◆伊井暇幻読本本編・南総里見八犬伝「あわあわアワー」

 扶桑(フソウ)という国があった。これは、日本であり、日本ではない。多分、この国のことを初めて口にした人は、日本のことなど念頭になかっただろう。しかし、他ならぬ日本人が、「扶桑とは日本のことだ」と勝手に思いこんだ。思いこむだけではなく、実際に、日本を「扶桑」と別称した。だから、扶桑は日本であり、そして、日本ではない。
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  『太平記』巻第十二、貞慶(ジョウケイ)という徳の高い坊様のエピソードの中で、日本を「南瞻部州扶桑国(ナンゼンブシュウフソウコク)」と表現している。南瞻部州は、仏教世界観における、人間の住む地域である。閻浮提(エンブダイ)とも云う。また、昔の中国人が捏造した地誌『山海経(センカイキョウ)』に拠ると、この扶桑は、もとは一本の木の名であった。その木の下に谷があり、温泉が湧いていてる。そんじょそこらの温泉とはスケールが違う。なにせ、大陽が入浴する場所なのだ。皆さんは、「大陽」が一つしかないと思っておられるだろう。しかし、山海経では、大陽は十個ある。十個の大陽が、この谷に棲んでいる(「海外東経」)。そして、代わりばんこに、天へと昇る。入浴もせず、天にも昇らないときは、温泉に生えた木の枝に仲良く並んで留まっているのだ。扶桑の木がある国が、「扶桑国」である。そこは、<日出る処>ヒイヅルトコロとも言える。

 『和漢三才図会』巻第十四「外夷人物」にある「扶桑国」の説明は、以下の通りだ。「三才図会に云う、扶桑国は大漢国の東にある(通典に云う、大漢国から東へ二万余里の所にあると)。中国の東である。土地に扶桑の木が多い。この木は、葉が桐に似ている。出芽した直後の姿は、筍に似ている。この国に住む人は、扶桑の実を食べる。色は赤いが、形は梨に似ている。その皮から繊維を作り布を織る。この布で衣を作る。人々は板で作った家に住み、城郭というものがない。この国には、武器がない。戦争なんかしないのだ。国王を祁貴人と称している。国王が宮から出るときは、楽隊が先導する。衣の色は、年によって決まっている。甲乙の年は、木気の色である青、丙丁の年は、火気の色である赤、といった具合だ(他の年は、これに準ずる)。この国に住む人は、鹿を飼っている。鹿の乳を飲んだり、加工して食べる。この地は、鉄を産出しない。銅は産出する。金銀を有り難がったりしない。市場には税金がかけられない。婚姻の方法は、だいたい中国と同じだ。……後略……」。この引用を受けて寺島良安は、「多分、扶桑国は北東にあるのだろう。この国を日本に比定する者がいる。間違いである」と指摘している。

 私も、この記述から、扶桑が日本だとは思えない。扶桑の人は、木の実を食べ、鹿の乳を飲み、戦争なんかしないから城郭どころか兵器すらない。しかし、過去の日本人が扶桑を日本の別号だと考えたのは事実だ。昔の坊様が書いた日本の歴史書に、『扶桑略記』というのもある。大日本帝国海軍には、同名の軍艦まであった。扶桑、それは日本であり、日本ではない、NowhereLand(此処に在らざる邦)。

 因みに、『和漢三才図会』「外夷部」「扶桑」の「扶桑の木」は、「麻」にも似た植物のようだ。麻とは、桑の仲間で、幹/茎の皮から、麻布を製するアレだ。
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 さて、八犬伝の第二回冒頭、これから暫く舞台となる、安房国(アワノクニ)に就いて、馬琴が蘊蓄を垂れている。

 安房は原(もと)総国(フサノクニ)の南辺(ミナミノハテ)なり。上代には上下の分別なし。後にわかちて、上総(カズサ)下総(シモウサ)と名(ナヅ)けらる。土地拡漠(ヒロク)して桑多し。蚕飼に便あるをもて、総を貢としたりしかば、その国を総(フサ)といひけり。かくて総の南辺に居民鮮(スクナ)かりしかば、南海道阿波国(ナンカイドウアワノクニ)なる民をここへ遷(ウツ)し給ひて、やがて安房(アワ)とぞ呼(ヨバ)せ給(タマ)ひぬ。日本書紀景行元紀に、所云(イワユル)淡(アワ)の水門(ミナト)は是なり。安房は僅(ワズカ)に四郡にして、平郡(ヘグリ)といひ長狭(ナガサ)といひ安房といひ朝夷(アサヒナ)といふ。(以下略)

