■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「九等分」

 鶏姦は獄中の規則
    六月四日
       小島仁三郎
自分儀御吟味中入檻被仰付居候処当五月八日岡田善吉と申者新入仕候折柄事無きの余り同人へ相戯れ流行唄謡ひ可申若不謡節は鶏姦犯させるは圏中規則と申欺き其夜遂に同人を鶏姦仕候処翌朝同人より前夜の次第御訴申上自分御吟味を受け恐入候事右之通相違不申上候。以上
(東京日々新聞第三百九十七号/明治六年六月十四日)
  【書き下し】
自分儀、御吟味中、入檻仰せ付けられ居り候処、当五月八日、岡田善吉と申す者、新入し仕り候折り柄、事無きの余り、同人へ相戯れ、流行唄謡い申すべし、もし謡わざる節は、鶏姦犯させるは圏中規則と申し欺き、其の夜、遂に同人を鶏姦仕り候処、翌朝同人より前夜の次第御訴え申し上げ、自分御吟味を受け恐れ入り候。事右の通り相違申し上げざる候。以上
  【口語訳】
私は裁判に引き出され勾留されているわけですが、先月八日、同じ房に岡田善吉という者が新しく入ってきました。私は無聊の余り戯れて、彼に「此処では規則で、新参者は流行唄を歌うか鶏姦させるかせねばならない」と申しました。勿論、そんな規則はございません。(彼は流行唄を歌いませんでしたので?)その晩、私は彼を犯しました。翌朝になって彼が事の次第を訴えましたので、こうして私は取り調べを受けております。いま私が申し上げましたことは、全く間違いございません。以上
     ◆

 当時の東京日々新聞は、まぁ現在の毎日新聞だが、恐らく皆さんがイメージするものとは全く違って【瓦版】なんである。近世には「濫りがましき」ことどもをも書き連ね弾圧されたんだが弾圧されきれなかった所謂、一枚刷りの直系子孫だ。分類上、錦絵新聞と呼ぶ。残念ながら上記は「明治性的珍聞史」(大正十五年・梅原北明)からの引用だから、筆者は現物を見ていない。如何な絵が描かれていたか甚だ興味をそそられるが、入手閲覧された方は画像を送っていただきたい。で、錦絵とは、明治期に隆盛となった、まぁ写実を目指した浮世絵とでも謂うか、漫画の元祖である(それぢゃぁよく解りません←いや、先を急ぐので読者が御自分で調べてくださるよぉに)。
 で、此の記事からは、昔の新聞は警察調書を直接筆写したものだったことが分かる……いや、違う、取り調べのために小島氏が入れられた拘置所で、新入者は流行唄を歌うか、鶏姦をさせるかを選択せねばならない規則があった。これが有名な「鶏姦規定」(改定律例/明治五年十一月)だ。以下に引く。
     ◆
第二百六十六条 凡鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ズ。其姦セラル丶ノ幼童十五歳以下ノ者ハ坐セズ。若シ強姦スル者ハ懲役十年。未ダ成ラザル者ハ一等ヲ減ズ。
     ◆
 あれ? 「鶏姦させろ」ではなく「鶏姦するな」と書いてある。おかしぃなぁ……とボケるツイデに申し上げると、この法律は明治五年に作られた。明治五年とは即ち、琉球王を華族に列して日本に組み込んだり西洋と共通の太陽暦を採用したり国立銀行条例を発したり、廃藩置県(明治四年)地租改正(明治六年)とか丁髷を止めろ(明治四年)だとか刀を差すな(明治三年)とか国会を作れ(明治七年/民撰議院設立建白書)とか徴兵令(明治六年)とか銭湯には男女別々に入れ(明治五年東京府入混湯禁止令/明治二十三年国の混浴禁止令は男女七歳にして席を同じうせずとばかりに七歳以上の混浴を禁止したが、明治三十三年に十二歳以上の混浴を禁止したりしている←全く守られていなかったらしい)とか何とか彼んとか、近代国家の見てくれを無理遣り整えていった時期である。明治政府は、幕府が結んだ列強との不平等条約に頭を悩ませ、日本も文明国だから対等に扱ってよと交渉していたが、まぁ結局、日露戦争っていぅ西洋のパワーバランスに影響を与える事件に出会したことの論功行賞として、平等化が進むことになる。見てくれなんか実は関係なかったんだが、誰に騙されたんだか、日本の醇風美俗「混浴」まで廃したことは、確かに国辱的誤謬であったろう(本気にはしないで下さい)。
 えぇっと此の明治五年に、明治政府が行き当たりばったりに編纂した刑法の祖型が「改定律例」である(施行は明治六年)。明治初年、近世以前の遺風を受け継ぎ且つ粗暴を目指した蛮カラ学生たちが、男の子同士で姦りまくっていた。H(鶏姦)とS(レズ)が、明治の合い言葉である(嘘)。例えば鶏姦に就いては南方熊楠らの記録なんかでも詳らかであるが、筆者は全く関心がないので、如斯き話題がお好きな方は、図書館で調べてみてほしい。学生たちの鶏姦騒動に就いて地方官から困惑の声が上がったため、律例を改定するとき規制したのである。が、明治政府お抱えフランス人ボアソナードが、自国では鶏姦罪がないことから不要と答申、日本の刑法典には組み入れられなかったという(さすがマルキ・ド・サドの祖国だが、カソリックじゃなかったか、フランス?)。近世以前、日本で鶏姦はHEN(雌鶏)タイ/Hエッチではなかったのである(だが、やっぱり鶏に致すのは変態だと思うぞ)。

