■天は個人と繋がる■
 
 儒学は一般に支配者層の特権的学問であった。中国・朝鮮では官吏登用試験の必須科目だ。受験者層を中心に学ばれた。一方、日本では特殊な展開を見せた。律令制下で中国科挙の移入が試みられたが定着せず、門閥貴族政治へと進んだ。それでも貴族には教養として儒学を学ぶ者はいたし、後には五山寺院で研究されるようになった。
 異民族の侵攻に悩まされていた中国/宋で、朱子学が生まれた。体制強化のため、内向的で社会の凝集性を高め得る学説が必要となったのだろう。本来、中華主義は異民族に対して寛容な側面も有った。しかし其れは、あくまで異民族が弱小であるうちの話だ。自らの存在を脅かすほどに強大となった異民族に対し、ナショナリズムの牙を剥いたのだ。明代に入っても、異民族の脅威は去らなかった。東の日本は実際に朝鮮半島へと攻め込んだし、西では欧州・トルコが端倪すべからざる存在となっていた。そして自らも最後には、満州族に支配され清となった。外からの脅威は、ナショナリズムの温床である。明代以降に大流行した水滸伝も、ナショナリズム小説と、謂えなくもない。如何に考えても破戸者としか思えぬ者も好漢には含まれている。言い換えれば、朱子学の枠を超えた不良どもも、対外戦争に従事することで宋への忠義を表現し得る。続編である水滸後伝では、残党が南洋へと逃れ、日本から攻めてきた「太閤」の軍勢を打ち破る。荒唐無稽ではあるが、朝鮮出兵やら清に対する鄭成功の抵抗やらを引いているのだろう。
Patriotism is the last refuge of a scoundrel.
 朱子学は執拗に、自己を再生産していく。後継者達も独自の問題を設定するが結局、朱子の言説の中にこそ【正解】を見出す。言い換えれば、現在の問題を、中国宋代に発した朱子の言説に嵌め込もうとする。前例に固執する官僚制に親近性が高い。官僚制は自己保身に走り、既存体制の存続を夢見る。自己を再生産することを以て生き延びようとする朱子学は、御似合いだ。此の朱子学の性質は、或いは朱子の個性に依るのかもしれない。彼は官僚でありながら、特定の相手の誹謗中傷を繰り返したり、閑職を願って読書に耽ろうとした。簡単に言えば、現在問題になっている【引きこもり】の元祖みたいなもんだ。とは言え、それまで雑漠とした【好々爺の箴言集】みたいだった儒学を、体系立てて整合させようとした努力は認めねばならない。但し其の為に、堅い殻の中で循環する如きとなり、結果として静態的にならざるを得なかった。ならばこそ、引き籠もりオヤジの朱子学に不満を抱いた有能な軍事実務官僚/王陽明が、新たな学派を起こした。
 
 日本で支配層になるため、儒学は必須ではなかった。近世に於いては、譜代・親藩大名と大身旗本が政務に当たった。儒学は、茶や将棋と同じほどの【芸】/余技として学ばれただけだった。また、朱子学系の林羅山は初期幕府の顧問であったし、彼の子孫が幕府学問所を主宰するに至るのだが、此れは朱子学の【国教化】を意味しない。例えば、八代将軍・吉宗らの信任篤かった荻生徂徠は、朱子学のことを虚妄の説と喝破した。朱子学を机上の空論として退けた彼は、実学を指向し、政談などで具体的献策を行った。経世済民である。寛政異学の禁も、官吏登用に朱子学が必要だとしたのみで、他学派を禁止したわけではない。そもそも布告者の松平定信は根っからの朱子学派ではない。
 また日本儒学は、支配層に独占されていなかった。早い時期の陽明学者として有名な近江聖人/中江藤樹は、大洲藩士だったとき旅の僧侶が儒学を講じると聞いてコッソリ聴きに行った。武士は、あくまで兵士であることを求められた。儒学とはいえ、所詮は芸事に過ぎなかった。また、同じく陽明学者だった大塩中斎の弟子は、下級武士のみならず町人そして豪農層にまで広がっていた。
 だいたいからして、既に十四世紀、五山では最新流行の朱子学を研究していたようだし後醍醐帝や側近の北畠親房も学んでいたようだけれども、儒学が日本で広まった時期は、早く見積もっても元和偃武以降だ。その時、朱子学も、其れへの反発として発生した陽明学も、一気に雪崩れ込んできた。初めから選択肢があったのだ。下級武士や町人なども儒学を学べるようになったが、そうした中間層にあって、中央官僚への登用が閉ざされているのに、自ら進んで朱子学を学ぼうなんて変態……いや奇特な者も多くはいまい。
 しかも日本では、儒学が入ってくる以前、民間宗教としては仏教や民俗神道が、しっかりと根付いていた。特に仏教は幕藩体制支配の一翼を担っており、戸籍の管理に当たっていた{宗門改め}。
 
