「武士道とは……」(93年9月6日PCVAN−AWC掲載)

 秋でございます。深夜などは肌寒くなってきました。だから、というワケでもございませんが、今回は暑苦しい話を一席。世の中何が暑苦しいと申しまして、ムクツケき男たちの世界に如くはございません。脂ギトギトのムンムンでございます。近寄るだけで汗の臭いが移りそうな気が致します。マッチョな世界。それにしても、如何してボディビルの方々の肉体というのはアァもヌメヌメなのでございましょうか。汗をかいているわけでもございますまいに。
 そんなこんな(どんな?)で、『葉隠聞書』の話でございます。佐賀鍋島藩を退職した山本常朝という武士が口述し筆記させたものでございます(享保頃に成立)。本名は『聞書』ですが、通例に従いまして『葉隠』と呼ばせていただきます。享保というのは江戸時代の中頃に当たりまして八代将軍・吉宗の時代、幕府の”古き良き時代に戻ろう”というかけ声虚しく、商業資本が発達していった時代でございます。時代に取り残されつつあった古武士の愚痴ともいえる、この『葉隠』、実は江戸時代には禁書扱いだったのですが、何故だか現代に於いては、「武士道の鏡」ということにされています。不思議です。
 『葉隠』が武士道の鑑なら、『葉隠』のメンタリティーを探ることによって、武士道の本質が見えてくる筈でございます。今回は無謀にも、この「武士道の本質」、ひいては、これを理想の社会とする経営者・ビジネスマンが主導する日本的会社主義(社会主義ではない)の本質を探ろうという企てでございます。勿論、本気では読まないで下さい。

 さて、この『葉隠』、普通に読めば一言で要約できる本です。武士道の為には、命を懸け、如何なエゲツないこともしなければならない。これに尽きる。この武士道が守るべき主要な対象は「君への忠」と「面子」。「面子」、解りますね?  勃たなきゃ男が廃るモノ。上の要約は、そのまま日本会社主義のテーゼとして、現在に至っております。まぁ、本書の全体の内容は、単なる処世術なので、このぐらいで止めておきます。とにかく『葉隠』に描かれているのはムンムンムレムレの男たちの濃厚な世界なのです。

 ところで、ひところヤオイと呼ばれた少女たちが、男達の濃厚な世界(戦闘小集団やスポーツ・チーム等)に男色関係を見たのは、慧眼でございました。濃厚な上に、『葉隠』に描かれたのは、侍に非ざれば人に非ず、ってぐらいの男至上主義の世界。これでゲイにならない方がオカシイ、変態でございましょう。結論を先に言うと、この「武士道」というのは、男たちの社会を貫く壮大なる男色のシステムだったのでございます。
 で、まず恋故の決闘。「衆道の遺恨」ってヤツでございます。

 大野千兵衛追腹の事 千兵衛兄何がしと、蓮池鍛冶(一説他国のとぎとも)何がしと、衆道の遺恨にて双方申し募り候を、一門朋輩、色々扱ひ候へども治まらず、訴へ出で候。その頃、勝茂公は御在府にて御留守の儀、甲州様御捌きなされ候。右の段聞し召され、「相手向に討ち果すべく候。一人も助太刀致すまじく候。若し見次ぎ候者候はば、御仕置なさるべく」と仰せ出され、高尾縄手に垣を結ひ廻し、その内にて討ち果し候仕組これあり候。その日になり、見物沓の子を打ちたる如し。鍛冶は先に入り、大野は後に入り、「扨も待ち遠かるべし、暇乞に隙入りたり。いざ」と云ひて抜き合はせ、切先より火を出し、切り結びけり。諸人片唾を呑んで見る所に、大野高股を打ち落とされ、ばったりと倒れしと見る時に、何者か垣を破って飛び込み、「のがさぬ」と詞を懸け、鍛冶をただ一刀に切り伏せたり。大野が弟千兵衛なり。大野も即座に死したり。この事言上に及び候処、「堅く仰せ出され候助太刀、不届者に候。御仕置なさるべく」と御僉議の時分、勝茂公御下国、右一々聞し召され、「千兵衛は曲者なり。能く仕たり。目の前に兄を切られ、我が命の惜しきとて、見て帰らるるものか」とて、則ち御助けなされ候。さて甲州様御事は粗相なる御さばき、旅人の往還に打ち果させらるる事は、以ての外の事どもとて、きびしく御呵りにて候。右千兵衛は追って御鷹師に迄仰せ付けられ、御一代御懇ろに召し使わられ候。この御恩を以て、追腹仕り候由。この事、千々岩長右衛門実母明円尼、覚え居られ候。右千兵衛子千兵衛は、長右衛門姉婿にて候。(第七巻二五)

