◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 火にして水なる者」
                                                                                         -日本ちゃちゃちゃっシリーズ6-

 八犬伝は、永享の乱に端を発した、と言い得る。永享の乱で関東公方が上杉家と室町幕府軍に破れ、関東公方の息子である春王・安王が結城氏に庇護された。結城氏も上杉および幕府の軍勢に攻められ、遂に滅亡した。この戦いで結城方に就いた里見季基(各種史料では「家基」)が討たれ、息子の義実が生き残った。義実は相模から安房へ、それは頼朝が石橋山合戦で破れて安房へ逃げた海であり、弟橘姫が入水した海でもあった。義実は安房で身を立てた。「永享の乱」が口火となって、結城合戦とか嘉吉の乱とか経た後、応仁の乱となり、日本は<下克上>、戦国時代に突入する。
 

 因みに、「下克上」とは、何となく<主君を臣下が討ち滅ぼす>ぐらいの意味で使われることが多いが、本義は、五行説に拠る。即ち、水克火、火克金、金克木、木克土、土克水、の<五行相克>の理が自然の流れだけれども、この関係を逆転した、例えば、木克金、みたいなのを、下克上と謂う。これは、<物理法則すらグチャグチャになった混乱の世界>を意味するのだ。秩序の無化、である。主君を臣下が討ち滅ぼすこと自体は、別に珍しいことでも理に逆らうことでもない。そして、里見家は、秩序がグチャグチャ、自然の摂理に反した戦国の世に、正しく五行説に即した世界を構築した。このコントラストこそが、八犬伝の神髄だ。平和で秩序だった世の中で、安房なる小国を秩序立てたならば、里見は別に名君でもないし、当たり前のことをしたに過ぎない。周囲の混沌が前提としてあるからこそ、八犬伝の里見は照り輝いているのだ。その「混沌」を惹起したのが、「永享の乱」だ。ならば、永享の乱は、八犬伝にとって、無視できない事件であろう。

 永享の乱を扱った史書/「物語」が「永享記」だ。が、永享の乱の話だけを書いているのではない。乱が終わっても、暫く筆を擱かない。何故だか唐突に、太田道灌の話になっちゃってるのだ(群書類従版)。太田道灌は、江戸を開拓した人物として有名だから、江戸期の江戸では結構な名士だったであろう。子孫は旗本だったし。この道灌の事績を記す部分に、甚だ興味深い記述がある。

 「或記曰。文明年中。道灌江戸城にも河越の如くに。仙波の山王を城の鎮守に崇め。三芳の天神を平河へ移し給ふ。文明十年戊戌六月五日。日河社に視へ。津久戸明神を崇め給ふ。又神田の午頭天王。洲崎大明神は。安房洲崎明神と一体にて。武州神奈川品川江戸。何も此神を祝ひ奉る。或人の云。平親王将門の霊を。神田明神と奉崇とかや」(群書類従版)。

 「安房洲崎明神」、此処が八犬伝世界で最重要ポイントである事は、論を俟たぬだろう。其の洲崎明神と、馬琴にも馴染み深かった神田明神は、「一体」なのだ。洲崎神社は、古代に於ける神々の戸籍原簿、延喜式巻九神祇九すなわり神名帳(エンギシキシンメイチョウ)にも載せられた由緒正しい古社だ。此は、其の筋では、とても凄いことだったりする。今では神社なんてウジャウジャあるが、神名帳に載せる神社は二千八百六十一しかない。此にチョットでも引っ掛かってたら、「式内社」として自慢できる。千年以上も前から朝廷に認知され戸籍に連なっていたのだから。また、式内社の中でも序列がある。上位四百九二座を「大社」とする。うち三百四は、朝廷の重要な祭儀、新年・月次・新嘗などの祭りで神祇官から幣を受ける。これが「官幣大社」。また更に、就中、七十一は相嘗祭に与かる資格を有する。官幣大社以外の百八十八を「国幣大社」と呼ぶ。

