■馬琴の経世済民論■

 今回は、馬琴の経済感覚に就いて語ろう。ダシは独考に対する批判、独考論である{→▼独考論}。まず、馬琴の貨幣に対する認識を見てみよう。

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この比は銭すけなき故に、米の価も亦廉かりき。しかれども世ノ人猶米をたふとみて、金銭はその下にあるが如し。慶長以来佐渡より金銀夥しく出、寛永に至りて寛永銭通用し、そのゝち鉄銭をもまじへ用ひられ、宝暦明和の間、五匁銀、十匁銭、又南鐐銀、四文銭の通用はじまり、五匁銀と十文銭は程なく禁られしかど、鉄銭真鍮銭は本所深川なる座にて、年々に鋳させ給ふ事、安永天明に及び、南鐐銀は今もなほ吹せらる。よに金銭のさはなる事、いにしへにはその例もあらねば、世人金銭をのみ貴みて、米穀をいやしとする事、是自然の勢ひなり。これによりて物の価の上りしも、亦自然の勢ひにして、商人の幸ひにもあらず。何となれば、凡商人は金銀をもてよろづの物を買入れ、それを銭に換て売リ出すものなり。世界に通用すなる銭、いやましに多くなりては、本トの金銀につばめる事容易からず、銭の相場の廉きによりて、物の価は年々のぼるに似たれど、今昔の損益を考ヘて銭の少かりし時に比れば、物ノ価は昔よりなほ廉し。
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 やや言葉を足して現代語訳する。昔は銭/貨幣が少なかった。銅銭が少なく商品が多ければデフレとなり、米の価も亦「廉かりき」。銅銭の交換価値は高かった。とはいえ、人々は米を尊み、金銭/貨幣への欲求は相対的に低かった。米は脱穀さえしなければ長期間保存でき、しかも欲しがる人が全国におり、何とでも交換できた。則ち、多くの者が使用価値を認めているので、確固たる交換価値を有する。対して金銭は、流通し続けることにより、初めて価値が生ずるものだ。米は食えるが、金銭は食えない。米なら、引き取り手がなくても自分で消費することが出来る/使用価値が存する。しかし金銭は、自分の他に欲しがる者がいなければ、ただの金属片だ。煮ても焼いても、食えない。それなりに農村で自給自足が可能だった時代には、手持ちの財を、わざわざ貨幣に交換しておかなくとも、生活できていた。貨幣の必要性が薄かったので、さほど欲しがる者もいなかった。また、貨幣の量が少なかったため、普及しておらず、貨幣と其の他の財を交換すること自体が少なかった。まだしも、米の方が交換価値が確立しており、【貨幣】としての使い勝手が良かった。しかし慶長年間以降、徳川幕府によって、銅銭に加え大量の金銀貨幣も鋳造された。金・銀・銅貨幣間には、一応の交換比率が設定された。貨幣と其の他の財との交換が一般化した。即ち貨幣流通が活発化した。多くの者が、貨幣と其の他の財との交換を受け容れるようになって初めて、貨幣は交換価値を広く確立できた。貨幣の価値が認められ上昇することにより、相対的に米を含む其の他の財の価値は目減りする。
 さて、商人は貨幣を元手に商品を仕入れ、其の商品を小売りして貨幣を得る。大量に仕入れ、少量ずつ売る。よって上級貨幣である金銀貨で仕入れ、小口の客から下級貨幣である銅銭を受け取る。集めた銭を、両替商などで金銀貨に換えて、仕入れに回す。しかし庶民生活が貨幣経済に深く浸透され、流通する銅銭が増えれば、金銀貨に対する価値が下がる。金銀に対し、銅が安くなる。金銀貨による仕入れ値が一定であっても、銅銭による小売り値は上昇する。とはいえ、銅銭さえ少なく、貨幣そのものの他財に対する価値が高かった時代と比べれば、まだしも安い。

