◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 赤き衣の男」
                                                                                         -日本ちゃちゃちゃっシリーズ1-

 天武紀の表記は謎に満ちている。日本書紀は「紀(本紀)」だから帝王の事績を記述するタイプの史書だ。各天皇毎に一章を立てている。出自、出生を数行で述べ、在位中の出来事を羅列している。天武紀も基本構造は同様だ。が、在位までの記述が妙に長い。この妙に長い前置きこそ、叔父甥が血で血を洗い、そして皇位を継ぐ者が斬首されて終結した大乱、<壬申の乱>を語っている。

 蘇我馬子を大極殿で討った天智帝は、死の床へ実弟であり皇太子の大海人皇子を呼びつけた。使者はかねて大海人と親しくしていた蘇我臣安麻呂であった。安麻呂は天皇からの言葉を伝えた後、一言付け加えた。「お気をつけなさい。なにか裏がありそうです」。

 大海人に天智は命じた。「跡を継げ」。大海人は答えた。「私は多病で皇位を継ぐことは出来ません。皇后に政治を任せ、甥の大友皇子を皇太子にしてください。私は出家します」。天智は、大海人の申し出を聞き入れた。大海人は僧形となり吉野へ赴いた。此処で大海人の舎人(トネリ:お付きの者)の半分は去ったが、半分が残った。或る人は言った。「手近に置いておけば牽制も出来ように。あの野心家の大海人を吉野に行かせるとは、虎に翼を着けて放つようなものだ」。

 天武紀では、天智の死後、大海人を「天皇」と表記している。それはそれで良いのだが、混乱するといけないので確認しておこう。この時点で大海人は、天武紀の表記に拠れば、皇位継承権を既に放棄しており、天智の皇后、倭姫王が政権を執り大友皇子が皇太子になっていたか、大友皇子が権を執っていた筈なのだ。大海人は、出家した皇族に過ぎない。しかし、日本書紀は大友を天皇とも皇太子とも決して呼ばない。

 吉野に籠もった大海人は不穏な動きを見せた。山陵を作り、そして半分は去ったとはいえ舎人を擁していた。舎人は、律令制に於いては、親衛隊/武力の側面を持つ。山陵を作るとは、戦いを前にした行為だともされていたようだ。当時の政権である近江朝は、大海人に野心があると断定した。大海人討伐の軍勢が差し向けられた。大海人も軍勢を集める。因みに、「近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無計事者唯有幼少孺耳」(六月二十七日条)とある。近江朝は天智の朝廷を受け継いだ正当かつ正統な政権であるので国家としての体裁を整えていた。しかし、出家した皇子に過ぎない大海人は烏合の衆を率いていたに過ぎない。

 本格的な両軍の激突が目前に迫っていた六月二十六日、大海人は伊勢の朝明郡(アサケノグン)で天照太神を祀った。戦闘が開始された。七月一日、大海は数万の軍勢を遂に大友皇子の本拠地、近江に発遣する。決戦を覚悟した大海人は、軍勢に「恐其衆与近江師難別以赤色着衣上」。何故に彼が赤き衣を選んだか。此処で項羽と劉邦の争い、勝利を収めた漢軍が纏っていた赤衣の嘉例を思い浮かべても良いのだが、多分、問題は其れほど単純ではない。

 しかし、この軍勢は近江朝側に迎撃され、簡単に進むことは出来なかった。七月五日、近江朝側は吉野軍への奇襲に成功する。夜半に砦を破って押し入り、合い言葉の「金」を叫ばない者を片端から殺戮したのだ。目端の利く武将が一人、「金」を合い言葉と察知し、辛うじて生き残ったのみ、部隊は皆殺しに遭った。七月十三日の大戦で勝利を収めた吉野側は二十二日の決戦で近江朝を潰滅した。翌壬子の日、逃げ道を失った大友皇子は、「自縊焉」。二十六日には大海人に、大友の首級が献じられた。此処に於いて、皇統を争う骨肉の争いは終わる。八月一日には近江朝すなわち正統政権の重要人物八人が極刑とされた。戦犯処罰である。大海人は冬までに造営した新都に遷った。飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)である。翌年すなわち「天武二年」二月一日、簒奪者・大海人は登極、天武天皇となる。

