★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「反逆者への未練と恐怖」★

 前回は「秋篠」に就いて語っているうち次団太の話題に飛び火した。「秋篠」に立ち返ろう。現代では宮家の名ともなっているが、続日本紀にも現れる由緒正しい姓だ。巻三十八桓武天皇延暦四年八月「癸亥朔、右京人土師宿祢淡海其姉諸主等、改本姓賜秋篠宿祢」、平和そうだが此の翌月、藤原種継が射殺されている。三週間前に死んだ大伴家持は暗殺に関わったとして遺体を葬ることを許されていない。宮中が激動していた時期だ。土師氏は菅原道真の一族で、相撲の創始者の家柄だ。延暦九年十二月「辛酉(三十日)勅外従五位下菅原宿祢道長秋篠宿祢安人等並賜朝臣、又正六位上土師宿祢諸士等賜大枝朝臣、其土師氏惣有四腹、中宮母家者是毛受腹也。故毛受腹者賜大枝朝臣、自余三腹者或従秋篠朝臣或属菅原朝臣」十年春正月戊辰(七日)「外従五位下菅原朝臣道長秋篠朝臣安人……中略……並従五位下」と、順調に出世している。続く日本後紀では巻二十二嵯峨天皇弘仁三年六月壬子(二十六日)左京人従五位下秋篠朝臣上子・秋篠朝臣清子・右京人従五位下秋篠朝臣室成・従七位上秋篠朝臣宅成等、賜姓御井朝臣」とあり、土師から菅原・秋篠・大枝と枝分かれし、秋篠から御井なる姓も出たことが分かる。一般に「御井」姓の者には「井」を称する者もいたらしい。全く別系統の藤原姓「井」が遠江にいて、此処から「井伊」(江戸幕府重臣で幕末に大老直弼を出す)なんてのも派生した。結城法会に於いて、信濃の井丹三が娘・信乃の母親は、「藤原氏諱は手束」とされている。近世の名族・遠江井伊家に連なるかもしれない。井伊は伊井と通じている。
 が、信濃に着目すれば、以下の記述が日本後紀巻八桓武天皇にある。即ち、延暦十八年十二月癸酉(四日)「信濃人外従六位下掛婁真老・後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖麻呂・前部秋足・小県郡人・無位上部豊人・下部文代・高麗家継・前部貞麻呂・上部色布知等言、己等先高麗人也、小治田飛鳥二朝庭時節帰化来朝、自爾以還累世平民未改本号、伏望依天平勝宝九歳四月四日、勅大姓者賜真老等姓須々岐、黒足等姓豊岡、黒麻呂姓村上、秋足等姓篠井、豊人等姓玉川、文代等姓清岡、家継等姓御井、貞麻呂姓朝治、色布知姓玉井」。桓武帝の母・高野新笠は帰化人の家系であった。桓武紀には他にも帰化人が日本風の姓を賜る記述がある。上記に拠れば、手束、帰化人系の井氏を出自としているかもしれない。

 しかし思い出してみれば、「秋篠」の前は玄ムに就いて語っていたのだ。玄ムの話から遠回りしてきたが、玄ムを語ったならば、相方の藤原広嗣に就いても語らねばならぬだろう。次に広嗣の乱を紹介する「怪僧玄ム」「寂寥たる復讐」でも仏教説話集から既に概略は紹介したので、国史から、ややディテールを引く。まずは続日本紀巻十三聖武天皇天平十二年である。
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(秋八月)癸未(二十九日)大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣上表指時政之得失陳天地之災異因以除僧正玄ム法師右衛士督従五位上下道朝臣真備為言〇九月丁亥(三日)広嗣遂起兵反 勅以従四位上大野朝臣東人為大将軍、従五位上紀朝臣飯麻呂副将軍、軍監軍曹各四人、挑発東海東山山陰山陽南海五道軍一万七千人、委東人等持節討之……中略……〇己丑(五日)勅従五位上佐伯宿祢常人従五位下阿部朝臣虫麻呂等亦発遣任用軍事……中略……〇乙未(十一日)遣治部卿従四位上三原王等奉幣帛干伊勢大神宮〇己亥(十五日)勅四畿七道諸国曰。比来縁筑紫境有不軌之臣命軍討伐願依聖祐欲安百姓故今国別造観世音菩薩像一躯高七尺并写観世音経一十巻……中略……
