★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「杜子春」★

 所謂「唐代伝奇(小説)」に、「杜子春傳」がある。撰者は李復言とも鄭還古とも云うが、芥川龍之介の童話「杜子春」の元ネタと陳べれば通りが良いか。龍之介によれば、とにかく無言の行をする杜子春に、「虎」やら「四斗俵程の白蛇」が襲いかかってくる。成就すれば仙人になると云われた無言の行を妨げようとする魔物である。何やら、悟りを開こうとするゴータマさんの邪魔ばかりする障魔とダブってをり、原作とは異質だが、明治に生まれ大正に活躍し昭和初めに死んだ日本の代表的文学者の古典語彙理解に於いて、魔物の代表が大蛇と虎であったことには、注意を要する。虎は、まぁ日本古典と云ぅより漢籍や仏典の魔物なんであるが、大蛇の方は日本昔話にも頻出する恐怖の対象であった。即ち、まだしも馬琴の感性に親(ちか)い所では、日本に於いて、大蛇と虎は魔物の代表であったのだ。
 勿論、馬琴の時代に龍之介はタネにもなっていなかった(←まぁお下劣)。しかし、時代・風土により輿論は千変万化するため物語メッセージの換骨奪胎は勿論あろうけれども、近しい時代の語彙内包は、まだしも共通する。でもなけりゃ、文物の継承は全く不可能であり、言語そのものを否定せねばならなくなる。否定して見せたいガキ殿たちは或いはおられようが、その否定する言葉さえ人に伝わる筈もなく、自己撞着に陥っていることに気付かぬならば、オメデタイにも程がある。玉顔を御洗い遊ばされて、御出(いで)御直し戴きたく存じ奉り上げ候ってな所だが、龍之介版「杜子春」では、主人公に無言の行を破らせるは、自己への責め苦ではなく母親への虐待であり、虐待を受けて尚も息子を思い遣る愛/債権への返済義務であった。通俗化した【孝】である。対して原作版「杜子春傳」では、(予め自分の無言行を破らせようとする現象は虚影に過ぎぬと教えられているからなんだが)主人公は妻を地獄の獄卒どもに緊縛SM陵辱殺害されても知らぬ顔、おかげで「女の身にもなってみろ」ってことなのか、文字通り女性に生まれ変わらされ、仲睦まじくFuck三昧に明け暮れた相手の夫が、まさに二人の間に生まれた子を眼前で(いたいけな親兵衛に対して為されかけた如く)岩に打ち付けられて虐殺されたことに因る。堪らず「忽忘其約、不覚失声云、噫(あなや)」(声を失って何故に声が出たかなんて突っ込まないよぉに←前者の「声」は言葉であり後者の「声」は音声なんだから云わずもがなぞな)。
 また、前提として、龍之介「杜子春」は主人公が仙人になれるからと無言の行を唆されたのだが、原作では三度まで杜子春を信じ(たフリをして)情けをかけた老人が仙人になるためにこそ利用されたってことになっている(仙人になる薬の材料を調達するためだから、其れを呑めば杜子春も仙化する筈だが第一義として老人の為だ)。前者では、仙人になりたいといぅ本人の欲望が、後者では本人の欲望を(虚しくも)三度は叶えてくれた相手に対する恩義に報いようとすることが、無言の行の動機となっている。即ち前者では、飽くまで杜子春本人の心裡で完結しているが、後者では他者との関係性に於いて物語が構築されている。此を時代の差とも国の差とも風土の差とも個人差とも、論者の立場で様々に言えようが、此処では「相身互い/共生」を合い言葉にしていた前近代と、「自分の為」としか自分を励ます事が出来なくなった、他者との関係性の空白を自己肥大化で埋めてしまった【内向的な近代以降】の差と、差し当たっては捉えておこう。龍之介のストーリーは、飽くまで主人公本人にのみ終始している。私小説の作法ではある。対して原作は、(現実にはあり得ぬこととはいえ)自分が見捨てた【妻】なる者の位置に変換されたが故の破局を示す。だが流石は明治生まれの龍之介、上述の事共なぞ百も承知だったろう。
 何故って、責め苦の対象が龍之介版では、自分→両親である。原作は、自分→妻→妻たる自分→子だ。前提となる自己完結/他者との関係性って所も含めて、見事な対称となっている。通底するが故の「対称」だ。翻案と原作、併せ読めば、両者の間に、自他の位置関係を把握した上で動き合う剣舞の如き緊張感がある。しかも、当時の世相に於いて、【孝】を前面に押し出すってイーワケもあった。童話だから、上述の様な小難しい所まで穿鑿されはしなかったろう。隠微である。あれこれ引っくるめて、此の「対称」は、時代差を表現しているか。東洋と東洋・西洋のキメラ/近代日本との格差、である。

