望より希望を選択するって決まってる。この様に理解してなければ、いくら高尚な議論をして、経典を深く読み込んでいようと、心を滅ぼすことになるわ。喩えて言うなら、目が不自由な人が、色を説明しているようなもの。噛み砕いて言うと、青とか黄とか赤の三原色と白と黒を理解しているとか言って、実際には見たことがないってわけ。法則ってものを、ちゃんと理解できない者も同じよ。勿論、これは喩え話だから、視覚を、聴覚や味覚、其の他の感覚で言い換えても同じ。そして、互いに相対的位置関係を実体のある如く固定して捉えちゃうと、相手に対する自分の態度自体に【実体】あるものとして固執しちゃう傾向もある。固定観念とか先入観とか呼ぶ場合もあるわね。でも人間には、絶えず様々な【情報】が入り込んできてる。当人同士に関する社会的・経済的・政治的な情報かもしれないし、他の似た者同士が和解したとの情報かもしれない。また、おいしいものを食べたり飲んだり、妙なる音楽を聴いたり、美しい花を見たりすることも、【情報】の入力。これら気持ちの良い情報に刺激されたら、優しくなっちゃったりする。流動することで偶々優しくなった時点の人に、それと知らずに出会い、自らの裡に堅持していた、実体の如く凝り固まった憎悪を突き付けたら、それまでより関係が悪くなったりするでしょ。ただ気を付けないといけないのは、此の真理の表面だけ摘み食いして悪用する族もいるってこと。心の底に実体の如く憎悪を凝固させつつ、過去に相手に対して行った悪行の数々を隠蔽し、ちょっとだけ優しい態度を見せる。そんなマヤカシ、人間なら本能的に直感するわ。当然、相手の憎悪は消滅しない。増幅する場合もあるでしょう。当たり前よ。なのに、自分が態度を少し変えたぐらいで相手を都合良く変えようとする者は、そんなことで変わる筈がないのに、相手が変わらないことを取り上げ、まさに被害者面して、更に相手への憎悪を増幅する。被害者面する偽善者、まったく最低野郎だわ。このように考えてくると、さっき、生を死だと考えることを生の定義としたけど、その人にとっては、死とは即ち、生も死も無い状態なのかなぁって思うわ。もしも、常と無常は全く隔絶した状態ではなく、繋がっているとすれば、また同じことが言えるわ。ちゃんと理解しなさいよ、大徳。空も、始源から絶対としての無では、あり得ないの。そぅいぅ訳で、有と空の意味を教えてあげたのよ」。佛は文殊師利に言った。「その通り、その通り。菴提遮の言う通りだ。全く間違いない。日は冷たいものでもあり、月は熱いものでもある筈だ。菴提遮の説いたことは、全く其の儘に伝えなければならない」。
舍利弗が再び菴提遮に尋ねた。「貴女の智慧と辯才は素晴らしい。佛でさえ稱歎している。私たちの説くことは、貴女に及ばない。しかし女性は成仏できないことになっている。八歳龍女は成仏する瞬間、男の子に変身した。悟っているように見える貴女が、何故に女性の肉体の儘でいなければならないのか」。菴提遮は答えた。「ちょいと大徳、正直に答えなさいよ。大徳はイヤラシい男の肉体で存在してるの?」。舍利弗は言った。「私は形こそ男だが、心は性的な存在としての男ではない」。菴提遮は言った。「大徳、私も同じなのよ。女としての形はとっているけれど、心は性的な存在としての女ぢゃないわ」。舍利弗は言った。「いやいや君は、夫が恩愛を感じて執着する存在すなわち夫からすれば性的な存在である。私のような出家者とは違う」。菴提遮は応じて言った。「大徳、自分の言ったことに自信がある?」。舍利弗は言った。「あぁ、絶対だ」。菴提遮は応じて言った。「ふぅん、そぉ。ぢゃぁさ大徳、さっき自分で、形は男だけど心は男ぢゃないって言ったわよね。即ち、心と肉体は別物ってことよね。