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 続く「戊申(二十四日)」条から戦闘の概略が伝えられるようになる。そして「癸丑(二十九日)」条には、
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前略……勅筑紫府管内諸国官人百姓等曰、逆人広嗣小来凶悪長益詐奸、其父故式部卿常欲除棄、朕不能許掩蔵至今、比在京中讒乱親族故令遷遠、冀其改心今聞擅為狂逆擾乱人民、不孝不忠違天背地、神明所棄滅在朝夕前已前……中略……勅符数十條散擲諸国、百姓見者早宜承知如有人雖本与広嗣同心起謀、今能改心悔過斬殺広嗣而息百姓者白丁賜五位已上官人随等加給……後略
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 まずは広嗣は幼少期から悪人で藤原一族から孤立、排除されそうになった所を聖武自身が庇護したと云って、藤原一族に累を及ぼさないことを宣言している。藤原氏から聖武への圧力があったと感じられる。そして広嗣が京で讒言(玄ムと藤原光明子の不倫か)し一族を混乱させたため太宰府に左遷したが、悔い改めることを期待してのことだったと語る(歯が浮かんか?)。此の部分は、広嗣を以前は庇護したと云っていることと併せ、人民一般への布告ってより、何だか広嗣個人に対するイーワケに聞こえる。お為ごかしだ。広嗣から完全な憎悪を受けたくないとの、脆弱なる性根が透かし見えるのだ。仏教帝王を標榜する聖武にとって玄ムは手放したくないアイテムであったろう。だからこそ、玄ムと敵対する広嗣を棄てたんだろぉが、広嗣に対しても、善い顔を見せたがっているようにしか思えないのだ。此のことは同時に、広嗣への未練もしくは後ろめたさがあることを意味していよう。そして一方、朝廷へ矛を向けた九州の人民・豪族に対し、広嗣を殺せば、一般人でも五位以上の官を与えると唆している。何だか卑怯な言い方だな。しかも褒美が、いきなり五位以上の叙位って、あんた、太宰少弐として、これだけ聖武を恐怖せしめた反乱を起こす広嗣が従五位下、聖武の寵を受け中央で朝廷を牛耳ってる真備が従五位上である。三位以上ほどでないにせよ、五位以上は各種特権が認められた貴族であり、朝政の中核を為す上級実務官僚であって、遣りように依っちゃ強大な力を持ち得た。多大な褒美は裏返せば、広嗣に対する恐怖の大きさ深さを意味していよう。

 さて「冬十月戊午(五日)」条には、広嗣の敗北が決定付けられた場面が描写されている。板■(キヘンに貴)河を挟んで、広嗣率いる一万騎(西岸)と官軍(東岸)六千人が対峙する。まず官軍は、九州出身者を前面に立て、広嗣軍に呼び掛けさせる。「随逆人広嗣拒捍官軍者非直滅其身罪及妻子親族者」。脅しだ。これで広嗣軍の兵は、矢を射かけてこなくなる。勅使常人は広嗣に出てこいと十度呼ばわる。暫く答えがなかったが、遂に広嗣が乗馬して現れる。すぐに出てこなかったとは、何か考えていたらしい。「承勅使到来其勅使為誰」(勅使が来ていると云うが、其れは誰か、本物なのか)。常人と安倍大夫が名乗る。「広嗣云、而今知勅使、即下馬両段再拝申云、広嗣不敢捍朝命但請朝廷乱二人耳」」(広嗣は今初めて勅使が来ていると知ったと云って馬を下り再拝する。続けて、自分は朝廷に背く気は全く持たず、ただ二人の乱臣を除きたいだけだと陳べた)。
