■八犬伝の妻■

 八犬伝の舞台となる中世後期の武家社会に「側室」なんてのは存在しない。{時代によって変遷するが}天皇にこそ、皇后がおり中宮がおり、等と序列が制度化されてはいたものの、貴族だって一夫多妻制であった。だいたい正室とか側室とか唱えたところで、戦国期、誰が認知して確定するのか。戸籍制度はなく、それどころか統一政権さえ確固としたものではなかった。一応、本妻と謂うべき者はいるけれども、複数の女性と性交渉し、子を儲けていた。
 そうこうするうち、豊臣秀吉が一夫一婦制を指向した。天下人として、大名・小名の婚姻関係を単純化・制度化して、管理するためだ。婚姻による閨閥関係は、大名・小名間のパワーバランスに影響する。別に秀吉が切支丹だったわけではない。一夫一婦制は徳川家康にも引き継がれ、武家諸法度で明文化された。一万石以上の者{所謂「大名」}、旗本でも近習や奉行・物頭といった幕府の実務幹部たちは、将軍の認可がなければ婚姻を結べず、しかも妻の定員は一人であった。言い換えれば此等の者の妻は、将軍に正式な認可を受けた存在であった。
 とは云え、一夫一婦制では必ずしも嫡子が生まれるとは限らない。本妻/正室の子しか嫡子と認められないため、江戸前期には跡継ぎがいないことを理由とした改易が相次いだ。無嗣断絶である。とか何とかするうち、一方で妙に子沢山な正室が続出した。十年ばかりのうちに七、八人の子どもを生んだりした。栄養状態の良い現在に於いても超人的である。况んや当時に於いてをや。何のことはない。本妻でない女性の生んだ子どもまで正室の子どもとして幕府に届けただけの話だ。何時の時代にも、制度の抜け穴を探す族はいる。一夫一婦制の建前を維持しつつ、正室以外の妻が「側室」として認知され、やや安定した身分を保証されるのは、江戸中期以降だといわれている。「側室」なる語彙も、其の頃に普及した。
 「側室」は「正室」以外で「室」をもつ女性のことだ。物理上も部屋を与えられ、配下の女中をもち、一個の組織単位となる。将軍に正式認可されていないものの、家中では公的もしくは事実上の妻{の一人}として認知され、ライン上の存在となる。対して「側室」でもない【妾】は、個人として当主に性奉仕するだけだ。公的な存在ではない。例えば江戸期、大名の正室は江戸に居住するよう義務づけられていた。しかし大名は、参勤交代で、領地にも住む。江戸と領地それぞれに家がある。大名の家庭/私的空間を【奥】というが、江戸と領地それぞれに「奥」があり、統轄は妻の仕事だった。本妻は江戸で暮らしているから、領地には別の妻が必要になる。幕府旗本の娘なんかを上級女中として引き取り、領地の「奥」を取り締まらせた。当然、ビジネスライク一辺倒の関係ではなく、当主と性的で密接な関係を結ぶことで、権威づけされた。【現地妻】である。則ち、性処理のみなら別嬪を拘束して「妾」にすれば済むけれども、其れなりの武家教育を受けた女性をリクルートし「現地妻」に据えるのは、偏に【家】を管理するためだ。翻って、「正室」は、家格や財力、血縁によって、選択肢が著しく制限される。【家柄】ってヤツだ。しかし「家柄」の釣り合いだけで婚姻した結果、江戸初期には無嗣改易が相次いだ。やはり子種も「数撃ちゃ当たる」、睦まじくないと出産の確率は減少する。家柄だけで選んで、本気で勃つわけもない。男には案外、繊細な面もある。相性が重要なのだ。裏返せば、家柄なんて制限を取り払えば、【世界】が広がる。より自分に合った資質・能力をもつ女性と配偶できる……かもしれない。斯くして「正室」の他に「側室」が認知されるようになる。だいたいからして徳川三代将軍・家光は五摂家・鷹司孝子と結婚したんだが、当初から家庭内離婚の状態だった。まぁ家光は男の方が好きだったから、困ることはなかったのだろうし、多くの側室をもうけた。言い換えれば、「側室」は家柄以外の資質・能力が「正室」より高いと期待できる。側室isBeautiful! である。