 さて、既にお気づきであろう、この「壬申の乱」、即ち大海人による政権簒奪が、五行説の革命論によって正当化されていることを。大海人は大友の本拠・近江を攻めるに当たって、自軍に「赤色」の上着を着せた。赤は火気を象徴する。そして、大友軍は奇襲に於いて自軍を識別する合い言葉に「金」を使った。火克金の理により、金/大友が火/大海人に滅ぼされることは必然であったのだ。「易姓革命論」は、一見、単なる戯言だが、何等現実的正当性をもたない者が政権を簒奪する際の、イーワケぐらいにはなる。戯言であっても、現実を動かしちゃうのだから、馬鹿には出来ない。抑も天武紀は、そのキャラクター設定に於いて、美少年だったとか逞しかったとか月並みでお約束の無意味な言葉を並べている中に、「能天文遁甲」なる表記が滑り込んでいる。簡単に言えば、五行説に耽溺したオカルト・ファンだったのだ。そんな天武だったから、五行説に則って位階により制服の色を変えたり八色の姓なぞという制度を作って喜んでいた。まぁ、そんなことは御愛嬌だが、五行説を信じたが故に、彼の命が縮まった、と私は疑っている。

 血塗られた皇位、その魅力が絶対的であったうちは、野心家・天武のことだ、満足していただろう。己の為した事どもを、自ら許していただろう。が、人は老いる。権力に飽満しもする。熾烈を極めた戦いで甥を死に追いやってまで得た皇位の魅力は、半減する。魅力が色褪せると、其の呪われた側面のみが強く意識されてしまう。

 天武の即位後、度々吉兆が諸国から報告されている。赤い亀だとか枝分かれした霊芝だとか、そんなもんだ。当時の朝廷が五行説や其の他呪術の影響下にあったことが解る。縁起を担ぐだけなら、まだ罪は軽いが、オカルトの、もう一方の側面、妖術も行われたようだ。例えば天武四年十一月一日には「有人登宮東岳妖言而自刎死之」。また、呪術を行って処罰された者もいた。そして、天武八九年ごろからだろうか、いや元々仏教行事は行われていたのだけれども、ソレが目に付くようになる。この宗教行事の増加は、天武が老いて気弱くなる過程とも感じられる。人は気弱くなると、他者の<良心>を期待するによって、自らの裡にも急遽、良心を捏造、信心ぶったことをして、宗教に逃げ込む場合がある。マクベスはダンカンを殺した直後から良心の呵責に苛まれたが、壬申の乱から約十年、大海人も自らの手が、大海の水を以てしても洗い流せぬ血で塗れていることに、漸く気付いたらしい。……後悔するぐらいなら、しなきゃ良いのに。でもまぁ、やっちゃったことは仕方がない。事実は如何な権力者にも否定不能だ。隠蔽もしくは抑圧に成功しても、本人の心の裡には厳然として存在し続ける。一見、英邁に見える天武は、哀れな老醜を晒すことになる。

 天武十五年五月二十四日、「天皇始体不安於川原寺説薬師経」、不調を感じた天武は川原寺で薬師経を講ぜしめた。が、効果はなかった。六月十日、治まらぬ天武の病を占わせた。五行好きの天武のことだから、呼ばれたのは陰陽師系の卜者であったろうか。診断が下った。が、ソレは俄に信じがたいものであった。「祟草薙剣」。それで、「即日送于尾張熱田社」。草薙剣は、言わずと知れた三種神器の一である。皇統の正当性を保証するものだ。其の証が現職の帝に祟ったのだから、尋常ではない。常識的に考えれば、これは皇位を簒奪した天武に対し、神が怒り給うたと解釈すべきであろう。が、元より皇位は複数の王朝によってリレーされたものであるし、簒奪者は何も天武ばかりではなかろう。にも拘わらず天武のみが草薙剣に祟られたことは、草薙剣の性格に由来する。先に天武が自らを火気に配したと述べた。その火気を滅するものは、当然の事ながら、水克火、水である。草薙剣は、水気の剣なのだ。自らを火と規定することによって政権奪取を正当化した天武が、火気たる故に、まさに皇統の証に責められ否定されたのだ。付言すれば天武が滅ぼした大友皇子は金気、金生水、大友皇子の怨念が水気と変じ、火気たる天武に祟った、と天武本人は考えたかもしれない。根国から蘇った水なる神の剣が、天武の頭上に振り下ろされた。赤き衣の男が、恐怖に青ざめている顔が、目に浮かぶ。……彼の赤衣は火気を象徴していたのではない。それは彼のために流された夥しい血で染まっていたのだ。循環する五行の呪いは、正確に彼を射抜いた。