 ほとんどの農民は、地区寺院の檀家だったのである。儒学には生活規範の側面もあるから、宗教の代替物になり得た。しかし先行する仏教や民俗神道に取って代わることはなかった。近世日本に於いて一般に、儒学は仏教や民俗神道に上乗せされる教養に過ぎなかった。
 ところで其の仏教であるが、ゴータマさんは別に先祖を供養しろとか言っていない。死ねば自然の中で朽ちていくことを覚悟していたのだろう。だいたい出家とは、血縁の恩愛を捨てることでもある。また彼は徹底した平等主義者でもあった。すべての人間が平等……に止まらず、彼にとっては万物は平等なのだ。が、身分差別のあった中華帝国や日本で普及した。これは恐らく、中華帝国のせいだ。元々仏教にあった輪廻の思想や因果応報の理が、何故だか中国で、身分制の肯定に擦り替えられた疑いもある。自分の身分が低いのは、前世で悪事を働いたからだ、とか何とか言いくるめられたのだ。イーワケさえあれば、人は理不尽なモノへの闘争を放棄する場合がある。そして明代の小説なんか読むと、先祖の悪行が自分の不幸へと結果しているのだ、と納得していたりする。【前世】から【先祖】への置換は、驚くべきことではない。中国発祥の儒学は、孝を徳の前提として重視するが、其れを突き詰めていって、自分が始原の存在/太虚から連綿と続くラインの末端に在ると意識する。先祖から連続しているという強い意識が、自分の【前世】と【先祖】の置換を容易に許容した背景に在るのだろう。
 一方、日本では、再び【前世】が強調されてくる印象だ。中国儒学が流入した後でも、日本では近世にあっても異姓養子が平然と行われていた。同性婚……ではなく、同姓婚にも抵抗はなかった。いとこ同士の婚姻なんて何の障害もなかった。中国では{朝鮮でも}現在に至るまで、本貫{先祖の出身地}と姓を同じくする者同士の婚姻を嫌がる。現在日本では三親等以内の婚姻が禁じられているのみだ。習俗に決定的な差が存する。先祖との繋がりは、中国と比較して薄いと言える。此の点に関して言えば、と言っても此の点こそ非常に重要で中国儒学の根幹とも言えるのだが、日本では換骨奪胎されている。状況が変われば、学問だって同一たり得ない。当たり前の話だ。 
 
