★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「事実と虚構の狭間」★

 お約束通り、「安房志」を紹介する。

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家系を按ずるに、金丸氏は大織冠藤原鎌足公より出つ。魚名の第三子巨麻金麿、甲斐国巨麻郡に住す。巨麻を氏とす。房州初代藤原宗光、巨麻太と称す。延暦十年辛未年秋七月、巨麻金麿は大伴弟麿・阪上田村麿二将に従て東夷を征討し戦功尠なからず。十五丙子年、奥州の賊を征して亦功あり。廿一年東国守護職となり従五位下に叙せられ安房国安房郡神余郷を賜はる。延暦廿二癸未年六月、居城を此処に築く。廿三甲申年二月、其氏名を改めて金丸巨麻太と称す。亦郷名を改めて金丸郷と云ふ。古昔神戸の上郷、後に太神宮上郷と云。神余は其字にて実に金丸家草創の地也。宗光承和七庚申年十一月四日死去、行年七十四、和田山に葬る。二代茂光、幼名宗一、後宗太と改む。承和十二乙丑年四月廿日死去、行年五十二。三大宗茂茂光長子、巨麻太郎と称す。仁和元乙巳年六月七日死去、行年六十八。四代茂業、宗茂長子。宗重郎と称す。昌泰二己未年九月五日死去、行年五十七。五代宗孝、茂業二子。宗太郎と称す。天慶八乙巳年二月十三日死去、行年七十九。六代茂孝、宗孝長子。天慶九丙午年四月廿八日死去、行年五十四。七代孝良、茂孝嫡男。宗八郎と称す。天慶二己年二月十日死去、行年六十四。按するに孝良天慶二年正月、相馬小次郎平将門追討の役、藤原秀郷卿平員盛二将に従ひ抜群の功を顕はす。多田左馬頭源満仲、孝良を其館に召し外腹男九郎茂基を賜はる。孝良養て嗣子と為す。成長の後、家督を譲る。此を金丸家八代となす。茂基は清和源氏より出て藤原姓を継承す。万寿元甲子年八月廿五日死去、行年六十三。九代光業、幼名金太、後宗三郎と改む。正暦五甲午年、諸国盗賊を追捕す。寛弘三丙午年、異国賊船、壱岐対馬二島を侵す。光業房総海岸守護職に任せらる。寛仁四庚申年十二月、南蛮賊船来て薩摩に冦す。光業を従五位下に叙し、安房守に任じ、国司と為し、専ら防海を防禦せしむ。茲に上総国夷隅郡山田村土俵場城主村岡五郎・平良兼・上総介平忠常等叛く。光業京都に馳せ登つて之を告ぐ。長元四辛未年、常陸介源頼信に従て之を討す。功有り。依て旧に復して金丸郷を賜はる。長暦二戊寅年十一月九日病死、行年七十一。十代宗晴、巨麻三郎と称す。光業の男。永承三戊子年八月二日死去、行年五十四。十一代茂貞、五郎と称す。宗晴の男。康平五壬寅年、陸奥守鎮守府将軍源頼義其子義家に供奉し奥州の乱を平ぐ。戦功に依て感牒数通を賜はる。是より藤原の姓を廃して源姓を称す。応徳三丙寅年五月十八日死去、行年六十九。十二代宗周、巨麻四郎と称す。茂貞の男。寛治三己巳年七月三日死去、行年五十一。十三代茂秀、巨麻八郎と称す。宗周次男。永長元丙子年秋八月、茂秀謀叛の聞えあり。金丸郷領地を没収せられ絶に居所を賜はる。従是安房守金吾源親元之を領す。天仁二己丑年春二月、将軍源為義、近江国に進発す。茂秀命を奉して先鋒に列し、美濃守源義綱其子美濃次郎義明等と戦ひ撃て之を走らせ敵首十二を得たり。其戦功に依り再び金丸郷一円を与へらる。保延四戊午年九月四日死去、行年七十五。十四代宗春、七郎と称す。茂秀長子。仁平元辛未年十月十八日死去、行年五十九。十五代茂長、宗七郎と称す。宗春嫡子。保元元丙子年、安西丸氏と将軍源義朝に供奉して院御所を攻む。時に年四十有三。平治元己卯年八月七日死去、行年四十六。