もし大徳、自分が言った言葉を信(まこと)としたいなら、ちゃんと答えてね。私自身は性的な感情を起こさないのに、私が嫡すなわち性的で社会的な関係に於いて女として存在しているから、異性である夫が私に性的な感情を抱いているから、性的な存在である所の女だって言ったわよね。大徳は元々男だから、其の自分と違う性徴すなわち肉体的特徴を備える私を、性的な存在としての女だと認識した。いい? これは、取りも直さず、大徳が私を『性的な存在としての女』だと認識していることよね、アタシの心が清浄であり性的な感情から自由だってことを、全く無視して。アタシが不浄な性的存在だとしたら、其の原因は、舎利弗、貴男の心に在るんぢゃないかしらぁ? つまり、アタシの、此の褐色ムッチムチ巨乳クビレ成熟ナイスバディ人妻の肉体が、大徳ちゃんの信仰心を破壊して破戒させ、勃起させちゃってるってことになるわね。男は、同じ人間の中で自分たちと違った性徴をもつ者を【異性】とし、其の大部分を【女】として認識するわ。まぁマイノリティーとしてヒジュラもいるし実は人のセクシャリティーは十人廿色なんだけど、話を単純化する為に差し当たって【男と女の関係】を考えましょう。女としての性徴をもつ肉体、アタシのような褐色ムッチムチ(以下略)が異性としての男に劣情を催させることを理由に、『男が性的客体として認識する故に、いくら自身の心が清浄であるにせよ、女は総て不浄だ』なんて、単なる一方的なワガママぢゃん。それに、此処まで範囲を広げちゃうと、男の方も困るわよ。上の一文、主語を女に変えると、此は『女が性的客体として認識する故に、いくら自身の心が清浄であるにせよ、男は総て不浄だ』とも言えるわけなのよね。貴男みたいに総ての男が、自分とは異なる相手の性徴すなわち肉体的特徴を根拠に『性的な存在としての女』と認識すると、性的感情に縛られず自由な思考を勧める真実の信仰に、誰も到達できないってことになっちゃうわよ。結局、仏教は【出来ないこと】をしようとする無駄な努力をしていることになるのよ。けけけけけっ」。
舍利弗は言った。「いや、私は貴女に対して欲情なぞしていない。女になぞに興味は全くない」。菴提遮は応じた。「ふぅん、世尊に聞かれることを憚って、嘘言ってんぢゃないのぉ? もし本当に欲情してないなら、何を根拠に、アタシが、夫に性的対象として執着されていると、決め付けたの? 男と女だって四六時中、発情して互いに姦りたいって思い続けてるわけぢゃないのよ。それに、アタシが夫と別居している理由は…………、あぁあ、アンタが文殊尻をチャンと捕まえてないから、あの尻軽男子……ほら、見てごらんよ、アタシの夫は、もうちゃっかり文殊尻菩薩に寄り添ってる。アイツは女に興味がないのよ。おーい、夫ぉぉ、その子は佛様の夜のオモチャなんだから、チョッカイかけちゃ駄目よー。戻って来なさぁぁい。なに未練がましく、文殊のお尻触ってんのよー。……で、さて、大徳、アタシの夫がアタシに性的執着を抱いてるなんて、何を根拠に言ったの? なんで? ほぉれほれ、言ってご覧なさい」。舍利弗は言った。「あ、いや、あの……私は清浄な金剛心を確かに持っているんですぅ。信じて下さい。でも、男女間の関係から長らく離れていたので、男と女の仲を教条主義的にしか捉えられずに、心にもないことを言っちゃっただけなんですぅ」。菴提遮は言った。「大徳、正直に答えてね。大徳は既に長らく男女両性間の関係から離れていたって言ったわね。ぢゃあさ、大徳、肉体が離れ離れになっていれば、心の執着心もなくなるってこと?」。舍利弗は、もう何も言い返せなかった。
