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 常武これを慰めて、「犬田殿々々々、いつまで物を思ひ給ふぞ。尺蠖の伸んとするとき、且その身を縮むといへば、窮達時あり、運によるべし。あれ彼舩を見給はずや。久しう水際に繁れたるあり、又真帆揚て走るあり。繋ぎし舩は走るべからず。走る舩は留りがたし。和殿が今の滞留も、只この理をもて悟るべし。これをわがうへに譬ていはゞ、君は舩なり、臣は水なり。水はよく舩を浮べて、又よく舩を覆す。自胤は暗愚の弱将、菽麦をだも辨へ得ざれば、いかでか和殿を知るものならん。彼隣国なる敵の為に、滅されんこと疑ひなし。某も亦千葉の一族、馬加光輝が甥なれば、代て取るとも、誰か咎めん。然れば享徳の例に做ふて、自胤に詰腹切らせ、わが児鞍弥吾常尚を、当城の主にせばや、と思はざるにあらねども、いまだ智勇の軍師を得ず。和殿今よりわれを佐けて、事成るときは葛西の中半郡を宛行ふべし。うけ引れんや」、と小膝を進めて、亦他事もなく聶けば、小文吾聞て貌を改め、「こは思ひかけもなき、密議を談ぜらるゝものかな。某素より学問せざれば、聖の教はよくも知らねど、譬を取て利害を推ん。貴所は只水と舩との、 反覆を説給へども、順逆の理に暗きにあらずや。いかにとなれば、水の舩を浮むるは経なり。その舩を覆すは変也。苟も只その変を己が利として、その経を取らざるものは、乱臣賊子の心なるべし。君臣礼あり、舟車に楫あり。君臣礼を失ふときは、舟車に楫を失ふが如し。一旦その利を得るといふとも、滅亡せん事疑ひなし。いにしへより臣として、その君を弑せしもの、誰かよくその久しきを保ちたる。希望は、非義の妄想を除去て、千葉家の諸葛といはれ給はゞ、徳誼後世に芳流して、子孫余慶を承ることあらん。某武藝を好めども、短才にして文学なし。いかでか人の佐となるべき。只その志す所は、忠信の狗となるとも、乱離の人とならじとのみ、念する外は候はず」、と憚る気色もなく答へしかば、常武は勃然と、怒は面に見れても、手を叉きて物いはず、忽地莞爾とうち笑て、「いはるゝ趣道理に称へり。われも亦如右思ふのみ。今の言は戯れにて、漫に和殿を試みたるに、思ふにましていと憑もし。心になかけ給ひそ。先早飯をまゐらせんに、こなたへ来ませ」、といひかけて、軈て楼下に誘引ひしを、小文吾は後方に立つゝ、階子を下りて別を告、又九念治に送られて、幹浄房に還りけり。{第五十六回}
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