伊井暇幻読本「太陽の眷属」

 関東連合軍と里見家の大戦に於いて、鎌倉の管領・山内上杉顕定が思い付いた駢馬三連車に、里見側・国府台の信乃・現八は苦戦する。八犬伝と水滸伝との関係は夙に指摘されているが、此の「駢馬三連車」を、水滸伝で(主人公側の)梁山泊軍を苦しめる、呼延灼の「連環馬」に繋げて考える論者は多い。梁山泊側は東京金鎗斑教師・徐寧を騙して引き入れ、唯一連環馬を倒せる鈎鎌鎗法を教えてもらう。果たして梁山泊軍は連環馬を破る(百回本水滸伝第五十五回「高大尉大興三路兵 呼延灼擺布連環馬」乃至第五十七回「徐寧教使鈎鎌鎗給 宋江大破連環馬」)。
 馬は強い。鉄甲を着けた馬なら尚更だ。二尺三寸ばかりの日本刀では、文字通り太刀打ち出来ない。戦場で馬を薙ぎ倒す為に、二メートル以上もある大刀が日本でも使われたし、大鎌で馬脚を狙う兵法もある。徐寧の鈎鎌鎗法は、唯一とは言わぬまでも、有効な対策だ。そして、確かに「駢馬三連車」と「連環馬」はコンセプトが似ているし無関係ではないと思う。しかし、直接的な模倣でないことは確かだ。第一に、信乃が連環馬を破った策は、鎌でも槍でもない。火計だ。しかも当初の予定とは食い違い、猪の角に松明を着けて駢馬三連車の軍団に突入させ、打ち破った。

 ところで、信乃が火計で用いた猪は、戦場近くの摩利支天河原に漂着したところを名僧が憐れみ村で飼っていたものだ。何故に川をドンブラコと猪が流れていたかと言えば、関東の不穏な動きを察知した里見が領内で水陸の軍事演習を行ったのだが、陸戦演習は狩りを以て換えた折、獲物の猪を殺さず川に流した故である。〈ほほぉ、山で平和にブヒブヒ暮らしていた猪を狩り捕らえ捨て猫の様に川に流した挙げ句、火を取り付け戦場に放り出して危険な目に遭わせるのかね〉と、私は言わない。何故なら、猪たちは、元々火計の為に、山から摩利支天河原へ派遣されていたと見るべきだからだ。
 抑も摩利支天とは、太陽神の眷属である。但し、太陽そのものではなく、陽炎を象徴している。光/影/形を構成する者そのものではなく、其の光を揺らめき動かす者である。故に、摩利支天自体は見ることが出来ないとされ、日天さえも摩利支天の余りの素早さに視力を以て捉えることが出来なかった。此の疾さを、〈猪に乗っているほど速い〉と表現し、図像に於いては三面六臂(とか色々)で猪に乗っている姿を写す場合が多い。三面とは菩薩形(美青年)童女・憤怒形であるが、天女の姿を採ることもある(佐和隆研編「仏像図典」吉川弘文館)。猪武者ではないが、猪の勇猛さからであろうか、武士の尊崇が篤かった。
 信乃が火計に用いた猪は、猪によって象徴される「摩利支天」の河原に猪が流れ着いていた。こりゃぁ如何考えたって、摩利支天だろう。そして摩利支天が陽炎すなわち太陽の眷属(の下っ端)ならば、太陽神・伏姫に使役されることは、当然である。猪たちは、偶然の災難によって故郷の山から排除され国府台近くまで流されたのではない。伏姫の神慮陰謀……深慮遠謀によって、信乃の配下たるべく派遣されたのだ。第百六十八回挿絵「霊猪二たび神力を見す」で「伏姫神霊」は、まるで愛らしいペットを見る如く微笑しげに猪を眺めている。但し、猪に蹂躙された人々亥には死者も出ている。かなり殺伐とした光景なのだが。ところで実は摩利支天、元は印度の風の女神だったようで、その様に考えると更に面白い考察が可能ではあるけれども、筆者が現時点で〈摩利支天イコール風の女神〉なる情報を当時の馬琴が知り得た可能性を確認できておらず、保留する。

