■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「セックス健康法」−神々の輪舞シリーズ11−

 

 八犬伝の最終回は「第百八十回」だ。ただ、その「百八十回」が、上・中・下……で終わるかと思えば、勝回上・勝回中編・勝回下編大団円と六つに分かれている。これを普通、「百八十回」とは云わない。では、「勝回下編大団円」のみが最終回かといえば、そうでもない。やはり最終回は「第百八十回」である。少なくとも第百八十回上からは本格的〈最終回モード〉に入ったと見るべきだろう。

 馬琴は、日本神話を含む従来の物語世界を取り込みつつ、自らの世界を閉じなければ気が済まなかった。活劇だけで終わらせて、「あとは読者のご想像に任せます」などと金聖嘆、七十回本・水滸伝は、馬琴の好みではなかった。だいたい八犬伝のように謎めいた話を、種明かし(のヒント)を全く見せぬまま終わらせれば、これほど無責任なことはない。キチンと落とし前を、つけねばならぬ。

 また、第百七十九回下末尾に、「本輯百七十七回以下は前板発兌の時尚腹稿のみなりしかど看官に夙く結局までの趣を知せまほしくて其題目を総目録中に付載しに今編次るに及びて予思ひしよりいと長くなるものから其題目を増改んはさすがにて一回を上下に分ち或は三折して上中下を二巻にしつる者是なり」とある如く、〈最終回でこそ語られねばならぬ要素が多すぎて「最終回」自体を分割した〉ことが解る。

 また、天保十一年一月八日付(殿村)篠斎宛書簡に「うち見ハ両眼ともわろくも見えず足は不行歩なれ口は達者に候へば旧臘来陽の時八犬伝全部九十一冊にてハ都合あしく候間銭百にて全部九十六冊ニいたし度(筆写注:近世には一括払いの場合、百文のものを購入した際、九十六文を以て満度に支払ったことにする慣習があった/盈つれば欠く←月が十五夜を越すと欠けていくため故意に欠けさせ将来の満を得ようとする縁起担ぎ)いかで々々々など申候野生内心ニハ壱丁にてもすけなくしてつづり果し度思ひ候に俗ニ云親の心子しらずに似たりと一笑いたし候ひきさりながらあと五冊ニてをさまるべきや否その義者我ながらはかりがたく候へどもよみかへして補文する事成りかね候故に拙キ上に猶拙く不如意の筆に候へバ冊数のふえ候事このミ不申」と、馬琴としては短く書くことを目指していたことが窺える。即ち、短く書きたかったけれども、書かねばならぬ事が多すぎて、長くなってしまった、かかれていることは八犬伝の構想上、不可欠のものどもであることが解る。さて、「大団円」の五回前に当たる「第百八十回上」も最終回のうちであるとするならば、其処で馬琴は如何様に、世界を閉じようとしているのか。

 

 結局、である。名詮自性の世界たる八犬伝に於いて、結局を示す人物が登場する。息部局平(むすぶ・つぼへい)である。「息」は「休む」「止(や)む」の意味であるから、「結局」の「結」と同義である。「局」が共通であり「息」と「結」が置換可能であるならば、「息(部)局」は「結局」と同じだ。「部」は送り仮名に類するモノで、一種の置き字であるから、無視できる。彼が姿を現す回、それが第百八十回上だ。

 第百八十回上は、如何様な内容であったか。まず、それまでに扇谷・山内の両管領と里見家の和睦が整ったことが確認され、犬士が京へと出発する。京で各々任官する。「MockigBird」で述べた如く、中世以後、官位官職は其の実を失い単に家格を示したりするものとなっていた。が、其の表現する所の者は、特定の官位官職を有つ者と天皇の関係、である。一定以上の官位官職を有すること自体が、天皇に認知されていることを意味する。

 「一定以上」の内包は微妙だが、常識的には五位以上(いわゆる貴族)か。が、犬士は六位である。けれども、彼らは特に昇殿を許されている。制度というものには色々と例外的な規則があって、例えば道節が補された「帯刀先生」は、舎人の中で最も腕が立つってぐらいの称号であって、律令官僚機構/官職体系に必須の要素ではない。例外的な身分である。そして五位以上は各種特権が認められており、貴族と謂うに相応しい。ただし、官位は天皇との距離の絶対値を示す指標なのだけれども、それは家格などにも制約されるイメージ上の「距離」だったりもした。現実に於いての距離、天皇と同じ建物に居られる、侍る可能性がある、といぅのが「昇殿」なのである。故に犬士は、家格などの制約によって六位に叙せられたが、「昇殿」を許されることで例外的に、天皇との「距離」は最小限となっている。

