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○神祇

……中略……

一 世に八幡を弓矢神と号し源氏の氏神なりといふて必ず州ごとに祠を建て武士たるものは是を崇ぶ。甚いはれなきに似たり。それ八幡は応神天皇也。天皇の母神功皇后新羅を征伐し給ふ時、天皇母后の胎内にいまして新羅すでに投化せしかば其功を応神に帰して弓矢神と号すと見えなり。又源氏の氏神といへる事は八幡太郎義家、石清水にて元服をくわへ八幡太郎と号せしより其子孫是をあがめていつとなく八幡を源氏の氏神にすと見えたり。彼是ともに其いはれなし。それ胎内の児いかなる武を示し、いか成功を樹たるや。新羅の征伐を応神に帰すべきいはれ尠なし。又応神成人の後つゐに武功のありしことをきかず。何によりてか弓矢神とは仰がれん。また応神を胎中天皇と号し胎内にいまそかりながら既に天皇の位につき新羅を征し給ふといふ説は極て僻言なり。胎内の児たれか男女を弁じ誰か位につけたるや、誠に笑ふに堪たる事なり。もし八幡太郎元服の謂を以て源氏の氏神となすべく弟の加茂二郎は加茂明神にて元服し新羅三郎は新羅明神にて元服し、ともに源家の華冑たれば加茂新羅の二神をも、おしなべて源氏の氏神となすべくや。それ氏神は其姓氏のよつて出る所をいふ。春日を藤氏の氏神といへる是也。しかれば源氏の祖神は経基王たるべき歟。経基は貞純親王の嫡子はじめて源氏の姓を拝して源家の諸流是より支別す。貞純親王は曾て桃園といふ所にいませしかば桃ぞの親王とも号せし。桃園は今の遍照院の地也。かの院の内に貞純并経基の祠あり。時代推うつれるにや今はそれとだに知る人もなし。猶笑ふに堪たる事は村上源氏宇多源氏ともに八幡を氏神也といふ。其氏人ならんもの、いかで少しく弁ぜざるや。抑神功皇后遠征をなしてみづから新羅におもむき給ふ事、暫く武に似給ふといへども師を動かし民をつゐやす、女の身として兵士にまじはり帷幕を外に張事、礼におゐていかにぞや。女は外の事に与からず内をおさむるを以事とする事は貴賎ともに一なるをや。仲哀すでに崩じて麑坂押熊の二皇子あり。皇后我子を立んとて逆心の人と号し強て二皇子を殺す事、嫡庶すでに其分をみだる。私にあらずして何ぞや。これらの事みな武内と心を合ての事なるべし。又皇后の身を以て丈夫にこえ給ふ事も止ことなきに出るといへども新羅の道すがら武内を船中に召し事なんぞ嫌疑を思はざるや。応神胎内にいます事既に十四ケ月に及べり。古へ十四ケ月にして生るゝ事ありといへども武内殊に禁闕に出入する時は全く疑ひなきにあらず。神功の事歴かくのごとし。応神終に武功なき時は弓矢神とたふとぶ理なし。又其出る所にあらざる時は源氏の氏神といふべからず。畢竟行教が虚偽の伝言より事おこりて、そのかみの君臣弁ぜざるの過ち也。凡そ日本にて弓矢神と仰んは日本武の尊なるべし。其勲蹟功業歴史にのする所詳也。尊の詞は尾張の熱田、常陸の吉田是也。これまた尊崇する人なし。なげかわしき事にあらずや。

……後略

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