 ことほど左様に、既に神霊である伏姫の擁護を得た里見勢は、天を仲間につけたに等しい。まぁ流石の猪だって、眼前の角に松明を着けられたら、前に進める筈もなく其の場でのたうちまわって火を消そうとするだろうから、里見軍が混乱に陥るだけなのだが、そんなツッコミは此の際、無意味だ。伏姫の擁護により、太陽神/天が仲間であると確認された、との象徴的意味を酌み取れば良い。
 良いのだが、国府台合戦に於ける〈駢馬三連車〉対〈火猪〉は水滸伝のモジリと考えるより、三国演義・赤壁の戦を陸戦に移したと見るべきだろう。馬を繋ぐは「連環馬」ではなく、赤壁水戦の「連環の計」に相当する。一旦は里見軍に対して優位に立った駢馬三連車は、火計に遭って余計に被害を広げた。相違点は、赤壁では呉軍の計略で曹操軍は艦船同士を繋いだが、国府台では顕定自ら発案し墓穴を掘っている所だ。結果的に、顕定の愚かしさが、より強調されている。ならば国府台に、孔明の七星壇、巽風はあるかと言えば、そんなもんはない。なくても良いから、ない。七星壇だろうが奇門遁甲だろうが、天の専権事項である天候気象を願い通りにするは、即ち、天を味方につけることである。天を味方にしたことは、猪を仲間に引き込んだことに象徴されている。とは言え、それでは余りに身も蓋もない。馬琴は、孔明の〈雰囲気〉ぐらいは国府台に漂わせることを忘れなかった。

 遅れ馳せに現れた犬江親兵衛仁は、孔明が編み出したという八卦陣を用いた。「我嘗富山に在りし時、姫神授与の陣法あり、孫子の八門遁甲の陣是なり。蜀漢の諸葛武侯よくこの陣を布設て、もて照烈の危窮を救ひしかば那里の俗は是を孔明が八陣とも又八卦の陣ともいへるなり。其陣法は箇様々々……(中略)……今是を八十余名づつ八に分ちて八門を守らしむべし。這一門毎の隊長は、政木生・姥雪叟と直塚・須々利・二四的・五十三太・素手吉と我と八名にて足れりとす。其進退は我這軍扇をもて指揮せん。皆よく我手に従ふて景春を擒にすべし。景春●(ニンベンに尚)この陣をよく知りて東方生●(旡にレンガ)の門より入りて北方五鬼の死門を突破り又生門より出るならば其闘戦互角ならむ。他知ずして死門より入らば嚢の物を探るが如く必一人だも漏すべからず。或は又景春この陣を知らずとも他も亦然る者なれば、其機を査し且疑ふて戦はずして退かば只緩やかに是をーふべし。必急に追撃つべからず。他我ーふことの遅きを見て焦燥て急に反し合せて三七二十一に突もて蒐らば胡意軽く戦ふて詭り敗れて走るべし……後略」。
 これでは何のことやら解らないだろうから、本家の三国演義で「八卦陣/八陣/八門陣」を見てみよう。まず、有名な孔明と司馬懿の陣比べだ。
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前略……孔明曰汝欲闘將闘兵闘陣法。懿曰先闘陣法。孔明曰先●ニンベンに布/陣我看。懿入中軍帳下手執黄旗招展左右軍動排成一陣、復上馬出陣問曰汝識吾陣否。孔明笑曰吾軍中末將亦能布之此乃混元一氣陣也也。懿曰汝●ニンベンに布/陣我看。孔明入陣把羽扇一搖復出陣前問曰汝識我陣否。懿曰量此八卦陣如何不識。孔明曰識便識了敢打我陣否。懿曰既識之如何不敢打。孔明曰汝盡管打來。司馬懿回到本陣中喚戴陵張虎樂琳三將分付曰今孔明所布之陣按休生傷杜景死驚開八門、汝三人可從正東生門打入往西南休門殺出復從正北開門殺入此陣可破汝等小心在意、於是戴陵在中張虎在前樂琳在後各引三十騎從生門打入、兩軍吶喊相助三人殺入蜀陣只見陣如連城衝突不出、三人慌引騎轉過陣脚往西南衝去卻被蜀兵射住衝突不出陣中重重疊疊都有門戸那裡分東西南北三將不能相顧只管亂撞但見愁雲漠漠慘霧濛濛喊聲起處魏軍一個個皆被縛了送到軍中。