◆「駆け落ち絵師」

 前回は、金沢に滞在した守景を、狡猾にあしらった加賀の殿様一件で話を終えた。同様の事象を語る「画乗要略」も引こう。師匠の守信/探幽が付いているが、単なるオマケだ。って云うか、巻二の巻頭は守信で、続く第二項目に守景が載せられている、其の序列を明示するためだ。読む必要はない。

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守信(探信探雪遠沢附)
狩野守信初称采女後薙髪号探幽斎光信孝信相尋歿就興意受家法少時家貧無資給糊金箔襯紙以連綴之用模古蹟既熟家法又学宋元名家参以雪舟?筆法一洗家学遂為中興祖矣名震い知事守信継父掌絵局後覇府辟収幕下子孫世其俸後叙法印延宝中卒享年七十三其子探信探雪各能家学弟子加藤遠沢名守行陸奥会津人後差変其格嘗観鐘馗小幅用墨濃濕頗得雪舟風致
梅泉曰探幽兼并諸家縦横馳騁自出機軸海内学者靡然嚮風清人方西園嘗浪泊於上総主某氏主人請画時壁間偶掛探幽画幅西園嘆賞不已因臨其画而与之(「画乗要略」巻二)
守景
久隅守景通称半兵衛学探幽会得其意尤長山水人物超邁雅健曲尽其妙余嘗観其水仙梅花小幅与雪舟伯仲探幽門下無出其右者
梅泉曰加賀侯辟守景国人争請其画侯三年不命画近臣問曰何不命之侯曰寡人早命之恐令它無暇応国人之需也至今北地多守景画為此也(「画乗要略」巻二)
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 まず、守景に対する評価を見る。簡略ながら「与雪舟伯仲(雪舟と伯仲す)」と最大級の賛辞を奉っている。著者の白井華陽(梅泉)は手持ちの情報として、加賀侯に言及する。守景が金沢に来たとき、人々は争って絵を描くよう頼んだ。しかし三年経っても、文化好きな筈の殿様が、守景に注文を出さない。不思議に思った近臣が、理由を尋ねた。前田侯は、自分が注文したら他の皆の求めに応じる暇がなくなるから、と答えた。前回示した「近世畸人伝」の挿話で意地悪だった前田侯が、奥ゆかしい善い人になっちゃっている。両史料とも、膝元・金沢にいる守景を、前田侯が三年間放置した理由を述べているのだが、丸っきり違った話になっている。
 が、「画乗要略」は続けて、「至今北地多守景画為此地」と云う。話題世界が急に、金沢もしくは前田家領内の話から、北地/北国全体にまで広がっている。則ち、或るレベルで前田家領内と北国が等値となっていることが示されている。もちろん藩毎に税率も政治支配主体も違うわけだが、藩を超えた、比較的緩やかな社会経済圏として「北地/北国」の存在が浮かび上がる。そうでなくては、前田家領内に守景の作品は閉じ込められちゃうではないか。広く北国に守景作品が多く行き渡っているならば、当然、北国を(或るレベルでは)一つの纏まった圏域だったと認識せねばならぬ。ならば当然、北国の雄たる前田侯は、領外の住民にとっても、直接の政治支配は受けていないにせよ、親しい存在であったろう。前田侯が大消費地・金沢の主であってみれば、近国の商人にとっては遠慮の対象だ。
 そして、「画乗要略」の著者・白井華陽は越後の人だし、彼の師匠筋で岸派の開祖・岸駒は、越中だか金沢だかの出身で、とにかく金沢から京都へ上った画家だ。北国圏の絵師たちが、殊に相手が文化を奨励した前田綱紀ならば、遠慮や追従の一つも筆に乗るだろう。また同時に、金沢に滞在して多くの作品を残した探幽四天王・守景を、四天王どころか最高の弟子として評価していることも、北国人による親しみの表れか。論者の親疎が、論述対象の評価に偏差を掛けることは絶対の禁忌であるが、まぁ前近代の芸術家に、んなこと云っても始まるまい。でもまぁ近世であっても、例えば馬琴や上田秋成みたく文句垂れなら自虐を込めて「ほめるもそしるもおのれおのれのひく方じやに」(上田秋成「膽大小心録」上巻)ぐらいは云うだろうが。
 しかし、此処で疑問となるのは、「画乗要略」が岩佐又平すなわち浮世又平の実在を疑問視している点だ。岩佐又平もしくは又兵衛は、生涯の詳細は分からぬものの、一応、現在では実在の画家ってことになっている。浮世絵の始祖とか色々言われている。
