番外編 ゴロツキは世界を変える……か?

  錦を纏った少年が、獣じみた男に組み敷かれていた。「や、やめろっ」少年は藻掻こうとするが、男に制圧され、只その発達しきっていない筋肉を些か強張らせたに過ぎなかった。麻裃を着けた男は、偉丈夫で知られる吉宗公の孫だという、醜いほどに逞しかった。白面優美な少年の敵う相手ではない。暑い午後、袴を剥ぎ取られた少年の、少女と見間違うほど白く華奢な肢体は、懸命に抵抗したためか、汗ばみ淫らに輝いていた。大きく広げられた脚が、圧倒的な膂力によって、胸に付くほど屈められた。
 暴かれた部分に、男の屹立したモノが宛われる。「くうぅっ、やめろ」少年は固く瞼を閉じ、顔を背ける。しかし少年は、経験によって知っていた筈だ、幾ら拒絶しようと、男が欲望を達成することを。少年の拒絶の言葉は、本来の内包を喪っており、単に自らへの言い訳として発話されたに過ぎない。凌辱は、まさに現在進行している事実であって、回避可能な未来ではないのだ。また、少年は気付いていなかった、己の端正で気の強そうな横顔が、美しく歪み涙に濡れるとき、男の劣情を殊更に掻き立ててしまうことを。「うぐうっ」貫かれた少年が、くぐもった悲鳴を上げる。男の呼吸が荒くなる……。分厚い胸を押し退けようとしていた、しなやかな腕が、背中に回り、しがみつく。「あっ、あっ、あっ、ああっ」女のような自分の喘ぎに恥じらい、少年が掌で顔を覆う。男が乱暴に手首を畳に押し付ける。少年は顔を背けようとするが、頬を掴まれる。哀願するような目が、男に向けられる。「や、やめっ、あはああっ、……やめてっ」少年は、しゃくり上げる。「やめてやろうか。だがな、俺なしで生きていけると思っているのか」男は殊更に激しく少年を突き上げる。「あああっ、やっやめっ、くううっ、や、やめっ……」少年の仰け反った喉が、苦しそうにヒクつく。噛み締めた唇が小刻みに震える。「ん? そうか、分かったよ、やめてやるよ」男は卑しく嗤いながら、少しだけ腰を引いた。「あふっ、やめっ、ああっ、あああああっ、やっ、やめないでえええっ」。

 久しぶりだからスケベェ話を書いてみた。単なる読者サービスだ。他意は、余り無い。因みに、上記「少年」は二十歳前後、「男」は三十絡みの設定だ。場所は……まぁ大きな御城と言っておこう。城の書院、若殿様と宿老の間で日夜繰り広げられている暗闘を描いてみた。「二十歳前後」は少々トウが立っているかもしれないが、まぁ昔の人は成長が遅かったってことで……。