 安房国の項を見ると、六社が挙げられている。安房郡には二社ある。驚くべきことに、二社とも「大社」だ。「安房坐神社(アワニマスジンジャ)」と件の洲崎明神である。安房坐神社は、官幣大社の中でも格の高い、相嘗祭で官幣を受ける「名神大社」であり、しかも、安房郡全土を「神郡」として領有することを許されていた。神郡を有する社は、全国に七つしかなかったと言われている。最高級の神であった。洲崎明神の方は、やや劣るとは言え、大社のうちである。式内社でもない神田明神なぞ、足下にも及ばない。洲崎明神、神名帳の表記は、「后神天比理乃▼命神社」(▼はクチヘンに羊:以下同じ)である。即ち、彼女は、安房坐神社の配偶神なんである。安房坐神社の祭神こそ、古語拾遺が執拗に地位を高めようとした、天太玉命だ。そう、天比理乃▼命は、此の玉もて太陽復活の呪術を執り行う神の、配偶神に他ならない。この夫婦、神名帳、戸籍上は、一応、夫の方が格上だ。が、其れは所詮、戸籍上の話だ。妻が夫の名字を名乗り、即ち夫に<所属>しているが如き体裁を採る家庭は多かろうが、すべての夫婦が<亭主関白>ではない。実質的には<かかあ天下>、夫が妻に隷属するが如き形態も、稀ではなかろう。いや、甚だしきに至っては、夫が妻に緊縛され鞭打たれ蝋を垂らされて、「女王様ぁ」、奴隷状態に置かれていないとも限らない。

 ところで「一宮」と呼ばれる神社が、各国にあった。<その国を代表する神社>だ。何故にこんなモンがあるかと言えば、昔は各国に中央から地方長官が派遣された。国守というんだけど、国守は赴任したら国の神々に挨拶しなければならなかった。安房みたいに六つしかない国は良いけど、何十とある国は大変だ。そこで代表的な神社だけ挨拶回りをすることになったのだが、如何しても抜かせない最重要の神社を「一宮」に設定したらしい。この神社に参詣すれば、国中の神社を回ったぐらい<御利益>があるのだ。……確かに狡いんだけど、こういう発想が他に無いでもない。例えば、大きなお寺に行くと、境内に三十三の観音像を並べている所がある。この三十三体の観音様を拝むと<西国三十三カ所>とか、まぁ付近の観音霊場を回ったのと同じ御利益があるというのだ。単なる<客寄せ>かもしれないが、実際に信仰する人が居るのだから、馬鹿には出来ない。まぁ、それほど日本で<観音信仰>が広く深く根付いていた証左である、とでも言っておこうか。閑話休題。

 元来は神名帳に載せる如く、「安房坐神社」の方が格上であったろう。<安房国一宮>は安房坐神社であるべきだし、古代に於いては、そうだった。が、寺社は様々な要因によって盛衰を繰り返す。戦乱で焼亡することもあろうし、勢力を伸ばした一族の奉じた神が影響力を拡大することだってあるし、奇跡だか偶然だかで人々の信仰を急に集めだすこともあろう。一宮は、変わり得た。何時からかは判然しないが、多分、中世のうちに、洲崎神社が一宮として扱われるようになった。何たって、「源楽翁」の筆にかかる「安房国一之宮」の扁額が洲崎神社に残っているのだから、一宮として扱われたことは間違いない。「源楽翁」、<源氏の楽しいジイチャン>と名乗る此の人物を、読者は既に知っている。馬琴と交渉もあった江戸後期一級の文化人、そして大ゴロツキの松平定信である。定信は、海外列強が日本近海に出没するようになったことを恐れる幕府の命で、房総半島を守護する任務に就いた。当地を巡検した折りに「狗日記」なる簡単な地誌を書いた。定信は、安房と無関係な人物ではないのだ。まぁ、それは措いといて……。

 洲崎明神と安房坐神社の地位が逆転した背景には、源頼朝の存在があった、かもしれない。鎌倉幕府の正史、とまでは言わないが、公式の日誌であった吾妻鏡では、頼朝が三浦半島(土肥真名鶴崎)から海路、安房(平北郡獵島)に逃げ出したと書いている。治承四年八月二十八日に出発して翌日、到着している。先立つ二十七日には、頼朝に一味した武士達が、やはり土肥郷岩浦から、安房を目指して船出している。彼らは頼朝を獵島で迎えている。しかし、正史でも何でもない「物語」、いや物語と言っても馬鹿には出来なくて、庶民にとっては、コッチが<歴史>だったりしたんだろうけど、頼朝の事績は、義経記や源平盛衰記なる物語によって知られていた。両書は何連も、頼朝が安房国洲崎に上陸したと書いている。出発場所は、「三浦」としか書いていない。獵島と洲崎、かなり離れている。多分、獵島の方が正解だろう。