 即ち広嗣は、改めて自分には朝廷への敵意は全く無く玄ムと真備を除くことだけが目的だと言い募る。前の勅符を当然見ていた筈の広嗣は、聖武が自分に未練を持っていると感じ取ったのか、聖武への変わらぬ忠誠を強調し、或いは勅使が恭順の意を示した場合の特例を言い含められてはいないかと、賭けたのかもしれない。しかし常人は、耳を貸さない。「為賜勅符喚大宰典已上何故発兵押来」(九州に布告する勅符を与えるため既に太宰府の典以上を召喚している。朝廷に背いていないならば、太宰府少弐の役目は全うしている筈であり、即ち勅使が来ていることを知らぬとは云わせない。此処に於いて問う、何故、勅使に向かい兵を率いて押し寄せたか)。広嗣は答えられず、馬に乗り隠れ去った。広嗣軍はバラバラと投降していく。色々あって、広嗣は十月二十九日に捕らえられる(十一月五日条)。
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広嗣之船従知駕嶋発得東風往四ケ日行見嶋、船上人云是■(身に沈のツクリ)羅嶋也、于時東風猶扇船留海中不肯進行漂蕩已経一日一夜、而西風卒起更起還船、於是広嗣自捧駅鈴一口云、我是大忠臣也神霊棄我哉乞頼神力風波暫静、以鈴投海、然猶風波弥甚遂着等保知駕嶋色都嶋矣
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 船で逃げた当初は風向き良く東へ向かう。四日にして島が見えるが、風は東に吹いているのに何故だか船が進まなくなる。漂うこと一昼夜、卒然として西風が起こり、船を元来た方向、官軍が待ち受ける浜へと押し戻し始める。広嗣は一口の駅鈴を捧げ持ち、稲村ケ崎の新田義貞よろしく、「自分は大忠臣である。それなのに、神霊よ、我を見棄てるのか。神力で風波を暫くでよいから静めてくれ」。鈴を海に投げ入れる。が、西風は更に激しく吹き荒れた。広嗣の船は、とうとう官軍の待ち受ける島へと着岸してしまう。
 そして、十一月朔日、斬られた(同日条)。

 何だか広嗣、「駅鈴」を投げたら障害が除去され前進できると思ったらしい。「駅鈴」とは……鈴なんであるが、唯一の例を除いて現存していない。馬琴の時代にも同様だった筈だ。「駅鈴」は大化改新詔勅にも見られるが、律令制で確立した駅制で用いられたものだ。公使の証であり、此の鈴を駅で見せれば食料と換え馬を与えられた。駅から駅へと繋いで旅を続けた。駅は原則として三十里(近世の四乃至五里)に一つほどの基準で、街道に設けられていた。付近住民が維持・運営を負担した。
 なんだ、そんなモン、と云う勿れ。逓信は国家の枢要であり、詳細な情報は人間なり何なりが物理的に移動するしか伝達手段がない時代だ。速度のみから云えば最速は烽火だが、至極単純で限られた情報しか伝えられない。馬で飛ばして伝達するしかない。駅制は、急使のリレーを保障する高速通信網であった。例えば、京で反乱が起きたとする。反乱側が逸早く諸国に偽の詔勅を飛ばし、自分の敵が賊軍であると伝えて兵を招集すれば、如何なるか。それだけに駅鈴は厳重に管理されていた。