十六代昌孝、幼名藤治、後六郎と改む。治承四年庚子年八月、源頼朝豆州石橋山の戦敗れ廿八日、土肥実平始め侍従九人と相州真鶴崎より舟に乗して房州に遁る丶や、昌孝之に属す。其後佐殿より甲冑腰刀を拝戴す。昌孝此甲冑を着け其腰刀お帯び諸兵を率て戦場に赴き、平氏の軍を殲滅す。其戦功抜群なるを以て感牒を賜はること数回。佐殿平氏を西海に滅せし後、六十六個国総追捕使と為るや勅命に依り安達盛長をして命を傳へ、安西・金丸・丸・東条四氏に安房四郡を頒賜せらる。従是四氏各一郡を領す。時に文治二乙巳年二月朔日也。昌孝子なし台命を蒙り此月十一日、奥州伊佐郡中村城主伊佐朝宗第三子佐三郎宗満を養子と為し、家を継かしむ。宗満年廿八歳也。昌孝は建暦元辛未年十一月廿日病没、行年七十三。十七代宗満、三郎と称す。幼時弓馬を善くす。人称して伊佐殿と云ふ。文治五己酉年、伊佐を改めて伊達と称す。貞応二癸未五月死去死去、行年六十三。十八代茂耀、十一郎と称す。宗満二子。嘉禎三丁酉年七月廿五日死去、行年五十八。十九代宗清、巨麻五郎と称す。茂耀長子。文永十一甲戌年二月廿一日死去、行年七十。廿代茂満、太一と称す。宗清三子。公安六癸未年三月廿日死去、行年五十九。二十一代茂里、幼名与一。後改名宗太郎、茂満長子。弘安四辛巳年五月、蒙古賊船大兵を率て津島沖に至る。時の執権職北条時宗は正二位左中将惟康親王の命を傳へ茂里をして安房郡平南部金丸郷内太神宮下郷女良崎の海上より南北近海平北部に至るの地を防禦せしめ、従五位下に叙し、安房頭に任ず。同五年七月四日、祖先菩提の為め新義真言宗金剛山圓如寺を建立し、開基檀那と為る。正応五壬辰年獄月朔日、復旧して金丸氏を称す。永仁四丙申年八月四日病死、行年四十七と。二十二代孝教、宗一郎と称す。茂里の男。貞和三丁亥年四月七日死去、行年七十五。二十三代宗信、太門允と称す。孝教長子。延文五庚子年二月三日死去、行年六十一。二十四代茂量、太門兵衛と称す。宗信二男。至徳三丙寅年六月十四日死去、行年六十八。二十五代茂康、巨麻介、茂量四子。応永四丁丑年二月十一日死去、行年五十三。二十六代景貞、幼名太郎、乗り次郎と改む。光孝或は景春或は貞植と称す。茂康長男なり。応永六己卯年十月、大内義弘叛を謀る。依之将軍足利義満之を追討す。此役、貞植男山に出陣せり。細川頼元に従ひ、堺城を攻めて之を陥れ義弘を斬る。貞植先鋒と為り、縦横奮戦敵兵を破る。其勇絶倫、進退度に中れり。義満感悦し玉ひ依て腰刀を賜ひ従五位下に叙し長狭介に任す。後累進して安芸守となる。名を景貞と改む。時に年三十有三。応永廿三丙申年十二月、上杉憲氏乱を鎌倉に作す。天下静謐ならず。此時金丸譜代老臣山下左衛門源景胤叛逆を企て、主家を滅さんと欲す。応永二十四年丁酉年正月朔日、山下賊徒、本村房谷に屯集し松炬を設け虚威を張り、未明に乗じて主家に乱入し暴逆至らざるなし。景貞防戦太だ力めたりと雖、遂に山下の為めに弑せらる。実に応永廿四年丁酉年正月三日夜なり。行年五十有一。其歴数六百十六年間。此に至て一朝滅亡す。豈惨ならずや。嫡男太郎満孝は乳景貞と別れ他日其仇を報ひんが為め潜に出で丶此地を脱せり。景貞は居村東位に地蔵畠深山と称する所に於て自殺す。石地蔵岩屋の主僧自性坊之を介錯す。法名香山受心大居士。号自性院殿。地蔵畠深山の小窟に葬る。後称して御腹矢倉と云ふ。景貞の室は結城七郎の義姉綾瀬と云。応永廿四年正月三日死。行年四十歳、法名林光院殿貞心明鏡大姉と号し、累代墓地和田山に葬る。福聚山松野尾寺、神余村岩崎に在り。真言宗。小網寺に属す。寺傳曰、領主金丸氏家臣山下に迫られ地蔵畑石窟に於て自刃す。