 八犬伝で「妻」といえば概ね、正妻を指す。女性一般への罵倒語として「衒妻」{第九十回:放免善悪平・赤鬼四郎が舩虫へ投げつけた言葉}なる呼びかけがあるが、此は例外だ。「正妻」しかもたない庶民や下級武士{代四郎や尺八等}の場合は当然だが、貴人の場合も五十子や蟹目上こそが「妻」と呼ばれている。唯一、疑問が残る人物は吾嬬前で、里見義成に「妻」と呼びかけられており且つ「夫人」とも呼ばれているので正妻だと推定できるものの、日本古代礼制では一時期、天皇の【側室】を「夫人」と呼んだ。吾妻前の立場は、やや揺らぐ。名前の初出は第百九回であって、浜路姫の「おん母君」としての登場だ。最初に義成の「嫡室」として登場した女性は「白前」で、浜路姫の母は「盧橘」であった。但し二人とも第七十二回にしか登場しない。後に義成の配偶者は、吾嬬前だけしか登場しなくなる。しかも、ほかの女性が生んだ子も養い取って育てていたことから、やはり正妻と見るべきなのだ。若死にした他の女性の子を引き取るべき者は、正室である。徳川家なんかでも、嫡妻が他の女性の生んだ子/庶子を養子扱いとしたりしていた{家光は正妻・孝子に側室が生んだ我が子と養子縁組を結ばせなかったが実質的に離婚していたからだろう}。そうすることにより、庶子は嫡子扱いとなって立場を固められるし、其の子が家を嗣げば、嫡妻は当主の養母として立場を固められる。例えば、江戸中期の幕府が定めた服忌令では、実母に対しては忌五十日・服十三カ月、嫡母すなわち父の正妻に対しては忌十日・服三十日、養母が忌三十日・服百五十日であった。服忌令は、其の社会が公的に認知した家族関係の強度を示す礼制だ。単なる父の正妻であるより、養母となった方が関係を著しく強化できるのだ。贅言すれば忌とは、対象となる者の死によって穢れた状態にあるため社会に対して謹慎状態に入る期間だ。服は、穢れた状態からは脱するものの服装などで悲しみを表す期間を謂う。また、養女も含めて吾嬬前は、犬士と配偶する里見八姫の母である。八姫は、等しく嫡子扱いである方が良い。よって、やはり吾嬬前は嫡妻と考えるべきだ。また、当時の栄養・衛生状態で八人も女の子を産むと、話に無理が生じる。よって、養女をとって嫡子扱いの姫を八人揃えることは、必然であった。更に言えば、犬士と配偶する里見八姫は、それぞれ立場に微妙な差異があるや否やは今後の詳察を俟たねばならぬが、基本として互いに差別が無いと考えておく。ほかの名前さえ出されていない女性の娘も混じっているが、全員並列に、義成の正室/吾嬬前の娘と考える。養母でもある嫡母は実母と、ほぼ等値である。此の事は第七十二回の記述に於ける、盧橘と白前にも適用できる。

 義成の正妻が、白前から吾嬬前に変化することは、「姐さん女房」で説明した。馬琴は、篠斎の「八犬伝結局下編拙評」に対し、此の変化を、記憶違いによる書き誤りだと認めている。また、盧橘と吾嬬前は、同じく弟橘姫義烈の余波であり、{本質として}同一人物と見た方が良い。故に、馬琴の意識の中では、白前は印象が薄すぎて、と云うか、弟橘姫に繋がる女性こそが重要であって、元々白前は引き立て役に過ぎなかった。弟橘姫も日本武尊の側室とでもいうべき存在だ。正妻は、どっちからでも入ってこんかい! いや、あの、そんなこと云われても……、だから、仲哀天皇を生んだ両道入姫命と考えるべきだ。しかし日本武尊が慟哭と共に絞り出した叫び「吾嬬者耶」は、弟橘姫に向けられたものであった。八犬伝に於ける「妻」は正室を意味するが、吾嬬者耶の「嬬」は古代の用法で、【愛しき人】ほどの内包だ。そして、白前ではなく盧橘こそが、吾嬬前に変化し、何時の間にか、正室に昇格している。