 しかも「画乗要略」そのものが、又平は越前で過ごしたと書いている。越前も北国圏と考えれば、著者で越後の白井華陽にとって、お隣さんである。又平の時代から二百年が経過してはいるが、実在まで疑うとは、なかなか薄情な態度だ。しかも、「傾城反魂香」の又平は、戦国大名(小名?)の遺児である実在の岩佐又兵衛をモデルにしたからこそ、あんな武張ったキャラクターなんだろうと思っているのだが、「画乗要略」は、「歌舞伎に登場している虚構の人物を実在したと勘違いしているだけだ(卓堂先生)」と、アベコベを言っている。まぁ荒木摂津守村重の子だからと言って、筆者としては、あれほど勇猛な男には育たない気もするんだけれども、名刀・佑定を持っていても(原文筆者註参照)、おかしくはない。
 さて久隅守景に話を戻そう。師匠・探幽の画に男根行列を(勝手に)描き加えた守景であったが、芸術家本人は、少々奇矯な言動があっても許される。それが、「奇」即ち、天に繋がるものならば、其れは良い。しかし、そういった強烈な個性が我が子に与える影響を考えると、どっちに転ぶか丁半博打となる。真の奇、天に繋がる偉大な芸術家になるか、単なる我が儘な人間になるか。守景の場合は、少なくとも一時期、其れは裏目に出た。まず息子が前述した如く、刃傷沙汰を起こした。島流しに処せられる。画の才能があったか否かは知らないが、活躍のチャンスは確実に長らく奪われた。社会性がない点が守景から受け継がれ、自己中心的になったが故の刃傷沙汰とも思える。悪所通いを咎められてことが、事件の原因だともいう。そして、守景には娘もいた。此の娘が、於兎子みたいに駆け落ちしちゃうのである。まぁ娘は独身だったから於兎子ほど罪深くはないかもしれないが。
 ただ、守景は娘に、我が儘な性格だけでなく、画の才能も引き継いだ。この女性が狩野雪信(自署では清原氏女雪信)である。井原西鶴の好色一代男にも、着物絵柄の流行作家として登場するから、関西に流れ着き、それなりに成功したようだ。現在でも高い評価を受けている。

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末社らく遊び
昔しの人の袖のかほるより今の太夫まさりて上林の家の風をぞ吹し侍る。ことには衣装の物ずき、能事はよしと人はいふなりと素仙法師の語りぬ。万の花かづらも秋こそまされと白繻子の袷に狩野の雪信に秋の野を書せ是によせての本歌公家衆八人の銘々書世間の懸物にも希也。是を心もなく着事いかに遊女なればとてもつたいなしとは申ながら京なればこそかほるなればこそ思ひ切たる風俗とずいぶん物におどろかぬ人も見て来ての一つ咄しぞかし。……後略(「好色一代男」巻七)
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画工狩野雪信と云ふ女は、六七十年前の人と見へたり。なにとしたるわけか、北堂と念比にありける由。西王母が鉢に桃をもりてもちたる画を北堂所持。咄にの玉ふは、どの法眼ともさだかにはきかず。狩野法眼のめい十七歳より画にきやう(ママ←原註/「器用」だから意味は通る。ママぢゃなくって此で良いんぢゃないか←筆者注)日に法眼へ通ひ、けいこの時法眼の家に尼崎の仕官の人ゑの執行に来りをれると通じ、雪信の母つよくしかられたれば、家をたち出てその通ぜる男子と別宅をして、画をかきて渡世とし、あとには甚はんじやうと。尼崎にて死せるとも聞く。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之六)
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 好色一代男の方は、京島原の遊女が驕って、雪信に秋野を描かせた白繻子の袷を色紙代わりに、歌を書き付けさせたって描写だ。最高の贅沢として言及されているのだから、雪信の評価が高かったと知れる。