 

 ところで、犬士は纏めて従六位下に叙せられたが、不自然な所もある。例えば、大学頭(大角)と衛門(権)佐(現八)は、ともに従五位上相当の官職だ。これは、里見義通の右衛門佐と同列だし、義成の左少将(正五位下相当官)にも掠っている。殆ど差がないのだ。高い官位の者が劣位の官職を兼務したりすることはある。当たり前だ。高い能力/格をもっていれば、劣位の職を当然ながら遂行できる。しかし、逆は、あり得ない。まぁ全くないワケではないが、かなり異例、少なくとも「異例を以て評価する」ぐらいは意味のある「異例」である。低い能力の者が、責任の重い職を遂行することは官僚機構に於いて、危険だからだ(本来なら……ね)。にも拘わらず、こういぅことには拘りそうな馬琴が、テキトーに官職を当て嵌めている。制度上の規則より、イメージを重視したのだろう。

 また、義成の左少将に就いても、イメージ重視の容疑がある。ソレというのも、「左少将」は確かに正五位下相当官なのだが、なかなか微妙な官職なのだ。「左」は「左近衛府」を意味するけども、古代末・中世初頭に於いて、これは藤原一族の美少年が就任する職であった。「近衛」とは、「近きにあって(天皇を)衛る」者であるから、天皇の手近に侍る。親衛隊は、最強の軍団であるべきだ。が、上代には猛者を醜男(しこお)と呼んだりしたけれども、ムクツケき醜い男より、触れなば落ちん風情の美少年を侍らせたいのが、人情だろう。手近に置いておけば興を催したとき、押し倒し弄べる。陵辱を受け容れ、君主の個人的な満足を提供することが、腐敗せる権力機構に於ける出世術だ。近世説美少年録である。「近衛」は、それだけで淫靡だ。

 かくの如き「近衛」の発想は、近世宿場の「飯盛女」と同様だ。飯盛女とは字義通り解釈すれば、宿泊客にご飯をついでくれる「お給仕さん」なのだが、飯を盛り手渡す以上、宿泊客の射程内、手近に侍る。実は「飯盛女」、宿泊客相手の売笑婦を意味する。一種の婉曲語法である。近くに在る者は、姦(や)られねばならない。アダルト・ビデオやエロ漫画で「秘書」なるジャンルがあるやに聞くが、同様である。セックス至上主義時代の遠い記憶だ(まだ此の歴史段階に留まっておる者も多いが……)。

いやまぁ、でも、義成に限っては、いや全く根拠はないのだが、天皇の男色相手ではないと、私は個人的に信じている。既に官職は、実を失っている(「実」って何だよ……)。安房に在る義成が天皇に親しく侍る筈もなく、天皇も義成を抱きたくて左少将に補したのではあるまい。だいたい一世一代の大戦争、対管領戦に於いて、美少年・毛野を身辺に侍らせるような奴だ。どちらかといえば、稚児(ネコ)系ではなく念者(タチ)だろう。受け身ではなく、能動の方だ。

 ……いや、そうではなくって、「近衛少将」は、実際には正五位下相当官ではなかったりもする。三位とか四位とかの貴族が兼ねるって印象が、特に文学上は大きい。源氏物語なんかだ。恐らく、それは上記の如く天皇の身辺に侍る職だから、実際に要請される官位に拘わらず、ななか偉そうだったってのも影響していよう。制度上では正五位下相当官に過ぎないが、イメージ上では、左少将、かなり偉いのだ。だからこそ義成は、正四位上だが、左少将に任じられる。これを、馬琴も熟読していたと信ずべき史料「和漢三才図会」の記述で言い換えれば、「今以中将少将号亜相或次将其職掌同于中将五位殿上人中為譜第公達者任之叙四位時去職但叙留者是殊恩也三位少将者執柄息常」(巻第九官位部)となる。五位相当官ではあるが、四位になっても職に留まる者は天皇の寵愛を受けている者に限り、三位になっても少将であるのは、最大の権勢を誇る者の息子に違いない。即ち、五位を卒業して官位が上がったら、天皇の側から離れ官庁の中へと入っていく職に就くべきなのだが、天皇が、それを許さず手近に置きたがった故に、四位・三位の少将なんてのが存在するのである。

 