 八犬伝に於いて、側室や妾が正室に昇格することは何度かある。犬山道策の妾だか側室だか、阿是非は道節を生んだため後妻となった。馬琴は故意にか「妾」と「側室」を混同している。江戸中期以降の厳格な用法としては、「側室」と「妾」は区別されている。馬琴も、阿是非・黒白に関してのみ側室と妾を混用しており、他では混用していない。恐らく、小名の家老レベル犬山家で「側室」がいるなんて大袈裟だから実態としては二人とも「妾」なんだろうけれども、道節の母を「妾」と呼ぶのも憚られ、上げ底して「側室」と呼んだのではないか。一方、毛野は自分の母・調布をハッキリ「妾」と呼んでいる。毛野の父は千葉家の家老だから、道策より大身であっただろう。それでも「側室」ではなく、妾なんである。性を以てのみ奉仕する女性は、なるほど強烈に女性としてのセックスアピールを発散する毛野の母として、似つかわしいと云えば、似つかわしいが。
 また、舩虫は、偽赤岩一角に買われて妾となったが、相性が良いため後妻となった。四六城杢作の婢であった夏引も後妻となった。石亀屋次団太の婢・嗚呼善も後妻に取り立てられた。但し杢作と次団太は性的関心によって婢を妻としたわけでなく、自分と使用人の生活面を差配する管理者として後妻を欲した点には注意しておかねばならない。せっかく若い女性と配偶し直したのに、性的興味は後面に引いているから、共に若い間男が付け入った。偽赤岩一角も、郷士であり道場を経営していたから、家内に使用人や弟子が住み込んでおり、管理者が必要であった。また、童子隔子酒顛二は舩虫の武術を認め、妻とした。婚姻後、手下を集め活動を活発化した。盗賊組織を編成するに当たっては、やはり内向きのことを管理する者が必要だったようだ。舩虫にとっては、偽赤岩一角の妻として使用人や弟子の生活面を世話した経験が、役立ったに違いない。
 いやまぁ、だから、八犬伝には、妻を離縁して後妻をもうける例はないが、死別により他の女性と再婚することは侭ある。よって白前の没後に、盧橘/吾嬬前が正妻に昇格することもあり得るのだ。
 とにかく、義成の妻には盧橘/吾嬬前といった、「弟橘姫義烈の余波」を感じさせる名前の女性が必要だった。且つ、浜路姫は、盧橘/吾嬬前の娘であると執拗に規定されていた。実のところ、盧橘/吾嬬前には「弟橘姫義烈の余波」を感じさせる英雄的行動が見られない。此処で、前浜路を思い起こさねばならぬ。前浜路は、犬塚信乃を愛し抜いたが故に網乾左文二郎に憎まれ殺された。翻心を迫る左文二郎の脅迫に屈することなく、血の海に沈んだ前浜路の純情こそ、「弟橘姫義烈の余波」だ。烈火の如き熱血野郎・犬山道節と父親を同じうする前浜路は、信乃への想いを滾らせたまま、いや滾らせていたからこそ、血の海に沈むことを選んだ。前浜路は浜路姫と本質を同じうする。だからこそ、前浜路が果たせなかった信乃との婚姻を、同じ名をもつ浜路姫が成就する。信乃は第四十四回、雷電社頭にて誓約する。「某諸賢の資によりて、名を揚家を興すとも、又正妻を娶るべからず。子孫の為に已ことなくは、妾のみにて事足りてん。こは彼義女の為にして、古人寒食足下の微意也」。此の誓約は守られたのだ。因みに信乃は第六十八回、四六城木工作宅で浜路姫を見かけ、名前と容止、声が似ているため、前浜路を思い出す。此のとき信乃は前浜路を「亡妻」{第六十八回}と呼んでいる。結髪の段階ではあったが、信乃にとって前浜路は、立派に妻/正妻であった。
 考えてみれば、「浜路」は水際を思い起こさせるが、海に関連のある語彙であり、「弟橘姫義烈の余波」を示すことを妨げない。しかし明確ではないから、浜路姫の母親に、盧橘/吾嬬前という明白に弟橘姫を思い出させる名前を与えた。別に盧橘/吾嬬前本人が、「弟橘姫義烈」を撫ぞる必要はない。八犬伝に於ける盧橘/吾嬬前の規定は、義成の正妻か否かよりも、まずは娘の浜路姫の「おん母君」である。故に二人は、浜路姫と本質を共通する前浜路が「弟橘姫義烈」を体現していることを示すための存在なのだ。いや、浜路姫は勿論、盧橘/吾嬬前も、愛する者の危機に際しては、前浜路もしくは弟橘姫と同様の「義烈」を示したかもしれない。しかし順風満帆状態の里見家で、正室や側室・姫君は、そんな危ない橋を渡らなくても良い。【本領発揮】する状態に置かれないだけかもしれない。浜路姫は妙椿狸に誘拐されかけるが、なでしこ伏姫の一蹴りで救われた。