 閑話休題。明治六年五月八日の事件は、服役囚が、同房の者に歌うか鶏姦を受け入れるか択一を迫られ、歌を拒み強姦されたため、訴え出た事件だ。例えば、現代米国でも刑務所で起こるメイル・レイプは公的に問題化されていたりするし、日本でも近年、刑務官が服役囚の直腸に高圧の水流を流し込んで死に至らしめたりしてをり、同性間に於ける肉体陵辱は閉鎖した特殊な空間で起こりがちな事件ではあるけれども、馬琴にとっての奉公も、牢獄にが在る如きであったか。
 ……いや、そんなことを言おうとしたのではなかった。だから、渡り奉公の下級武士出自で若君の理不尽な命令に抗して出奔した馬琴は、世襲による忠とか絶対服従の忠なんてものから程遠く生きたと言いたかっただけだ。八犬伝以外で、子を殺す忠なんてものを流行作家として書いていた馬琴の【真実】は、執拗なまでに書き続けた八犬伝にこそあったかもしれない。ふと、そう思う。

 ところで「南総七十万石」で、「八犬伝の舞台背景は、一応は封建制」と書いた。封建制だから一応、定員一人の君主は里見家当主だ。何故って、八犬伝なる物語は、当時の出版統制状況からして遠い過去に託さざるを得ず、中世を舞台にして仕舞った段階で、封建制を背景にすることが決定づけられる。が、イメージとしての里見家本拠、それは人生の多くを殆ど核家族レベルの狭い集団で暮らした馬琴にとって濃密な関係の【家庭】かもしれないが、領国の中でも一割より少し多い程度の地域(九万石)譬えるならば核家族レベルの領域に限って本拠とし、その中でのみ、犬士それぞれと里見家当主が「君臣其禄を等しくする」な関係を構築していた。この場合、里見家当主義成は、【君主】ではなくプリンケプス【同等者中の第一位】盟主に過ぎず、象徴君主制に庶い(尤も「庶」いだけで、象徴制に於いて君主は政治的人格を否定されているので「同等」とは言えない)。但し、義成と犬士計九人を社会全体の縮図と見るか、彼ら相互は「同等」であっても彼らの下に人民が外形内面とも封建的に支配されているかと考えるか、判断する明確な根拠はない。が、シリーズで縷々述べてきたように、象徴天皇制への親近性や里見家を人民が進んで奉戴していること、里見家や犬士が質素を旨とし少なくとも貧富の差を顕在化させようとしていない点、安易な世襲制を排していることなどを総合的に鑑みれば、八犬伝の延長線上には、単なる封建制とは違った体制が透かし見えてくる。

