■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「不老不死」−神々の輪舞シリーズ20−

 

 予告通り、「本朝神社考」に隣接する物語を提出する。本シリーズでも何度か使った「神道集」に御登場願う。「本朝神社考」より遙か遡った中世の説話だ。

     

神道集(第四十六、富士浅間大菩薩事)

抑駿河国鎮守富士浅間大菩薩者日本人王廿二代帝雄略天王御時駿河国富士郡老翁夫婦有一人子無程後生救護魂子哉歎後苑竹中五六計女子一人化来容貌端厳気朝気差類無故近隣照翁管竹翁云嫗加竹嫗云此姫君得大喜名赫野姫遵過行程彼赫野姫形珍敷目出時国司寵愛夫婦語浅如此年月送程翁夫婦共墓無成其後赫野姫国司語云我是富士山仙女也此翁夫婦夫婦二人過去宿執有依此養育為下姫成既其果報尽君我縁尽今仙宮返云時国司此聞悲慕事限無其後女云我富士山頂有恋時来見亦時々此箱蓋見反魂香箱与舁消様失男空床留居悲女恋思時此箱蓋開見其体煙内髴男弥悲魂消事度々重思堪富士山頂上四方見大池々中嶋宮殿楼閣似石多其池中煙立其煙中彼女房体髴見悲余此箱懐内引入身投失其時両方煙今代絶立承今仙宮付節煙云山郡名付富士煙云也其後彼赫野姫国司神顕富士浅間大菩薩申男体女体御在委日本記見日本記意以富士縁起尽而古歌

山モ富士煙モ富士ノケフリニテケムルモノトハタレモシラジナ

又富士山雪六月十五日消其日戌時必雨也而人丸歌云

富士ノ根ニフリツム雪ハミナ月ノモチニ消テハ其夜フルナリ

其後年経衆生利益為富士浅間大菩薩山頂里下給麓里立而恋地道迷人大菩薩申必叶也而有女房男捨三嶋内事小浜参祈申小浜申富士浅間大菩薩也

人シレスヲモイハツユニ富士ノ根ノタヱムケフリハ我身ナリケリ

ト読則其日返合

     ◆

 此の話は「竹取物語」から遙かに遠ざかっている。共通点は、子の無い老夫婦の元へ竹の中から現れたこと、姫の名が「赫野(かくや)」であること、そして体が輝いていたことぐらいだ。その他は差異が多い。「本朝神社考」「神社考詳節」と比べても、大きく違う。

 まず、帝なんか登場しない。(駿河)国司と姫は結婚し仲睦まじく暮らす。しかし姫を育てた老夫婦が死ぬと、姫は箱を置いて富士山の頂へと姿を消す。箱を開ければ煙が立ち上り、姫の姿がホログラムの様に浮かぶ仕掛だった。国司は姫を追って富士山の頂に登る。池に箱を放り込むと煙が立ち上り、姫の姿が浮かぶ。国司は映像を抱き締めようとするかの如く池に飛び込み、溺死した。煙は立ち上り続けている……。馬鹿な奴だ。こんな馬鹿の話をしていたら、目頭が熱くなる。ちょっと一服しよう。

 

 上記要約で、富士山頂の池に触れた。山頂の池、となれば観音様だろう。「彦山流記」ほかにある、お約束だ。読者には御馴染みのシチュエーションだろう。まぁ、木花之開耶姫の本地は観音なんだが、ひとまず其れは措く。此処では、不老不死の香も薬も出てこない。出てくるのは、煙と共に無き人の姿を見せる箱だけだ。しかし、八犬伝の読者なら、煙の裡に亡き人や遠くにいる人の姿を見せる術を御存知だ。八犬伝第百回、八百比丘尼・妙椿が、素藤に浜路姫の姿を見せて、中年の劣情に火を点ける条である。挿絵には、「反魂香(はんごんこう)」とあった。元より赫野姫は、富士山に住む仙女であったから、不老不死であったろう。しかし、いなくなっては、不老不死も何もない。遺された者にとっては、箱によって初めて赫野姫が不老不死なる存在となる、もしくは赫野姫の不老不死なる性質が意味をもつ。兎に角、「反魂香」なら、死者を(死者のままとして)再び眼前へと引き出す力を有つアイテムだから、「不老不死」に庶(ちか)い。または、映像であるから不老不死、とは強弁か。しかし国司は、映像だけでは満足できなかった。いや、映像にさえ殉じた。何のことはない、姫は宿縁ある老夫婦が国司の外戚として安楽に暮らせれば良かったのだ。国司は利用されただけである。しかし駿河国司、皇位を捨てて富士山中に消えた帝よりスケールは小さいが、姫に対する赤誠たるや、決して負けてはいない。まぁ雄略天皇時分に、「国司」がいたなんて話は聞いていないけども。文中の「日本記」が日本書紀とすれば(通常は「日本紀」なんだが)、通常、雄略紀に、そんな話はない。あるのは、浦島伝説である。何か、こんがらがっているのかもしれない。

