★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「鈴々(りんりん)乱々(らんらん)」★

 鈴の話である。駅鈴は公使の身分証明であると書いた。律令に於いて、公使は軍事にも関わり、いや軍事こそ最も急を要するため、関係公使が遅滞した場合の罰則が重くなることを紹介した。朝廷が急襲せねばならぬ相手は、国外の敵か反乱軍である。故に朝敵追討の場合にも、駅鈴が下された。源平盛衰記巻二十三、タイトルがモロに「朝敵追討例附駅路鈴事」である。
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同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍より九代、正盛より五代、大相国の嫡孫重盛の一男なれば、平家嫡々の正統也。今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被撰たり。薩摩守忠度は入道の舎弟也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。古郡より可相具と沙汰あり。参河守知度は入道の乙子也。侍には上総介忠清を始として、伊藤有官無官、惣而五万余騎とぞ聞えける。長井斎藤別当真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。抑朝敵追討のために、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被行。大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。されども承平天慶之前蹤、年久して難准とて、今度は堀川院御宇嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴ばかりを給て、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。朱雀院の御宇承平年中に、武蔵権守平将門が、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不斜。依之天台山当時の貫首、法性坊大僧都尊意蒙勅命、延暦寺の講堂にして、承平二年二月に、将門調伏の為に不動安鎮の法を修す。加之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被下けり。今の維盛先祖平貞盛無官にして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被仰下けり。貞盛宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆ丶しくぞ見えし。大将軍は貞盛、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国幹、大監物平清基、散位源就国、散位源経基等相従て東国へ発向す。貞盛已下の勇士東路に打向ひはるばると下けり。道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。身をそばめて行、足を峙て歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢を見て、