孔明坐於帳中左右將張虎戴陵樂琳並九十個軍皆縛在帳下、孔明笑曰吾縱然捉得汝等何足為奇吾放汝等回見司馬懿教他再讀兵書重觀戰策那時來決雌雄未為遲也、汝等性命既饒當留下軍器戰馬、遂將衆人衣服脱了以墨塗面歩行出陣。司馬懿見之大怒回顧諸將曰如此挫敗鋭氣有何面目回見中原大臣耶、即指揮三軍奮死掠陣、懿自拔劍在手引百余驍將催督衝殺。兩軍恰才相會忽然陣後鼓角齊鳴喊聲大震一彪軍從西南上殺來乃關興也。懿分後軍當之復催軍向前廝殺。忽然魏兵大亂原來姜維引一彪軍悄地殺來蜀兵三路夾攻。懿大驚急忙退軍蜀兵周圍殺到懿引三軍望南死命衝出、魏兵十傷六七。司馬懿在渭濱南岸下寨堅守不出……後略(第百回「漢兵劫●塞の土が水/破曹真 武侯闘陣辱仲達」)
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 自信満々に孔明の陣を破ると宣言した司馬懿であったが、何処を如何突いても孔明の陣を破るどころか却って包囲される。孔明に嘲られ頭に血が上って余計に訳が分からなくなった司馬懿は惨敗する。因みに司馬懿は、恐らく当時最高の軍師であったが、実体が能く分からない孔明の引き立て役として、稗史・三国演義ではコケにされまくっている。そして孔明が此の陣法を編み出す過程で作られた砦があった。其処に、呉の勇将・陸遜が迷い込んだ時の挿話が、以下である。
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前略…天遜問曰何人將亂石作堆如何亂石堆中有殺氣沖起、土人曰此處地名魚腹浦諸葛亮入川之時驅兵到此取石排成陣勢於沙灘之上自此常常有氣如雲從内而起。
陸遜聽罷上馬引數十騎來看石陣立馬於山坡之上但見四面八方皆有門有戸。遜笑曰此乃惑人之術耳有何益焉遂引數騎下山坡來直入石陣觀看。部將曰日暮矣請都督早回。遜方欲出陣忽然狂風大作一霎時飛沙走石遮天蓋地。但見怪石嵯峨槎□似劍沙立土重疊如山江聲浪湧有如劍鼓之聲。遜大驚曰吾中諸葛之計也急欲回時無路可出。正驚疑間忽見一老人立於馬前笑曰將軍欲出此陣乎。遜曰願長者引出。老人策杖徐徐而行徑出石陣並無所礙送至山坡之上。遜問曰長者何人。老人答曰老夫乃諸葛孔明之岳父黄承彦也昔小婿入川之時於此布下石陣名八陣図、反復八門按遁甲休生傷杜景死驚開毎日毎時變化無端可比十萬精兵。臨去之時曾分付老夫道後有東呉大將迷於陣中莫要引他出來、老夫適於山巖之上見將軍從死門而入料想不識此陣必為所迷、老夫平生好善不忍將軍陷沒於此故特自生門引出也。遜曰公曾學此陣法否。黄承彦曰變化無窮不能學也。遜慌忙下馬拜謝而回。後杜工部有詩曰功蓋三分國、名成八陣圖、江流石不轉、遺恨失呑呉……後略(第八十四回「陸遜営焼七百里 孔明巧布八陣図」)
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 如何な仕掛であったか不明だが、時々刻々変化する石の砦、もしくは模型があったという。攻める側は、案外、完璧な包囲網を組めないものだ。組んだ積もりでも、決死の覚悟を決めた相手に破られもする。孔明は恐らく、自らが砦に入り、必死に脱出法を考え、其れを以て包囲網の完璧を期したのだろう。何たって天才軍師自らが音を上げる包囲網なら、誰にだって破れはしない。こうして編み出した無数の包囲法を実践に用いた場合、以下の様になる。