 少々意地悪な言い方をすると、例えば、一人の優秀な野球選手がいたとする。或る時、強烈なライナーが襲ってくるが、選手は余裕綽々で移動し、難なく捕球した。別の時、全く同様の打球が飛んできた。しかし偶々観客が手にした金属片の反射光で一瞬、視力を失う不幸に遭遇した。それだけスタートが遅れ、乾坤一擲の横っ跳びで辛うじて捕球した。両時点に於ける始動開始には一瞬の差があったのだが、観客には判別不能だ。前者は凡プレー、後者はファインプレーに見られたりする。前者は平常、後者は困難な状況である。実は打球も選手の能力も同様であるが、状況の差がパフォーマンスの差に繋がっている。要するに、稗史に於ける悪/邪魔者の存在は、善を際立たせるためのものなのだ。妙椿なんて悪狸風情は、文字通り伏姫に一蹴される。里見家に戻って以後、浜路姫に本格の危機は訪れない。いくら浜路姫が武道十八般に通じ激烈な性格を秘めていたとしても、深窓に閉じ込められていたら、英雄的な活躍を披露できないのだ。

 そして盧橘が側室だったときの正妻・白前も、やはり弟橘姫に「近い」のではないかと考えられる。弟橘姫を祀る神社は全国に数多い。中でも上総国長柄郡の橘樹神社は、日本武尊が弟橘姫の陵を造営した場所だと伝えられている。遺体は海から揚がらなかったが、やはり墓所は当人を象徴し得る重要地点だろう。橘樹神社は、やや内陸ではあるが、九十九里浜の「近く」と云えば近くなんである。江戸から見れば、似たようなもんだ。そして白前の「白」は色というより「九十九」を意味している。訓みが「つくも」だからだ。且つ此の名前は色の面から云えば、実母ではなく嫡母ではあるものの、前浜路の実母/黒白から「黒/陰」の部分を欠落させた、陽/善なる存在であることをも示していようか。即ち、白前単独で弟橘姫との関係を想起せよというなら無理難題の後出しジャンケンに過ぎないが、盧橘/吾嬬前を補助線とすれば、白前も弟橘姫関連だと察しがつく。「浜路」だって、其の義烈性が弟橘姫レベルであるといっても、盧橘/吾嬬前を補助線とせねば、弟橘姫と関連づけることは不可能だ。当てズッポウに過ぎなくなる。

 篝火を消すほど水滴を噴出し消火機能のついた村雨は、燃え盛る燎原から日本武尊を救った草薙剣もしくは天叢雲剣の類似物だ。結髪の妻が浜路という弟橘姫の類似物、携えた村雨が天叢雲剣の類似物、ならば信乃は日本武尊の類似物でなければならぬ。
 日本武尊の行く手には、まるでヘラクレスの冒険みたいに、次々難題が立ちはだかる。信乃にも滸我へ旅立つ前後から危難が襲い来る。浜路は信乃の出立直後、血の海に沈んだ。大塚村を出て里見家に合流するまで、信乃は次々に困難を乗り越えていく。日本武尊の東征は、悲劇に終わった。異民族侵略作戦は成功したのだが、途中で最愛の弟橘姫を喪い、都に辿り着くことなく野垂れ死にした。しかし信乃の冒険は、ハッピーエンドであった。そしてハッピーエンドとするためには、最大の悲劇すなわち浜路の喪失を解消しなければならない。浜路は、浜路姫となって戻ってきた。欠落した最大のピースが再び填め込まれ、信乃の冒険は、全きを得る。
 初出の犬士・信乃は、犬士の代表者でもある。信乃の物語は最も詳細であるのみならず、整合し且つ見事に決着している。女装し伏姫の映し身となるのみならず、与四郎犬までついてくる。与四郎は四白すなわち四肢のみ白い。八房の房一つを分与された模様だ。また終盤では祖父・匠作の改葬までする。過剰なまでに首尾を整えている。