時人追福のため念仏堂を立つ。文安五戊辰年、金丸茂詮之を改め福寿山満福寺と称せしが其後今の寺号に改む。境内に観音堂あり。本州札所の一也。又按するに、自性坊は村内上郷山口長平の産。応永二十九壬寅年七月二十四日病卒、行年六十八。其居住の岩屋に薬師如来及地蔵尊像を安置す。主僧死後、同三十一甲辰年二月二十五日、上郷の里より之を移せしと云。自性院は神余村大倉に在り。真言宗。寺傳、応永十六年、自性道人開山。寛永九年正月、小網寺九世頼圓師中興とあり。景貞居城の地に小邱あり。其麓を城之腰と云。其東に山あり。和田と称す。金丸累代の兆域也。金丸家滅亡の時、戦死せし諸族の屍を埋葬せし塚あり。戦死塚と云ふ。又賊徒一族の死骸を山下景胤住居地字山下と称する所に埋む。当初墳塚ありと雖、其後墾して田圃となす。今や其形迹なしと云。同廿六年己亥年十月十日、景貞三回忌供養の時、郷人相謀り其城趾北位を卜し小堂を建て念仏堂と称し内に文殊菩薩阿弥陀如来像を安置し、以て其霊を祭れり。廿七代茂詮八郎と称す。幼名太郎満孝。景貞の嫡男なり。応永廿四年丁酉年正月三日、本州を脱して里見刑部少輔源家基の客臣と為り。満孝其姓名を改めて金鞠八郎源茂詮と称す。此時山下左衛門景胤は主家領地を奪略し同年二月六日、名を定包と改む。又定兼に作る。安房郡平南部を押領して自ら領主と称す。凡二十六年間人民を虐げ驕奢に耽る。加之威力を振て誇■(ゴンベンに壽)自居る。其郡名を改めて山下郡と称す。金丸村を神余に復し朝夷郡畑龍口根本三村を我領内に編入せり。故に以て安西・丸・東条三氏と争論絶ゆることなし。茲に里見刑部少輔源義俊は建久四癸丑年八月、安房守護職に任ぜられ平群郡に住す。其八代孫を里見家基となす。永享十年戊午年、足利持氏乱を作す。上杉憲実は足利義教の執権たり。遂に其主持氏を殺す。十二年庚申二月、結城七郎氏朝・里見家基等、持氏の二児春王安王を奉じて結城城に拠る。足利義教之を覚り兵を遣はして之を攻む。二児已に獲らる。氏朝大に憾み宗族と西軍を衝き憲実を獲んと欲すれとも能はず。火を城中に放ち自刃して死す。家基も亦奮戦して死す。家基嫡男、左馬助義実、金鞠茂詮と援けを相州三浦介に乞ふ。其未だ婦らざるに、結城古河両城陥る。是於、茂詮は義実と策を講じ、潜に走て独り房総二州に匿る。時に安西・丸・東条三氏は、山下定包の僭逆を悪み常に相争ふて和せず。茂詮窃に安西三郎勝峰式部景春と謀り、嘉吉元年二月五日、定包を討たんと欲す。然ども事竟に成らず。茂詮時機を伺ひ亦景春と謀り丸右近信朝と策を通じ、同年五月七日、義兵を挙げ山下定包を討つ。此夜茂詮進み出で丶定包に謂て曰く、吾は金鞠八郎茂詮也。汝は倶に天を戴くべからざる父の怨敵なるぞ。速に来て雌雄を決す可しと呼ばはり遂に定包を撃ち殺せり。其余族残党等、我兵と神余村字大旗に戦ひ悉く討死す。茂詮は廿六年間の艱苦を嘗め今初めて父の仇を報ずるを得たり。快と言ふべし。同月十一日、安西・丸二氏、其兵を率て至る。事平ぐを以て各居城に帰る。茂詮は定包の首級を提げ亡父景貞の墓前に供し以て其の霊を祭れりと云。従是安西景春・丸信朝二氏、定包が押領地を分取せんと欲し亦怨恨を生ず。故に茂詮は八月十七日、本州を脱して上総国奈良輪に住し名を神余源太茂詮と称し、亦四方に徘徊す。茲に安西・丸、俄に合戦を企つ。時に東条定政、七郎左衛門常政と謀り、安西を援けて丸信朝を撃つ。同月廿七日、信朝之に死す。然り而して景春は山下・丸両氏の領地を併せ取れり。時に里見左馬介義実は寵臣堀内蔵人貞行・木曾右馬助氏元を具し主従三人にて嘉吉元年十一月十八日を以て相州三浦より朝夷郡野島崎に上陸す。茂詮は其後潜かに往て義実に会す。是より四人共、本州に潜伏し三年星霜を閲て文安二乙丑年春二月十一日、四人相具し長狭郡内裏郷市川村を経て小湊に抵り、其山中に潜伏す。