菴提遮は偈を歌った。「もしも心が対象に向けた執着をなくせば、結局、対象に向けての偏見は持つことがなくなる。女の肉体そのものが自ずから不浄な心を起こさせるものだと決め付けたのは、誰だっけ? もしも肉体や形ある者を云々することを久しく止めて忘れていれば、対象となっているものが何らかの怪しい法則で自動的に主体の執着心を惹起するなんて超常現象は起こりっこないんだから、結局、物に対する執着心は発生したりしなくなる。何故に私の肉体が、自動的に誰かの欲情を掻き立て執着されると決め付けたの? 言ってご覧なさいよ。さぁ歌いましょう。……『例えば、古代印度にゃないけれど、満員電車で朝早く、朝勃ちの熱冷めやらず、今日もギュゥギュゥ鮨詰めの、リーマン同士で押しっくら、散切り頭の学生に体が密着ウザッたい、しかして隣の少年と話す学生、驚天動地、間違(まご)うことなき女の声、知らず知らずの其のうちに、再び朝勃ち困惑至極、バレないようにと腰を引き、無理な恰好で二十分。男と思えば勃たないものも、女と判れば勃つのが男、結局、女の実体でなく、男の大脳そのものが、諸悪の根元、南無阿弥陀仏……』。あぁ大徳は、無意味なお勉強ばかりして、物事の本質を理解しちゃいない。女が元々不浄なんぢゃなくって、男の女を見る視線が、女を淫らな性的存在だと決め付けてるだけ。これって、妄想ぢゃないかしらぁ、違う? ほぉれほれ、答えてご覧なさいよ。そら、跪いて足をお舐め。皆の前で自己批判しなさい。アタシの言っていることを疑っちゃイケナイわよ、何たって佛の神通力によって私が喋らされたことなんだから」。菴提遮が此の偈を歌うと、其処にいた僧侶・尼僧・在家の信者男女・天および千人以上の者が、阿耨多羅三藐三菩提心を得た。五千人の者は、或いは無生法忍、或いは法眼を、また或いは心の解脱を得た。其の他の無数の聴衆は、佛の教えを思い出し、自分の裡にある妄想に依る他者への先入観で相手を固定的実体としてしか認識せず実は実体と思っていたものが関係性によって規定された流動的な者だったと思い至り慚恥の心を抱いた。
佛は舍利弗に言った。「この女性は凡俗の者ではない。既に無数の諸佛格に会って、常に此の様に師子吼了義經を説いて、無数の人々を救済してきたのだ。私もまた、此の女性と同様に無数の諸佛に出会って教えを受けてきた。此の女性は近い将来、正覺を成就するに違いない。諸々の人は、此の女性の説教に出会えば即座に本当の信心を得ると定まっている。であるからして、皆は既に長らく此の女性の説教を訊いたのだから皆は、正しい信仰心を生じた。よって此の真理に応じて師子吼了義經を受け取り、決して疑ってはならない」。佛は阿難に言った。「おい、菴提遮の言ったことを記憶し、師子吼了義経を文章に起こせ。表記は任せる。間違うんぢゃねぇぞ」。阿難は佛に言った。「かしこまりました。世尊。今、すべて記憶しました」。人々は菴提遮の説法を聞いて、心から大いに欣喜雀躍すること限りなかった。各自、説の如く修行せよ。佛説長者女菴提遮師子吼了義經

     ◆

 漸く本文に入る。真面目に読んで下さった方には申し訳ないが、比率として読まなかった人の方が圧倒的に多かろうから、掻い摘んで経典の要点を申し上げよう。
 仏陀その人が女性を差別していたとは余り思えないのだが、何時の間にやら仏教では、【女性は成仏できない】とされた。だから法華経でも、八歳龍女は成仏する瞬間、「変成男子」(男の子に変身!)しちゃうのである。死を目前に控えた伏姫が、法華経を読んでいたとは、八犬伝読みの常識であろう。伏姫が男性性を獲得する瞬間である。此の場面に関連して読本で以前、性のアワイに言及したが、実は元ネタが上記の経典なのであった。経典名もウロ覚えだったから、詳しく言及できなかったが、漸く見付けたので引っ張り出した。