 「あぁん御髯が擽ったぁい」でも書いたが、八犬伝と先行文物の関係は、登場人物を移植するに当たっても、単純な一対一対応ではない。三国演義の関羽は、差し当たって曹操を逃がす条や五関突破、曹操に抑留されていたときの挿話に限っても、八犬伝の犬江親兵衞・犬川荘助・犬田小文吾・小湊目・秋篠広当らに投影されている。曹操に抑留されていたときの話{戦袍エピソード}に至っては、黄蓋よろしく洲崎沖海戦で関東管領軍に投降したと偽って火計を実行した音音が、河堀殿に対して関羽の真似を演じている。八犬伝の主要登場人物複数に、一部重複もしながら、関羽が配分されている。音音に黄蓋と関羽が配分されていることから判るように、八犬伝と先行文物の要素は、多対多の複雑な繋がりを見せている。
 よって信乃が日本武尊の要素を持たされているとしても、信乃は其れを独占しないし、信乃は日本武尊の性格だけを持たされているわけでもない。例えば、信乃が、殆ど手束の変態趣味としか思えない提案で女装させられ育つ真の意味は、表向きの「健康に育つから」ではない。勿論、与四郎犬に跨り伏姫を彷彿とさせる視覚的な効果を狙ってのことだが、女装し熊襲健を討ち取った小碓命/日本武尊の要素も混入していると思しい。少なくとも少年期に女装が似合っていても、武人として成長するに何の妨げもなく六尺ゆたかな醜男/猛者へと変態/メタモルフォーゼしたりする例として、日本武尊は在る。信乃は十八歳時点で「身長五尺八九寸、膂力も定めて強かるべし」{第二十二回}とまでに成長している。しかし日本武尊は熊襲健に「戯弄」されたが、信乃の肉体が誰かに弄ばれたとの記述はない。弄ばれ、しかも弄んだ相手を殺すのは、犬坂毛野の役目である。
 女装犬士二人は共に、伏姫と犬士との関係を明示するための存在であった。そのため当初、馬琴は信乃を初出の犬士とし、毛野を最後に登場させようとしていた。二人の女装犬士で全体を挟み込んで、伏姫との関係を強調しようとしていた。即ち、伏姫は八房の気を享けて犬士の精とでも謂うべきものを孕んだ。当時にあっても、生殖には雌雄両性が必要だとの認識はあった。しかし其れは遺伝子とか何とかではなく、八犬伝では、【物類相感の玄妙】と表現される現象だった{第十二回}。懐胎を自覚するに先立ち、伏姫には、川面に映った自分の顔が犬に見える。幻視である。この時、伏姫は【仮に犬となっている】。一方、本質としては玉梓である所の八房は、既に伏姫読経の功徳により、浄化されていた。挿絵でも役行者に導かれ、玉梓が成仏している。成仏とは、浄化である。怨念はじめ全ての穢れしモノどもを浄化し切った玉梓/八房は、或る意味【無】である。個体として固有の個性を全く脱色した存在、と言い換えても良い。無味無臭無色無形。八房は元気にワンワン云ってるんだから絶対の無ではないが、「無」と云って良い状態に入っている。「無」の状態で気を発し、仮に犬の状態となった伏姫とこそ相感し得た。伏姫の胎内に犬士の精が発生した。
 即ち「相感」が新たな発生の条件であり、「相感」は単独では不可能だから二つの個体が出会うことが前提となるが、八房は完全に浄化され「無」の状態すなわち個体としての履歴も個性も超越した状態にあるのだから、八房が提供した生殖に必要な気も、ただ犬士の精を発生させるトリガーとしての役目しか果たさず、八房/玉梓の個性を刻印するものではない。簡単に言えば、犬士には伏姫の個性しか反映されていないことが確かなのだ。よって馬琴が信乃と毛野で残る犬士全員を挟み込もうとした意図は、八犬士全員の発生が実質的には伏姫の【単為生殖】に依る、との主張であった。玉梓の要素は一切、混入していない。さすれば、毛野も伏姫の【映し】となる。伏姫は女性の嗜みとて歌舞音曲にも堪能であった。ただ、芸能者としての愛嬌をいうなら、毛野には、玉梓の媚びが似合う。しかし信乃と毛野が二人して女装する意味は、馬琴の言によれば、あくまで伏姫の存在を強調するためであったのだから、毛野も伏姫の映し身でなければならない。