 また回外剰筆に載す税率の話で、井田法が引き合いに出されているが、此を、里見家・犬士による安房九等分を思い起こさせるものだと説く論者もある。其処から九曜や大八車、ひいては文殊曼陀羅まで連想が及んでいる。甚だ魅力的な説ながらも、史学を出自とする筆者には、やはり抵抗が大きい。やはり井田法は、まずは税率すなわち領主と人民との間の関係論であって、君主(上級領主)と家臣(下級領主)の取り分比率の話ではないことが、如何しても引っ掛かってしまう。前者は差し出すものであり、後者は分配するものだ。結果としては共に取り分比率の問題だが、ベクトルが全く逆の話なんである。日曜史家の筆者にとっては、このベクトルの向きは絶対であって、看過できぬ重大事だ。勿論、全く違う次元の話もしくは内在するベクトルが逆であっても、結果としての【形】が似ているだけでも引っ張り出し、いはば変換して、相似なる印象のみ与える筆法が、確かに文学には許されている。井田法の図は、九曜までの連想を期待する馬琴一流の隠微な仕掛けかもしれない(だが文殊曼陀羅までは行き過ぎ)。そうかもしれないが、それならばそれで、間にある甚だ大きな隔絶を論理で埋めねば気が済まぬ所も、日曜史家の悲しい性(さが)だ。回外剰筆に於ける井田法は、あくまで仁政(「聖人、唐虞三代、及成湯文武の時」)の言い換えであることを、第一義としている。文脈では、八犬伝の舞台となった室町期の税率を三割五分程度とした上で、井田法は税率一割一分一厘一毛…(以下略。要するに九分の一)と人民の負担の軽い仁政の象徴としている。但し書きとして馬琴は、「和漢戦国の世に至りては、財用続ざれば民に取事のおのづから多くなるべき勢ひなり。今にして井田の法に因ば士を養ふことを得ざるべし」と言い添える。戦争のない聖賢の時代には人民の負担は軽く済むが、争ってばかりいる戦国時代には負担が重くなる。故に聖賢の世が望ましい、と言っているに過ぎぬ。