管理責任者は中務省の大主鈴(正七位下)・少主鈴(正八位上)で軽輩の役ではあったが、延喜式巻十二(中務省)には、「主鈴 凡下諸国公文、少納言奏請印状、訖主鈴印之、但勅符并位記、少納言印之 凡行幸従駕内印、并駅鈴伝符等、皆納漆■(タケカンムリに鹿)子、主鈴与少納言共預供奉、其駄者左右馬寮充之……後略」また令集解巻三(職員令中務省)には「大主鈴二人(掌出納/讃云出納其実耳/鈴印傳符/古記云少納言率主鈴等請進也則卿輔等請進時并事緒相知耳/飛駅函鈴事)少主鈴二人(掌同大主鈴)」とあって、かなりの要職で且つ行幸の時にも駅鈴は天皇の傍らにあり急用に応じようとしていたことが解る。大少四人の主鈴が少納言指揮下で駅鈴の保管・使用を司っていた。少納言は、まぁ現在の官房長官みたいなものか。
 また令集解巻三十四(公式令)では駅鈴の運用上規則が明らかにされている。
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前略……凡行公文、皆印事状物数及年月日并署継処鈴傳符尅数、凡給駅傳馬、皆依鈴傳符尅数(穴云給駅傳馬者、未知何人乗傳馬。答厩牧令云公使須乗駅及傳馬、又云官人乗傳馬出使者即知公使所乗也、但事急者乗駅、事緩者乗傳馬、宜応云耳。問傳馬行程。答師云准馬七十里條/跡云同之/朱云。問傳馬行程何若准駅里如行不何。答依下條馬日七十里者准此等可行耳者私未明何者下條為長行馬立程故未知何額亦同貞説也、此問答亦同也、下立行程條見耳而何)事速者一日十駅以上、事緩者八駅(穴云私事速謂尋常駅尚有速、緩致怠者程一日笞三十何者注量事緩急日有行程之文在笞三十之下故、若軍機要速者加三等、謂為飛駅耳。私云可勘。師云雖曰馳駅若為軍機要速者是也。朱云事速者一日十駅以上、謂往還並同也、此馳駅也、凡飛駅者毎駅代人馬往不見行程也、事速与事緩、雖有行程別於駅使稽程罪無別也、見職制律者。問往時稽与還時稽有罪別不何可律案耳何歟)還日事緩者六駅以下(謂四駅以上依文二駅為差故也。釈云以下謂四駅以上案本令知也。古記云注云六駅以下謂四駅以上。跡云六駅以下謂四駅以上。唐令馬日七十里乗駅馬四駅故也。穴云六駅已下者四駅以上諸読者同之)親王(古記云問親王未知有品無品同不。答同跡云親王謂凡余條親王不云品者有品無品皆無別也)及一位駅鈴十尅、傳符三十尅、三位以上駅鈴八尅傳符二十尅、四位駅鈴六尅傳符十二尅、五位駅鈴五尅傳符十尅、八位以上駅鈴三尅傳符四尅、初位以下駅鈴二尅傳符三尅(朱云初位以下者未知以下限者何。答無位若白丁並同無別者古記。問駅使有長官主典者未知給駅数。答随位増減也)皆数外別給駅子一人(謂駅子駅馬為先行者凡駅家者人馬必相従故雖文不云人馬共給也。文云駅子不云傳子即明数外亦不可給傳子也。問文云駅家不云傳子若員内傳馬亦必毎馬無人哉。答私案一端云駅家歟如是記者傳子必相従歟抑可求故雖文不云人馬共給也。文云駅人哉。答私案一端云駅子不言傳子即明数外亦不可給傳子也、釈云数外別給駅子一人、唐令駅子者駅馬引導駅家一人耳、何者駅使鞍具宿具及束身調度一事以上駅家准擬故除駅子外更無従人、此問駅使除飲食外一事以上例必随身、是以称駅子者馬一疋并子一人、彼此駅子文同意殊耳、一云文称駅子一人即知人也、文称皆字故知傳子亦給一人耳、古記云。問皆数外別給駅子一人未知駅子馬歟人歟又傳若為処分。答有馬而人従故称駅子又傳者別不給本令別給駅子謂引導之人此間作駄跡云駅子謂傳駅各馬人一人也給馬謂馬人是也、朱云給駅子一人傳子不給者額同也、穴云数外別給駅子一人謂為駄馬所充也、其於傳馬数外更不給為充数駄故也、古私記亦同也。問文云給駅子一人者未知因何給馬読之意。