 ……そうは思いつつも筆者は以前から、一つの疑念に捕らわれている。信乃は云わずと知れた美丈夫である。山林房八は信乃と瓜二つだから、やはり美男子だ。そして房八を浄化した八房/玉梓の転生とすれば、房八の美貌は玉梓に由来するのではないか。しかも信乃の美貌が伏姫由来とするならば、即ち、伏姫と玉梓は、瓜二つでなければならない。
 近世挿絵は類型化して描かれている。悪党なら悪党、若い美女なら若い美女、絵師によって決まった型がある。作家によって登場人物類型が定まっている、現在の漫画と同様だ。八犬伝の挿絵でも、玉梓と伏姫の見分けがつくとしたら、着物の柄も似ているし、薄墨が掛かっている方が玉梓、と答えるしかない。だから挿絵で玉梓と伏姫の描き方が瓜二つでも、何の証明にもならない。
 しかし上記の如く、信乃と房八が瓜二つであるという作中事実は、単に房八が身代わりになるというだけの理由なのか……。しかも犬江親兵衛は房八の霊に憑依され超人的な存在となった。ならば親兵衛は房八と瓜二つだと考えられる。親兵衛の本質は他犬士と同じく伏姫の直系であるのだが、房八に憑依されることによって、房八の根源である{浄化された}八房/玉梓でもある。だからこそ、伏姫に拉致され富山で疑似婚姻生活を再開する。親兵衛は房八であるが故に、伏姫にとっては息子であり夫でもある。しかも玉梓でもある。天照皇太神は天鈿女命の裸体を覗き見ようとして天手力雄に天岩戸から引きずり出されたレズビアンであった。万人に媚び売る芸能神・天鈿女命は、なるほど玉梓に相応しい。とはいえ筆者は、伏姫が同性愛者であったが故に異性との婚姻を嫌い、父・里見義実の妄言を僥倖として隠遁生活に逃げ込んだ、とまでは云わない。とにかく親兵衛は、犬士の本質としては伏姫の嫡子であるが、房八に憑依されることによって唯一、{浄化された}八房/玉梓の嫡子ともなる。
 更に言えば、伏姫の映し身である毛野が、復讐のためとはいえ、芸能者として諸国を遍歴し、媚びを振り撒いていた点が気になりだす。信乃は女装のまま武芸の稽古に勤しんでいたが、伏姫だって小太刀や薙刀ぐらい稽古していただろう。寧ろ【男魂】を多分にもつ伏姫には似つかわしい。しかし毛野は媚びを振り撒き、剰さえ小文吾に偽って言い寄る。生前の伏姫からは全く想像がつかない。信乃とは極めて対照的だ。
 しかしながら、やはり毛野は【伏姫】の映し身である。ならば毛野は、伏姫の秘められた一面を表出しているのではないか。しかも房八と信乃が瓜二つであることから、玉梓と伏姫が瓜二つである可能性が浮上する。玉梓と伏姫は所詮、馬琴の創造物だ。実在の女性が漏れなく持っている正負の両面を、馬琴流に誇張して分割したものと云える。玉梓と伏姫が瓜二つであるならば、そして両者が極端なまでに対照的である点から、馬琴のメッセージは以下の如きものとなる。則ち【人は善悪の両面をもつ】そして【人が裡にもつ善悪を分割誇張し其の鬩ぎ合いを一個の世界として読者一個の脳内に投げ込むことこそ稗史である】。人は思考を研ぎ澄ますうちに脳内の論理は純化・先鋭化し、当初は混沌としていた世界が整序していく。茫漠たる悩みの声は、それぞれ善悪に分割され、両者が葛藤し始める。ToBeOrNotToBeThatIsTheQuestion。こうした脳内での葛藤を再現する所にも、稗史の面白さがある。

 此処で八犬伝に於ける主要登場人物の夫婦関係を復習してみよう。まず里見義実は夫人・五十子の死後、後妻をもうけない。息子の義成に就いては、第七十二回に於いては正室が白前で側室が盧橘、第百九回以降は吾嬬前が正室で、妾は複数いる{我に八個の女児あり、其が中に妾腹なるも多かれど、其母或は産後に身故り、或は短命なりければ、皆吾嬬が養ひにて、年造になりにたり:第百八十回下}。因みに、盧橘は「井直秀が従弟なりける、下河辺太郎為清の女児」である。井氏や下河辺氏そして真中氏に対する馬琴の思い入れに就いては「鵺の退治法教えます」などで執拗に書いたので、此処では繰り返さない。此の設定などによって、信乃・浜路姫は馬琴と血縁を結んでいる。信乃物語の比重が大きくなるわけだ。