 読み所は、主人公・菴提遮が舌鋒鋭く仏陀の高弟をヘコます論争場面だ。「獅子吼」であるから、多少は乱暴な言葉遣いにもなったろう。仏陀の高弟は、教科書的もしくは硬直して語義を設定し論理を構築しようとする。対して菴提遮は、生と死・常と無常・空と有、対概念同士を互いに隔絶せる者とは考えず、逆説的に論理を構成していく。空とか生とかを、まるで実体があるモノの如く固定し典型化し単純な二分法理解を提示する役回りの文殊を、まずは沈黙させる。此に対して菴提遮は、法則の流動化(動態化)を目論む。真理は普遍(常)であっても、其の表記(明文化された「法」)は情況に合わせて変化し得る(無常)。或る特殊な状況に於ける真理の表出を固定し、情況が変わっても、何とかの一つ憶えみたいに、過去の法に固執する愚かなるフェティシズムを、菴提遮は嗤っているのだ。

 しかし仏陀の高弟は、「教科書的」なんだから当たり前だが、固定観念による思い込みで自らの無謬性を主張する。だから逆説的な論理、例えば、全くの空(無)からは何者も生じ得ないとの定義から、全くの空が実は存在せず、「空」とは結局、密かにでも何者かを蔵しているのであって、其の現実からすれば、【空とは空ならざる空であり、それは有ならざる有とも言える。故に、空とは空ならず】と論破されたら一溜まりもない。仏陀の高弟は論理が硬直してをり無謬性を掲げているから、柔軟で現実的な論理を以て例外的な事象を持ち出され一点でも突破されたら、脆くも全体が崩壊する。印度のアーリア女性は真に美しいと思うし、ヤクシーとかパラスヴァーティーとか何とか肉感的なナイスバディ揃いだと個人的には妄想してをるので、件の菴提遮も褐色ムッチムチの成熟人妻であったと勝手に妄想しているのだが(しかも夫とは別居中!)、菴提遮の高論を聞いて劣等感を抱いた仏陀の高弟・舎利弗は、浅ましくも負け惜しみを言う。「貴女の智恵は素晴らしい。其の素晴らしい貴女が、何故に女性なのか」。
 此は「女は成仏できない」とか「成仏したら女の子も男の子に変身する筈」って前提で吐かれた言葉だろう。実は、敬虔な仏教徒であった菴提遮にとって、自分が女性であることこそ、(龍女だったとは書いてないんだが)まさに逆鱗であった。いきり立った別嬪人妻・菴提遮に、哀れ仏陀の高弟はグッチャングッチャンに叩きのめされ、無数の衆人環視のもと、自己批判を強いられる。「女は成仏できない」との論理が見事に粉砕されたのだ。
 まず菴提遮は仏陀の高弟に対し、「アンタ男だろ」と問い掛ける。高弟は「親から貰った此の体は、なるほど男のものだが、心は男ぢゃありませんわよ、うふん」などと下らぬことを言う。菴提遮は、ならば自分だって「心は【女】ぢゃない」と言い張る。【女】とは、実存の女性ではなく、例えば【女】を使って不当な利益を得ようとする、男女共犯たる旧弊の生み出した「女」である(菴提遮みたいな撫子を産出しながらも、如何やら人間は二千年ばかり進化を止めているらしい)。
 ところで血塗られたスコットランド女王/ブラッディ・メアリを断頭台で血塗れにしたエリザベス一世は、世界の旧教徒を敵に回したわけであるけれども、スペインのアルマダを迎え撃つに当たって、兵士を以下の如く鼓舞した。「(前略)I know I have the body of a weak, feeble woman; but I have the heart and stomach of a king - and of a king of England too, and think foul scorn that Parma or Spain, or any prince of Europe, should dare to invade the borders of my realm; to which, rather than any dishonour should grow by me, I myself will take up arms - I myself will be your general, judge, and rewarder of every one of your virtues in the field.