 本村武右衛門仕立の事 武右衛門事、前髪立の時分、エンギ僧正小姓にて江戸に罷り越し、僧正気に入り、恩旗本に御在付あるべくと内々心がけ候。然る処、御旗本二男何某、衆道の意恨にて武右衛門を討ち果すべしと申され候由、松岩殿カウジウ内意申され候に付、その意を得罷り在り、或時に出会ひ候に付、先をかけられざる先にと存じ、御旗本を一刀に討ち果し立ち退き申し候。僧正この事御聞き、以ての外立腹にて、「一度は身上在り付くべきと、節々意見を加へ候へども、疎行にてその上、人を殺害候。不届者にて候。則ち勘当し、二度顔を見るまじ。今迄使ひ候情に、書付をくるる」とて、意見の箇条を書き立て、面に投げかけ、追ひ出され候。この事三田の御前聞し召され、不憫に思召され、打返しなどに逢はざる様に身を隠し候儀ども仰せ付けられ、その後屋敷詰衆、心遣にて潜かに差し下し申され候。その砌いづれも取持にて、僧正面談、金子過分に給はり、罷り下り候処、主水聞き付け、手明鑓切米下され候由。前髪立の時分、辻切を致し男達仕り候由。(第九巻三三)

 激しいですねぇ。殺し合いまでやっちゃう。前者は多分、美少年を巡っての三角関係でしょうし、後者もその疑いはあるが、もしかしたら振られた恨みで武右衛門が付けねらわれたのかも知れない。んで、次は昼メロも真っ青の純愛路線、成就した恋でございます。

 中島山三殿は、政家公の御小姓なり。船中にて死去、高尾竃王院に墓あり。中島甚五左衛門先祖なり。或者恋の叶はぬを遺恨に存じ、七ツ通れば二合半恋し、と云ふ小歌を教へ申し候。御座にて諷し申され候。古今無双の少人と誉め申し候由。勝茂公も御執心御座候由。御出仕の自時分、山三殿通りかけに御膝に足さはり、則ち居さがり、御膝を押え、御断り申し上げられ候となり。或夜百武次郎兵衛辻の堂屋敷に山三殿参られ、申し入れられ候に付て、次郎兵衛驚き駆け出で、外に出会ひ、御前の憚り外見共に則ち御帰りの様にと申し候。山三殿申され候は、「唯今遁れぬ行懸りにて三人切り捨て、即座の切腹は残念の事に候故仔細を申し上げてよりと存じ、その間の命、御時分を見立て、御近付にても候へども、御頼み致す」となり。次郎兵衛胸をさまり、「私を人と思召して御頼み過分至極に候。御心安く候へ。内に入り身支度も少しのおくれ、直に」と云うて、けなりにて伴ひ、先づ筑前の方と志し、都度城迄手を引いたり、負うたりして、夜明けに山中に入りて隠す。その時に、「この事偽なり、御心底見届け申し候」と知契せられしなり。その前二年の間、次郎兵衛懈怠なく、山三殿登城の道筋の橋に通り合せ、下城にも通り合せ、毎日見送りしとなり。(第一巻一八三)

 メロウですねぇ。殿様に犯されそうになったぐらい美少年の山三が「やむなき行きがかりで人を殺してしまいました。その場で切腹して償いをすべきですが、死して後に謗られるのも残念。こうなった理由を聞いて欲しくて参りました」と次郎兵衛を頼って行く。次郎は「私を、この私を、そこまで見込んで下さっていたのですか」と感激し家も藩も何もかも捨て山三を連れて逃げる。国境を目指す。ややもすると遅れ、へたばりそうになる山三、次郎は手を引き、背に負い懸命に追手から逃れようとする。夜明けまで走り続け、漸く国境付近の山に潜り込み、山三を隠す。その時、山三が「実は人を殺したというのは嘘なのです。……あなたの本当の気持ちが知りたくて」。次郎は山三を見初め二年前から登城、下城の折に山三を待ち伏せ、それとなく付いて歩き、見送るのを一日もかかさなかった。山三も、そんな次郎を憎からず思い始めた。しかし、武士の恋。心無い者に抱かれたとあっては一生の不覚。嘘をついて次郎を試したのだ。疑念は去った。二人は熊笹の褥に、どちらからともなく倒れ込んだ。二人は獣となった。ぐらいの口語訳になりますねぇ。途中からですけんども。以上が実践編とすれば、次に掲げるのは理論編。

 式部に異見あり(前段で「奉公人は、利発じゃない方がイイ」と言っている)、若年の時、衆道にて多分一生の恥になる事あり。心得なくして危ふきなり。云ひ聞かする人が無きものなり。大意を申すべし。貞女両夫にまみえずと心得べし。情は一生一人のものなり。さなければ野郎かげまに同じく、へらはり女にひとし。これは武士の恥なり。「念友のなき前髪、縁夫もたぬ女にひとし」と西鶴が書きしは名文なり。人が嬲りたがるものなり。念友は五年程試みて志しを見届けたらば、此方よりも頼むべし。浮気者は根に入らず、後は見離す者なり。互に命を捨つる後見なれば、よくよく性根を見届くべきなり。くねる者あらば障ありと云うて、手強く振り切るべし。障はとあらば、それは命の内に申すべきやと云ひて、むたいに申さば腹立て、なほ無理ならば切り捨て申すべし。また男の方は若衆の心底を見届くること前に同じ。命を抛ちて五六年はまれば、叶はぬと云ふ事なし。尤も二道すべからず。武道を励むべし。爰にて武士道となるなり。(第一巻一八一)