  漁舟火影冷焼波、駅路鈴声夜過山

と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつ丶、皆人涙を流けり。

漁舟とは、すなどりする船なり。火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。冷焼波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。駅路とは旅の宿なり。鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。貞盛朝敵追討の蒙宣旨、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様(ありさま)思知られければ、かく詠じけるにこそ。
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 同様の話が「平家物語」(巻五富士川)にもあって、かなり簡略である。
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昔は朝敵を平げに外土へ向ふ將軍は、先參内して節刀を賜る。宸儀南殿に出御して、近衞階下に陣を引き、内辨外辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各禮儀を正うして、是を給はる。承平天慶の蹤跡も、年久う成て准へ難しとて、今度は讃岐守正盛が、前對馬守源義親追討の爲に、出雲國へ下向せし例とて、鈴ばかり賜て、皮の袋に入て、雜色が頸に懸させてぞ下られける。古朝敵を滅さんとて、都をいづる將軍は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に鬪ふ時身を忘る。さ れば今の平氏の大將軍維盛忠度も、定てか樣の事をば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。
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 対関東管領戦に於いて犬士たちは「防禦使」の証として里見義成から、おのおの大刀を与えられる。源平盛衰記や平家物語の「節刀」に相当する。また此の時、一人だけ上洛していた親兵衛の節刀は信乃が預かっている。且つ、京から安房へ帰るとき、親兵衛は室町管領細川政元から駅鈴一口を貸与されている(程なく秋篠広当を通じて返却)。盛衰記や平家の記述からは、節刀もしくは駅鈴が討伐使の身分証明すなわち所持者が【正当な武力行使者】として天皇権威に依り公認されているということだ。政元が親兵衛に駅鈴を貸与した動機は後に考えるとして、一時でも親兵衛に駅鈴が渡ったことは、正当なる武力行使者として親兵衛ひいては里見側が認定された(わけではないが必要なアイテムを手にしたとの意味でイメージ上の正当性を獲得した)ことを、示している。
 駅鈴が纏う権威に就いて、より判然たる事件が国史に記述されている。広嗣が敵視した吉備真備の挿話である。続日本紀巻二十五淳仁天皇天平宝字八年九月、
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乙巳(十一日)太師藤原恵美朝臣押勝逆謀頗泄、高野天皇遣少納言山村王収中宮鈴印、押勝聞之令其男訓儒麻呂等激而奪之、天皇遣授刀少尉坂上刈田麻呂将曹牡鹿嶋足等射而殺之、押勝又遣中衛将監矢田部老被甲騎馬且劫詔使授紀船守亦射殺之、勅曰太師正一位藤原恵美朝臣押勝并子孫起兵作逆仍解免官位并除藤原姓字已畢其職分功封等雑物宜悉収之、即遣使固守三関……中略……授……中略……正四位下吉備朝臣真備従三位……中略……正六位上坂上忌寸苅田麻呂外従五位下……中略……弓削宿祢浄人賜姓弓削御浄朝臣……中略……坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸、是夜押勝走近江、官軍追付
(壬子/十八日)時道鏡常侍禁腋被寵愛、押勝患之懐不自安、乃諷高野天皇為都督掌兵自衛准拠諸国試武之法管内兵士毎国廿人五日為番集都督衙簡閲武芸奏聞畢後私益其数用太政官印而行下之、大外記高丘比良麻呂懼禍及己奏密其事、及収中宮鈴印、遂起兵反、其夜相招党与遁自宇治奔拠近江
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 高野(称徳/孝謙)天皇の寵愛が、自分から道鏡へと移っていると感じた藤原恵美押勝は、遂に反乱を起こす。察知した孝謙が少納言に命じて鈴印を収容する。此を聞いた押勝が少納言を襲わせ鈴印を奪う。が、孝徳側は名誉の武人・坂上苅田麻呂たちを差し向け簒奪者を射殺する。押勝は次なる武人を派遣するが、返り討ちにされる……要するに「鈴印」を奪い合っているのである。漸く鈴印を保全した孝謙は、押勝の称号・恵美朝臣を剥奪、財産を没収すると宣言した。いや、引用した続日本紀の巻数を見て明らかな如く、孝謙は「高野天皇」と名乗ってはいるが、「天皇」ではない。天皇は、あくまで淳仁だ。故に当初は上皇と重臣の私闘なんであるが、「鈴印」を確保した途端に、孝謙は押勝を賊と決め付け罰することが可能となった。「鈴印」こそが正当性の証、即ち天皇の証。故に「鈴印」は、天皇の意思とは無関係に、天皇と同じ価値を持つのだ。一方、鈴印を奪取できなかった押勝は、賊として近江に遁走せねばならなくなる。広嗣が乱を起こした後、長らく押勝に冷や飯を食わされていた真備は、此の戦いで、押勝軍の進路を予見し挟撃、致命的打撃を与える。雪辱である。則ち、(駅)鈴には天皇(を守護する)霊が宿っているため、公使が任務を遂行するに当たって守護を与えるのだ。こう考えると広嗣が、自分の退路を拓くことを神に祈り、逆巻く波へ駅鈴を放り込んだ意味も解る。

 ところで孝謙の改名癖は有名で、自分の思い通りにならない和気清麻呂を「穢麻呂」、姉の和気広虫を「狭虫」と改名させたりしている。自分の嫌いな清麻呂が、そんな綺麗な名前では許せなかったのだ。広虫→狭虫も貶めた積もりだろう。……が、そりゃまぁ「道鏡よ それは膝かと上皇(孝謙)云ぃ」と膝の入った彼女なら、確かに広かったろうけれども、自分が広いからって、広いのが偉いとは限らない。男によっては、狭い方に価値を置く場合もあろう。また上記でも、藤原仲麻呂から「恵美押勝」の名を剥奪しているが、此も元々彼を寵愛していた頃に自分が与えたものだ。「恵美」は美称だろうから「押勝」が孝謙のイメージだろう。政敵に「押し出しで勝つ」頼もしさを云ったか、それとも自分を「押して勝(しの/凌)ぐ(押し倒す)」相手すなわち愛人を意味していたか。此も立派な「名詮自性」だ。己の内的世界に世界を従属させようとする勘違い女(男もだが)は何処にでもいるものだ。