 しかし、義経記や源平盛衰記の作者が間違った、若しくは誤解したとて、それは仕方のないことだったかもしれない。後に、頼朝は、洲崎の或る神社を妙に深く尊崇し、多くの領地を寄進している。また此は不可思議な点でもあるが、三浦半島から洲崎に逃げ込んだ頼朝は、神社で歌を詠じたとされてもいる。「源は同じ流れぞ岩清水 せき上げてたべ 雲の上まで」。「岩清水」は源氏の氏神「石清水八幡」を指している。即ち「源は同じ流れぞ岩清水」は「源氏の源を辿れば(石清水)八幡だから、俺とアンタ(洲崎の神)は親戚ってことになる」。「せき上げてたべ 雲の上まで」は「その親戚甲斐に俺に力を貸して、今の苦境から救ってくれ。今の俺は、戦に敗れ追われる身の日陰者なんだが、陽光を遮る雲の上まで俺を持ち上げて、再び日の当たる身の上にして欲しいもんだ」となる。此処では、八幡=洲崎明神となっている。甚だ不可解だ。が、八幡=応神との観念を捨てれば、例えば、八幡=神功皇后と理解すれば、女神である天比理乃▼命との接点が現れる。

 神功皇后、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、仲哀天皇の后である。仲哀は、誰あろう、景行の猛々しい二男坊・日本武尊と、両道入姫、「ドッチからでも入ってこんかい!」、勇ましい名前の女性との間に生まれた二男坊だ。因みに仲哀は、熊襲征服の途上、朝鮮半島への侵略に誘惑する神の言葉を疑うような事を言って、誅殺された。惟えば、祖父も傲慢な言の咎により殺されたが、なかなか進歩のない血筋のようだ。其れは、さて措き、神功皇后は、朝鮮半島侵略を実行した。「斧鉞」を親(ミズカ)ら執って、三軍を奮い立たせた。別嬪さんの軍装は、男装の麗人・川島芳子ぢゃないけれど、男を震い付きたくさせる。紀では、一応、此の侵略戦争は無血のうちに大勝利したことになっている。神功の軍船には「旌旗耀日」(旗が陽光に輝いた)とか「日本」とか、何やら後世の対外硬派を思い起こさせるような、太陽の国・神国日本、みたいな書き方をしており、皇后と太陽の親近性をも感じさせる。勿論、此の巻には、太陽の女神「天照太神」や伊勢神宮も登場する。

 洲崎神社は、何時の頃からか、夫・安房坐神社を押し退けて、「安房国一之宮」に出世した。ならば、天比理乃▼命、一体、何者だったのか? 悪いけれども解らない。ただ、馬琴は多分、太陽神もしくは其の眷属だと考えたかもしれない。玄同放言に於いて、「日」に拘った馬琴である。そんな馬琴が、「比理(ヒリ)」を「ヒル」と読み替えたか「日理」と置換したか、とにかく太陽神系だと感じたかもしれない、というだけの話なんだけれども。論者によっては、「比理」を「ヒル」と読み替えるが、それを「蒜(ヒル/ニンニク)」と推定したりする。即ち、天比理乃▼命は「ニンニク女」と解釈するのだ。いや、蒜(ヒル)は雑草の如く何処でも栽培できるし、古代から庶民の重要な食料もしくは薬として用いられていたが、でも、「ニンニク女」はアンマリじゃないかろうか。

 此処では太陽神系の輝ける女神だと考えておきたい。社伝に拠れば、洲崎神社の御神体は、天比理乃▼命の遺髪と彼女の遺した<鏡>だったそうだ。<鏡>は太陽神系の御神体として、なかなか相応しい。また、折口信夫の名を用い、<水の神かも>と言いたげな論説もあるが、折口が語っているのは天照太神に就いてである。天照が太陽神として、そして「皇祖」として確固たる地位を占めたのが何時の事だか実は解らず、それは記紀成立以前としか特定しようがないのだけれども、其の記紀にさえ天比理乃▼命の名は全く見えず、太陽復活呪術の行者として、太陽神神話の脇役として漸く登場する太玉命の妻としてしか知られていないことは、即ち、天比理乃▼命が、天照が太陽神としての地位を固めた後に派生した神だと考えた方が自然だ。「自然」は<絶対>ぢゃぁないけれどもね、蓋然性の問題。だいたい、太陽復活呪術の行者/太玉命の配偶者なんだから、やっぱり、太陽神系の女神と考えるべきだろう。そして、だからこそ、太陽神の(少なくとも)ハシクレである天比理乃▼命に対し、其の太陽神の復活を祈る祭司が<従>の立場をとることが、とてもスンナリ理解できるし。祭司って一応、形式的には、祀る対象に<奉仕>するモンだから。

 とか何とか言いつつも、<水の神>とは言わないが、天比理乃▼命、彼女が<お水系>の女神だと、実は私も思っている。但し、まったく別の理由からだ。折口の論考は、天才的というか、まぁ神懸かり的であり、凡才の筆者には、納得し難い所がある。