 ところで、同じ「かぐや姫」の物語として、帝が登場する「竹取物語」「本朝神社考」「神社考詳節」と、国司しか出てこない「神道集」では、大きな隔たりがある。同時には存在し得ない。御伽噺だから、自然発生的には、時を追うに従いスケールが大きくなることが考えられる。「神道集」が先で、「本朝神社考」「神社考詳節」が後、となる。また、「竹取物語」は、中国・唐代に流布していた「竹姫伝説」に類似する所があり、古代末から中世初頭にかけて文字化された。林羅山の「本朝神社考」引用箇所末尾の註「使者為坂上田村丸是等大謬説也余観万葉集既載竹姫之事又竹取物語賀久夜比売不云其時世国史桓武葬山城国柏原陵然則何得入富士崛中耶」からしても、昔から竹取物語と竹姫伝説の関連性は取り沙汰されてきている。そして、林羅山の筆に依る二つの「神社考」は、近世の成立ではあるが、出典の発生・成立は定かではない。一方、「神道集」は、中世の成立であろうが、やはり発生は全く明らかではない。帝が登場するや否やを考えるためには、「竹取物語」と「神道集」を比較すべきだろう。自然の流れでは、前述の如く「神道集」の方が先になろう。

 何故なら、まず、「神道集」はスケールが小さい。帝まで登場する話が、国司レベルまで矮小化される筈はない。それだけ話が面白くなくなる。次に、ストーリーが単純である。「竹取物語」が「竹姫伝説」と似通っているのは、求愛してきた意に添わぬ男どもに無理難題を押し付けて排除する点なのだが、冷静に読めば、竹取物語は此の箇所がなくとも成立し得るのだ。確かに竹取物語の読み所は、竹姫伝説と関連があるらしい四貴公子の受難(?)だが、此れがなくとも竹取物語は破綻なく成立する。何故なら、四貴公子は何連も、姫を動じさせることなく、舞台から退場させられているからだ。退場しても物語に影響しない者は、登場しなくとも良かった者だ。四貴公子の話は物語に彩りを添えてはいるけれども、必要条件とはなり得ない。則ち、四貴公子の話は物語を面白くするために挿入された部分、とも考えられるのだ。勿論、ストーリー・テラーは当初から物語の骨格を有しているとは限らず、〈魅力的な部品〉を既に持っており其の部品を生かす物語の骨格を捏造する場合もある。故に、〈竹取物語の原型〉が、竹姫伝説の日本流入よりも早く成立していたと断定するワケにはいかない。しかし、同じ「かぐや姫」の話で、片方に魅力的な部品があり、片方に無いならば、前者の方が後から成立したと考えた方が良かろう。逆ならば、わざわざ魅力的な部分を削除したことになるからだ。飽くまで蓋然性の問題だが、「神道集」の方が先に、もしくは「竹取物語」とは独立に発生したと考えたい。則ち、何連にせよ、「神道集」は「竹取物語」に従属しない。

 