 八犬伝に話を戻せば、親兵衛が逢坂・坂本の二関を破り大津を押し通ろうとした時、変態管領政元が追い付く(第百四十八回)。画に戻った虎を携えている。親兵衛の虎退治が実証される。白紙に戻った画から奇音が発したために改めて見たのだ(こう書くと妙椿狸が偽造した恋文を其の場で焼いた里見義成の短慮が際立つが……此も愛娘を想う心か←インセストぢゃないだろな)。政元は代四郎・直塚紀二六にも対面し特に誉めるが、挿絵が傑作だ。紀二六は政元を穏やかに見詰めているが、代四郎は目も遣らず正面(読者方向)を向き、左右の目の高さがズレている不動明王忿怒の形相なのだ。「ふんぬぅぅぅ。此奴だけは許さん。儂の可愛い親兵衛の操を、よくも、よくもぉぉ」との表情なのである。
 ライバル代四郎を誉めるなんて、柄にもない所を見せた政元であったが、調子に乗ったか、トンデモナイことをする。いや、甘い顔を見せた親兵衛を押し倒したとかではなく、「左ても右ても余波は竭ねど又留るに由もなし」といひつ丶腰なる錦の嚢の緒を緩め拿出して「やよ親兵衛、これは是、官府の急逓脚に用ひらる丶駅路の鈴、即是なり。我毎に外に出る日は必是を腰に佩て火急の公用に充るのみ。然ば五畿七道に配当して其数才に十二あり。一箇も是を私に用ひかたき至宝なれども今不用意にして和郎を送れば餞別に做すべき東西なし。則これを和郎に貸さん……中略……この駅鈴を佩たる者は則諚使に準ぜらる。こ丶をもて那関令等が抑留せざるを恒例とす。和郎是をもて去向なる其地の関令們に示しなば路次の凝滞あるばけらず」。親兵衛を掘れたとの確証こそないものの親兵衛に惚れた政元は、良いところを見せようとしたのだが、此の公私混同が彼の悪役たる所以だ。
 政元と別れた翌日未下刻、親兵衛一行は石薬師村を通る(第百四十九回)。勅使・秋篠将曹広当が追い付き、臨時の除目を伝達する。承知するようにと責める広当だが、親兵衛は泣きじゃくりながら拒む。広当は加えて、駅鈴を返すように言う。
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東海道は伊勢尾張を除くの外、皆是京家の適地なり。縦駅鈴をもてするとも我恐らく尚饒さざる所あらむ。且其駅鈴は朝廷より室町殿へ管給ひし其数則十二あり。一も欠べからざる至宝なるに、政元主私して一箇を和殿に貸たりとも帰東の後、早く還さずは其罪和殿の上にあらん。
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 そして翌日、京に帰った広当は朝廷に復命、親兵衛が除目を拒んだと宣旨を返却する。室町将軍へも御教書を返す。同日、広当は政元にも対面し、親兵衛からだと駅鈴を戻す。自分の教示によったとは言わず、「犬江が遠慮寔に以あり。第一相公のおん為なれば在下則受拿て他に代りて返上す」と惚けて差し出す。政元は「苦咲して『其はよく心つきたり』といひつ丶軈て受拿て嚢を啓き得と見て紐を締びて腰に吊けり。この折に政元は親兵衛が辞勅のよしを広当に聞知りて及びかたきを恥る色あり。こ丶をもて広当は敢又多言せず遽しく別を告て伴当を将て宿所に退りぬ」。