 星野了哲は、御国衆道の元祖なり。弟子多しといへども、皆一つ宛伝へたり。枝吉氏は理を得られ候。江戸御供の時、了哲学暇乞に「若衆好きの心得いかが」と申され候へば、枝吉答に、「すいてすかぬ者」と申され候。了哲悦び、「その方をそれだけになさんとて、骨を折りたり」と申され候。後年枝吉にその心を問ふ人あり。枝吉申され候は、「命を捨つるが衆道の至極なり。さなければ恥になるなり。然れば主に奉る命なし。それ故好きですかぬものと覚え候」由。(第一巻一八二)

で、補強として「衆道」とは書いていないが、その疑いのある追腹(殉死)の例を挙げます。

 小川前舎人嫡子左兵衛早世の時、若党一人寺に馳せ入り自害仕り候なり。(第六巻一五一)
 多久長門(天叟)死去の時、古賀弥太郎右衛門日頃の懇意報じ難しとて追腹仕り候。(第六巻一五三)

 うーむ、限りなくアヤシイ。で以上、見てみたようなのが武士道の鑑/『葉隠』の恋愛論なんです。皆さんには疑問が起こる筈です。女への恋心は如何だったのか?済みません。『葉隠』には、そんなモン書いてないんです。男の男に対する恋愛しか語られていない。それどころか女性自体、滅多に登場しません。登場しても、その半分は浮気妻を手討ちにした話。たまに出てきたと思ったら、女は我が子を可愛がるが老後を考えての浅ましい魂胆がミエミエやで、とかヒガんだ言及だったりする。
 どーも作者の山本常朝は女性恐怖症か何かだったよーです。きっと手酷くフラレたかイヂメられたかしたんでしょう。こーゆーのに限って配偶者に頭が上がらなかったりする、ってのは単なるゲスの勘ぐりですが、考えてみたら当時、彼ら武士にとっては妻とは宛われるモノであって自分が惚れて結婚した相手じゃない。だから『葉隠』に於いて「恋」といったら、男の男に対する恋なんです。で、その恋の理想は、どんな形だったか?

 「角蔵流とは如何様の心に候や」と申し候へば、鍋島喜雲草履取角蔵と申す者、力量の者に候故、喜雲剣術者にて取手一流仕立て、角蔵流と名づけ、方々指南いたし、今に手がたが残り居り申し候。組討やはらなどと申し、打ち上がりたる流にてはこれなく候。我等が流儀もその如く上びたる事は知らず、げす流にて草履取角蔵が取手の様に、端的の当用に立ち申す故、この前から我等が角蔵流と申し候。又この前、寄り合ひ申す衆に咄し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に

     恋死なん後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは

これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。(第二巻二)

 「忍れど……」なぁんて目じゃない。実際には此処で挙げた例の如く、武士だって武士同士イチャイチャとメロゥな恋をするのですけれども理念としては、生きているうちに恋情がバレてはならない。何故って、武士にとっては恋も命がけ、思い込んだら命がけ、ってのは決闘や理論編で紹介した通り。でも建前上、武士が命を捧げるのは主君であり、武士道だった。そして実際には主君を優先せねばならない。で、主君に命を捧げて死んじゃって、火葬された時、初めて煙に恋情を顕わす(器用なヤツだ)。命が二つあったら……、って感じ。
 武士にとっては恋人と主君は同じ。二君にまみえず、二夫にまみえない。命をかけて尽くす。これが忠/愛。でも一夫、一君、どちらをとるか? 悩む。そして実際に恋人には捧げられない。捧げたいけど捧げられない。だから、告白しない。告白とは、忠/愛の誓い。一つしかない命を先に主君に捧げた以上、恋人への誓い/告白は、空手形にならざるを得ない。命に予備はないんだから。忠/愛の対象に空手形を振り込むってのは、武士には絶対できないこと。
 結論でございます。武士道とは、壮大なる男色のシステムだったのでございます。視覚的に云えば、古代ギリシア黒絵式土器に描かれたサテュロスの如く、順繰りにファロスを相手に突き立て結合する武士の列(レズではない)。一番後ろに居るのが将軍で、一番前に居るのが足軽、中間。この犯られっぱなしの中間が時々、通いの酒屋の丁稚をレイプしたようですが、このことは本題とは関係ありません。システムのラインが問題なのです(だったら云うなよ)。

「武士道とは、衆道と見つけたり−葉隠の恋」

 
犬の曠野表  紙猿の山表紙