 これらのことより八犬伝に於ける官位官職、就中官職は、制度上の定義を離れて独り歩きしたイメージ上のものであることが解る。例えば、道節が任官した「帯刀先生」に関して皆さん、馬琴が弓張月で素地にした保元物語のテーマ、保元の乱、其の首謀者・悪左府/藤原頼長、マッチョ好みの男色家が、「帯刀先生」(旭将軍・源義仲の父)の肉体を弄んだ史実を思い浮かべられよう(いえねぇよ、そんな人……)。春宮(とうぐう/皇太子)を守衛する舎人の中で最も腕の立つ人物が任じられた職であるから、「帯刀先生」、マッチョ中のマッチョである。マッチョは蛮カラなる心性と庶(ちか)い。道節は、言わずもがなの悪態を吐くなど、犬士の中で必要以上に蛮カラの類であるから、かなり疑惑は濃厚だ。此処で読者は、柔和なる義成が猛々しき道節を愛する場面を空想しても許される……けれども、まぁ、此の点に就いては後に検証しよう。

 

 各国の霊を取り込み、若しくは支配する為、古代天皇制は全国から選んで由岐(悠紀)・須岐(主基)を設定した。大嘗祭の折、由岐・須岐で稔った国霊が宿る稲を食し、体内に取り込むのである。

 また、古代、恐らくは律令制以前から、国造・県主が娘を服属の証として朝廷に差し出していた。采女(うぬめ)である。律令制に於いては、天皇に近侍し食事の給仕などをすることになっていた。前記の「飯盛女」である。飯盛女は、遊女を置いてはならぬとされた宿場に於いて、「客の給仕をする」名目で雇われていた。給仕もしただろうが、「デザートに草餅でも」とか「饅頭でも」とか誘ったのだろう、客と同衾する。草餅も饅頭も女性器の隠語だ。売春である。采女も同様で、天皇に侍り、其の劣情に応えねばならなかった。

 女帝の場合は……分からないが制度としてあったのだから采女も存在したであろうし、別に女帝が采女を欲望の対象にしてはならぬ定めは無い。とびっきりの美少女は、男のみならず、女性の注目をも集める。視線は所有/欲望の発露もしくは契機たり得る。しかも日本の女帝は、独身か未亡人、孤閨をかこついていた方々だ。唯一の独身・孝謙女帝は道鏡なる巨根男を愛人にしていた実績があるけれども、別に巨根男を愛人にすることと女性を愛することは背反ではない。世の中には色々な人がいるから……、後宮の奥で何をしていたかは闇の中だ。

 とにかく、主に土着の領主層、其の地域の神の末裔であったり司祭であったろう国造・県主の娘を差し出させることは、或る特定の文化、それは決して普遍のモノではないのだが、女性を姦することを「征服」と言い換える特定・特殊な文化に於いて初めて、其の土地の女性、就中、国造・県主の娘を差し出させ姦することを、土地の国霊を陵辱・征服・支配することに重ね合わせる。

 では、采女とは本来として如何な字義であったのか。よく解らない。が、取り敢えず、「采」は〈美しい〉ぐらいの意味だから、「美女」ともなろうか。また、采女で思い出すものに、中国医学の古典「素女経」がある。日本に於ける現存最古の医学書「医心房」房内篇にも引用されていたやに記憶する。言ってみれば、〈セックス健康法指南書〉だ。医学の祖ともされる黄帝が素女に「最近、なんか調子が悪いんだけど」と相談する場面から始まる。素女は、「それは悪いセックスをしているからだ」と言って、健康に良い性交を教えるのだけれども、まず「閨房術に達した、とびっきりの佳い女/少女たる仙人」を相手にせよと言う。この「性交によって帝の健康を増進させるに相応しい、技巧に長けた、とびっきりの佳い女・少女たる仙人」が、「采女」だ。素女は様々な体位を述べ、正攻法ではない性交法を幾つも挙げるのだが、此処では内容に触れる余裕はない。

 えぇっと、だから、現代人からすれば後宮の女性は単に帝の劣情を満たすためにのみ〈使用〉されたと思いがちだが、呪術的世界に於いては、帝は国霊を有する現人神でもあるのだから、其の健康は国家の安全保障に関わる重要案件であった。帝が泣こうが喚こうが、無理遣りにでも健康にさせとかなきゃならぬ。本当は可愛い美少年が好きであっても、女性を宛い「健康に良いセックス」を強制せねばならぬ。義務として帝が行う性交があったかもしれぬ。