 序盤部分は、<安房と現在いっている国は、もともと、フサという国の一部、南端であった>と言っている。中盤は、<アワというのは日本書紀の景行天皇の章に書かれている「淡水門」のアワだ>と語っている。終盤は、<安房は、平郡、長狭、安房、朝夷の四郡で構成されている>と。とても、くどい。フサの国だろうが、景行紀だろうが、何だって良いから、早く話を進めろ! と言いたくなる。我慢して読むと、その後には、「景行天皇」も「淡水門」も出てこない。まぁ、「淡水門」みたいな場所は出てくるが、そこでは(前回「モッキンバード」で強調した)源頼朝との共通性を論(あげつ)らうばかりである。字面だけ追うと、「中盤」部分は、まったく不要である。また、「序盤」部分も、まぁ、その国の成り立ちを書いてみただけかもしれないし、そう目くじら立てることもないのだが、やはり、不要である。「蚕飼」や「阿波」は、八犬伝の中で別に重要な意味を持たない。でも、馬琴は書いた。

 だいたい、いきなり、「景行紀」である。これは、日本書紀の景行天皇すなわち大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)の時代を扱った章だ。日本書紀とは、日本初の官選国史、政府が責任を持って編纂した歴史書である。しかし、景行天皇と云っても、多くの人には馴染みがないだろう。マイナーな天皇である。しかも、この時代の記述は甚だ信用できない。神話だと思っていた方が良い。ただ、この「景行紀」、名前を変えて、色んな形で広く紹介されており、皆さんも御存じの筈だ。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という名前は、お聞きになったことがあろう。彼が活躍するのが、この「景行紀」だ。……御存じない? まぁ、居たかどうかも分からない人の話なんて知らなくても、タバコはおいしいし、別段、困ることはない。しかし、本シリーズで、そのうち重大な任務を帯びる人でもあるから、此処で、簡単に紹介しておこう。タネ本は岩波文庫の『日本書紀(二)』である。
 
  日本武尊は景行天皇の第二皇子だった。名前は小碓尊(ヲウスノミコト)、またの名を日本童男(ヤマトヲグナ)。力が強く猛々しい、偉丈夫であった。「容貌魁偉(ヨウボウスグレ)」とあるから美男子だった。これが、「容貌魁偉(ヨウボウカイイ)」なら、<グロテスク>という意味も出てくるから、油断は出来ないのだが…。ちなみに、「美男子」であった以上、「美少年」だったに違いない。
 景行天皇二十七年冬十月、十六歳だった日本童男は天皇の命により、熊襲(クマソ)族を討つため九州へと出発した。十二月、熊襲が支配する国に至る。熊襲の族長は、「取石鹿文(トロシカヤ)」またの名を「川上梟帥(カワカミノタケル)」。童男が様子を窺うと、取石鹿文は、仲間を集めて宴会を開こうとしていた。童男は「解髪作童女姿」すなわち、女装した。服の下に剣を帯びた。単身、宴会に潜り込んだ。
  取石鹿文は、「感其童女之容姿、則携手同席、挙杯令飲而戯弄」。童男が化けた童女の容姿に<ビビンと感じ>、その手を取って自分の席に連れていった。童女/童男に酒を飲ませ酔わせておいて、「戯弄」<戯れかかり、そして肉体を弄んだ>。すっかり満足した取石鹿文は、宴席で眠りこけた。一座の者も酔い伏している。童男だけが、起き上がる。隠し持っていた剣で、取石鹿文の胸を刺す。目を覚ました取石鹿文は、童男の武略を讃え、「日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)」という称号を奉った。取石鹿文が語り終えると、日本武尊はトドメを刺した。

 「弄」は、<からかった><遊んだ>ぐらいの意味で解釈した方が無難ではあるが……。しかし、日本武尊、なかなか卑怯なヤツだ。勝てば官軍、という卑怯者根性が全身から滲み出ている。それとも、このときは単に偵察に来ただけだったのが、弄ばれて、殺意を抱いたのか? ソレなら話は分からんでもない。
 日本武尊は大柄だった筈だが、女装して「童女」になった。大柄な童女。……あんまり可愛くないかもしれん。しかし、取石鹿文は、大柄な女性が好きだったのかもしれない。世の中には色んな趣味の人がいるものだ。
  いや、もしかしたら、少年と分かっていて、酒を飲ませ、弄んだのかもしれない。だって、普通、分かるだろう、十六にもなった、昔でも元服しようかというほどに成長した少年、しかも大柄で逞しい少年である。そんなミコトを、女性の中からワザワザ選ぶのは、とても不自然である。<不自然な愛>とはソドムの悪徳、獣姦もしくは男色のことである。やはり、取石鹿文は、少年だと知って弄んだと考える方が自然だ。何せ、「世の中には、色んな趣味の人がいる」のだから。