 話を整理しよう。非「竹取物語」系の「本朝神社考」(本質としては差異のない「神社考詳節」も同様とする)と「神道集」では共に、竹中から出現した身体から光を放つ姫の正体は、富士山に棲む仙女であり、一定期間、何等かの理由で人間世界に入り込んでいたが、或る時、元いた富士山頂へと帰ったため、姫を愛する者も富士山頂へと姿を消す。ただ、前者では「不老不死」、後者では「反魂香」が問題となっている。とはいえ、「不老不死」「反魂香」両者には、上記の様に連続性が認められる。断絶はしていない。そして、「竹取物語」と「本朝神社考」系は、「不老不死」「富士山」で繋がっている。此処で初めて、三者はリンクする。「不老不死」を核として、輪舞が始まる。

 

 八犬伝第百八十勝回下編大団円で富山に籠もった犬士らは、既に青年を遙かに超しながら、「顔色衰へず峯に上り谷に下るに飛鳥よりも易げにて」と至って壮健であった。後に子孫と対面し、姿を消す。犬士らは仙人となった如きであり、仙人は不老不死である。仙人は霞を食えば生きていられるし、老衰もなく死んだりしない。人としての苦労や悩みから超越した存在であり、理想と言える。

 

 ところで八犬伝は複雑な入れ子構造を採用している。即ち、八犬伝の構造は、犬士活躍の物語としては、信乃を以て始まり信乃が小文吾に頼んで井戸を復旧して劇的な転換を果たし、犬士らが山に籠もって死んだのやら如何やら不明なままに終わる。犬士の物語とはズレて丶大の話があるが、丶大の話は、丶大入定を以て終わる。この外側には里見家の歴史があり、それは八犬伝冒頭の結城合戦から始まり、里見家滅亡を以て終わる。これら三つの次元が、八犬伝の本筋であろう。

 

┌─────────────里見家の物語────────────────┐

│                                                     │

│   ┌───────────丶大の物語───────────┐      │

│   │                                         │      │

│   │   ┌───────────犬士の物語────────┼──┐  │

│   │   │                                    │   │  │

└──┴──┴─────────→─→─→──────────┴──┴─┘

 

 そして、八犬伝物語には、玉梓や船虫など幾人かの〈上級キャラ〉が登場するが、それぞれの物語が複雑な入れ子構造で仕込まれている。また、〈B級キャラ〉として、氷垣などが登場し、八犬伝の本筋に関わりながら、それぞれに物語を始め且つ完結していく。其の複雑な入れ子構造自体、甚だ興味深く且つ重要だが、此処では紙幅を割けない。何たって、このシリーズ、既に予定の倍以上の長さになっているのだ。此処では大雑把に物語全体の最重要な三つの構成要素、里見家、丶大、犬士の物語の間にある関係のみ取り上げる。

 里見家物語は結城合戦から始まり、エピローグとして滅亡するまで続く。南総里見八犬伝全体を使っている。そして里見家物語が犬士物語と重なって「里見八犬」物語となる明確な画期点が、伏姫切腹の条である。此処が日本神話の天照太神岩戸隠れ神話を下敷きにしているとは既に述べた。また、里見物語の場合、蟇田素藤滅亡の条が岩戸開きの伝承に比定すべきだとも主張してきた。田税兄弟の登場と、親兵衛帰還なる指標に拠ってである(「伏臥位か?ドッグ・スタイルか? 伏姫のセクシャリティーに迫る!」参照)。

 犬士物語は、伏姫切腹を以て本格的に始動する。其れは余りに犬士らしいがため最初に置かれる、圧巻の犬士・信乃物語に〈代表〉される。色々あるが、まぁ、信乃ゆかりの地にあった井戸が岩に潰されていたのを怪力・小文吾に頼んで、岩を取り除き復旧することを以て、ほぼ〈本編〉を終える。後は余生、エピローグの類だ。井戸復旧は、現象としても「岩戸開き」であるが、正に犬士にとって陽の当たらぬ暗黒時代、苦闘の日々が終了することを告げている。