 読者は洲崎神社に行ったことが、おありだろうか。館山市の中心部から海岸線を車で走り二十分ほどか、寺の赤門が横目で見えた所で停まる。「赤門」とは、なかなかに格式が高いことを表すが、本当に其の資格があるのか疑わしい小刹である。寺というのは見かけに依らない。案外、格が高かったりするから油断が出来ないのだが、……でも、やっぱり、この寺に赤門の資格はないんぢゃないかと今でも私は疑っているんだけれども、赤門だから仕方がない。養老寺なる真言宗の寺で、どうやら昼間は幼稚園になっているらしい。境内には、役行者が籠もったとか伝える石窟というか岩の窪みが実際にある。苔むし、なかなか良い雰囲気だ。寺の隣が、洲崎神社である。古ぼけたペンキ塗りの看板に「安房国一之宮洲崎神社」とか何とか書いている所が、もの悲しい。一の鳥居を潜り境内に入ると、比較的新しい石碑があり、鏡が如何たら書いている。中門は、小さいながら装飾を施し、なかなか立派だ。狛犬を、いっぱい彫りつけてある。其処から急峻な石段を二百段とは言わない、でも百五十段以上はあったと思うが、息を切らして上ると正面に拝殿、左手に稲荷と小さな祠がある。深い森の中に、小さいながら静寂な空間が現出し、変な言い方だが、<神社らしい神社>だ。そして、同社の特徴もしくは本質は、此処で振り返った所にある。

 海なのだ。一の鳥居の、すぐ外は海なのだ。今では数件の民家が隔てているものの、これは、「直下が海」と言って良い立地である。こういう場合、神様が元々何を守備範囲にしているかなんて関係なく、ほぼ確実に、<海の神>にされてしまう。現在でも、この付近は山が海岸線に迫っており、良好な耕地は望めないようだ。しかも、海に面した此の神が、周囲には漁民が住んでいただろうし、今でも住んでいるようだが、そんな環境で、<海の神>にされない方が不自然だろう。そして彼女は、「安房国一之宮」だ。安房は海国である。例えば、八犬伝に蜑崎十一郎照文なる人物が登場する。彼に関する表記で、<安房国人だから船を操るのが巧い>なんてのがある。これは、安房が<海国>だと認知されていたこと、少なくとも馬琴が安房を海国だと考えていたことを示している。海国だから、船を操る機会が多く、それ故に「巧い」のだ。海国である安房の一宮は、やはり海と無関係な儘ではいられまいし、逆に海と結びつけられたからこそ、一宮に昇格したのかもしれない。此処で読者は疑問を抱くかもしれない。ならば抑も洲崎神社が海に面して建てられた事は、元来が海の神だったからではないか? 太陽神とは無関係ではないか? 

 尤もな疑問には答えなければならない。洲崎神社は、正しく西面している。即ち、日の没する方位に向けて建てられている。天比理乃▼命は、いつも正面に日没を見ているのだ。まぁ、季節によって多少はズレるけど。そして、彼女は、太陽復活呪術を行う者の配偶者であり、一宮であるによって其の夫の機能をも吸収/代表し得る。人は、日没に何を願うだろう。最も単純な願いは多分、「また明日も私たちを暖かく照らしてください」ではないか? 言い換えれば、太陽の復活を願っているのだ。そして彼女は正しく日没に面して居る。彼女は、没した太陽が明日には復活することを願う、保証する存在なのだ。だからこそ、日没に対して遮蔽物のない、西の海に面しているのだろう。やはり、彼女は本質として、太陽と密接に関わっているようだ。

 さて、此処等で、天比理乃▼命の性格を、纏めておこう。彼女は名前や祀っていた御神体(鏡)から太陽神系の女神であったと考えられる。そして、一宮に昇格したことで、国の神社を代表することになった。勿論、「国の神社」には、夫の天太玉命も含まれている。代表するとは、代表されるものの<性格を吸収>することでもある、<混淆>である。「混淆」は神仏習合を例に挙げるまでもなく、日本の得意技だ。此の範疇に、大日如来を天照の本地(/実体)とする必殺技もあるが、此処で詳述する余地はない。とにかく、吸収/混淆は、前近代日本の宗教的風景に於いて、別段、珍しいものではない。此処に於いて、天比理乃▼命は、<太陽神系の女神>であり、<玉を使った太陽復活呪術の行者>であり、しかも<海の神>だったと断ずることが出来る。彼女の、此の多重な性格が、八犬伝の根底に在るのだ。

 即ち……毎度ながら、行数が尽きた。天比理乃▼命に関しては、次の機会にも語ることになろう。八犬伝の基層に横たわる白い影の正体を、今度こそ語ることが出来る……かもしれない。

(お粗末様)

 
 

                                                   

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