(後略)」。「肉体は弱き女でも、心は雄々しく逞しい……つ・も・り(はぁとまぁく)」は、古今東西、立志の撫子の常套句らしい。因みに彼女は、詩人の資質も有っていたらしく、「英国と結婚した」と嘯き、生涯を処女として終えた(と云う)。面白いのは、西洋に於いて、国土は女性名詞であり、其れと配偶したとは、自らを男性と規定した証左でもあるか、はたまたレスボス島ならぬブリテン島のサッフォーであったか。菴提遮には至らぬまでも、当時としては、意識の高い女性であったようだ。時代は、伏姫に遅れること百年ばかりである(作中年次)。
 それは、さて措き、仏陀の高弟は菴提遮に、わざわざ「夫がいるなら、其の夫に異性としての執着を起こさせている罪深い存在だから不浄なのだ」と、墓穴を掘る。菴提遮は、何故に自分の夫が自分に性的執着を抱いていると決め付けるのかと詰め寄る。そして、もし女性が、男を自動的に勃起させる存在だと規定するならば、心の如何に拠らず、高弟も自分に対して欲情していると決め付ける。高弟は、自分は男女の習いから久しく離れているから大丈夫なんだと苦しく言い訳するが、菴提遮だって夫と別居中であった。まぁ此の論争の前段で、空と有・常と無常など対概念だと信じてきた者が、実は通底しており同じき根源から枝分かれしていると解き明かすからこそ説得力を持つんだが、菴提遮の「獅子吼」は、まことに見事である。
 自律かつ自立している点も含めて、至極マットウなフェミニズム論だが、詳細は原文を読んでくださるよぉに。旧来からの【女】の範疇に拘り偏執しないことが第一歩ではあるが、もぉちょっと「女」を売り物にしろよと言いたくなる伏姫に其の実践が見られることは、(馬琴が此の経典を熟読していた証拠を筆者は持たないので)恐らく直接的な関係はないとせねばならぬが、硬直せる実体論よりも関係性を優先する態度が、八犬伝と共通すると言わねばならない。勿論、大衆小説であるから、「硬直せる実体論」を戦術としては利用せねば成り立ち難い。既存の【常識】や【先行文芸】を(飽くまで戦術として)駆使せねば、大衆小説なる空間自体が、魅力的には存在し難い。言葉の宿命と、言って良いかも知れない。
 且つ亦、実体論よりも関係性論に偏っているとはいえ、それは此処での舎利弗の如き不覚悟なガキが現実を無視して人間関係とか何とか実体論的個人妄想を事実に優先させるとの意味では決してなく、逆に事実環境(自然)を明鏡止水に受け止めた上で、所詮は総てが妄想だと開き直って妄想に引き籠もることなく、己の妄想/主観的世界観と事実と摺り合わせて修正し続ける営為を必要とする。かといって、妄想に引き籠もって上述の如きルールを否定する者まで(通俗妄想の裡の)慈母観音の様に甘やかし全肯定するのではなく、菴提遮の「獅子吼」は、かなり戦闘的な態度で、相手を妄想の温床から引き摺り出そうとする。一歩間違えば宗教戦争の泥沼だが、経典では(フィクションだから)絶対的存在である仏陀が裁定者となって菴提遮の論理を肯定しているのだから、問題は起こらない。更に亦、菴提遮は表上の主人公だが、矢張り真の主人公は仏陀だろう。経典に記す不可思議な物語は恐らく、以下の如く種明かし出来よう。