夫より宗徒を集め土兵を募り揚言して曰く、仁政の将里見義実此所に在りと。時に丸右近信朝の遺臣丸新八の従卒及三浦半左衛門の兵士等来り属す。義実は木曾神余両氏と共に五十騎を率て千代村に至る。其陣場橋を五十騎橋と曰ふ。又堀内貞行は三浦の兵及び丸の残党百騎を引率して倶に瀧田河磧に屯す。同月廿二日、安西景春乃ち之に降り君臣の約を結ぶ。於是義実は家臣従卒を率ゐ朝夷郡白浜村に還り高■(ツチヘンに爽)の地を撰び同年四月七日、新に居城を築き之に居る。金丸景貞の遺領地及丸信朝・安西景春の領地等、義実悉く之を領す。房州里見家の始祖とは即ち是なり。文安二年五月、里氏は茂詮を客将となし、軍事を掌らしむ。同年六月八日、安西景春を先鋒となし金山城主東条常政を攻めのを陥る。茂詮之に与かる。同四年丁卯二月四日、里見義実、茂詮を旧姓に復せしめ、金丸八郎と称せしむ。神余旧城地を治め其扶持料として高八十石を給す。十月三日、金丸家一族及び忠臣戦死者の為めに菩提寺を村内平田に建て新義真言宗医王山安楽院と号す。本尊は薬師如来、開山は圓如寺頼智法印也。頼智法印は即金丸景貞第二実弟にて茂詮の伯父也。故に金剛山圓如寺の住僧なりしも転じて本寺に入住せりと云。茂詮は圓如寺の檀家を離れて安楽院に入檀せり。故に茂詮を安楽院の開基檀那となす。四月十一日、里見氏は通識し圓如寺の地禄檀家を以て悉く安楽院に付与し圓如寺は其名称を存するのみ。寺傳、正応五壬辰年、金丸茂里圓如寺を創立す。嘉吉二年壬戌年金丸茂詮安楽院を創建す。長禄年中、圓如寺を廃すと見ゆ。文安五戊辰年十月六日、景貞の三十三回忌辰に当るを以て念仏堂を改称して福寿山満福寺と号し、旧城地の東山の絶巓を卜し、累代尊崇する所の本尊薬師如来を安置す。茂詮は是より先き文安元年二月廿日、剃髪して入道宗源と号す。時に年五十二なりき。康正元乙亥年九月十四日還俗。文正元丙戌年十一月五日病死。謚号を智徳英照大居士安楽院殿と云、行年七十四。室は里見家基妹多喜代と云。応仁二戊子七月廿七日死去、行年六十八。法名智性院殿貞月妙涼大姉。和田山戦塚に葬る。廿八代茂総、大介と称す。茂詮長男なり。応永廿三年丙申年春二月、結城七郎左衛門氏朝は、里見太郎家基妹女多喜代姫を以て金丸景貞嫡子満孝に妻はさんことを図り、其媒酌に依り婚姻の約成ると雖ども、同廿四年春正月、金丸家滅亡せし故、結■(コロモヘンに璃のツクリ)の儀を行ふを得ず。景貞深く慮る所あり。太郎満孝をして里見氏に走らしめ、名を改めて金鞠八郎と称し里見家の客臣となる。其時茂詮は多喜代姫を娶て妻となす。足利持氏乱を作すや結城城陥る。此時茂詮多喜代姫は其子大介(年十有四歳)を伴ひ上総国望陀郡奈良輪住人蒲生一作宅に匿る。蓋一作の妻なる者、多喜姫の乳婆なるを以て也。然り而して茂詮は白浜城に在て里見義実に仕ふ。時に一作は嫡男大介を伴ひ白浜に着す。茂詮大に喜び名を茂総と称し家督を承続せしむ。亦客臣と為て里見義実に仕へ側用人職となる。愈里見氏の寵遇を受く。翌文安二乙丑年夏五月四日、茂総を東条に遣はし粮米を借受けしむ。東条常政悪心を発し里見氏を討たんと欲し窃に諸卒に命じて先づ茂総を撃たしむ。茂総纔に免れて此所を去る。是を以て父茂詮大に怒り勘気を受く。是より茂総髪を剃り入道西念と号し四方を修行経歴せり。同年六月八日、金山合戦あり。西念兵を率て敵の本営に突入す。偶里見家八房の猛犬あり。敵将東条常政を見るや跳て其吭を噛む。