 近世後期の東海道旅行案内書「東海道名所図会」には次のようにある。
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前略……畿内七道ハ天武帝の御時勅によつて定られ其中にも東海道その冠首たり草薙の余光煌々として四海の潮ハ東日に照されて浪の音謐也千戈の威日々に新にして梟鳥敢て翔らず賞罰厳にして虎畏れをなす江府までの往来貴賤となく老少となく夜となく晝となく公卿ハ勅を蒙りて春の御使藩屏乃諸侯ハ加ハる々々々参勤ありあるハ商人の交易斗藪の棄門風騒の歌枕俳諧の行脚伊勢満い里富士詣まで駅路の鈴の絶間もなく馬あり加輿あり舟あり橋あり泊々ハ自在にして酒旗所に■(扁に羽)飜たり周礼曰国野の道十里に一盧あり盧に飲食あり三十里に宿あり宿に駅亭ありとそ馬に鈴をつくるを駅路の鈴といふむかし毎年貢を馬にて運び蔵奉る時又ハ公卿国々乃任ありて守護に下里給ふ時此鈴を付たる馬ハ夜も関の戸を明て通しけるとなり日本紀孝徳帝の御宇大化二年に関宿を定め駅馬傳馬に鈴の契を付る事あり又続日本紀及び延喜式江家次第令義解等にハ粗見へたり
新六帖
旅人の山こへワふる夕霧に駅の鈴乃古ゑひびくなり 衣笠内大臣


道細き里の駅の鈴鹿山ふりはへすくる友よハうなり 為家

神もさそふりくる雨は志の塚の駅の鈴の小夜深き声 逍遙院
国王七鈴をもつて七道につかハすにハ官使に一ツつ々賜ふや古れを印にしてむまやへつく毎にふりならして宿る也其所を駅路といふ駅舎ハ京師より江戸まで五十三駅也洛陽教業坊三條ノ橋ハ東海道の喉口にして行程も古れより員始る此橋上より洛東の風景を見渡せば……後略(東海道名所図会巻一)
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 草薙剣が如何のと書いているが、此の前段に日本武尊の話が載っている。寛政九(一七九七)年の刊行だが、諸国往来が活発になっている事を示すと同時に、古代の駅制・駅鈴に言及している。特に「国王七鈴をもつて七道につかハすにハ官使に一ツつ々賜ふや古れを印にしてむまやへつく毎にふりならして宿る也其所を駅路といふ」が目を引く。此処では律令制下以降の全国区分「七道」から、鈴が七つ必要だとしている。一方、手孕村の紹介でも引いた「東海道名所記」(巻一)には、

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前略……
一日路すぎて暮がたには、はたごやの宿泊々これあり。これをむかしは駅館と名づけ、みかどより五畿七道に御つかひをくださる丶時、出しける伝馬をば駅馬(はいま)と申す。駅馬とだにいへば人おそれてたちのきけり。今の世までも駅馬々々といへば道行人もかたはらへ立のくは此事よりもいひつたへたること葉とかや。
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とあって、此方は「五畿七道」だから、「東海道名所図会」の発想からすれば、駅鈴は十二あっても良いわけだ。細川政元が親兵衛に駅鈴を貸与した折りの「五畿七道に配当して其数才に十二あり」に対応している。但し、後者では「五畿」が余計だ。五畿とは、山城・大和・和泉・河内・摂津を謂い、都(設定時は大和)を防衛する最終ラインとして設定された。イザとなれば住民から軍事徴発をせねばならぬから、平時には税負担が軽かった。ただ都の周辺であるから、駅制を無理に使うこともないだろう。駅は換え馬と食料の補給が任務だったから、長距離通信に於いて威力を発揮する。

 しかるに馬琴は八犬伝で(室町幕府が朝廷より預かっている)駅鈴の数を「五畿七道」を持ち出して十二と設定している。こんな制度の典拠が何処にあるか筆者は知らないし、あったとしても余り意味はない。駅制は古代後半の十世紀ともなれば、住民の負担が重いため十分には機能しなくなっていたという。ましてや中世のように在地権力が割拠する状況では、八犬伝で広当が言うように、駅鈴なんかあっても意味がない場合が多いだろう。では、何故に意味のない駅鈴が十二もなければならないのか。そは次回に解き分くるを聞かねかし。(お粗末様)
 

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