「或る愛の情景」(94年5月29日PCVAN−AWC掲載)

もっと愛を! あぁーイィーもっとぉ。

 いや別に発情しているワケではございません。最近に読んだ謡の話が頭を離れないのでございます。

「井筒」でございます。題名からモロですが、「伊勢物語」23段を元に世阿弥が創作した能の一番。伊勢−から約五百年後、”井筒”の端が舞台(寺になっている)。

 旅の僧が井筒の遺跡を訪ねる。時は夜半、月は西の山へと傾いている。僧が伊勢物語に想いを馳せていると、一人の女が現れ井戸辺の塚に花を添え供養を始める。僧は不審に思い「さては業平ゆかりの人?」。答えは「そんな昔話には縁もユカリもございません」。しかし僧侶の疑念は晴れず次々に問いつめていく。女はとうとう正体を明かす。「私が井筒の歌に歌われている女でございます」。五百年の時を経て霊となり、恋の記憶が澱む此の井筒に姿を現したのだ。
 女は直衣を身に着ける。「男の形見です」。女は井戸辺で舞い始める。井筒の水面に美しい舞姿が映る。「あの男の面影が……」。女は水面を見つめながら、倦まず狂おしく舞い続ける。
(バックコーラス)我ながら懐かしや
         亡婦魄霊の姿は、萎める花の、色無うて匂残りて在り
         (在)原の寺の鐘もほのぼのと
         (ほのぼのと)明くれば古寺の松風や
         芭蕉葉の
         夢は破れて覚めにけり 夢は破れて明けにけり
                                 劇終

 幽霊もとい幽玄の話でございます。妖しぅこそ物狂おしけれ(意味が違うぞ!)。濃くて淡い。こーゆー話が書けたら良いなぁ。「伊勢物語」なんかより数段面白い。何と言っても、このケレン味。これっすよ、これ。女が「私こそ”井筒の女”」ってオトワ屋の芸(歌舞伎で使うヒュードロドロってヤツね)で終わっても一応の面白さはあるんだが、それじゃあ随分品下る。もう一捻りしている。

 幽霊女は恋人の遺した直衣(貴族の平服)を着て狂おしく舞い、水面に映った自分の姿に恋人の面影を見いだして更に舞う。表面的には男装の麗人、トランスセクシャル。そんでもって穿って見りゃぁ、”女は業平を愛していたのか? それとも己を愛していたのか?”って疑問が湧いてくる。
 自己愛。愛の始まりが幼児期であったこと、則ち性差が顕著でない、特に古代貴族社会にあっては幼い男女の風俗に大きな違いはなかったことが、この疑惑を高めていく。ほらぁ「伊勢−」二十三段には「くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき」って歌もあるっしょ。これは女が男の求愛に答えて「幼い頃に貴方と長さを比べ合った振分髪も、もう肩まで伸びて私も女になりました。この髪を上げさせ私を抱くことの出来る男は貴方だけです」って言ってるんすよねぇ。愛の始まりは、同じ振分髪だった頃。性差のなかった頃です。女にとって業平は自分と同一の存在だったのではないか。一緒に行為し同じ感覚と同じ話題(二人の家は隣同士だったしぃ)、背格好も同じ(でなけりゃ執拗に比べ合ったりはせんだろーし)。
 でね、この答えのもとになった男の求愛の歌が有名な「筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」。これは背比べを歌っている。極論すれば男の歌は「同じ背格好だったけど僕は男になったよ」、女の歌は「髪も同じぐらいの長さだったけど私は女になったわ」。同一もしくは近似の存在であった幼い頃から、やがて性徴を来して互いにセックスの対象となった。っつー道筋なんす。則ち根底に一体感があって、その一体感が後に現れた性差により恋愛っつーか、セックスっつー形をとった。此の愛にとって性差は枝葉末節、オマケの類。少なくとも、女の側からは、ね。
 そう、女は業平に己を投影し愛するに至った。そして女は、業平の遺した直衣を着した己の姿を筒井の水面に投影し、愛した。投影し、投影したら元に戻る。もしくは投影の無間地獄となる。無間地獄、女は己を投影した男を愛した、女は己を投影した男の遺した直衣を着すことにより己に(己を投影した所の)男を投影し愛した、……、……、……。合わせ鏡の無間地獄でございます。合掌。

(了)

*「伊勢物語」23段。幼なじみの二人は、ともに振分髪の頃から互いに想いを募らせ合った。契りを結ぶ。時が経ち男は浮気相手を見つけ足繁く通うようになる。女は快く男を送り出す。女は嫉妬に心を掻き乱されながらも凝っと堪えていたのだ。やがて男に気持ちは通じる。同時に男は浮気相手の底の浅い可愛い子ブリに嫌気が差して、元の鞘に収まる。
 男の身勝手さと、女の純愛と忍耐を対比させ甚だ”女大学”的な説話。浮気相手の女だって男に愛されたいと願う故にブリっ子していたのに。まぁ簡単に言えば”男は多少の浮気はするもの。だから女が身持ちを良くして気付いていても気付かぬフリをしながら堪えていれば屹度、男は戻ってくる”ってな羨ましい世界。
 まぁ在原業平とゆー当代随一の美男子だからこそ許される論理でしょぉね。逆に言えば女の方がアホな業平より一枚上手だったとゆー話。ただし、解説なんかでは、純愛物語の典型として紹介されていたりしますから、世の中解らん。
 上記は大津有一校注「伊勢物語」1994年4月5日(39刷)岩波文庫、から私家抄訳っす。

*「井筒」。引用は喜多節世「喜多流稽古用定本 井筒」平成5年12月15日発行、喜多流刊行会、より。

*舞う。舞うとは体全体を、もしくは体の部位を球形の表面をなぞるよーに動かすことでございます。踊るのとは全く違う。女の幽霊の舞う状況を、踊りとして頭に浮かべれば”死霊の盆踊り”じゃないけれど、ギャグになっちゃうので注意!

 
犬の曠野表  紙猿の山表紙