◆「活性化の装置よかちごどん」

 前回は〈イメージの交流〉なるものを考えた。此処で、今まで取り上げてきた文芸/ワールドを以て、妄想する。八犬伝は画虎実体化事件を読んだ当時の読者が、実体化そのもので例えば「傾城反魂香」を思い出し、目を射抜かれた虎が画に戻る場面で「阿国御前化粧鏡」を思い出す。名人の画には不思議なことが起こるものだと感心しつつ、変態管領・細川政元の養女・小雪が緊縛され将に悪僧二人に陵辱されんとするとき実体化した画虎が現れ結果的に救う場面では、「祇園祭礼信仰記」の雪姫を思い出すかもしれないが、其の源流たる雪舟を想起するは正当、しかし「雪」繋がりでは駆け落ち絵師・狩野雪信も忘れたくない。好色一代男でも言及された有名絵師だ。
 ……ところで「贔屓の引き倒し」に於いて、岸駒の岸派を「傲岸派」としたが、もう一つ世間に通用する通り名がある。「虎の岸派」である。兎に角、岸駒から代々、虎の画を得意とした。グッと気を溜めた猛き虎は、食い付いてきそうな迫力がある。岸駒ら岸派の絵師には、食い付きそうなハングリー精神があったのだろう。とにかく岸駒は傲岸無恥な性格として知られている。如何やら嫌われ者だったらしい。
 例えば、岸駒が旅に出るとき、「付き合ってないと、後々ネチネチ言われるもんなぁ」と仕方なしに知人ってぇか取り巻き連中が見送りに立つ。皆とも帰りたいが、威勢鳥を落とす岸駒に、睨まれたくない。それでも堪えきれず帰る者がで始めると、すかさず岸駒は「おい、皆の衆、もう帰れ」と駕籠の中から怒鳴った。自発的に帰られては沽券に係わる。皆が付いてきていて、自分の側から帰れと云って、初めて皆が帰る、との体裁をとろうとしたのだ。
 ところで、岸駒は、上田秋成と同時代人であった。秋成は、云わずと知れた「雨月物語」の作者で、筆者も就中「青頭巾」を愛読している。馬琴が秋成を嫌いだとしたら、そりゃぁ単なる近親憎悪だろぉって印象だ。何故なら、秋成ってば不平不満だらけの愚痴野郎なんである。馬琴の同類だ。秋成晩年の愚痴集大成「膽大小心録」から、京都画壇の消息を引く。

     ◆
○大雅堂が書畫の名海内に聞えて今は宗紙一まいが無價の寶珠となりし翁の若い時拝謁に参りたればただはあはあといふて頭を疊にすりつけすわり心のわろい事は書損は丘につみ墨はこぼれて垣水の第三河也一まいたまはれと云しかばあなたは堂島じやとおしやるとてK舟忠衛門を書てくれた又西国がたの御侍がなんじやしれぬものをかいていへば野老はいはふてと申される此頃白川へんの人の大雅のおつかいなされた筆じやと云て只なんでも親共は周平様の味噌ついてもて行米は御ざりますかとて一二升づつおこします扨あなたの御蔭で手が上りましたげなとてお寺様江名号かいてもつて行ある年の暮にせつきはどうなされましたとて五岳の紋の布子のせんだくしてしんぜる玉蘭と二人して茶屋の掛あんどんをかいて一軒に百文づつの御禮物で銭十貫文なければ春がこさりませぬはとて又祇園町の藝子がたばこ入や扇面もしどうぞといへばああといふて何やらしれぬかいてやるにも禮物が一まい百文づつ大牢滋味はしらねど芋やら鰒やら牛肉やらで玉蘭はなされぬかと杯を持ながら玉蘭子も猿のやうな顔で書初に玉蘭子夫人生前にはたんと禮せいでも手に入たのに富家のくわんたいものが周平にかかせたとてたつた一まい百疋の禮物一二まい無名でかかせた繁三表装して元日にはかけまい圖もめでたいめでたい又彼先生も雙林寺の庭に大雅堂と云所が出来るとは何やらく風にたててたんとあつた弟子衆が蘭堂の流にて茶室がたつてちやの湯はとんと知らぬ人の追善會ないが堂となりました今は鹽がまの烟のまへだより室町どのの館がやけたよりあはれになつた(「膽大小心録」上)
……中略……
○畫は御上の御ひいきで榮川と云人が榮うか世にめづらしとて探幽ののちの繁昌じやと云た畫はしらぬがたんと上手でもなかつたとさ探幽は世に行はれたけれど五條の繪具やの蔵の壁がゑのぐ代の理りで張てあるよし今も見たと云人があるげな
○繪は應擧の世に出て冩生といふことのはやり出て京中の繪が皆一手になつた事じや是は狩野家の衆がみな下手故の事じや妙法院の宮様が應擧の弟子で此御すい擧で禁中の御用もたんと勤て死だ跡で月溪が又應擧よりは御上が御気に入て追々御用をつとめる中に腎虚して今に繪がかけぬにきわまつた其弟子供がたんとあれどどれとつても十九文