 西洋との交渉の深さって点で表向きのストーリーは対称的となってしまったが、唐代小説よりも、馬琴と龍之介の時間差は小さいし、風土も共通だ。語彙に関しては親しかろう。と、考えれば、原作では実は「猛虎毒龍毛峻猊獅子蝮蝎」とされていた箇所を、虎と大蛇に置き換えた日本語彙感覚は、我々よりは馬琴に親かったと思う。ならば、さて、虎もしくは大蛇と対峙する無言行者は八犬伝に登場するかと探してみれば、やはり居た。大角だ。無言行者は大角一人だけれども、彼が対峙したのは「山猫」ではあった。が、外ならぬ馬琴は八犬伝の中で、こう云っている。「曲亭主人曰、唐土にて山猫と唱るものは即、虎の事なり……中略……虎と猫とはその形状相似て、その気を同くす」(第六十七回)。
 恐らくは、余りに話がスットンキョーになるため大角に無言の行を永らく続けさせなかったのだろうが、確かに大角は、妻・雛衣の切なる哀願を敢えて無視して、実質的に無言の行を続ける。原作「杜子春傳」である。そして「無言の行」は、自らの心裡に起きた感情やら何やらを一切口に出さぬことだ。偽一角(山猫/虎)を倒すまでの大角は、まぁ心底善ぃ奴ではあるんだが、自らの自然な愛情も感情も表に出すことはない。此奴は四六時中、「無言の行」を行っていたのだ。
 大角は、偽父と後妻(即ち血の繋がりはないDNAでは無関係の相手)の責め苦に絶句し、而して(本当は違ったんだけれども)妻・雛衣の胎児それは愛する妻の子であるが故に自分の子でもあり得る(八犬伝では同気相感、セックスしなくっても子供が生まれることを忘れてはならない)が、胎児に(実は先に飲み込んだ礼の玉)に妻自身が刃を突き立てた瞬間、責め苦の元凶たる偽父&義母が正体を顕して一気に解放へと向かう。原作「杜子春傳」でも、それまでの責め苦は【虚影】であったんだが、八犬伝では実体を伴うものの【虚影/偽父】を根源としていた。虚実のズラしは、馬琴の得意技だ。眩惑するしかないが、如何にか踏み止まって解釈を試みれば則ち、庚申山の場面は、杜子春の希いが四度(よたび)破綻した悲劇的な結末に至る杜子春傳を、救済するストーリーとなっている。仙人/人外たることを欲望する道士にネチネチ弄ばれた杜子春を、人間世界に救い出すことこそ、馬琴の目的であったか。物語の書き換え/稗史である。
 ただ多分、馬琴は杜子春には何の義理もない。なのに救い出したとは、馬琴の主張に添うからだろう。そして八犬伝末尾で、犬士は揃って仙化する。仙人を否定したくせに、仙人たるを肯定してる???、ワケがない。若し、そうだったら、アカラサマな矛盾だ。「杜子春傳」の道士は、人外の仙人になるためには人間的感情を否定し超越すること(を杜子春に代行させ其の気を取り込むこと)が必要であると考えたのだが、此れ自体が矛盾を隠し持っている。何故なら、「仙人になりたい」と思うことこそ人間的な欲望である。対して仙人とは、人間的欲望から超越した存在であるんだから、【望んで為る】ことは抑も不可能なんである。杜子春に人間的感情を超越することを代行させようとした道士の企ては、起点からして破綻を約束されていた。別に珍しい論議ではない。中国に於ける儒教Vs道教お馴染みの争点であり、雨月物語は青頭巾、解脱しようとすることこそ妄執であって、表面的かつ積極的な仏教者こそ、最も解脱に遠いとは、禅宗を中心に、日本でも御馴染みの論理に過ぎぬ。だからこそ、犬士は、何の説明もなく、【なんとなく】仙化に成功しているのだ。為りたいってったって、仙人は自分で勝手に為るワケにはいかない。然るべき資質ある者だけが、為る。ぢゃぁ何故に中国の説話で修行するか? 修行せねば成らぬならば、抑も企て/欲望せねば、為り得ない。矛盾ではないか。……まぁ中国の昔話では、修行して仙人になった人間の例がテンコ盛りだが、此の「矛盾」は、馬琴の主張と関係していよう。簡単に云やぁ、馬琴は「ただ良心/天に従って行為したら、天に繋がる存在/仙人になっちゃう」と云っているに過ぎない。仙人になることを【目的】とし、他者の心を陵辱し蹂躙し弄んでしまえば、決して仙人にはなれないって云ってるんだろう。仙人になりたいとは個人の事情に過ぎないのであって、天の理とは全く関係がない。天に、そのような天の理に外れた者を受け入れる必要性は、全くない。それだけのことだ。天を「他者との関係性」に置き換えれば、現代でも全く同じきことが言えるんだが、まぁそんな事ぁ如何でも良い。話を進めよう。
 「杜子春傳」が八犬伝に影響しているとなると、「魔の代表として虎が登場したんなら大蛇は?」と気になってくる。大蛇を探すと、結城法会で蜑崎照文によって語られる、里見季基の挿話が直ちに思い出されよう。季基が本貫である上毛に居た頃の話だ(第百二十四回)。狩猟に出かけた季基は、酒に酔い伏した猿回しが大蛇に襲われる場面に遭遇した。見れば猿回しの刀が勝手に抜けて大蛇に応戦していた。宝刀らしかった。季基としては黙って見過ごし猿回しが食われてから宝刀を手に入れる手もあったのだが、それぢゃぁ「惻隠の情なきに似たり」、射程に入るよう馬を進めて矢継ぎ早、まずは大蛇の右目を、そして次に喉を射抜いて退治した(蛇の喉って……)。目を覚ました猿回しは、助けてもらった礼にと件の刀を差し出した。季基は、タダでは悪いからと百両もの金を支払い、漸く刀を手に入れた。結城合戦で失われたが、ひょんなことから入手した義実は伝家の宝刀・大月形(ペアの小月形は親兵衛に下賜済み)の小刀として、嫡子の証とて義成に与えた。件の刀こそ、後に義通に譲られる刃渡り二尺の「狙公(さるひき)」である。
 此の挿話は、なかなかに心温まる。季基は、猿回しが大蛇に呑まれてから徐に狙公を手に入れることが可能であった。だが、猿回しを助けた。猿回しとしては命を助けて貰ったのだからと狙公を(恐らく無償の積もりで)差し出すが、季基は宝刀なんだからと、百両もの金を支払った。其処には搾取して当然との武家の奢りは全く見られない。便宜を図ったとか何とか云わず、物質の移動に対価が必要だと考えるためには、互いに平等の地平に立って交換するのだとの感覚がなければならぬ。搾取しようと思えば出来た筈の刀に、季基は多額の対価を支払った。機能としての身分差はあったかもしれないが、基本的に平等な世界観である。
 緑深い豊かな渕に大蛇が棲むとは、日本人なら慣れ親しんだ感覚だ。例えば愛媛県新居浜市の或る地域には、次の様な昔話が伝わっている。
     ◆
病身の祖母と二人暮らしの孝行息子がいた(父母とは死別)。少年は山へ柴刈りに行って生計を立てていた。或る日のこと、少年が渕の辺を通りかかると、よく育った大きな魚が、たくさん泳いでいた。少年は、おばあさんに魚を食べさせたいと思った。貧乏だから、魚を日常の食膳に供することが出来なかったのだ。しかし渕には大蛇がいるため、誰も近付いて魚を捕ったりしていない。少年は村の鍛冶屋を訪ね、毎日柴を持ってくるから刀を作ってくれと頼み込んだ。