 此処で、まず里見家物語と犬士物語の関係を考える。留意すべきは同じく「岩戸開き」を迎えるものの、前者が木気(少陽)たる親兵衛仁によって引き出される(木生火/太陽)に対し、後者が水気たる信乃によって意味づけられ開かれた場所が、太陽の籠もった岩屋ではなく太陰たる水を湛えた井戸であった点だ。前者は陽気が旺となることを、前者は陰気が全開となることを示しているように見える。陽は陽、陰は陰として〈用〉があり、必要なものだ。どちらもが旺となる状態が一つの集団に於いて実現すれば、其れは〈最強〉を意味するだろう。犬士は「八」即ち陰の最大数であるを以て、総体として陰なる存在だ。一方、里見家は総体としては陽であることになる。そして両者を結び付ける伏姫は、陰陽併せ持つ存在、陰なる女性の肉体を有しつつ極めて多く男性性を有する、亦、人たる故に明/陽であり且つ犬である故に無明/陰の人犬姫だ。

 続いて丶大物語を考えよう。丶大は、伏姫切腹によって発生する。何処にでもいる野心的な青年でありながら何処にもいないほど卓越した青年・金碗大輔が、丶大に変態(メタモルフォーゼ)するのだ。約束された婚姻が果たされれば舅となる翁(?)・里見義実と共に山へと登り、そして愛すべき姫の死/消滅を目の当たりにすることによって、青年・大輔は心に深い傷……いや若しかしたら聖痕(スティグマ)を捺されたのかもしれない……、とにかくココロに消えぬモノを刻みつけられて、宿命の放浪へと旅立つ。丶大物語が動き出す。里見家物語、犬士物語と同様に伏姫の死/岩戸隠れによって決定づけられた丶大物語は、しかし、「岩戸開き」で明るさを取り戻したりはしない。それどころか丶大物語は、現象として「岩戸隠れ」としか言えない状態で終焉を迎える。山の岩屋に籠もり、巨岩で自ら閉じて俗界との関わりを絶つ。暗黒の世界へと自ら閉じこもることで、自らの物語に終止符を打つのだ。〈暗黒への回帰〉、それが丶大物語の結局であった。功為し名を遂げ絶頂の瞬間に不可思議な割腹を果たした父・八郎孝吉の後をなぞるように、彼は不可解にも姿を消す。

 もうちょっと丶大に拘ろう。しかし、変な話だ。「岩戸隠れ」で始まった物語が、「岩戸隠れ」で閉じる? 閉じたものは、閉じられない。閉じたものを閉じるためには、いったん開かなければならない。当たり前の話だ。と、回り諄い言い方は止めよう、いったん閉じた彼の物語は、実は信乃によって既に開かれている。タチ系の犬士・現八に其の剣で貫かれたか押し開かれたか、信乃は現八の激しい責めに堪らず堕ちていき失神するに至っている。まぁ其れは良い。若い二人の過ちをアレコレ論っても仕方がない。私だって、信乃のような美少女が眼前に現れれば、理性を保っていられる自信は全くない。だいたい私は自分の来し方を顧みると陰性の土気だと感じており、現八には親近感を抱いているから、信乃に出会ったら同じことをしてしまっていただろう。

 えぇっと、長らく姿を隠していた丶大は、那古屋で信乃が(破傷風に)犯され汗に塗れた白くしなやかな肢体を強張らせ律動せしめられて呻き喘ぎ仰け反っている場面で、尺八を吹きながら再登場を果たす。因みに「尺八を吹く」とは隠語で……、止めておこう。とにかく、丶大は、再登場する。此の場面は、信乃が〈再生〉した場面でもある。死にかけていた所を、親兵衛の親の精/生き血を注ぎ込まれ仰け反り喘ぎ失神して、再生した。房八は戌、沼藺も犬となれば、信乃にとっては犬の死を看取るのは二度目だ。犬の与四郎を介錯したとき、玉を得て同時に痣も出来て、犬士となった。若しかしたら信乃、前世は犬の死に併せて切腹した姫君だったのかもしれない。また同時に此の場面は、親兵衛が犬士となる場面でもある。親兵衛が犬士となるは、此の場面で房八が死ぬことに依ってだ。そして信乃は、此処で親兵衛の親代わりになることを誓う。ところで親兵衛は伏姫に最も寵愛されて富山で手づから育てられることになる。しかし、伏姫に最も愛されていることと、伏姫に最も庶(ちか)いことは、全く違う。信乃の女装癖や与四郎(犬)との関係、そして出生に絡んで伏姫神自ら手束の前に姿を現したこと、そして伏姫の父・里見義実も信乃の父・番作も共に八犬伝全体の出発点となった結城合戦で同じく抵抗側として戦ったことなどを勘案すれば、信乃が伏姫と最も庶(ちか)い犬士であることに、疑いを入れる必要性は感じられない。