 その後、日本武尊は宮城に帰る。天皇は喜び、日本武尊を「異愛」する。「異愛」である。<異常な愛>である。異常な愛とは何かと云うと、息子である所の美少年・日本武尊を「愛」したとなると近親相姦で同性愛なのだから、<異常な愛>と言われても仕方がないだろう。ただし、ここでは、「ことに愛す」ぐらいに読んでおこう。景行天皇は、日本武尊を、尋常ではないほど可愛がったのだ。

 さて、馬琴が「景行紀」と書いたとき、どうも上に引いた、日本武尊の説話をこそ紹介したかったように思えてならないのだ。一定レベル以上の文章書きが、書かなくても良いことを書いたとき、そこには言外に伝えたいことが隠されている、ことがある、とは単なる私の経験則だが、何か、モヤモヤするのだ。
 確かに景行紀には、「淡水門」という表記がある。五十三年十月の条である。このとき、日本武尊は既に死んでいる。死んだ息子を偲び景行天皇が縁の地を巡っていた折、淡水門を通った。人使いの荒い天皇は、武尊に東国の征服も命じたことがある。
 しかし、このとき、まだ「安房国」はない。「安房国」が出来るのは、ずっと後の養老二年五月二日である。その話は、『日本書紀』ではなく『続日本紀(ショクニホンキ)』(岩波新資本古典文学大系所収)に載っている。養老二年五月二日に、越前(エチゼン)から能登(ノト)を分け、陸奥(ムツ)と常陸(ヒタチ)の一部を合わせて石城(イワキ)の国を建てた。行政区画を改正したのだ。このとき、上総から、平郡、長狭、安房、朝夷の四郡を安房国として初めて分立せしめた。故に、この「淡水門」のアワは、安房国ではなく、安房郡のアワであろう。そういう点を整理せぬまま、馬琴は「景行紀」を持ち出した。八犬伝中の馬琴は、考証好き、すなわち古書を解釈して喜ぶ性向を見せている。なのに、此処では、足早に上記のことしか書いていない。しかも、足早な割に、<余計なコト>を書いている。これでは、嫌でも、馬琴が、上記のことどもを、必要不可欠なこととして書いたとしか思えない。
 さて、その養老二年から一世紀近く経った頃、『日本書紀』や『古事記』などから漏れた昔話を収録した(と称する)『古語拾遺(コゴシュウイ)』(岩波文庫所収)が成立した。

 天富命(アメノトヨノミコト)、更に沃(ヨ)き壌(ところ)を求(マ)ぎて、阿波(アワ)の斎部(インベ)を分ち、東の土(クニ)に率往(ユ)きて、麻・穀を播殖(ウ)う。好麻生(オ)ふる所なり。故、総国(フサノクニ)と謂ふ。穀の木生ふる所なり。故、結城郡(ユウキノコオリ)と謂ふ(古語に、麻を総と謂ふ。今上総・下総の二国と為す、是コレなり)。阿波の忌部(インベ)の居る所、便(スナワ)ち安房郡(アワノコオリ)と名づく(今の安房国、是なり)。天富命、即ち其地に大玉命(アメノフトタマノミコト←忌部宿禰インベスクネの祖)の社を立つ。今安房社と謂う……(以下略)

 この一節には、重大な情報が幾つか含まれている。忌部宿禰の祖「太玉命」という甚だ刺激的な名前などについては、今は無視する。此処では、総国が「桑」ではなく、「麻」の産地だという点に注目する。いや、別に安房・上総に桑が育たないとか云う積もりはない。桑ぐらい育ち、絹ぐらい産出する。しかし、こんな有名な本に<麻を植えた>と書いているのに、何故に馬琴は、それを引かずに、<桑が多い>と云ったのだろう? しかも、それは、安房自体の説明ではなく、上総、下総を合わせた「総」の国の特徴だ。