 自らの衰え行く精を復活させようと天武が行ったのは、年号の制定であった。七月二十日、戊午の日に「朱鳥元年」を宣言した。朱は火気の色、鳥は火気の禽である。火気を象徴する動物は想像上の<朱雀(スザク)>だが、火気の勢いを強めることを期待した年号であることは明らかだ。因みに「戊」は土の兄である。午は火気が最も盛んになる支である。火生土(火は土を生ずる)、故に土扶火(土は火を助ける)。戊午の日を選んで年号を制定したことは、火気復活の期待を込めていたことを裏付ける。が、所詮、五行説は自然の摂理を支配することは出来ない。これを近代に於いては「迷信」と呼ぶ。が、迷信が人の心を支配し、そして現実として人を動かした。

 抑も、「壬申の乱」を五行説で説明しようとするとは、愚の骨頂であった。「壬申」とはミズノエサル、即ち、水気と金気が結合している。水は金を助けるから、このときには金気は勢いを旺んにする。五行説に於いては、この年、金気たる大友皇子は有利だった筈なのだ。にも拘わらず、大友皇子は敗北した。

 しかも九月九日に、天武は死ぬ。天武にとって、これほどの皮肉はない。九月九日は、奇数ゾロ目、即ち、<重陽>の日だ。陰陽五行説では、(一桁の)奇数を陽、偶数を陰と考える。しかも、奇数のうち最大が、九である。そして、火気は陽気の最たる者、太陽である。火気を標榜し復活の願いを込めて朱鳥なる年号を定めてまで足掻いた天武は、まさに重陽の日、しかも御丁寧にも丙午すなわち火気が最も旺ずるべき日に、死ぬのだ。金気が旺んであるべき年に金気の大友皇子が敗れ、火気が旺んであるべき日に火気たる天武は死んだ。天武は五行説を政治闘争に利用しはしたが、その五行説によって呪われ、そして五行説に見放された。これが、天武なる者の末路である。そして、五行説は後の朝廷をも呪縛した。いや、古代の朝廷で陰陽師が跳梁したとか、貴族が五行呪術に耽ったとか、そんな些末な事を言いたいのではない。

 壬申の乱は国史上、<明確なる古代王朝>のスタート地点だ。と言うのは、全体を通読できる纏まった国内史料は、記紀を嚆矢とするが、この記紀の起源が天武朝にあるからだ。天武帝の命により帝紀、旧辞なる史書が編まれ、それを元に記紀がモノされた。実は拘わった編纂者も、帝紀・旧辞と記紀で共通していたりする。故に、帝記・旧辞は現存しないものの、現存する記紀と<史観>を共通すると疑える。天武朝は先に述べた如く、従来の政権を滅ぼした簒奪者である。簒奪者は自己を正当化する必要に迫られる。だからこそ、史書を編纂したのだろう。言いたかないが、<歴史の捏造>を試みたかもしれない。捏造や隠蔽、例えば、紛れもなく君主となった者を、<天皇に即位しなかった>ように書くことさえ、屁の河童だ。幾ら何でも其処まではしないだろう、と考える清廉潔白なる読者の皆様、人間を甘く見てはならない。人間は多分、唯一の、<嘘を吐く動物>なのだ。しかも、例えば、天皇即位云々に関して言えば、「嘘」でないとも言えたりする。なに、難しい理屈じゃない。

 日本書紀(の原型)が天武朝期に成立したことは、既に述べた。其の史観は、天武の胸中にある。史料や伝承は、手元に採集していたであろうが、此処で重要な事は、過去の君主のうち、誰を天皇と<認定>し、誰を認定しないか、天武(もしくは其の意を受けた編纂者)が決定できたのだ。このように言い得るのは、先人の知見に、<天皇なる概念は天武もしくは其の妻・持統の時代に正式に確立した>なんてのが、あるからだ。神武の時代から、「天皇」と自ら名乗っていたワケじゃない。

 だいたい、古代の日本は、ラーメン一筋ウン千年の中華帝国に対し、従属はしていなかったにせよ、臣下の礼をとっていた。交通していたのだ。「ウチの天皇からお手紙でぇす」なんて持っていったら、酷い目に遭っただろう。「田舎者は仕方ねぇなぁ」と失笑を買えば、めっけもの。最悪の場合、大軍勢に攻められて、皆殺しにされかねない。何たって、こんな失礼なことは、他にはない。

 中国は、秦王政が中原を奪ってから「皇帝」号を用いた。「天子」とも言い換えたりした。日本でも、現代に於いて横文字を珍重する如く中国に倣って「天子」と言ったようだけれども、日本書紀では天皇は「天皇」と表記された。此処に、重大な問題が潜んでいるように思う。「天皇」なる表記は、道教の臭いがプンプンするのだが、「天子」よりは格上だろう。同じ「天」でも「皇」と「子」じゃぁ、勝負にならない。「天子」は<天の子>、「天皇」は<天の主宰者>だ。天皇の方が<偉い>。