○應擧は度々出會したが衣食住の三つにとんと風流のないかしこい人じやあつた月溪は常に云はくい物の解せぬ者はなんでも上手にならぬといふたがくい物はさまざまと物好が上手じやあつたつくづくし豆腐殊によしそういふたが腎虚で上精下虚の病屈に落入て久しぶりに見まふたら不如法のさらし者見るやうになつていた
○近衛豫楽院様のおしやつたは尚信がとかく上手じや思ふは心底に冩生をこころへて術は牧溪などが筆法で骨があつたとぞ是は上評判なるべしもはや繪は芝居やすもふ取とおなじやうに大物は出ぬ事じやとみえた其くせに畫料の高き事治世このかたない事じや是も應擧が俗慾ではじまつた岸駒が畫代をむさぼる事又一階上にあり家を買て普請するに奢の酒屋の古手をかふて来た同功館とやら付てほこるげな繪は書典と功が同じいと云た人が有たについの山こかしじや
○畫は圖籍がはじまりで書典にかきとられぬ事は圖にしてそへて是を國政の大事としてめつたに見せなんだ孔明がこれを得て天下を三分にわけてから出たのは圖籍の中じやあつたそれからうつつて山水をかくがまあ繪の古意じや人物は又次でこれも聖仙の像をかいて書典にそへておく事じや花鳥といふは女工の縫織物に同じ事で男子はすまじき事也明人の詩經の圖に畫は詩を圖にして見せたがはじまりじやといふた尤さうならそであろ夜々思哭の斷りはこんな事じやから(「膽大小心録」中)
     ◆

 岸駒以外の部分も長く引用した。だが、引用とは難しいもので、或る部分だけ切り取ると、誤解を生ずる虞もある。
 まず、前提として秋成の立場だが、引用六項目中第六項目で彼は、画というものを定義しようとしている。画は単に花よ蝶よと花鳥を描いて歓ぶものでは本来ないと、彼は言う。画は「図籍」を元とし、大論の文章で説明し難い所を平易に伝えるためのものだと説く。其処から始まって、山水を描くようになり、人物を描くようになったが、それも聖人仙人の様子を写し、物の本に添えるものであった。また、画は(近世には最高級の芸術であった)漢詩をイメージ化したものであるとの、明人説も引いている。花鳥なぞは、女工が縫織物の模様として施すもので、男子の仕事ではないと断じている。なかなか激烈な女性差別であるが、其れは措く。秋成は、ただ形の美しさを追求するのではなく、哲学的な意味や、詩情やら趣やらを重視している。
 そして実は、此の「哲学的意味」を或る画家は、「同功」と表現した。直前の第五項目に書いてある。岸駒だ。岸駒は、「繪は書典と功が同じ」だと、自分の屋敷を「同功館とやら付てほこるげな」。しかし、同項目中、岸駒に哲学的態度は見られない。秋成の岸駒への評価は、「大物は出ぬ事じやとみえた其くせに畫料の高き事治世このかたない事じや是も應擧が俗慾ではじまつた岸駒が畫代をむさぼる事又一階上にあり家を買て普請するに奢の酒屋の古手をかふて来た」である。最近の画家は、昔の天才画家と比べれば、小粒ばかりのくせに、画料だけは高く吊り上げている。此の現象は、円山応挙の金銭欲・物欲から始まり、岸駒が増長させた。岸駒は家を買うに当たって、さぞ高かっただろう、奢りの粋を集めた酒屋の中古住宅を選んだ。酒屋は羽振りの良い代名詞だ。
 此の言い掛かりを日曜歴史家の眼から見れば、単に、特定のパトロンに寄生せねば生きていけなかった芸術家、絵師が、大衆もしくは公衆を対象とした商業Artistに変生したってことで、其のこと自体に倫理的な問題は見出せない。何だって、現在の論理にドップリ浸かっている。過渡期に於ける秋成の感覚を、真には共有できないでいる。が、何となく言いたいことは解る。
 第四項目は、応挙がグルメで腎虚に罹り、まるで橋の袂に晒された破戒僧の如き顔になっていたと、よく解らない表現をしている。ゲッソリして目がギョロギョロしていたのか。第三項目は、応挙が流行した理由を、狩野派絵師が皆へた糞になったからだと決め付けている。因みに項目末尾の「十九文」とは、安手ぐらいの意味だ。江戸期には、小間物などを十九文均一で売る「十九文店」が登場した。但し、現在の「百円」ではない。蕎麦の立ち食いが十六文とすれば、三百五十円から四百円って感じだが、立ちんぼ娼婦の夜鷹が二十四文なので、三千円程にも聞こえる(んなワケぁないだろ)。