 現在の感覚からしても、馬琴の認識は理に適っている。

 ところで、貨幣となれば青砥藤綱を思い出す。鎌倉期の北条得宗体制を支えた伝説的な武将で、治世面での功績が語られている。江戸期には、馬琴の探偵小説「青砥藤綱摸稜案」で主役を張った。また、歌舞伎の「青砥稿花紅彩絵」{/白波五人男}では主人公を追い詰める捕手という端役ではあるが、主人公/天下の大盗賊を捕らえる名誉は、やはり伝説的な名判官/青砥藤綱レベルの者に与えられねばならなかったのだろう。江戸期、名検察官/名裁判官といえば、青砥藤綱や板倉勝重・重宗父子{西鶴「本朝桜陰比事」など}、大岡忠相と相場が決まっていた。

 庶民に最も解り易い「行政」が犯罪の処断であるから藤綱も、検察官および裁判官の側面を以て語られることが多いのだけれども、経世済民も重要な行政分野である。遠山左衛門尉金四郎景元だって、桜の入れ墨をしていたかは知らないが、老中水野忠邦らと対立してまで、風俗取り締まりに抵抗し、緩和に努めた。抑も遠山左衛門尉は、勘定奉行も歴任した。単なる東京地検の検事正ではないんである。
 とはいえ、経済官僚として青砥藤綱が挙げた業績は明らかではない。ただ、太平記にも載す、次の説話が長く人口に膾炙していたことを確認できるのみだ。

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又或時此青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を十文取はづして、滑河へぞ落し入たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしが、以外に周章て、其辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松を十把買て下、是を燃して遂に十文の銭をぞ求得たりける。後日に是を聞て、十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける{太平記巻三十五}。
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 説話/例え話であるから、字義通りに受け取る必要はない。藤綱の理念さえ解釈すれば良い。則ち、貨幣流通量の維持{非デフレ政策}が、藤綱の立場であった。十文とはいえ経済流通外に排除せず、却って五十文を投じ、賑わす。加えて、本人の衣食住は極めて質素であったが、決して吝嗇なワケではなく、困窮した親族や友人を援助するには惜しみなく財を擲った。経済流通を促進する立場ではあるが、無用な部分に金を流すことはしなかったのだ。限りある資源を、本当に必要な部分へと、効率的に流す。これが「経世済民」の本来的姿だ。英米語でもEconomyは「無駄遣いしない」ことをも意味する。
 更には、藤綱の所領を増やそうとした執権の命令を撤回させた。要するに、経済を活性化させると同時に社会保障を充実させ、しかも公務員の給与体系の適正化を図った。此れが中世以来、日本人が【当然】としてきた「経世済民/政治」の在り方だ。
 但し、此の説話は、社会の総てが貨幣経済に呑み込まれていない時代を、前提としている。馬琴の理解に於いても、昔は貨幣流通量が少なかった。貨幣は貴重だったんである。古代の皇朝十二銭以降は正規通貨が鋳造されず、中国から輸入された銅銭と併せ使用された。当然、中国貨幣の割合が増えていく。中世末期は、概ね中国貨幣が流通していた{宋銭}。近世では米一石一両が原則であったが、一両は四千文ないし七千文。中世では一石を一貫{千文/九百六十文}と考える{貫高制}。それだけ「一文」の価値は高かった。だいたい日本中世では公式の金銀貨が設定されていなかった。また、近世でさえ現在よりも米の、他商品およびサービスに対する相対的価値は高かった。例えば、大工の手間賃を{銀}三匁とすれば、一匁は六千ないし八千円となる。六十匁を一両とすれば、一両は、なんと三十六万ないし四十八万円に当たる。米百五十キロが四十万円見当だ{実際には現在六万円ほどか}。一方で屋台の蕎麦が二十四文、種モノは入っていない。立ち食い蕎麦の、「掛け蕎麦」と思えば、一文十円見当だ。これなら一両が七万円相当だ。しかし最下級の娼婦と野外で一回致しても同じく二十四文。筆者は悪所に行ったことがないので全く判らないのだが、現在売春の最安値を一回三千円ないし五千円とすれば、一文百五十円ないし二百円。一両が百数十万円だ。しかも、金銀貨のない中世、北条得宗時代には、銭の価値が高かった。ただ、通用する相手が比較的、限られていただけだ。