 大塚匠作には亀篠を生んだ前妻と番作を生んだ後妻がいる。番作は手束一筋だった。犬山道策は妻と死別後、二人の妾に対し男児を生んだ者を後妻にすると宣言、道節を生んだ阿是非を妻に引き上げ、黒白の生んだ浜路を大塚家の養女に出した。赤岩一角は一人目の妻・正香との間に大角をもうけた。正香は早死にして後妻・窓井を迎えた。偽一角に擦り替わった後に、窓井は精を吸い取られるように亡くなり、呼び入れた妾も次々死亡したり行方不明となったり、それを舩虫が受け止めガップリ四つに組んで三人目の妻となった{偽一角としては二人目}。犬飼現八の実父・糠助の妻は、玄吉を生んだ年に死んだが、大塚村では後妻と暮らしていた。
 犬士は里見八姫と赤縄で結ばれる。何連も一生一穴主義を貫く。犬塚信乃には前浜路という立派な結髪がおり、死後には信乃から「亡妻」と呼ばれている。本質を同じうする浜路姫と婚姻を成就する。犬村大角には正式に婚姻した雛衣なる妻があったが、偽一角に自殺を強要された。大角も雛衣と本質を同じうする鄙木姫と婚姻を再開する。椿説弓張月でも、源為朝は妻の白縫死後、白縫の霊が憑依した寧王女と再婚した。犬江親兵衛は静峯姫に先立たれるが、再婚を拒否する。親兵衛は「仁者楽山」{論語・雍也}との章句により、静峯姫と関連づけられた。ならば即ち静峯姫は山姫と言い換えても可だ。伏姫を祀る社の勅額は「富山姫神社」であった。伏姫は「富山姫神」である。義成の長女・静峯姫は、義実の長女・伏姫のイメージを継承していると思しい。一方、親兵衛には、浄化した玉梓/八房/房八が憑依している。元来、玉梓は、実存し得る女性を分割した悪の一半である。容貌が瓜二つとも思える伏姫が、善の一半だ。浄化した悪の一半と、善の一半が再び合体したのだ。犬田小文吾は犬坂毛野に結婚を申し込むが、実現しなかった。
 姥雪与四郎と音音は私通して事実婚状態となって尺八・力二郎を儲けたが、発覚して与四郎は追放された。荒芽山で主君筋の道節によって夫婦として認められた。四六城木工作と石亀屋次団太は、妻に先立たれ婢を後妻に引き立てたが、間男に付け込まれている。
 細川政元は変態だから結婚しなかった。養子を相次ぎ迎えたため家督争いが勃発、自身も巻き込まれて暗殺された。但し八犬伝では養女もいた。「妻もなく子もあらねば、政務の暇ある折の、楽種に做すべしとて、今出川亜相入道義視卿(義政の弟)の、妾腹の姫上の、其名を雪吹と喚れ給ふは、母いと賤しかればにや、御子の内には数まへられ給はで、その母の里方に、窶々しくて在ししを、政元軈て養ひとりて、己が女児に做しまゐらせ、老若の女房、幾名歟冊傅て、深窗の下にしも、鞫養せたりけるが、今茲は十六歳になり給ひけり。然ば這姫上は、容止の美しきを、三月の花に擬ふべく、又肌膚の清やかなるは、仲秋の月に似たり。一たび笑ば城を傾け、二たび笑ば国を傾る、と唐山人の物に写ししも、恁やと思ふばかりなれども、惜むべし多病にて、常に虫積の患あり、うち臥すとにはあらぬ日も、屏居てのみ在ししかば」{第百三十八回}。家族がいないため、慰みとして幼女を養女に取ったという。そういえば父を喪った幼い藤原璋子を白河法皇が引き取った。璋子は鳥羽天皇の女御となり崇徳天皇を生んで待賢門院となった。古事談には崇徳が白河の胤であり、鳥羽は息子である崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと書いてある。実のところ白河は、璋子を摂関家に嫁がせようとしたが、キッパリ断られている。「アンタの使い古しなんぞ要らん!」って理由だったかまでは書いていない。愛人を部下に押しつける甲斐性無しの話は偶に聞く。弄んだんだから、一生養ってやれよ、と思う。鳥羽・崇徳の確執が、保元乱の遠因となった。こうした話を聞くと、政元は幼女趣味を満たすためにこそ養女をとったのではないかと疑いたくなる。雪吹が十六歳にまで成長したため興味を失い親兵衛に押し付けようとしたのではないか。其れで愛しい親兵衛の歓心を買えたら一石二鳥である。それとも【着せ替え人形】として弄ぼうとしたならば、政元の女性性を表すものであろうから、やはり政元は男に対し女役として振る舞いたがるのではないか。何連にせよ、変態の考えることは解らん。河鯉守如は妻に先立たれて後は、鰥夫を通した。