 <寛政の改革>という言葉を聞いたことがおありだろう。八犬伝が刊行を開始する二十年ほど以前、十九世紀初頭に断行された、江戸幕府の政治改革だ。リードしたのは白河藩主・松平越中守定信(マツダイラエッチュウノカミサダノブ)、幕府中興の祖と謂われ、十八世紀中葉に<享保の改革>と呼ばれる幕政改革を行った八代将軍・吉宗(ヨシムネ)の孫だ。優秀ではあったが腐敗した官僚・田沼意次(タヌマオキツグ)の邪魔がなかったら、将軍になっていたかもしれない。
 定信の改革は、一定の成果を挙げた。財政を緊縮、同時に無能な地方官を大胆に更迭・異動・処罰し、更に農地の拡大を図り、以て財政の立て直しに成功した。門閥や賄賂ではなく、武士の器量と学問、武芸に(或程度)応じて、人材を配置した。文武の教育体制を整えた。凶作に備え、食料の備蓄を計画した。また、帝国主義列強すなわち欧米がアジアの利権を狙って日本近海にも姿を現すようになっていたが、大規模な海防計画さえ提案した。学識・教養に優れ、また、尊皇の態度を明らかにして、口性ない京童、公家衆にすら一目置かれた。天皇が、単なる父親(←天皇に即位したことがない人物)に「太上天皇」の尊号を与えようとして幕府に諮問したとき、断固として反対した(尊号一件)。確かに、天皇未経験者に太上天皇の尊号を与えると、君臣の関係がグチャグチャになるので、思い付く方が如何かしていたのだ。また、同じ頃、十二代将軍・家斉(イエナリ)が父の一橋治済を江戸城西之丸に迎え「大御所」にしようとしたが、これにも断固として反対を押し通した。定信、一本筋の通った男だったのだ。
因みに定信亡き後、家斉は将軍職を家定に譲り自分が「大御所」におさまった。指揮系統が二本になり、幕政は混乱した。「大御所時代」だ。この混乱の中でトンデモナイ奴が権力の階梯を昇ることになるのだが、それは後で触れる。
 寛政の改革は、三十歳の定信と十五歳(いずれも数え年)の家斉がペアリングしてスタート、六年後に破綻する。破綻と言っても、定信が失政を犯したのではない。改革は、順調に進んでいた。しかし、ある時、それは七月の残暑厳しい頃だったが、突如として定信は老中職を辞任するのだ。
 実は定信、ちょっと変な所がある。いや、変というより<マトモ過ぎる>のだ。彼は若い将軍と衝突する度に、「そんなら辞めてやる!」と息巻き辞表を提出していたのだ。そのつど将軍が「あぁん、やめないでぇ」と泣きを入れていた。十五歳年上の親戚、頼れるアニキに辞められたら、困るのだ。少年将軍が、三十男に弄ばれ辱められている図である。可哀想に。しかし、状況は徐々に変わった。尊号一件で朝廷を敵に回した定信は、何となく孤立するようになった。将軍の父親を大御所として扱う件でも反対し、将軍の機嫌を損ねてもいた。
 定信は寛政五(一七九三)年五月、いつものように「辞めてやるぅ」と駄々をこねた。翌日、いつもの様に将軍が「あぁん、やめないでぇ」と泣きついた。しかし定信、いつもなら「へっへっへっ、まぁ、そこまで言うなら」と翻意するのだけれども、魔がさしたんだろうか、「いいや、やめてやる」とダメを押してしまった。七月、突如として将軍が定信の辞意を受理すると申し渡した。二人の関係は破綻した。定信は、「まさか、本気にするなんて」みたいな言葉を後に漏らしたらしい。多分、定信としては、孤立したまま筆頭老中の座に就いているより、より風当たりの弱いタダの老中として幕政をリードしようとしていたのだろうが、ちょっと計算を間違えたらしい。
 定信、老中になる十年ほど前に、白河藩主になった。実質的には、それ以前から継嗣として藩政に関わっていた。全国は大規模な飢饉に見舞われた。<天明の大飢饉>である。特に奥州の被害は酷く、間引きは当然、親が子を食う惨劇が繰り広げられた。地獄のような状況にあって、白河藩のみは、餓死者をださずに切り抜けた。定信の智恵と果敢な行動力で、白河藩は逸早く食料を備蓄、飢饉の折に放出したのだ。定信はまだ十代だったが、ソコラの無能なオヤジとは、ちょっと違っていたのだ。
 時に幕府を、賄賂政治で有名な田沼意次(タヌマオキツグ)のような腐敗官僚が牛耳っていた。このうえなく育ちの良い定信には、腐敗ってのに我慢ならなかった。いや実は白河藩も、若い定信が従四位の高位に叙任するよう<運動>を行った。定信も自著で認めてるんだけれども、通常の賄賂より、かなり低い相場の<運動>しかしなかったようだ。これは、<常識の範囲>挨拶程度と解釈出来る。何せ当時の人々が定信を「清廉」と評しているのだから、清廉なのである。本シリーズは、事実よりもイメージを優先する。
 定信は二十代の頃、同志の親藩・譜代大名とグループを作り、腐敗政治に悲嘆慷慨しながら酒を飲んでいたともいう。天下を論じ憂国しながらメートルを上げるバンカラ学生の図を思い浮かべれば良い。まぁ、武士なんだから、バンカラなのは当然なんだけれども。