 要するに、藤綱の生きた時代には、貨幣が甚だ貴重であった。本位貨幣といぅワケではないが、鋳造技術が普及していなかったから、原則として大陸との交易でしか、得られなかった{しかも大陸との交易は、海難や海賊など、大きなリスクを伴う}。十文とて無駄にすべきではない。現在のように、一万円札とて原価が数十円と甚だ安く、川に落としても刷り直した方が遙かに安くつく時代と、同日に論ずることは決して出来ない。もし同日に論ずる者があるとすれば、気違いか新自由主義者……あ、同義語反復になっちゃった、とにかく気違いとしか思えない。
 また、十文を「小銭」としても、藤綱が家臣に拾わせただけならば、「吝嗇」の烙印を押されたかもしれない。しかし、五十文の松明を買って商人を賑わした点が、偉いのである。貴重な銭貨を流通から排除しないとの心意気が主眼であって、此の説話は、貨幣と貨幣流通の重宝さを強調している。遅くとも此の説話が示された太平記時代/中世後期には、社会に於ける貨幣流通の重要性が無視できぬ程になっていたことが諒解される。かつ、此の説話を託された藤綱が、社会に役立つ行政官として認識されていたことをも示していよう。庶民には何だか能く解らないとしても藤綱は【理想的行政官】とされていた。滑川撈銭の説話が示す如く【経世済民】の面でも「理想的」であるのだが、庶民にとって最も解り易い【理想的行政官】は、隠された犯罪を暴き且つ冤罪を晴らす、即ち庶民にとっても解り易い【正義】を実現する者である。其れ故にこそ「理想的行政官」である藤綱は、何時の間にやら名探偵/名判官となって、イメージ上の立場を固める。また、庶民にとって「理想的行政官」は、温情も期待されるので、八百屋お七の刑を何とか軽くしてやろうとする大岡越前守なんかが捏造される。馬琴の描く藤綱も、弱者に肩入れして犯罪捜査を始めるキライがある{結果として其の方向性が正しいってぇか、そもそも「弱者」だから冤罪を着せられるんだけれども}。馬琴の名判官/行政官が登場する探偵小説/青砥藤綱摸稜案でも当然、此の説話が紹介されている。

 さらに馬琴は貨幣流通に就いて、「金銭には定れる主あらず。彼レに貸しこれに返し、これに取り彼に与へて、竭ざること泉のごとく海内に融通せざれば、瓦石と異なることなし」。至極真っ当な認識だ。その上で、何者にも利を取ることを認めている。ただ貪ることを悪としているのみだ。金貸し商人が利を取ることを批判する真葛に対する反論である。真葛は、商人が武士を憎んでいるとまで言い募る。対して馬琴は、所領で集める年貢を、【武士の利】だと規定する。源頼朝が総追捕使であったことから明らかなように、武家政権は第一に治安維持の責任を負う。江戸幕府の場合は、河川改修などの公共工事やら貧民救済など福祉、寺社改修など宗教行政などまで行っていた。武士が所領から「利」を得る根拠は、これら行政サービスであった。八犬伝でも善玉武士たちは、社会に対する責任感を強くもっている。里見家は領内を良く治めることこそ目標としていた。対して真葛は、武士階級が年貢を取ることを【当然】と考えていた節もある。上級武士の奥方なんか、こんなもんか。
 実は真葛、伊達家などで女中奉公を経験した。真葛が云うには、町人出身の女中は何事にも武家出身の女中と張り合い憎み、しかも「どのやうな男でも見事になげる手覚の有女ならでは我妾にならんと御目見へにも出ぬを、何の事もしろしめさぬ殿様方、御すなほなる御心から素人と同じくおぼしめさるゝ故、いつもなげられたりふまれたり御恥をさへあたへられさせ給ふなり。召寄られし日の始より折を見あはせ手玉にとらんとねらふ心の有ものに、こがねあまた給はりて召よせらるゝこそ、かたはらいたけれ。妾ものゝ願所は、御殿中は申に不及、一国もなびくばかり我まゝせんとおもふなり。是、女子小人の心なり」{独考}。即ち武家の女性は当然の如く奉公に上がるが、町人の女性は端から殿様を手玉に取り妾になろうと願う者ばかりだから、結局、純真無垢な殿様は罠にかかってしまう。真葛は町人の娘を、妲己か何かだと思っている。
 真葛の町人に対する不信感は、若い頃、町人女子と敵対関係にあった経験に根差している。職場でトップもしくは上司の寵を争うに、大卒組と高卒組で啀み合っているようなものだ。論ずるにも足らぬ、僻目である。しかし此の点に対しても馬琴は、叮嚀に反論する。