 八犬伝のフルネームは、「南総里見八犬伝」である。「安房里見八犬伝」ではない。馬琴は、「いや、それは……だって里見家は上総や下総にも勢力を張った大名だから、安房里見八犬伝じゃぁオカシイっしょぉ」みたいなことを云っている。確かに、「安房里見八犬伝」では、語呂も悪い。しかし、「房総里見八犬伝」なら如何か。安房里見家を扱った「房総里見軍記」という物語もあるほどだ。今でも安房があった地域を「南総」と呼ぶようだが、そこには「安房」のアの字もワの字もない。あるのは、「総(フサ)」だけだ。「安房」は「安房」ではなく、あくまで「総」の南端なのだ。だから、馬琴にとってみれば、安房里見家は、安房を領した大名ではなく、「南総/総の南部」を治めた武家なのだ。
 日本の別称としても用いられた「扶桑国」には、桑に似た木があった。さっきは、「桐」に似ていると云ったが、『和漢三才図会』巻第八十四「灌木類」の「扶桑」の項には、「木槿(ムクゲ)の別種なり。その樹、茎、葉、みな桑の如し」とある。「木槿」とは、モッキンである。モッキン・バード。いや、そうではない。とにかく、「扶桑」は「桑」に似ているのだ。
 もちろん、『山海経』の「扶桑」と、『和漢三才図会』の「扶桑」は別物だろうし、同じ『和漢三才図会』でも、「扶桑国」の扶桑と、「灌木類」の「扶桑」も別物のように思う。しかし、<イメージは連鎖する>。『山海海』に出てくる「扶桑」という<架空の木>、それは、<日出る処>に生えている木であり、その木が生えている地域のことであった。日本は嘗て自ら、<日出る処>と名乗ったことがある。聖徳太子(ショウトクタイシ)という大昔の政治家が、中国/隋(ズイ)へ送った手紙の中で。日/大陽は東から昇る。日本は、中国から見れば東だから、<大陽が昇る方角>に当たる。

 犬が西向きゃ尾は東、馬鹿でも東にいれば、「日出る処」にいることになる。別に、何の自慢にもならないのだが、昔の人は、自慢したのだ。ちょっと可愛い。そうして、日本を<日出る処>と表現する以上、(『山海経』に載せる)「扶桑」まで、もう一歩だ。やがて、日本人のうちに、自国を「扶桑」と号する者が現れた。その転換は、事実ではなく、イメージの連鎖によってのみ、保証されている。連鎖の糸は、か細くなりながらも、「東海の浜」「桑」「フソウ→フサ」と繋がり、やがて、「南総」へと行き着く。扶桑は、マホロバ/マホラマ<もっとも良い場所><理想郷>なのである。

 ここで、「景行紀」の一節を引こう。景行天皇が、九州に旅行したとき、東の方角を眺望して感心した。「この国は、まっずぐ<日出方ヒイヅルカタ>に向いているのだな」。九州から東の方、そこは宮城のある、ヤマトの方角である。<日出る処の天子>は、大陽神/天照大神(アマテラスオオミカミ)の後継者ということになっている。皇統を継ぐことを、「日嗣(ヒツ)ぎ」とも言う。

 景行天皇は、東の空を望み歌を詠んだ。「……前略……倭(ヤマト)は国のまほらま 畳づく青垣 山籠れる 倭し麗し……後略……」。ヤマトは素晴らしい場所だ。緑濃く深い山々が連なっている。ヤマトは美しい……。「思邦歌(クニシノビノウタ)」である。
 贅沢な旅行をしておいて、家が恋しいなぞとは、恐れ入るほどに贅沢だ。しかし、これが『古事記』になると、やや趣が違う。同じ歌を、倭健命(ヤマトタケルノミコト)が歌っている。それは、物見遊山の旅ではなく、東国への侵略戦争の帰途、疲れ果て神の毒気に当てられて、自分の足で歩くことすら出来なくなった、倭健命が歌ったことになっているのだ。命は歌を幾つか詠み、その場で死んだ。父天皇の命により、己の望まぬ侵略に各地を転戦し、その挙げ句に客死したのだ。帰りたかっただろう……。

 「南総里見八犬伝」それは、日本の東の果て、安房国という小国に一つの主要な舞台を据えている。一国で九万石余ほどの規模だ。しかし、そこには理想的な人々が住んでいて、理想的な社会が築かれている。それは、「安房、上総」という極めて限られた地域ではある。しかし、それは「フサ」の国を名乗ったとき、扶桑、理想的な場所、マホロバとして、幻視される。もとより、此処は、あらざる国、夢の国、理想郷、日本であり、日本ではない。この幻が泡沫(アワ)の如く何処に消えていくか、……今はまだ、語るべき秋(トキ)ではない。

(お粗末様)
 

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