 勿論、伏姫と信乃は、存在する次元が違う。伏姫の裡から迸った八犬士は当然、伏姫より低次の存在となるのだが、分割された中でも最も伏姫に庶い相似形が、信乃であるということだ。抑も伏姫切腹を「岩戸隠れ」と考えることは、伏姫の死/消滅を「岩戸隠れ」と定義づけすることだ。だから伏姫が権(かり)にでも復活することは、「岩戸開き」に相当する。馬琴が、八房に騎(の)る伏姫と与四郎に騎る信乃を重ね合わせているように、亜次元の信乃は伏姫の代行者であり、其の信乃が「再生」することは、伏姫が復活すること自体ではないが限定的にでも同様機能を果たすことが期待できる。限定的な「岩戸開き」は、まさに丶大が南総里見八犬伝の中で復活/再登場するために、必要な条件だったと思えるのだ。丶大物語は、伏姫切腹の「岩戸隠れ」から始まり、信乃の再生によって「岩戸開き」を迎えて後はトントン拍子に犬士を探し出したが、結局、自らが「岩戸隠れ」して物語を終える。抑も、伏姫の岩戸隠れによって発生した者は、陰でなければならぬ。信乃の再生/岩戸開きによって陽に転じたと言っても、発生時の性質が陰なんだから、陰へと戻らねばならない。天照と対照し得る陰とは即ちスサノ……えぇっと、まぁ丶大は、為すべきことを為して、在るべき場所へと戻る。そして、それは一部論者の云う如き、母胎回帰ではない。犬士の富山籠もりは、或いは母胎回帰と云っても間違いではなかろう。しかし西洋流の何でもかんでも親子関係や性的欲求に立脚して論じ伝承などの解釈に安易な導入を試みる態度自体、甚だ心許ない。八犬伝は、単独のフェッティッシュではなく、フェティッシュにフェティッシュを重ねた文学だ。

 丶大の富山籠もりは、恐らく、富士山周辺地域に残る「かぐや姫」伝説を下敷きにしている。近世前半の篤学・林羅山の「本朝神社考」系の「かぐや姫」だ。犬士たちが示したように、富山は不老不死なる者が棲む仙境である。富士山も同様だ。伏姫は観音の化現だ。富士大神も観音を本地としている。そして金碗大輔は、舅となるべき里見義実と(結果的に一緒に)山へと登り、アッチの世界/彼岸に行った伏姫を、数十年の時間差はあるものの、追っていく。「かぐや姫」伝説では、帝は愛する姫を追って、姫の父、舅となるべき翁と共に富士へと登り、其の仙境で共に暮らすことを決意、俗世を捨てる。「かぐや姫」を現象面での下敷きにすることで興趣を添え、且つ富山が富士山の如き仙境であると主張する。そして初めて仙境と認知された富山で、犬士たちは不老不死の仙人となる。

 さて、今回は「かぐや姫」を媒介に、富山を、富士山のズラしと考え、丶大が岩屋に籠もり犬士たちが仙境に遊ぶ終盤へと結ぶ流れを眺めてみた。が、八犬伝の構想自体、水滸伝に影響されていることは異論の余地がない。伏姫の「伏」は伏魔殿の伏でもある。また同時に三伏の伏でもあるし、修験道で云う明・無明/人・犬の混淆する状態でもある。一つの事象に多重の意味を込めた八犬伝の在り方を、筆者は「輪舞」と喩えてきた。既にシリーズも二十回を迎え、かなり複雑化している。次回で輪舞を小休止させたい。「牡丹に守られし者」である。お粗末様。

 

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