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おのれは武家に生れて後に市に隠れしかば、仕官の情をも商人の情をもよく知れり。町人なりとて何の怨ありて武士を憎むべき。江戸はさらなり何処にても、商人は武家の蔭に立て世を渡るものなれば、およそ町人たるもの武家をあだに思うはなし……中略……あき人はおのも/\出入する武家を渡世の真ばしらとおもはぬもなけれど、役人わろければ町人の物を買ヒとりてその価を取らせず、諸職人等に作事を請負せて賃銀の滞るもなきにあらず。かゝれば町人は武家によりて発跡るも有、又武家によりて衰るもあれば、町なる女子どもは、武士は情けなきものぞとおもふもあるべし……中略……それも有禄の人々は礼儀正しく出入の町人なりとていやしめず温順にして応答叮嚀なるもあれど、門番足軽などに至リては、町人とだに見れば、させる失もなきに、いたく叱り懲すをこゝちよしとする癖あり。中間小ものに至リては、主家に出入するを恩に被て動すれば透を窺ひ咎を負せて酒にせんとはかるもあり。あき人は渡世の為に負て事を好ぬものなれども挟して心服せざるは、これらの意味にやあらん。又市中には一町毎に好みて書を読むものあれど、小藩なる人々は文盲多し。これにより陽には、そのともがらを敬ふごとくすなれども、下ごゝろには侮るものもあらん。且江戸の町人は武家の間に挟れて世を渡るものどもなれば、おのづから武士に狎て何とも思はぬもの多かり。しかれども巨商町役人等及よのつねなる商人にも小了簡あるものどもは武家をあだに思うふはなし……中略……もし武家にして町人をいたく憎むまば町人も亦その武家を讐敵の如く思ふべし。
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 また別の箇所には、「武家の窮する故に町人も亦窮せり。いかにとなれば、江戸なる商人等は、みな武家によりて世をわたるものなればなり。只江戸のみにあらず。諸国の城下、道中の駅々、町てふ町は、武家七分町人百姓三分より、その売得の利を見るものなり」と見立てている。石高制下の商品市場は、もともと武士階級が米を放出して得た金銀で、主食以外の財とサービスを購入するため設定された。「武家七分町人百姓三分」の数字は、大まかながら、町人としての感覚的な近似値であっただろう。武士の経済的地位が下落するなかで、文化文政期には、市場の七割前後を武家が支えていたようだ。
 また、真葛は江戸の火災で焼け出された経験から、火災後の建築費が高騰する点を指摘、人の弱みに付け込んで儲けていると非難している。気持ちは解るが、何だか歪んでいる。
 馬琴は火災後の建築費高騰に就いて、木材需要が一時期に集中するため需給バランスが崩れ値上がりするのだし、工賃は江戸市中の職人だけでは足らず他地域から掻き集めるため出張費などを上乗せするのだと説明する。また、幕府が一種の被災者救済策として商人に諸色値下げを命ずるため、高騰は徐々に沈静化すると、真葛を宥めている。それでも利を貪ろうとする者がいれば断罪すべきだと言い切る。

 例えば、現代英米には、棚ボタ税{WindFallProfitTax}なる概念が存在する。何も企業努力をせぬ侭、災害や戦争や社会情勢の激変などにより、特定商品の価格が高騰する場合がある。其の製造者は労せずして濡れ手に粟、【超過利益】を得てウハウハだ。此の【棚ボタ利益】は、英米の社会通念/CommonSenseに照らすと【非】であり、社会に還元・分配せねばならない。よって「棚ボタ利益」には高率の税金が掛けられることがある。実は英米だけでなく、世界各国で通用している。但し何処の国でも、無理を通せば道理が引っ込む。被課税対象が政治的に強力であれば、棚ボタ税は実現しない。こういった「棚ボタ利益」を許さぬ常識/CommonSenseは、非常識な新自由主義が蔓延する現在日本には無いのだが、現在英米には存在するし、馬琴時代の日本には在った。当時の政権/江戸幕府は、大火後に各種商品価格を強制的に下落させた。古今東西、人間社会の常識である。