 バンカラたる彼の真面目(シンメンボク)は、参内の折に発揮された。<尊皇家>である彼は、天明八(一七八八)年に焼亡した宮廷を往事の如く再建しようとした。朝幕会談のため京を訪れ、天皇に謁見した。
 幕府の京都出張所、京都所司代など役人が朝廷に参内することは、ままあった。彼らは公家礼法に則って参内することはなかった。天皇に謁見するとき、畳の上を前後に這いずり回った。彼らは彼らなりに礼を尽くした積もりだっただろうが、見度茂ないこと此の上ない。公家衆は、「関東の犬這」と嘲った。
 京を訪れた定信を、人々は注目した。名君・吉宗の孫であり、学才の誉れ高い有名人だったからだ。公家衆も、一種のライバル視を以て見つめていたことだろう。<何か下手をすれば大声で論ってやろう>。此処で定信が「犬這」をすれば、格好の餌食になっただろう。
 しかし定信は、「犬這」をしなかった。公家礼法も無視した。膝行したのである。武家礼法である。正座、男子は両膝の間に拳が一つ入るぐらいに開けるが、肩幅まで広げた形で膝立ちする。この形は体を回転し易く、敵に襲いかかられても迅速に対応できる。武芸のフットワークにも用いられる移動法だ。
 下手をしたら大声で論ってやろうと手ぐすねひいていた公家衆は、意表を衝かれた。この心理的落差を埋めるため、彼らは定信を称賛するしかなかったのだろう。定信の評判は上がった。
 確かに定信、格好良かっただろう。妙にヘコヘコするのは、却って礼を失する。礼法とは、或る空間を一定の目的で秩序立てるパフォーマンス規則だ。この場合、天皇を引き立てつつ何らかの雰囲気を醸し出すために演技すれば良い。定信は、独自の遣り方で、見事に武家の代表を演じきったのだ。
 しかし、定信の此の遣り方、礼というものを極めている様にも思うが、甚だ興味深い。どうやら、彼は<個>もしくは<孤>だったようなのだ。関係性のみにかかずらう、集団思考する下等生物ではない、といぅアタリマエの結論でもあるが。アリテイに言えば、彼は天皇を無視していた疑いがある。傍若無人。彼は、天皇の<肉体>など如何でも良かった。彼にとって御簾の奥に座っていたのは、単なる御神体だったのだ。御神体なんてモノは所詮、生ける人間に都合良く飾られているに過ぎない。言い換えれば、定信が敬意を示したとすれば、対象は<天皇という理念>であり、肉体を有つ天皇の称号を与えられた人間の実存ではない。四五十年後、東照大権現の旗/理念を奉じつつ東照宮に大砲の弾を撃ち込み以て官僚を脅かす男が出現するが、定信だって、天皇の理念を守るためにこそ、天皇の意思を無視した。前述した、「尊号一件」である。
 また、一説に拠れば、定信は上京の帰途、後醍醐天皇陵を行き過ぎた。『太平記』で同情的に描かれた、南北朝の争乱を開いた天皇である。彼は南朝の天皇として自らを規定したが、一方で北朝にも天皇が存在、一天二君が両立する現象を引き起こした。定信は、この後醍醐天皇陵に対し、敬礼しなかった。彼の説明は、「依為謀反天子不拝云々」だったという。これを、公家衆は批判した。(参照:日本歴史弟六百号)
 後醍醐天皇は正当に皇位を嗣いだのだが、一度は退位する。次の天皇が立つ。しかし、後に再び皇位に就いた。天皇が二人になった。後醍醐天皇側を南朝、もう一方を北朝と称する。
 定信は後醍醐陵に敬礼しなかった。「謀反」、天皇に楯突いた天皇だからである。天皇に楯突いたって、天皇は天皇だから天皇として遇するべきだと、当時の公家衆は指摘したが、定信は認めなかった。此処に、定信の定信たる所以が凝縮されているやに思う。上述した如く、定信は、天皇の理念をこそ尊重し、実存する人間としての天皇は眼中になかったのではないか。傍若無人なゴロツキ、そう、定信は、<ゴロツキ>だったのである。ゴロツキだからこそ、実際の人間(関係)よりも自らの良心/意思を尊重したのだ。そうでなくて、腐敗もしくは無能の地方官を容赦なく大量処分し、改革の実を上げることが出来ただろうか。詳細は省くが、処分された地方官の中には、家康以来二百年近くも関東郡代を任された名家もあった。

 此処に於いて問う、「ゴロツキは世界を変える……か?」。<ゴロツキのみが世界を変える能力を有する>。再び問う、「ゴロツキは世界を変える……か?」。<ゴロツキは世界を変えること能はず>。
 定信は、ゴロツキであるが故に思い切った改革を断行し、一定の成果を挙げる事が出来た。しかし一方で、ゴロツキであるが故に周囲から孤立、将軍の信任も喪って、権力の中枢から離脱せねばならなかった。言い換えれば、ゴロツキだから改革に成功し、ゴロツキだったから改革に失敗したのだ。

 定信は三十六歳で老中を辞し、後は一親藩大名もしくは文化人として過ごした。白河藩主としては、海外列強から江戸を防備するため房総半島の守護を命じられた。これに関連して彼は、『狗日記(イヌニッキ)』と題する簡単な安房地誌を著している。海防のため同地を巡視した折のメモ書きだ。また、文人としては、新たに手に入れた馬の名前に就いて、滝沢馬琴という名の作家に相談したこともある。焼き蛤で有名な桑名に引っ越したりもしたが、七十二歳の長寿を全うした。ゴロツキのくせに長生きなのだ。

 以上、一人のゴロツキに関して駆け足で紹介した。今回は「番外編」、単なる予備知識として書いから、<結論>らしきものがない。ただ、今回ウジウジ書き連ねた事どもが、後に必要となってくる筈なのだ。そういうワケで尻切れトンボだけれども、ごめんなさい、今回は、これまで。
(お粗末様)

                            

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