 また、愛経(カーマ・スートラ)なる印度の有り難い御経がある。これは理想的な性愛関係に至るために、男女が学ぶべきことどもを教えている。天皇の健康法として献上された医心房なんかが、くたびれたオジサンの回春法を追究するを前提にしているに対し、即ち(愉しいとは思えないものの)オジサンにとって都合の良い一方的な男女観に立っているに比べ、愛経は男女ともに愉しむことが前提となっている。だから素女経を引く医心房に於いて、インストラクター采女は、当初から理想的な性の達人/仙人として登場するが、単に性欲処理機もしくはセックス(健康)マシンとして扱われている。それどころか人間を、唯物的な存在として、性行為によって分泌・吸収される体液によって健康になる、化学反応の場、として扱っている。対して愛経は、理想的な性の達人となるべき方法を書いている。また、愛経に於ける性の達人とは、単に性技巧に優れるのみならず、魅力的な話術や仕草を学び教養・知性を磨くことを要件としている。これは当然で、(少なくとも男にとって)セックスは大脳の遊びたる側面もある。対象の仕草、声、会話の内容、これら性交以前の現象による感覚や其の記憶は、性愛に於ける前戯と云って良い。ベッドで同衾する以前に、実は性行為は始まっている。愛経に於いては、総ての知識・教養・知性は、理想的な性交の成就/小さな死に至る為に動員さるべきものなのだ。総ての道は、セックスに通ず。

 とはいえ、愛経も性技巧を軽んじているワケではない。男女は良き伴侶と巡り会う前に、八八、六十四の性愛技巧に習熟すべきだと説いている。中国医学に於ける采女、いきなりセックス健康法の実践インストラクターとして登場する女性は、知性と教養に溢れ性技に達した者であるが、愛経は、云はば此の采女を育成する方法をも視野に入れているのだ。采女になるべく性愛技巧を密かに実習する相手として愛経は、少女と同じ境遇で育ち既に男を知っている乳母の娘・心易く語り合うことが出来て既に性交経験のある友人・同じ年輩の母の妹(叔母)・信頼されており少女にとっては母の妹の如き年長の女性奴隷(シュードラ)・性交経験ある尼・少女の姉……の五種を挙げている。

 更に少女は教養として六十四の技芸、生け花とか物資のリサイクル法を学ばねばならぬのだが、其の一つに、張型/ディルド/人工模擬男根の作り方が取り上げられている。愛経の場合は、男を蕩かし愛される床上手になるため性愛技巧に達する必要を説いているのだが、理想的な女性であるために、同性愛行為が義務教育として施される点は興味深い。則ち、(必要な限り)男女とも貞淑たることを要請する愛経に於いては、女性に対し、女性が男の浮気に就いて嫉妬を覚えることを是としつつ、そんなら女性も不純異性交遊を慎むべきであるが、我慢できなくなったら女性を性欲の対象として使用するよう示唆しているのだ。ディルドは云うまでもなく男の代替物で、男女間性交でも用いられるが、自慰・同性愛行為でも使われる。性愛の何たるかを知らぬ男と安易に姦るぐらいなら、ディルドの方がマシだとも聞こえる。

 

 則ち愛経は、自然なる性欲の存在を前提として肯定し、問題のない処理法を許容しているのだ。しかも、女帝の周りには、何でも云うことを聴いてくれる、諸国から選び抜かれた美少女/采女がゴロゴロしている。采女なる官職が(道教の)字義通りであるなら、性技にも達していたであろう。采女同士、切磋琢磨、日々研鑽を重ねていたかもしれぬ。女帝なら、身近に侍る媚売媚吉、僧侶や男たちを姦することも可能であろうが、政治事件に発展する恐れが大きい。孝謙女帝の例がある。手近にいる美少女を愛する方が、リスクは少なかろう。女帝が采女を犯りたくなっても、私は是とする。双方の合意に基づけば、愛は成立するのだから。因みに医心房では、女性がディルドを用いて自慰に耽ることを禁じている。女性としての精(何等かの体液)が枯渇しないことを健康維持の条件とし、一方的に精を排出する自慰は健康を損なうと考えているのだ。女帝としては、男もダメ、自慰もダメとなれば、残るは采女しかないだろう。

 だいたい「セックス健康法」では「多接して漏らさず」なんてのが極意として語られているんだが、これは数多くの女性を姦しておいて射精しない、って意味だ(ところで医心房に於いては女性も射精する)。健康には良いかもしれないが、なんだかなぁ……、義務としてのセックスは、あんまり愉しくないかもしれない。蛇の生殺しなんてもんぢゃない。考えようによっては、これほど酷い拷問はない。しかも、拷問者たちは、「貴方の為を思って」なんて、文字通り、おためごかしを云うのだ。そう考えると、王たる者は本来、自由を有せずに下々の都合で生かされ、子孫を繁殖させられる、単なる家畜であることに気付く。元より彼らに人権はない。哀れな人種だ。……などと云ううち、予定の行数が尽きようとしている。次回は、もう少し真面目に語りたいと思う。尻切れトンボだが、今回は、これまで。

(お粗末様)

 

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