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前略……兩軍列於祁山之前。維按武侯八陣之法依天地風雲鳥蛇龍虎之形分布已定。ケ艾出馬見維布成八卦乃亦布之左右前後門戸一般。維持槍縱馬大叫曰汝效吾排八陣亦能變陣否。艾笑曰汝道此陣只汝能布耶吾既會布陣豈不知變陣。艾便勒馬入陣令執法官把旗左右招變成八八六十四個門戸、復出陣前曰吾變法若何。維曰雖然不差汝敢與吾八陣相圍麼。艾曰有何不敢。兩軍各依隊伍而進、艾在中軍調遣、兩軍沖突陣法不曾錯動、姜維到中間把旗一招忽然變成長蛇卷地陣、將ケ艾困在垓心四面喊聲大震、艾不知其陣心中大驚。蜀兵漸漸逼近、艾引衆將沖突不出只聽得蜀兵齊叫曰ケ艾早降、艾仰天長嘆曰我一時自逞其能中姜維之計矣。忽然西北角上一彪軍殺入、艾見是魏兵遂乘勢殺出。救ケ艾者乃司馬望也。比及救出ケ艾時祁山九寨皆被蜀兵所奪、艾引敗兵退於渭水南下寨。艾謂望曰公何以知此陣法而救出我也。望曰吾幼年遊學於荊南曾與崔州平石廣元為友講論此陣、今日姜維所變者乃長蛇卷地陣也。若他處撃之必不可破、吾見其頭在西北故從西北撃之自破矣。艾謝曰我雖學得陣法實不知變法、公既知此法來日以此法復奪祁山寨柵如何。望曰我之所學恐瞞不過姜維。艾曰來日公在陣上與他闘陣法我卻引一軍暗襲祁山之後、兩下混戰可奪舊寨也。於是令鄭倫為先鋒艾自引軍襲山後一面令人下戰書搦姜維來日闘陣法。維批回去訖乃謂衆將曰吾受武侯所傳密書此陣變法共三百六十五様按周天之數今搦吾闘陣法乃班門弄斧耳但中間必有詐謀公等知之乎。廖化曰此必賺我闘陣法卻引一軍襲我後也。維笑曰正合我意、即令張翼廖化引一萬兵去山後埋伏……後略(第百十三回「丁奉定計斬孫●イトヘンに林/ 姜維闘陣破ケ艾」)
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 相手の動きに合わせて無数の選択肢の内から最強の包囲網を採用し対応する、其れが「八卦陣」の正体らしい。八方に門を構える理由は、戦場に〈升目〉を引いて敵の動きを駒各類型化、加えて死角のない様にするためだろう。孔明が密かに伝えた文書には、三百六十五通りの陣形変態(ヴァリエーション)が記されていた。……が、此は多分、単なる数合わせ分類に過ぎず、順列組み合わせの応用で、無数に膨らみ得る。結局、「八陣」なる固定した陣形があるのではなく、指揮官の条件反射ともいえる瞬時の判断によって最良の対策を講じるだけの話だ。言い換えれば、〈天才が指揮すること〉が「八陣」の本体である。孫子の虚実篇象水条「夫兵形象水、水之形、避高而趨下、兵之形、避實而撃虚。水因地而制流、兵因敵而制勝。故兵無常勢、水無常形。能因敵變化而取勝者、謂之神。故五行無常勝、四時無常位、日有短長、月有死生」である。但し、上記の長蛇とか何とかいう陣形は、それぞれ切り離され、日本では、例えば、方円、鋒矢、衡軛、鶴翼、偃月、長蛇、雁行、魚鱗なんて呼ばれたりする(「甲陽軍鑑」)。魚鱗・鶴翼は、八犬伝にも登場する(が、第一回で義実・貞行・氏元の三人で作るとすれば単に、中央の義実が少し遅れるか/鶴翼/先に行くか/魚鱗/ってだけのことなんぢゃないか?)。