 八犬伝では、ほぼ名前だけの登場であるが関東管領・上杉持朝{定正の父}には、後妻の河堀殿がいる。山内上杉顕定は斎藤兵衛太郎盛実という立派な愛人がいるのだが、生意気にも「嫡男」五郎憲房もいる。八犬伝には明記していないが、養子である{但し女子は儲けたという}。

 世帯とは、近世でも一個の経済主体であったわけだが、核家族でもなく、しかも側室や妾、使用人らも包含する場合があり、其の管理者としてMistress/正妻が在った。大名家ならば、将軍が認知した、当該藩組織ライン上の役職でもあった。そして妻が死亡した場合、後妻が補充される場合もあった。当主のパートナー/共同経営者との側面もあった。
 しかし一方で「吾嬬者耶」、かげがえのない存在でもあり得た。前浜路の死後、信乃は彼女を「妻」と認め、再婚しないと誓う。前浜路と本質を同じうする浜路姫と出会い、婚姻を結ぶ。犬村大角も亡妻・雛衣/鄙木と再会する。犬江親兵衞は静峯と死別するが、再婚を拒む。
 本来、武家社会で一夫一婦制がルール化したが、其れは支配者による管理のためであって、極めて人為的な制度化であった。
 しかしヒトは恋をする。一人の相手しか見えない状態に陥ることもある。性欲由来の感情ではあるが、ヒトは其処に甘美を感ずる。文化的装飾をゴテゴテと貼り付ける。
 本来、社会秩序を整え嫡子もしくは世子の特定のために要請された一夫一婦制であった。故に正妻が無くなれば、若しくは離縁すれば、家を管理する必要から、改めて正妻/後妻をもうけることがあった。四六城木工作や石亀屋地団太、そして恐らく里見義成も、後妻を設定した。後妻をもうけることは、ルール違反ではなかった。しかし信乃と大角は、理念上は、後妻を設定しない。親兵衞は実際に、後妻をもうけない。他犬士は不明であるが恐らく、一生一穴主義を貫いた。即ち馬琴は、社会ルールで容認されていた再婚に、積極的な肯定を与えていない。一夫一婦制のみならず、再婚を潔しとしない純潔性を、男性側にも求めている。夫婦関係を、家という社会単位維持の必要性を超えて、より精神的な関係だと規定している。近代以降のブルジョア倫理を先取りしているかの如きだが、勿論、そうではない。結果的に相似となってはいるが、武家社会で要請された女性の貞節を、男性にも適用しただけだろう。但し「だけ」ではあるが、甚だ大きなコペルニクス的転換であった。傾城水滸伝で男女を入れ替えた馬琴の面目躍如である。当然、当時の文物には、男女が添い遂げようとし成らずして心中する物語もあるワケだから、男女双方に対して貞節を求める発想はあっただろう。そうした流れを汲んだ馬琴ではあるが、八犬伝で提示された夫婦関係の多様さを見れば、馬琴が婚姻関係の在り方を、かなり意識的に提示たことが解る。後家と初婚し障害を添い遂げた馬琴は、八犬伝の中で理想の家庭を模索したのだろう。そして、其の結論が再婚を否定した一夫一婦制であり、方向性として近代以降のブルジョア倫理と表面的には合致している。馬琴が理想とした夫婦関係の詳細な内包は措き、夫婦の大枠としての理念が近代以降と合致している点も、八犬伝が現在まで読み継がれている理由の一つとなっているのだろう。{お粗末様}

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