 一方で、「見聞談叢」を書いた伊藤梅宇は伊藤仁斎の子で、「北堂」は母を指すと考えられる。その母と女性芸術家たる狩野雪信、即ち久隅守景の娘は、念比(ねんごろ)だったのだ。「ねんごろになる」とは性的関係をも暗示するが、彼女らが如何なる訳でS(えす)の関係に陥ったか、筆者には全く見当が付かない。何せ息子の梅宇さえ、母と雪信が念比になった理由に就いては「なにとしたるわけか」、驚愕とも戸惑いとも取れる言葉で不審がっている。性的関係ではなく単なる友達同士との可能性だって勿論ありはするが、だったら、わざわざ「なにとしたるわけか」と書く意味が、「なにとしたるわけか」と不思議になってくる。良いぢゃん、友達同士でも。とにかく、雪信側からすれば、自分が駆け落ち者だと打ち明ける程、若しくは如斯き機密情報を知り得る程には、仁斎の妻と親しい関係だったと知れる。しかも梅宇の母、仁斎の妻は、雪信の描いた、西王母が鉢に盛った桃を持っている図を所持していた。繁く見る図柄だ。珍しくもないが、念比になった相手の描いたものだから、大事にしていたのだろう。或いは、西王母が、いずれかに似ていたのか。まぁ、仁斎の奥さんと雪信がS関係か否か、本稿の関心外だから、此の件は忘れて話を続けよう。
 ところで伊藤梅宇の母は瀬崎総であるけれども、総は後妻で仁斎最初の妻は尾形嘉那であつて、尾形光琳・乾山兄弟の従姉妹だ。そういや伊藤仁斎って、古義堂で講じた古義学派の祖だが、元々は京都の商人であった。一方の尾形光琳は、「呉服屋の次男坊」で、言葉のイメージ通り遊び人であったというが、学者だとか芸術家なんて、富裕でなければなれないし、そうでなければ、富裕な商人や大名なんかのパトロンを必要とした。とにかく、商人と芸術家は、親(ちか)しい関係にあった。或いは、仁斎の後妻、梅宇の母、総も富裕階級の出身であったろうし、そうであれば、江戸から流れてきた女性芸術家・狩野雪信(自署では「清原氏女雪信」)と、S関係であったか否かは知らないが、親しくても何の不思議もない。
 また、文中に狩野雪信が「狩野法眼のめい(姪)」とあるが、久隅守景は狩野探幽に才能を見込まれており、探幽の姪、国を妻にしている。探幽は、最も旺盛な活動を見せた時期には法眼であったが、後に法印(宮内卿)に進んでいる。故人は叙せられた最高位で呼ぶが適当ではあるが、まぁ法眼でも別に筆者は何も困らない。故に、「狩野法眼のめい」を、より正確に記せば、「法印まで進んだ狩野探幽の姪の娘(外姪孫)」となる。まぁ、如何でも良い話だ。構わないで、話を進めよう。
 雪信は幼い頃から絵の才能があり、男兄弟と共に、父の師匠である狩野家に出入りしていた。其処に尼崎藩家中の者(平野伊兵衛守清とも)が絵の修行に来た。この男と雪信は念比(ねんごろ)になっちゃうのである。母すなわち狩野探幽の姪に叱られ、雪信は駆け落ちしちゃったのである。雪信は絵師として渡世し、後に有名画家として繁盛した。尼崎で死んだともいう。さて、本文中の「尼崎の仕官」を信ずれば、の話だが、雪信が尼崎家中の者と密通し駆け落ちに至った詳しい年代は分からないのだけども、とにかく尼崎藩五万石が、徳川譜代の青山家であった時分だろう。
 青山家は暫く尼崎にいたが、信濃飯山に転封となる。次いで丹後宮津に移り、更に美濃郡上八幡に転じ幕末を迎えた。ところで、「青山」ってのは旗本はじめ結構たくさんいるんだが、尼崎藩青山家として三代目の青山幸督の長男は尼崎を継ぐのだが、二男の忠朝は、丹波亀山藩の青山家を継ぐ。この丹波亀山の青山家は忠朝のとき、丹波篠山の形原松平家と入れ替わりに篠山に入って、幕末を迎える。んだけれども、も一つ複雑なことに、前に尼崎にいた青山家は此の時には丹後宮津に移っていたが、忠朝の後を襲ったのは、丹波宮津藩主・青山幸秀の七男であった。まぁ結局、忠朝以後の丹波青山家は、前に尼崎にいた青山家の血に変わっちゃったのである。丹波といえば当然、竹林巽と駆け落ちした於兎子が落ち着いた先だ。但し、桑田郡は亀山藩領であり、尼崎青山の血脈が一時期は治めたものの、馬琴の時代には既に形原松平家の所領となっていた点が惜しまれる。
 此処で一旦、整理をしておこう。まず、「祇園祭礼信仰記」は金閣寺の段、「雪舟の孫」で土佐将監光信の娘(だから、ありえんてば)雪姫が緊縛されながらも、不自由な足で描いた鼠を実体化させた。「雪」やら緊縛、実体化繋がりで、八犬伝の小雪姫との関係を見る論者がいる。筆者は否定こそしないが、諸手を挙げて賛成は出来ない。