 しかし此処で、井田法を字義通り解釈して、逆に里見家と犬士の関係を変換しては如何だろう。馬琴の謂う「君臣」からすれば、里見家と犬士の関係は、【君臣であって君臣でない状態】だ。まぁ義成は伏姫の弟だから、叔父甥の関係でもある。里見家は犬士にとって、【同等者中の第一位】に過ぎぬ。領主と人民の関係を示す井田法が、里見家と犬士との関係を謂っているのならば、此処で上級領主(里見家)下級領主(犬士)とも、一段降格させねばならない。すると、領主(里見家)と人民(犬士)に変わる。そして里見家は犬士の「同等者中の第一位」プリンケプスであり、犬士が人民であるならば、其の形は一種の共和制プリンパキトゥスと言わざるを得ない。
 そもそも犬士とは何者であったか。元は宿屋の息子だったり郷士だったり浪人だったりした、武士だ。親の跡を継いだ世襲の者ではなく、二世に減禄させた挙げ句に里見家を致仕させ浪人させる、武士だ。身分/社会的立場は本人の資質に依るものであり、世襲するものでは決してないとのイデオロギーが厳然として其処には在る。
考えてみれば、馬琴の親や兄そして本人は渡り奉公の武士であったし、御家人は株さえ買えば町人でもなれた(一旦は武士身分を棄てた馬琴も株を買って孫を御家人にした)。だいたい、この「株」からして、一代限りの御家人が売買していたものだ。御家人は将軍直参ではあるが、世襲を認められた家と、一代限りの召し抱えがいた。ただ、一代限りでも後継者の指名権が徐々に認められていき、結局、自分の子を指名すれば【世襲みたいなもん】となる。金を貰って他人を指名することを「株」と称した。この事情は、大名家の家臣でも同様で、下級家臣の足軽で代々世襲する譜代者は一部、多くは一代限りの召し抱えであった。ただ此の世襲・非世襲は家格の問題でもあって、やはり永年勤続であれば後継者指名権を認められたし、それで何代か勤めれば世襲の家となっていった。とはいえ、足軽は戦闘に於いて主力である鉄砲・弓の最前線部隊を構成する。頑健であることが求められ、脆弱な者は後継者と認められない場合もあった。中間は一代限り且つ臨時雇いだ。簡単に云えば、世襲とは一定以上の身分の【特権】であり、多くの下級武士は、原則として一代限りの身分であった。供給源は、武家の嫡男以外・農民・町人であった。封建制といえど、実際には境界付近は、かなり流動的ではあった。
また馬琴は息子を医者にしたが、医者は武士ではないにしろ、息子は松前侯に仕え【武士身分みたいなもの】となった。また「士」とは元々教養階級を指す語であり、馬琴のような教養階級は、支配階級である武士とも交遊した。また教養は一代限りのものであり、本人の資質に影響される。単純に世襲できるものではない。即ち馬琴は世襲なる枠からはみ出て絶えず、身分の狭間を流動しながら生きた。馬琴の言葉の端々には、忠とか何とかあるから、ついつい馬琴本人も封建制ベッタリ人間だと判定せざる得ないような錯覚に陥りがちだが、人は現在を生きる者だから、時代に或いは迎合或いは妥協せねばならない。しかし、馬琴の一生は、重箱の隅から目を上げ概観すれば、激しく流動する波に揉まれている。だいたい孫の生活安定を望んで御家人株を買ったというが、それって封建制理念を否定してないか。単に生活安定の為のみ武士になることは、封建制への侮辱に等しい。時代の枠として封建制は、認めないって言っても現実なんだから、在ること自体は認めねば、しょうがない。そういう意味では馬琴も封建制を勿論【肯定】しているのだが、理念としては明らかに【否定】しているのではないか。共和制プリンパキトゥスを夢見た馬琴。

 自分でも突飛な考えかもしれないと思ったりもするけれど、いや、相手は江戸の大変態・馬琴だ。我々が一方的に思い描く時代劇レベルの認識で御一新前、「江戸時代」の枠にムリヤリ馬琴を緊縛して押し込み、勝手に矮小化することが、果たして素直な八犬伝解釈と言えようか。
 稗史小説家である馬琴は、時代によって社会の形が変わることを当然、知っていただろう。日本書紀だけでも豪族政治あり律令制があり、ダイコンミズマシ、その後の藤原摂関政治やら院政やら幕府やら何やら彼にやら。また中国史に造詣の深かった彼は、世襲によらぬ尭舜、封建制の周やら天命を与えられているうちのみ圧倒的な権力を行使でき試験登用した巨大な官僚群を率いる皇帝、いやさ神皇正統記も読んでいた彼は、原始共産制の存在まで知っていた筈だ。歴史には、其の時々の社会の変態ヴァージョンがウジャウジャある。史家は、其の何連をも理想とし得るし、自分なりに複合して新たなモデルを提出することも可能だ。例えば、八犬伝のテクスト自体を全く無視して、それ以前、例えば文化年間に書かれたモノのみを嬉しげに取り上げ、八犬伝テクストと矛盾しているにも拘わらず、其の以前の文言に八犬伝を従属させて反革命性だか何だか、非科学的な事を宣うムキもあるが、論外として無視することが、せめても武士の情けだろう。見なかったことにしておこう。

 結局、馬琴は、当時の通念であった世襲制をアカラサマには否定し得ていないが、隠微に否定していることになる。唯一、天皇に関しては、良心的な態度をとらせつつ、決して出しゃばらせてはいない。出しゃばらせる/人格を明確にすれば、【革命】の対象となってしまうからだ。八犬伝の世界観は、無人格な御輿としての無味無臭無色な天皇のもと、資質によって実際の権柄を執る/指導的立場に座る者が出現し、しかも其れは地方自治の連合政権であった。里見家に対する(変態)管領・関東管領の実質的敗北は、資質の無い者が世襲で権柄を執ることの否定であって、隠微に、当時の政体を批判している、としか八犬伝は読めない。八犬伝本文テクストを、筆者は八犬伝を読む上で、最優先する立場だからだ。