 仏陀は菴提遮が部屋に籠もっていると聞いた時点で、総てを悟った。が、一人の女性を出現させて自分の残飯を持って行かせて「(女は不浄の存在である)清浄な心となって受け取れ」と挑発させた。菴提遮は自らの清浄心を証明しようとして、仏に会いに行こうと考えた。しかし人妻である彼女は、夫同伴でないと自らの清浄心を疑われると考えた。夫が現れるよう心に念じた。夫は出現した。夫は彼女を窘めた。「嗚呼汝大癡 不知善自宜 勞聖賜餘食 守戒竟何為」。実は、経典の要旨が、此の一文に凝縮されている。菴提遮の展開する論理は、応用に過ぎない。と、なれば、此の夫こそ徒者(ただもの)ではない。菴提遮は夫同伴で仏陀たちに会いに行く。舎利弗は、菴提遮夫を素晴らしい男性であり清浄な心を持っていると、即座に認めた(清浄な心を持っていると認めながら菴提遮との論争で夫が悪心/劣情を抱いていると言い募る所で舎利弗の論理は既に破綻していた)。しかし折角、登場した菴提遮の夫は何も喋らない。舎利弗・文殊師利そして菴提遮だけが論争の登場人物で、仏陀が二三度茶々を入れるぐらいだ。抑も「女は不浄で男にも不浄な心を起こさせる二重に不浄な存在」との先入観に凝り固まっている舎利弗が、何の説明も描写もないまま、素晴らしい男性で清浄な心を持っていると一見して認める菴提遮の夫とは、如何なる者か。そりゃぁ当然、仏陀その人だろう。いやまぁ仏陀本人は別に存在しているから、分身か何かの位置づけってことにはなるが。仏陀は前に「化女」を出現させて菴提遮を挑発した。続いて菴提遮の祈りに答えて夫を出現させたのも、仏陀である。菴提遮は夫が出現したとき、仏に感謝の祈りを捧げた。夫を出現させたのが仏陀なら、「嗚呼汝大癡 不知善自宜」との真理を夫に語らせた者も、仏陀だろう。夫の唇から発した真理を胸に菴提遮は論争の場に赴き、舎利弗をコテンパンに打ち破る。結局、仏陀に真理を耳打ちされた菴提遮が、自らの智恵で応用を働かせて男女の平等を歌い上げる恰好だ。黒幕は、仏陀なんである。弟子である舎利弗が半ば敗けを認め沈黙した時に、「途中で止めんな!」と突き放し、後に完全なる敗北へと追いやったのも、仏陀だ。……仏陀は、かなり人が悪い。おバカな論理を言い募った代償とは言え、サンドバッグ状態の舎利弗が、ちょっぴり可哀想に思える。まぁ此の経典は二重のフィクションてぇか、それ自体もフィクションだが、登場人物が仏陀の采配の下、論戦劇(フィクション)を繰り広げて、聴いている大衆に真理を説くって形であり、「人の悪い」プロデューサー・仏陀は、既に如来格、デップリした泥鰌髭の中年男だ。細めの目つきは人を見下した様な偉そうな印象、口元には薄笑いを浮かべている。大仏(毘婁舎那仏)とか思い浮かべれば良い。如何したって人が好さそぉには見えん。閑話休題。

 道教を代表する語句の一つ「無用の用」は、仏教を代表する語句の一つ「(空ならざる)空」と、親和性が高い。両者が結託すれば、例えば八犬伝の如く、神仙(道教の最高境地)なんだか等見成正覚(仏教の最高境地)だか判然としない形になろう。また「無用の用」「(空ならざる)空」は共に、一見(もしくは通俗には)逆説を含む境地でもある。馬琴が否定した七十回本は別として、魔君であり英雄であった主人公達が惨めにバタバタ死んでいく水滸伝で、【一番の乱暴者】とも評せる魯智深和尚が大悟に至り大往生を遂げるなんざ、逆説が幅を利かせる社会では喜ばれそうだし、如何にも流行作家・馬琴の選択しそうな趣向だ。筆者は現在の日本にも同様の傾向は色濃く残っていると考えているけれども、犬士中「一番の乱暴者」道節の息子のみ僧侶となることは、甚だ興味深い。近世の説話では蛸を千手観音と呼び食することを好んだ、殆ど破戒の一休禅師も思い出される。また道節二世(第三子)の名は「道空」であった。道(タオ)と空(そら)である。語感は「(孫)悟空」にも通っている。惟えば悟空も、三蔵法師一行で「一番の乱暴者」であったが故、頭を金環に嵌められた。
