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○隼人の狗吠

神代紀海神段に、火酢芹命の伏事のことを一書云云々、乃伏罪曰、吾已過矣、従今以往、吾子孫八十連属、恒当為汝俳人、(一云、狗人)請哀之云々、於是兄知弟有神徳、遂以伏事其弟、是以火酢芹命苗裔諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉仕者也、とみえたる隼人の狗吠の故実は隼人司式に、凡今来隼人、令大衣習吠、左発本声、右発未声、惣大声十遍、小声一遍、訖一人更発細声二遍、と見えて其供奉事は同式に、凡元日、即位及蕃客入朝等儀に云々、今来隼人発吠声三節(蕃客入朝不在吠限○なべての儀式の漢様なるが多かる中にこの発吠声仕奉る儀の似つかぬによりて蕃客入朝の時は停られたりしなるべし)また凡践祚大嘗日、分陣応天門内左右、其群官初入初吠。また凡遠従駕行者、官人二人史生二人、率大衣一人番上隼人四人及今来隼人十人供奉、其駕経国界及山川道路之曲、今来隼人為吠。また行幸経宿者、隼人発吠、但近幸不吠、などと見えたるこれなり。(長和元年小右記十一月廿二日大嘗の条に、隼人不発吠声、諸卿一両相催纔吠、不似例声、とみえたるは古実の尊き由をわすれて、なべての儀式の厳重めしきに似つかぬから恥がましくおもひたりしなるべし。後の御世には、この吠声を発す式は廃もぞしけむ)かくてその隼人の狗人となりて仕奉りし状の、おもひやらるゝ証あるを、こゝにいはむとす。其は大和国添上郡奈保山の元明天皇の陵(土人、王塚といへり)今そのわたりの字を大奈閉山といふ。其陵辺に建てたる犬石と呼ぶもの三基あり。みな自然なる石の面を平らげて狗頭の人形を陰穿たり。頭は狗の仮面なるべし。身中みな貫き装束て狗の状を表せりと見ゆ。もとは朱をさしたりと見えて、ところどころに剥げ遺れりとぞ。其狗人、一枚は立像にて楚とおぼしきものを杖けり。上に北字あり。二枚は踞像なり。此も手のさま楚を持たらむとは見ゆれど慥ならず。石の長、立像なるとは短し。此狗石、昔は七基ありしとて土人、大奈閉の七匹狐とも呼びならへるを、いつのころにか四基は亡て今三基存れりといふを、おのれ既く其像の図を得、後にその立像を摺うつしたるをも得て蔵り狐としもいへるは其形を然見なしたる里俗のさかしらなり。其狗人の像かくのごとし。

立像長二尺六寸許。

按ふにこは、そのかみ朝廷の大儀に隼人の狗吠して奉仕るときには狗の仮面を被る例なりけるから、やがて其像を石に摸して陵域に殉置しめ給へるものなるべし。今昔物語集(三十一の巻)に此天皇の陵の事をいへるところに石の鬼形共ヲ廻地辺、陵ヲ墓様ニ立テ微妙ク造レル石ナド外ニハ勝レリ、とみえたるこれなり。但し鬼形といへるは見たる人は踈なりしか又伝聞の誤なるべきこと決し。さて今遺れる立像の上に北字あるは、そのかみ陵域の四面にそれと同じ状なるを建られて、その方位を標したりけむを後に東西南の三基は亡せたるなるべく踞像も旧四基ありて四隅に建られたりけむが二基は亡せたりしなるべし。そは隼人の宮墻を衛れる意にて陵の四方四隅に建られたりしものにぞあるべき。しかるを昔七基ありけるによりて今も七匹狐としも呼ならへることは八基の中一基ははやく亡せて七基存りし世の伝説なるべし。……後略

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