答文云親王及一位若干初位以上各有等差今此云数外別給駅子一人者然則明知初位以上所給之馬外別給馬人也、但一端文称駅子一人案條旨可知耳)其六位以下随事増減不必限数(略)其駅鈴傳符還到二日之内送納(前略……釈云還謂詣於京也、是職制律用駅鈴事訖応輸納而稽留者一日笞五十、十日徒一年傳符減三等是也、到謂指所之国也、擅興律其駅鈴違限不納者笞四十傳不現二等是……後略)凡諸国給鈴者(略)太宰府二十口(謂管内諸国亦国別皆給也……後略)三関及陸奥国各四口、大上国三口、中下国二口。其三関国各給関契(略)二枚、並長官執無次官執(略)凡車駕巡幸、京師(略)留守官給鈴契(略)
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 即ち、まず公文書には年月日やら署名などアリキタリの書式に加えて使者の持参する駅鈴に就いての記述も必要だった。駅鈴には「尅」が入れられる。これは使者が使用する駅馬の数を規定したもので、使用する駅馬数は、身分に比例する。高位の者の方が多く、高位であれば事の重大さを示すことにもなる。駅馬を使用すること自体、使者の緊急性を示している。また、文書への尅数記述は、使者が使用馬数を誤魔化さぬため確認する意味もあろう。駅は周辺住民の負担で維持されていたから、おいそれと使うべきものではない。緊急度に応じて、使者の速度は二つに分かれる。「急」とされたら日に十駅以上の速度。原則として三十里に一駅だから一日二百キロ程度、「緩」とされても八駅の行程。怠けたら鞭打ちの刑だが、緊急軍事行動の場合は罰則も強化される。帰りは少し遅くて良い。「緩」の場合は日に四駅以上六駅以下の速度とされた。無品であろうと親王であれば若しくは一位の者は十尅、三位以上なら八尅、四位は六尅、五位なら五尅と、身分により異なる尅数の駅鈴が天皇から貸与された。使者は帰京後二日以内に駅鈴を返さなければならない。更に、駅鈴は地方にも置かれた。朝鮮半島および中国大陸に向き合っている太宰府は二十もの駅鈴を預かり緊急の用に備えた。京都防衛上重要な三関と殆ど【外国】である陸奥には四つの駅鈴を配した。緊急連絡は外交・対外戦争で最も多用すると想定していたのだろう。大国・中国で三、小国・下国で二口である。広嗣は、太宰府に割り当てられた二十口のうち一つを海に投じたことになる。

 ことほど左様に厳重に管理された「駅鈴」は、単に公使の身分を証明する事務的なアイテムではなくなっていたのだろう。(自分に都合の良い)情報を最も速く伝達することは、天皇の特権であったと窺える。そして天皇の意思は、完全に実現されなければならない。国家といっても政府は極小で、治安管理も京など極めて狭い地域だけなら、まだしも或る程度は維持できたであろうが、一歩山林に踏み込めば海に漕ぎ出せば、其処は無法地帯。国家意思なぞ全国に十分浸透する筈のない時代にあって、それでも貫徹するためには、不可思議な力が必要であった。事務的に身分を証明するだけでなく、途中の障害をも遠ざける呪術的アイテムだと説明されねばならぬだろう(まぁ実際、筆者が山賊であっても、高速で移動する武装した騎士の一隊を好んで襲うことはしないだろうが)。そうでなくては、広嗣が駅ならぬ海上、しかも風波相手に「駅鈴」を持ち出した理由が解らなくなる。

 此処で又、お定まりの制限行数である。鈴屋主人本居宣長ならず筆者も、鈴フェチになった疑いがある。鈴の話は、まだ続く。(お粗末様)
 
 

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