 とは云え、信多純一氏が「馬琴の大夢」で老熟の考証を示した如く、なるほど西遊記と八犬伝の間には密接な関係があるとは確かだろうし、悟空を親兵衛に比定することを否定する者ではない。但し、馬琴が拠った先行文物も、キャラクター設定に用いた実在・虚構の人物も、八犬伝と【一対一対応】しているわけではないだろう。先行する者たちが部分部分を抽出され統合し、若しくは分与される。即ち、西遊記の悟空は己の部分を親兵衛に与えつつ、道節にも投影されていると見た方が、筆者にはシックリくる。
 また如何でも良いことだが、素藤が妙椿を「女菩薩」と呼ぶは、船虫など賊婦に対して用いられる慣用句「外面女菩薩内心夜叉」からの部分的転用とすべきではなかろうか。素藤が妙椿に「女菩薩」と呼び掛ける度に、読者は「外面女菩薩内心夜叉」なる言葉を想起し、其れまで登場した賊婦を思い出して、彼女らと妙椿が同じ側の存在だと確認する。素藤の使う「女菩薩」が、西遊記に於ける観音へ向けた呼称からの直接的搬入であるとするならば、最低でも伏姫観音と妙椿との直接的関係を示さねば、説得力を感じさせない。さほど珍しい語彙ではないだけに、積極的証明が必要だろう。氏の考証が緻密ゆえに目に付いた瑕瑾である。
 
 世の中の色総てを足せば十八パーセントのグレー(無彩色)/空ならざる空/混沌に帰するとは、写真理論の初歩だが、思いっきり善・思いっきり悪が各々激突し合う八犬伝世界は、総べれは結局十八パーセントのグレーだと、「等見(成正覚)」することも可能かもしれない。
 犬士が仙化し、八犬伝は【無】に結果する。無から生じた物語が無に帰した……だけのことだ。が、無を始点とし無に戻ったとて、途中が無であったわけではない。無から無へと結局は移動距離ゼロの虚ろな稗史は、しかし、苦しさ悲しさを乗り越える犬士の闘いは、八犬伝の外、現実世界にプチ犬士を生成し得る。何者かを生じ得る無は、全き無ではない。空ならざる空だ。
 生じ得たプチ犬士たちは苦闘するだろう。其等の行為は、やはり無に帰するかもしれない。いや多分、無に帰するだろう。しかしプチ犬士の苦闘は、復た新たなプチ犬士を生ぜしめ得る。空ならざる空。
 天照/観音/伏姫が隠れ、八犬伝世界は(比喩的に)暗黒社会となる。佞人時を得て悪の跋扈する場所だ。絶対零度かつ明度ゼロの状態が、宇宙本来の状態なのかもしれない。しかし、とにかく宇宙が存在している所から、原初も「空ならざる空」であったと想定できる。光が生じ熱が発し、人の存在がある。しかし例えば、光熱はエネルギーを必要とする。伏姫/太陽/を失って、タダでは光熱が得られない。暗黒/闇を制する苦闘/エネルギーの発露によって、漸く光熱が得られる。ココロの闇とは、思考を停止し易きに流れることだ。闇を解消する光と熱には、エネルギーの発動がなければならない。犬士の苦闘は、其の様なことを語りかけてきはしまいか。
 ところで、犬士は全て男だが、別に苦闘は男の特権ではない。音音なんて、対関東管領戦で犬士より華々しい活躍を見せる。本来ならば女性であったのに「変生」し男だけの隊(むれ)に入った毛野もいるが、此は上述の如き理由で象徴的に「純陽」でなければならなかった犬士の性格付け故の、単なるレトリックだろう。【等見成正覚】である。
 さて後生に、出ずるや、プチ犬士。わんわん(お粗末様)
 

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