常政終に屠腹して死す。西念敵兵と大戦数回、敵追撃するあたはず。其咬む所の敵首を獲たり。故に城中主将なきを以て残卒奔逃せり。見方大将正木弾正、亦手勢を率て上総国大瀧に走る。依て敵城を乗取り城中男女若干を捕獲し鬨を揚げて帰陣す。武功に依り前罪を許さる。里見義実の尚ほ茂総を寵愛するを以て東条常政の領地を与へ以て領主と為す。義実の娘を照代姫と云。時に年十六。之を以て茂総に妻さんとす。剃髪の故を以て肯て之を辞す。父茂詮、里見氏に請て其の客臣たらしむ。此時照代姫の八房猛犬の念あり。之れが為めに俄然病に臥し、文安二年十一月四日卒死、法名を伏光院殿安室妙栄大姉と云ひ、北郡瀧田村北方遠見山に葬る。西念以猛犬を殺して之を同地に埋むと云。寛正元寅辰年春二月十五日、帰俗して復茂総と称す。義実外腹季女琴路姫を以て後妻と為す。文明六年甲午年六月晦日、茂総病死、行年四十八。戦塚に葬る。其室琴路姫、文亀元辛酉年五月二日死去、行年五十三。葬地同じ。
廿九代茂保、十郎と称す。茂総長男。里見成義・義道二代に仕へ山下郡稲村城に居る。下総武蔵常陸三国へ出陣の際、戦功あり。永正五戊辰年十一月七日死去、行年四十七。室は里見義通の妹、秀代と云。大永四癸未年正月廿九日病死、行年四十五。……後略(「安房志」)

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 読者は或いは、八犬伝を読んでいるよう錯覚したかもしれない。また若しかしたら八犬伝の元ネタだと思ったかもしれないけれども、恐らく逆で、八犬伝を読んだ金丸氏の人が、其れを取り入れつつ自分の祖先に都合良いようアレンジしたものだろう。八犬伝に酷似せる部分は、他の金丸氏系図や里見関係の軍記などに類話が見当たらぬ。此は史料としての系図ではなく、飽くまで稗史としてしか扱えない。ただ「史料」に書いているからと、己の立場に都合良いものばかり連ねるは、斎藤先生には悪いけれども、史ではなく稗史なんである。でも明治国家を背景にした小説を社会教育に持ち込むスットンキョー自治体に比べれば、まぁ罪のない伝承の類である。目くじら立てる必要はない。

 八犬伝も稗史である。其れは馬琴が自称している。史実と思われる事柄とズレているからと言って、其れを非難するは野暮に過ぎるだろう。各種史料に記された全国レベルの事件、結城合戦終結の日「四月十六日」は、確かに動かし難い。比較してマイナーな事件であった里見義実の死去は、マイナーな史料に若干の異同を含みつつ記されているだけだ。大衆小説を書くに当たれば、そして必要ならば、マイナーな事柄を都合良くズラすだろう。ズラすってったって、ほんの十日ほど迄である。
 そしてまた、もう一つのズラし、各種史料で義実の父は「家基」であるけれども、八犬伝で「季基」に変換されている事実がある。やはり、「四月十六日」に関係があろう。端的に言えば、「家」→「季(時間)」への変換だ。安房里見家の祖とされる義実の父が、「家基(家の基モト)」なんて出来過ぎではあるが、一応はドキュメント(史料)にある名であって、フィクション(稗史)ではない。家基自体が架空の人物かもしれないが、其れを「季基」と変換した馬琴は既に【史実】を無視している。
 稗史が、稗官の論理もしくは理想に都合良く捻じ曲げられたものならば、馬琴の論理もしくは理想は、何であったのか。次回は、八犬伝を支配している論理に、聊か言及する。
(お粗末様)
 

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