 仁義に優れる里見家が天下に号令を下すほど強大にはならないことに対して政木大全は「天なり命なり」と慨嘆した。此の言葉は実のところ難解だ。表記通り「天」と「命」を分割してしまうと意味が通らない。里見家が天下を取らぬ事を次元の違う「天」なる語彙では表現できないし、「命」でも舌足らずだ。よって「天命」を敢えて分割して表記した、と考える。
 天命とは何か。論語の「五十而知天命」からすれば、【天の摂理】を謂う。子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十時従心所欲不踰矩」。余りに有名な章句だ。 概ね、十五歳で学問に身を入れ、三十歳で独自の見解を抱き、四十歳で独自の見解を確立する。六十歳で他人の言葉を素直に聴くことが出来るようになり、七十歳ともなれば心に湧く欲望が他者を侵すことはなくなる。当然、個々に語られた、それぞれの立場は、万人が、まるでエスカレーターに乗っているかの如く、自動的に得られるものではない。飽くまで聖人/孔子/君子の場合を謂う。即ち、【理想的人間の道行き】に過ぎない。学/人様を理解しようという営為、に志さない者は、何処まで行っても、バカガキの儘だ。論語に謂う「学」は、孔孟の学であり、現在謂う所の儒学に外ならない。儒学とは、修身斉家治国平天下、表皮によって実際には絶対的に環境と区分されている個体という一纏まりを自然状態の儘に放置することではなく、一個の理性により統合して治め、表皮によって絶対的に隔絶されている他者との関係性の中で自らを律するうちに互いへの【愛】を育み、まずは容易に共感し得る血縁家庭内を平穏に致し、一層より身を修めて真っ赤な他人同士の関係をも円満にすることで、地縁地域ひいては国の範囲を、あたかも一家の如く強密に纏め上げ、【国家】のレベルにまで押し上げる術、でもある。其の為のスタート地点が、「十有五而志于学」なんである。己を律せずアメーバの如く、ただ己の内面世界を其の儘に膨張させたいが故に膨張し続けようとする、実のところ【内向的な支配欲】、を排し、己とは異なる他社と渡り合い愛し合う、大袈裟に言えば施無畏、即ち分断へのベクトルと訣別することこそ、儒学の真骨頂だ。だからこそ儒学は曲解すれば、単純な全体主義へも傾倒し、また逆に我が儘な天誅テロリズムにも堕する。
 現在では「五十而知天命」を、孔子が五十歳にして初めて己の使命を知る、と訳す場合がある。ちょっと遅いのではないか。志は十五歳で立てている。聖人である孔子なら寧ろ十五歳の段階で己の使命を感得し、学に志す方が自然だ。また天命を宿命・運命と訳す場合がある。孔子は五十代前半、魯の定公に重用され、終には高官である大司寇にまで至った。国政リーダーの一人となった。しかし五十歳代後半、放浪の旅に出ている。或いは、濁世に自分の理想が実現し得ないと悟ったか。飽くまで自分の掲げる理想/学は、目指すべき希望であって、戦国の世に其の侭では適用出来ないことを悟ったか。実務官僚としての立場を棄て、流浪の旅に出た。此の様に解釈すれば、「五十而知天命」は、五十歳代で自分の学問が現在の政治に適用できないこと、飽くまで目指すべき理想に過ぎず、自分は行う者ではなく語る者に過ぎないとの【宿命】に思い当たった、ことを指すのかもしれない。此れを使命と置き換えれば、其れまで孔子の意思が間違っていたことになり、聖人としての要件を満たさなくなる。対して宿命/運命ならば、聖人であっても乗り越えられない【天の差配】の絶対性を想定しさえすれば、孔子を聖人の座から引き摺り降ろさなくて済む。元より論語の記述が、孔子の聖人性を否定する筈もない。
 しかし実のところ、使命や宿命と解釈すること自体、問題を孕んでいる。単なる孔子の自伝として解釈している。論語は孔子の講義ノートみたいなもので、さほど体系だって編まれているわけではない。とはいえ当該部分は、「子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之」で始まる所謂「為政章」だ。当該部分の直前では「子曰、道之以政、斉之以刑、民免而無恥、道之以徳、斉之以礼、有恥且格」と法家を否定し徳治を勧めている。当該部分へと進み、後は暫く孝/人間関係の根本に就いて幾つかの側面を語る。当該部分を孔子の自伝/個人的経歴と解釈すれば、余りに配列が唐突に過ぎる。しかし徳治を勧める部分の直後に、例えば「あなたは刑罰を排し徳と礼による政治を勧めるが、人は欲望によって行動する、徳と礼で治まるのか」との疑問を挿入したとしよう。孔子は答える。「少なくとも学に志す君子ならば、六十にして耳順い七十で欲する所に従っても矩を越えないようになる。確かに人は欲望によって行動するが、最高度にまで成長すれば、他者と完全に調和できるようになる。則ち人の本性は善である。其れが発揮できるような環境さえ整えば、徳と礼で治まる」。結局、当該部分は、孔子の個人的回顧ではなく、君子一般の人生をモデル化して提示していることになる。此の様に解釈して初めて当該部分は、文脈の中にシックリと収まる。我田引水は承知の上だが、元より論語は、行間を読まねば、支離滅裂に分断してしまう。編纂時に一応は関連し合う部分を纏めたと仮定すれば、上記の如く解釈することも許されよう。
 当該部分を君子のモデル、学問の進み具合を示すものと考える。十五歳で学問への意思を強固にし、三十で自分なりの説を立て、四十で確固となり、六十で自分とは相容れない他者の意見にも相応の根拠を認められるようになり、七十で調和への指向が骨肉化する。此の流れの中に使命やら宿命を捻じ込むことは、不自然に過ぎる。其処で伝統的な朱子学流は、天命を、天の摂理と解釈した。自説を立てるとは、無数に想定し得る説から、自分が正しいと思えるものを選択し構築することである。惑わず確信するとは、自説の中から、より確かなものに絞り込み洗練することだ。其の延長線上にある学問の階梯が、天の摂理/真理の発見であれば、相応しい。則ち孔子が提示した君子モデルは、五十で学理面の完成をみる。六十、七十は、学理の内面化/血肉化/実践である。
 此の点に限れば、朱子学流の解釈は、正当である。しかし現在日本に於いては、当該箇所を、孔子の個人的回顧と解釈するムキが優勢だ。則ち、天命を、天の摂理/真理と解釈するのではなく、運命・宿命として捉えることへの変化が、何処かであったのだ。文脈の流れを無視し、テキストを文字通りに解釈するならば、なるほど、そうした理解も可能ではある。此の変化の根底には、孔子を神がかった非人間的な聖人として固定化・偶像化するのではなく、聖人ではあるが悩み葛藤し、晩年には、泰平を示す騏の出現に人々が恐れ戦くというトンチンカンな状況になっていることに絶望し、春秋の筆を擱いた孔子の姿が浮かぶ。そうした運命に翻弄される人間らしい孔子に共感する心性が発生したことを意味する。絶対化から相対化への転換だ。「舜人也、我亦人也」{孟子・離婁章句下}の心意気である。

 また、天命は、天の命ずる所のものである。此れを、天の摂理/真理と解すれば、其れは天が万物に対し一律に命ずるものとなる。一方、運命と見れば、個々人それぞれに発せられた命令となる。人は顔の無いマス/大衆として語られているのではなく、まさに個性をもつ個人として、それぞれ天に繋がる。こうした認識論レベルの転換が、何処かで起こったのだ。
 唐山は知らず、日本に於ける此の転換は、伊藤仁斎に見られる{→▲}。とにかく、朱子学に対峙した日本の儒者一派は天命を、天の摂理ではなく、個人の運命と捉え直した。八犬伝が拠って立つ所も、こうした流れの中で、捉えられねばならないだろう。{お粗末様}

 

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