褌一丁で鍬を鍛えていた鍛冶屋は立ち上がり、口ずさんだ。「太刀つくる たくみ乃ともハはだかにて 打のばせども きる物はなし」(八犬伝第九輯下套口絵)。少年が怪訝そうな表情をしていると、鍛冶屋が粘っこい口調で言った。「脱げ」「え?」「裸になれ、と言ってるんだ。代金は、柴なんかぢゃなく、肉体で支払ってもらう」「そ、そんなっ」「刀が欲しいんだろ」「……うん」「ぢゃぁ、脱げ」。
事が済んで鍛冶屋は、フと一息吐いて見下ろした。少年が全身汗に塗れて横たわり、苦しそうに喘いでいる。波打つ薄い肩に鍛冶屋が手を置く。「ふふふ、どうだ、俺の銘刀は」「はぁはぁ、す、す凄い」「太いだろ、これで貫かれたら、女だって於兎子……男だって、すぐ逝(い)っちまう。死ぬ死ぬぅぅっってな。おら、も一度握ってみろ」「あぁん」少年は握り締め頬擦りし愛おしそうに口づける「ぼ…僕のカ・タ・ナ……」潤んだ目で見詰める。鍛冶屋は急に優しげな瞳になり、「お前も巧かったぞ。本当は初めてぢゃなかったんだろ」「そんなっ、僕、ボク初めてだったんですっ」「本当かぁ? 腰遣いと言ぃ声と言ぃ、何たって俺に合わせて動くタイミングが何とも……」鍛冶屋は思い出し笑いをして、「本当に、初めてだったのか。大したもんだ」「……うん」含羞み俯く少年。
鍛冶屋に言われ初めて鍛造の助手を務めた少年は、疲れ切った体を漸く起こし、出来たばかりの刀を受け取った。「おじさん、ありがとう」「あぁ、そうだ、丁度いい鞘もある。あぁあ、危ねぇな、寄越せ。ほら余ってる柄も付けてやる。……これで、よし、と。ほら、持ってけ、サービスだ」「ボク、毎日いっぱい柴を持ってくるよ」「余計な事すんぢゃねぇ、そんな暇あったら婆さん孝行してやれ」「ありがとう」少年は刀を打ち振り駆けていく。鍛冶屋は少年の後姿を暫く見送り、微笑んで仕事に戻る。