 馬琴が「隠微は作者の文外に深意あり。百年の後知音を俟て是を悟らしめんとす」(八犬伝第九輯中帙附言)もしくは「百年以後の知音を俟べく」(第九輯下帙中巻第十九簡端贅言)と言ったとき、其れは単なる隠微に関する一般論および修辞であった可能性もあるんだが、とにかく「百年」経った時に漸く現れるであろう「知音」に期待したものは何だろう。些末ながら詳細正確な語句解釈を期待したか? それで「百年」って、ちょっと大袈裟に過ぎる物言いだろう。ならば、ストーリーの背後に潜む、当時の体制/枠内に留まっていた同時代人には決して理解し得ぬ論理を読み解くことを、後生(こうせい)に期待したか。だいたい二千六百五十余年(?)の歴史で、天皇は実権を奪われていた時期が長い。また、奪われても指を銜えて見ていなければ、存続できもしなかったろう。何があっても見て見ぬ振り、政治的人格を無化していたからこそだ。否定しようにも、抑も存在しない人格を否定することは出来ない。

 もっとも元々「天皇」は、緊迫せる東アジア状況の産物だったかもしれず、中国大陸や朝鮮半島との対外関係の中で発明された言葉だとの指摘もある。しかし、馬琴の意識は現在歴史学の水準には至っていなかっただろう。だが、対外関係云々にまで思いを馳せなくとも、記紀を一読すれば、天皇が、易姓革命の範疇から這いつくばって逃れようとジタバタ足掻いたことぐらいは、誰だって解る。馬琴は、上記引用でも、「漢は火徳」だとか何だとか言っているが、其れを知ってて日本書紀壬申の乱の記述、大海人皇子側が合い言葉を「火」にした理由を、馬琴が気付かなかったと思いたいなら、八犬伝解釈は恐らく二百年は後退する。少なくとも馬琴が八犬伝を【書いた以前】にまでは後退するしかないだろう。そうではなく、火徳を僭称した大海人側は大友側を一方的に金気に指定したが、金気の復権(ひいては素盞烏やら日本武尊の復権)、すなわち火気たる天皇家への疑問符を馬琴が提示したと考え新たな視覚を立ち上げる方が、八犬伝解釈にとって、遙かに有益だ。
 八犬伝は公衆小説であり、体制的権威にドップリ浸かって解釈しようとしても、無駄だ。馬琴の(保身的?)迷宮に陥り、表層の理解しかできなくなる。また自軍の犠牲は最少でありつつ朝鮮半島に対する日本による唯一のトライアンフを挙げた者が神功皇后であるとは、日本書紀の明示する所だ。記紀は、神仏儒五行をないまぜにした史書であり、どれかに特定して狙い撃ちしようとしても、当たるワケもない。馬琴の世界観に関しても、現代に於いて分類した特定の純化した思想にピッタリ嵌ると考えることこそキチガイ沙汰だ。如何程度の配分かは今後の課題だが、馬琴が実在の人物であれば、当然、様々な思想をゴチャゴチャに内包していただろう。実際、八犬伝でも、儒を纏いつつ仙に遊び、老荘の言葉で煙りに巻きつつ心学に触れ、単純素朴な情を語って、世智を述べ徳から離れもするが、和歌のココロも忘れない。こんな馬琴を、浅薄な理解で解ったように語ることは、それこそ滝沢解に対する最悪の陵辱であろう。H(鶏姦)野郎である。とか何とか言ううちに、やっぱり制限行数である。今回も、締めの言葉を探しつつ、毛野は文殊シリ菩薩、不必要に鶏姦(analKoitus)まで話題を広げウダウダ迂遠に書き連ねたが、そろそろココロに形が現れてきた。次回こそ尻仕舞い、尻ーズ……ではなかった、シリーズを仕舞いたい。(お粗末様)

 

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