 第二項目は、探幽は世に流行した名手だったが、五条の絵の具屋の蔵の壁は、絵の具代の断り(理り)で張られていると語る。絵の具代を滞らせる、即ち探幽ほどの名手でも、懐具合が苦しかったと言いたいのだ。第一項目は、池大雅に就いての思い出と評価だ。大雅は無名の頃、偉い人に会うときは畳に頭を擦り付け、ただ「はあはあ」と言うのみ、秋成が絵を所望すれば気安く描いた。有名になって作品は高値となったが、没後に大雅堂は廃れて「(何も)ないが堂」になっている。
 則ち秋成は、古の名手・探幽の貧しさを称え、絵師稼業が流行廃りで浮沈することを指摘し、世に冠たる幕府御用絵師(アカデミズム美術集団)・狩野派の技量低下による応挙らの流行、応挙から始まる商業化の流れが岸駒に至って極まった、と言いたいのだろう。こんな文句垂れにかかったら、「虎の岸駒」も顔色無しだ。
 ふと思う、馬琴は御家人やら学者やら何やらが余技みたいな形でものしていた雑文、「物の本」ではない小説を、売文していた。商業作家の初期に属する。しかし、いや其れ故か、勧懲を旗印に掲げ、学者が書くべき「物の本(哲学書/歴史書)」の内容を、大衆もしくは公衆に広めようとしていたようにも見える。売文業でありながら、学者の機能をも自らに持たそうとしていたのか。とはいえ、彼は、純粋には学者ではない。彼の理念は恐らく、現実の生活、処世を根底としていよう。何たって商業作家だし、八犬伝でも「世智(メティス)」は否定されていない。
 馬琴は、方向性として秋成にも似た封建道徳保持者だし、秋成に似た文句垂れだし、でも売文業を事とする商業作家であるって相矛盾した立場にある。そんな引き裂かれた自己を引き受けねばならなかった馬琴が、例えば、画料を貪る「虎の岸駒」を眼前に突き付けられたら、どう反応するか。甚だ興味深い。弁護しただろうか、いや恐らく自らの矛盾した心を誤魔化すため逆に手酷く……。
 ……いや、筆者の白昼夢は、読者の迷惑。さて、竹林巽と於兎子の影を追って長々と書き連ねたわけだが、結論としては、如何も、追い詰め切れなかったようだ。画の実体化に関しては、先行する文物が豊富にあり、其の伝統を受けていることは容易に解るのだが、竹林巽と於兎子が何故に豊後大友家の家中から駆け落ちせねばならなかったかが、実証を以ては解決できなかった(丹波桑田郡に落ち着くことに関しては、これまでの読本で解決済みと考えている)。
 例えば、豊後出身の近世画家としては、歌川豊春が豊後出身の可能性があり、田能村竹田もいる。歌川豊春は、歌川派浮世絵の祖であり、ネームバリューは申し分ない。馬琴より前の時代の人だし、馬琴に話題を提供する資格はある。しかし長命だし、筆者は寡聞にして、竹林巽のモデルに比定すべき情報を持っていない。竹田は、「竹」だし飛び付きたいところだが、彼は豊後岡藩医の家柄で、若くして藩校由学館の教授に任ぜられている。人格者だったと伝えられている。巽の役は押し付けられない。ところで、艶歌である豊後節は再三禁令が出されたが、武家の女性が豊後節に刺激され駆け落ち事件が相次いだためだとも言われているので、或いは、豊後節の豊後かとも考えたりしたが、流石に、ちょっと苦しい。結局、「豊満なるかな望月」で述べた如く、「豊後」は月読命の棲まう国、月の世界、陰の国であるから、巽・於兎子夫婦が陰の国から来た者だとの意味を見出すに止める。
 ところで画虎を竹林巽に発注した美少年を思い出そう。美少年が、徳川家康にまつわる説話に登場する薬師十二神将のうち、寅童子と関連があるのではないかと、筆者は執拗に述べてきた。ならば、件の美少年は、家康とも重なるのだが、ならば当然、それは、家康を性的に陵辱するイメージを喚起する。