 上記で見たように、国府台合戦に於いて明らかに表現されているは、里見側が天を味方につけている義軍であること、山に守られた蜀漢ならぬ海に守られた安房は圧倒的に劣勢を強いられていた王朝であったにも拘わらず人気のあった劉備の軍に擬せられている、天才にしか使えない八陣を仁が「伏姫」に教わったからと弄ぶことで仁が孔明に比肩する軍事的天才を有している、などである。また、天に扶けられ火計に成功した部分は、圧倒的優位を誇る〈賊軍〉曹操を劉備と呉の連合軍が乾坤一擲破り去った赤壁の痛快を陸戦に移したものである疑いもある。当時、吉原なんかへ足繁く通っていた(エロ)おやじ読者なら、猪の牙を使った火計から「猪牙舟(ちょきぶね/細長い船体で船足の速い小型船で隅田川を上下し吉原に客を運んだため川柳では吉原を暗示する語彙となっている)」を思い浮かべ、そして、快速小型艦艇が大艦隊に突入し火計を行っている様を連想するかもしれない。

 と、こうなったら、三国演義、赤壁の戦いに就いて語らねばなるまい。周知ではあろうが、本シリーズの関心に引き付けて、要約してみよう。
 劉備と組んではみたものの、孔明を邪魔に感じた呉の都督・周瑜は、孔明に難題を持ちかけた。果たせなければ、殺す積もりだ。八犬伝では第三回、里見義実が安西三郎大夫景連に難題を言いつけられ(知らぬうち)危機に陥っている。周瑜は、来るべき曹操軍との水戦に備え、十日以内に十万本の矢を調達するよう、孔明に命じる。孔明は三日あれば十分だと、気軽に引き受ける。三日後、孔明は呉軍から各々千余束の草を積んだ船二十隻と軍士三十人を借り受けた。圧倒的な曹操軍の目前へと、此の小船隊で突入した。孔明がヤケを起こして自殺行為に走った、と見守る呉軍は思ったかもしれない。曹操軍は船隊に雨霰と矢を浴びせる。草束に十余万本の矢を確保した頃、孔明は「令各船上軍士斉声叫曰謝丞相(曹操)箭」、「此頃曹軍塞内放置曹操時這裏船軽水急已放回二十余里追之不及曹操懊悔不已」(「三国演義」第四十六回「用奇謀孔明借箭 献密計黄蓋受刑」)。
 孔明の機転に感服した周瑜は孔明に、曹操攻略の策を乞う。「孔明曰都督且休言各自写於手内看同也不同瑜大喜教取筆硯来先自暗写了却送与孔明孔明亦暗写了両個移近坐●(テヘンに日のした羽)各出掌中之字互相観看皆大笑原来周瑜掌中字乃一火字孔明掌中亦一火字」(同上)と思わせぶりたっぷりに火計を決した条は、八犬伝第百五十三回、八百八人の計に相当しよう。なれば孔明が毛野、美周郎(美しき周瑜)が信乃か。具体策を練る周瑜に、孫堅の挙兵と共に配下に加わり董卓討伐に従った歴戦の猛者・黄蓋が「苦肉の計」を申し出る。社会的地位が高く極度の緊張を強いられる者は案外、被虐趣味があるという。しかも黄蓋自信、(鉄)鞭の使い手だった。勿論、私は黄蓋にそういう趣味があったと思いたくないが、黄蓋、自ら鞭打たれ一頻り喘ぎ悶え、「打得皮開肉綻鮮血迸流」(同上)、苦肉の状態になるまで、美形の周瑜に責められた。黄蓋が、密かに悦び興奮していたことは疑いない。そして黄蓋は、逃げて曹操に降る。何も知らされていなかった孔明は、しかし黄蓋が偽りの投降で曹操軍に入り込み、火を放つ積もりだと見抜いた。曹操を討つ謀のためであるから、杖で打たれつつ黄蓋が「密かに悦び興奮していたことは疑いない」のだ。これが有名な「苦肉の計」である。八犬伝第二十四回、蟇六が信乃を騙そうと神宮河で溺れて見せるなんてモノを「苦肉の計」(同回挿絵)とは、余りに意味を拡張し過ぎだ。せいぜい〈呉越同舟〉ぐらいだ。まぁ、八犬伝第百五十八回、浦安友勝が猿八を投げ飛ばし扇谷上杉定正に偽り降って、音音が火計実行犯として潜入する条が、黄蓋のエピソードに似ていなくもない。
 さて行数が尽きた。次回も赤壁の話を続けよう。(お粗末様)
  

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