 同じく浄瑠璃からならば、筆者が提出したい作品は、「傾城反魂香」と「阿国御前化粧鏡」である。前者は、狩野元信が逆玉の輿に乗るため徒花となった宮そして正花としての銀杏の前とかもあるが、何と言っても、画虎実体化事件を有する。但し、此の虎は、目を潰されることではなく、絵筆で消されてしまう。
 一方の「阿国御前化粧鏡」では、鯉が水を得て実体化するが、最終場面で目を潰されて絵に戻る。他には、主君を滅ぼした石見太郎左衛門の脇腹を狩野元信が竹槍で貫き殺す。山下定包の最期を髣髴とさせるが、まぁ此は〈磔刑〉のイメージで、共通しているからと言って、積極的な繋がりがあるとは全くいえないだろう。更に、善悪逆転しているけれども、又平から鯉の絵軸を受け取り、火吹竹とすり替え盗む手口は、小文吾が船虫に贈られた尺八をすりかえた機転と似ている。また、又平の叔父の又平が、又平の袖を拾って又平が殺人を犯したと察し、自ら身代わりとなって捕らえられようとする。此は、房八が義弟・小文吾のために、信乃の身代わりになる話と底で通じる。付け加えると、最初は悪役、急に善玉になる「犬上団八」は、何となく「犬飼現八」と似てなくもない。現八は元々許我公方に仕えており、初登場の場面では、犬塚信乃を捕らえる敵役として、登場する。
 浄瑠璃や歌舞伎の時代設定を云々しても仕方がないが、「祇園祭礼信仰記」は若々しい豊臣秀吉やら登場するので十六世紀後半、「傾城反魂香」は土佐光信が健在だから十五世紀後半、「阿国御前化粧鏡」には赤松政則が登場するので同様に十五世紀後半の時代背景を念頭に置けば良いか。
 十五世紀後半とは、まさに八犬伝の舞台である。仮に八犬伝の物語を現実に重ねれば、画虎実体化事件時に土佐光信は五十代半ばぐらいだ。しかし一方で狩野元信は七歳ほど、女たらしには若すぎる。岩佐又平は五歳で、既婚者としては早熟すぎる。また、小栗宗堪は、数年前に死んでいる。土佐光起が生まれるのは百三十年後だが、足利義政は大御所として生きており、室町幕府将軍は義尚である。細川政元はセブン・ティーン、管領就任を三年後に控えていた。応仁の乱は既に終わり、乱世へと突入していた。因みに、「傾城反魂香」の浮世又平が振り回す永正佑定やら天正佑定は、まだ存在している筈もない。
 しかし抑も、八犬伝世界内ですら、史実と照らせば無理がある。他の文芸作品と並べることは、厳密に考えると無意味だが、逆に八犬伝世界内でさえ多少の誤差を含みながら成立させられていることから考えれば、イメージの世界に現実的厳密さを要求することこそ無意味である。大雑把な時代背景が一致していれば、良しとすべきだろう。則ち、将軍が八・九代目で室町幕府の権威が既に下落していた後期をイメージすれば良いことになる。けれども、「祇園祭礼信仰記」のように、次世代・次々世界の覇者、織田信長やら豊臣秀吉が登場しちまっては、〈時代〉レベルでズレが生じて、イメージの〈交流〉は破綻する。室町幕府が後期とはいえ存続はしていた時代を舞台とする「傾城反魂香」「阿国御前化粧鏡」の方が、まだしも八犬伝に近く、故に如何にか、〈イメージの交流〉が成立するだろう。
 此の〈イメージの交流〉は、歌の本歌取りではないが、文芸世界内では無意味ぢゃない。抑も、今まで扱ってきた「傾城反魂香」と「阿国御前化粧鏡」の〈世界〉は、ほぼ一致している。〈世界〉を一致させつつ、共通の登場人物が全く別の人物と絡み、全く別の行動をとる。パロディと云うよりは、パラレル・ワールドだ。読者が住む現実世界も、即ち其の上流として繋がっている史実世界も、パラレル・ワールドの一つとすれば、〈イメージの交流〉は文芸世界同士のみではなく、現実世界とも可能となる。当然、馬琴の標榜した稗史も、パラレル・ワールドの一つだ。かと云って、余りに懸け離れたワールドとは、交流は難しい。筆者の想う〈イメージの交流〉とは、如何なものか。そは次の巻を聞かねかし。(お粗末様)

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