 家康は、織田家に略奪されたこともある。まぁまだ六歳ぐらいの時で、二年後には当初の予定通り今川義元の人質になったのだから、そう大したことは仕込まれなかったかもしれないけれども、江戸の陰間茶屋では七歳ぐらいから受動的技術を日夜訓練してたんだから、信長に色々致された可能性は拭いきれない。信長は後世、森蘭丸とか何とかと浮き名を流している。少年期の家康は今川家の人質もしくは家臣として遇された。今川家は足利将軍家と、細川家と同様に親類だから、今川義元と細川政元との入れ替え可能性は、ゼロではない。犯される家康少年をイメージすることは、膨張せる権力の、其の源泉を、膨張の方向性を持つ欲望/性欲によって陵辱し尽くすことに外ならない。しかし性的陵辱を受ける家康少年をイメージすることは、実は、江戸幕府体制を深刻には陵辱できない。いや寧ろ逆に、体制強化の途かもしれないのだ。
 惟えば明治大帝は、少年にして御即位し遊ばれた……もとい、御即位し遊ばされた。華奢な少年天皇と褌一丁で汗塗れ、組んず解れつした相手こそ、男色家の本場・薩摩からやってきた西郷隆盛であった。性愛は忠と相性が良い。年下の稚児に対して敬語を使う念者の心性にも繋がろう。そして明治大帝も薹が立ち既にウケでもなかろうって頃合いに西南の役、西郷隆盛の抹殺が行われる。大帝は付け髭までして男性性を強調し始める。
 さて以前、八犬伝刊行期に起きた大塩平八郎の乱を語ったとき、庶民の反応を垣間見た。其れは、テクノクラートに堕した武士階級の腑抜けぶりを嘲笑するものであった。こんな時、総体として猛々しさを取り戻す手っ取り早い方策の一つは、なるほど、頂点に立つ者が、渇仰/崇拝/性欲の対象になることかもしれない。勿論、前提として、嫉妬渦巻き足を引っ張り合わないモラルがなければならないが。
 美少年は、〈筍の如く、食べられる時期が限られている〉。即ち、任期が予め定まっている。男/女になった途端に、神の座から滑り落ちる約束だ。政権の交代は、必然でもあるが、社会の活性化に不可欠だ。また、被支配者が能動的に〈守りたい〉と思う対象のみが統合の象徴として相応しい。此を少年神とか童神とか、お上品に呼ぶも可ではあるが、筆者としては、より生命もしくは性欲の漲った状態を夢想している。
 結局、近世に於いて家康の写し身と目され得る八犬伝の寅童子/麗しの稚児が男好きする嫋々たる少年として設定されている理由は、以下の如く簡単なものではなかったろうか。則ち家康は、創業者/新しい秩序に導く者という内包を有つ〈普通名詞〉であり、創業者は(当時の秩序を表面上は構成していた武士すなわち)男の雄々しさを引き出し活性化する存在だ。裏返せば八犬伝当時の武士が腑抜けであることを批判している。
 とはいえ馬琴は、一筋縄ではいかない。細川政元の存在により、少年愛者を全肯定はしていないことが明らかだし、仁義なきバルバロイ〈後の五虎〉に対しては思いっきり否定的だ。そう考えると、馬琴が提示する社会モデルは、かなりの隘路を通ることになる。〈倫理的なバルバロイ〉……そんなんありか! と言う向きには、〈訥朴たれば仁に庶し〉と言い換えようか。例えば自然主義小説家ならば、〈人間はエゲツない者なんだぁぁぁ〉と絶叫したがるだろうが、そりゃぁ単に、そぉ言やぁ自ら律する必要もなく極めて楽だし其れがゆえ同時に読者へ媚びを売ることにもなるから商業的にも甘(うま)いってだけのことだろう。色んな瞬間が、人にはある。のべつまくなしエゲツなくなれる人間がいたなら、そりゃぁ人間ではなく神か悪魔か何連かだ。傲岸な最小律の法則を狂信する者が、何故して総体としての人間を理解できるか。人を侮り我(が)のみを許すは「許我公方(こがくぼう)」、トンチンカン/勘違いなエリート意識の裏返しに過ぎぬ。馬琴に対する近代批評には、そんな「許我公方」の亡霊が取り憑いていたに違いない。
 寅童子は薬師如来の眷属だが、今回は主に、薬師如来の主宰せる浄瑠璃世界ならぬ、浄瑠璃ワールドに遊んだ。八犬伝に先行する浄瑠璃/歌舞伎に、画寅実体化など、八犬伝に通ずる先例を見る一方で、豊後出身である巽・於兎子夫婦が陰なる存在であると考えた。実在した自堕落な絵師、其の娘の絵師の駆け落ち、商業化しつつあった絵師の世界と或る文句垂れの感懐を眺めた。また、八犬伝に登場する寅童子/麗しの稚児が、当時の疲弊せる政体を活性化させる装置であった可能性に言及した。今回は、八犬伝に鏤められた各種ツールの解釈を羅列するに留まった。結論はない。以上。(お粗末様)

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