 中国には、易姓革命論なる論理がある。五行説の相克の理、「火克金」とか「水克火」とかを用いて、政権交代を正当化もしくは説明するのだ。即ち、中国の王朝は、五行説の呪縛の下にある。「革命」とは、<天命を革する>ことで、言い換えれば、<天が権力者として信任する者を易(か)える>ことだ。天によって交代させられるとは、天よりも劣位にある事を意味する。何せ、「天子」なんだから、親の言うことはきかなきゃなんない。此処に、君子の徳が「孝」を第一とする理由がある。付言すれば、天の声とは、即ち民の声であり、大学に云う、「君親民」の意は自ずから明らかであろう。「君は民を親とす」としか読めない。……とは昭和初期の作家・夢野久作からの受け売りだが、あだしごとはさておきつ、五行説という最先端で舶来で素朴な倭風発想じゃ太刀打ち出来ないほど洗練された論理そのものを否定し得なかった天武朝期の日本に於いて、革命論を回避する裏技があるとすれば、ソレは、自ら天を「主宰」しちゃうことだ。五行説の範疇で、易姓革命論を超越するには、自ら「天」そのものになるしかない。

 壬申の乱は、「革命」であった。大海人なんて水っぽい名前の皇子が「火」を標榜し、正統なる継承者・大友皇子を「金」と決めつけ、火克金の理を以て政権簒奪を正当化した、叔父甥の家庭内暴力であった。中国で謂う「易姓革命」は、まぁ父系の血統、「姓」を以て一集団とする前提をもつが、多分、当時の日本は母系の影響が強かっただろうから、本来としての「易姓革命」は存在し難い。大海人と大友も、同じ父系に連なるから、其の意味では、「易姓革命」ではない。が、「革命」ではある。しかも、日本に於いて、「姓」は天皇が認知するものだ。源平藤橘……これらは「姓」であるが故に、革命論の影響下に置かれる。が、国史上、多分、一度も姓を名乗らなかった一族がある。そう、あの一族だ。あの一族だけが、革命論から超然たり得る。それだけのことだ。馬琴は、八犬伝の後半で、姓は勝手に名乗るものでなく、朝廷に認可されねばならないと何度も表記、実際、八犬士の姓も天皇の認可を受ける。八犬伝世界に於いても、姓に就いての許認可権を有する天皇は、「姓」の呪縛から唯一、自由であると言える。

  「祟」とは多分、恨む側ではなく、恨まれる(と自ら思っている)側の、心の弱さで成長する。五行は循環する。其処には永遠の勝者は存在しない。大海人が用いた簒奪の論理は、大海人その人へも向けられ得る論理であったのだ。彼は悪夢のうちに泣き喚き、悶絶して死んだに違いない。

 妻の持統は、そんな夫の天武を如何に見ていただろう。天智の娘である彼女は、叔父たる夫と兄が殺し合うのを見つめていた。彼女の願いは、五行の呪縛からの逃避ではなかったか。「天皇」、この称号には、彼女の、そんな願いが込められているような気がしてならない。同時に、天武が祟りの恐怖で上げた悲鳴すら、籠もっていよう。此処に於いて、日本の君主は、五行の革命論を超越することに成功した。

 が、天武を以て始まる王朝は、「火」の記憶を或る文字列に託した。壬申の乱の最中、火気たる大海人がアサケの郡に於いて遙拝した天照太神が最高の神格を獲得したのも、天武・持統の時代であったかもしれない。過去の神話は窺うべくもない。このとき、天照を最高神とする、新たな神話が始まったことを微かに推測し得るのみだ。

 火気は太陽とも言い換えられる。真っ赤な太陽は、天武から続く王朝の象徴であり、簒奪によって流された血の記憶を呼び覚ますだろう。「日本」、旧唐書に於いて初見する此の二文字は、天武・持統の孫、文武が中国に対して使用を願い出た国号である。国号の使用を受け入れた者は則天武后、中国史上最低の淫婦、最悪の政治混乱を招いたと云われる女性だ。何となく、イーカゲンに許可されたような気がしないでもないんだけど、まぁ、良い。

 原始、女性は太陽であった、のかもしれない。太陽と女性は相性が良いようだ。古事記の記述では天照太神が男性である可能性も否定できないのだが、日本書紀では明らかに女性として扱われている。が、日本書紀に於いて、女神を「陰神」と表記している如く、女性は「陰」であった。「(太)陽」ではない。陰なる天照太神が太陽神なのだ。この矛盾、いったい何を意味しているのか。……行数も尽きた。それでは、またの機会、「黒き衣の神」まで、ごきげんよう。

(お粗末様) 質問への解答

 

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