その日から早速、刀を持って少年は渕に行き、魚を釣る。毎日魚を売って、祖母に薬を飲ませる。祖母も元気になってきた。皆が不審がる。これまで渕に行った者は大蛇に呑まれ、生きては帰ってこなかった。評判となり殿様の耳にも入る。殿様は家来に命じて、少年が無事である理由を調べさせることにする。
家来が後をつけ見ていると、少年は何の衒いもなく渕で釣りを始める。入れ食い状態で少年が夢中に釣りをしていると、いつの間にか大蛇が少年の背後に忍び寄り、まさに一呑み……と見るや、少年の刀が、ひとりでにスルリ抜け、大蛇に打ち掛かる、大蛇退く、刀鞘に収まる、大蛇忍び寄る、刀打ち掛かる、これを何度か繰り返す間、少年は気付かず釣りに没頭している。
驚いた家来は急ぎ戻って殿様に報告する。殿様は少年の孝心が刀に神を宿らせたのだと感心し、少年を召し抱える。大蛇丸と名付けられた刀は藩の宝として伝えられている(が、んなモン今は無い)。
     ◆
 因みに第二段落から第四段落は筆者の創作挿入であるが、当然、少年が鍛冶屋の仕事を手伝った様を描いているだけなのだけれども、万一変な想像をした者は、怒らないから後で職員室まで来なさい。オジサンの銘刀で御仕置きが必要だ。

 豊かな渕を、恐らくは水と密接な関係にある蛇が支配しているとは、日本古来の自然な発想であり、京を守るホムンクルス(将軍塚)もあれば、現在でも自動迎撃ミサイル網に膨大な予算を浪費する国があるぐらいで、オートマチックな防御装置は、古今東西共通に夢想してきた。また持ち主が念ずれば遠くにあっても手元に飛び込んでくる剣なら、遅くとも例えば、ケルト神話の光神ルーのフラガラックまで遡れる。故に、持ち主の知らぬ間に刀が勝手に応戦してくれるなんざ、それ自体は出典を求めねばならぬ程、特殊な話ではない。自然に発生しそうな話だ。
 問題は、其のレベルには無い。八犬伝は公衆小説なんだから、刊行当時の社会心理面にこそ注目すべきだろう。実は上野に於ける季基の大蛇退治挿話、かなり厄介だ。猿回し(以下では猿牽)は、被差別者/賤民であった。維新後に賤民は「新平民」とされ、制度が廃絶された(けれども「新平民」と戸籍に記載され「平民」と差別されたが、まぁ一応の制度的平等は達成され社会経済実質的差別のみとなった←此れが戦後政治に大きな禍根を遺すが、まぁ此処では論じない)。が、「平民」たちは怒った。一揆暴動して、「新平民」となるべき賤民を襲ったり制度改変に反対したりした。いやまぁ制度改変前には、確かに農民とか町人との通婚が禁止されたり着衣制限があったりしたのだが、全面的に心底差別していたかは甚だ疑問で、例えば賤民は近世法制上、町人居住地に立ち入れない筈なんだが、猿牽やら鳥追やら万歳(まんざい)やらの門付、芸能神事を担った被差別者たちだって町人・武家居住地に出入りせねば、抑も「門付」自体が不可能だ。実態として、差別法制が貫徹されなかったこたぁ幼児だって納得できよう。法制明文のみでは理解し得ない世界が広がっていたことは明らかであるし、先人の指摘では、猿牽が町人になりたいって訴訟を起こしたりしてて、意識の上で身分が本当に実態として隔絶せるものであったか甚だ疑わしい。にも拘わらず賤民身分撤廃時、「平民」による「新平民」苛めが起こった。まさに身分撤廃という瞬間に、それまでは穏やかな区分であったものを急激に意識したため、差別自体を以前の実態より遙か尖鋭化してしまった、不幸な事件だったのではないか。民族やら宗教の対立でも、平時は「自分たちとは一寸違ってはいるが、他人として付き合う分には支障なく穏やかに共存できる相手」が、それこそ一寸した事件で、互いに絶対的に隔絶した存在となってしまう。植民地期朝鮮では民族間の対立が尖鋭化したとき「日本人が井戸に毒を入れた」との流言があったし、関東大震災直後には「朝鮮人が井戸に毒を入れた」との虚言が流れた。不倶戴天となる。人は、まことに業が深い。……暗澹たる気持ちだが、次回に継ぐ。(お粗末様)
 
 
 

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