 但し、真葛の言い分は感情的に過ぎる。洒落本レベルで商人の貪欲さを笑いのめすなら良いが、随筆で遣ると稚拙に過ぎる。
 ところで馬琴は、「年貢運上」なる語彙を用いている。年貢は農民に対する主たる租税、運上は農民以外への租税である。現物もしくは金納{銀納}する。当然ながら、石高制に於いても、農業者以外にも課税していたのだが、其の割合は比較的低かった。何かあると、武家は商人に借金をした。ならば、勃興する商業資本に対し相応の課税をすれば済んだ筈なのである。勿論、商業資本の発展を阻害するほどの重税は害悪だが、田沼政権のように商業資本を収奪対象として認識しかける発想もあった。実は馬琴も独考論に於いて、「大約一国の君は一国の父母なり、一郡の主は一郡の民の父母なり。領分の民を見ること子の如く慈み歛を薄クして課役を省き民を富し育るときは、火急の用金ありといふとも、これを他所に借らずして、領分なる百姓町人相歓て調達せん」と主張している。即ち馬琴は、倹約による出費抑制と仁政による慰撫を前提としているが、足らねば【借らずに町人からも徴発せよ】と云っているのだ。こういった発想は、田沼意次どころか、遅くとも荻生徂徠までは遡り得る{→▼政談}。

 徂徠は、武士が困窮している理由を、「旅宿の境界」に在る点と、「無制度」である点に求めている。
 「旅宿の境界」とは、米以外を金で賄う生活を謂う。元々武士は在地領主であった筈だ。「在地領主」を遡れば、周囲の土地を自ら集積した独立農民だったり、中央貴族荘園主の現地徴税者だったりした。領域内では一般食材や日用品の多くを自給していた。って云うか、自給できる範囲の物品で生活していた。戦国期ともなれば、自給できない特殊な物品を購入する場合、在地領主が窓口になり領域外と交易したりした。塩や金属器などだ。在地であれば自給できる/貨幣を使わずに済むが、「旅宿」にあれば貨幣なくして生活できない。江戸期、武士は領地から切り離され、城下町に集住していた。大名は隔年に参勤交代していたが、帰国しても貨幣を使って生活した。征夷大将軍は江戸に居続けたし、抑も全国を支配していたから、【在地領主】なのだけれども、何故だか自給生活を行わず、やはり貨幣をバラ撒いて生活していた。徂徠は云う。「日本国中ハ皆我国ナレバ何モ彼モ日本国中ヨリ出ル者ハ我物ナルヲ人ノ物ト思召テ代リヲ出シテ買調ルコト大ナル取違也」。必要な物資を買うから金がかかる。必要なものは取り上げたら良い。なるほど、金はかからない。
 徂徠の構想では、幕府が、鉱山は元より、漁場や塩田、山林を直轄地として、金属や魚介類、材木を【自給】する。江戸近在の畑から税として野菜を調達する。衣類や他の物品は、職人を雇用して作らせる。武器の製造改修管理は、同心レベル武士の職務とする。
 各地の名産特産品を、大名に賦課する。越前には奉書紙、会津には蝋燭や漆、南部には馬、加賀には絹、仙台には紙。分量は石高に見合って設定するが、規定量を超えて上納すれば、希望する他領の特産品を上納した余剰分相当だけ下げ渡す。云ってみれば、幕府が特産品の物流センターとなる。即ち各特産物の必要量を幕府が確保した上で、特産物同士の交換を取り次いでやる。此で利潤を得ることも可能だが、実費手数料だけで交換すれば、民間交易や藩専売制を壊滅することも可能となる。利潤を得ようとすれば、手数料を増額した上で、幕府を通じた特産物交換を強制すれば済む。武士を知行地に帰し必要物資を領内で徴収し【自給】させる。また、領内で勧農に努めさせる。
 更に、公共工事の労働力として、旗本の家人と江戸町人に対し課役する。大名に天下普請を丸投げすることは従来から行われていた。豊臣秀吉の時代から公共工事は、軍役奉仕と同じ扱いであった。ミソは町人に対する賦課である。江戸の町人{地主・家主}は自身番など自治経費を負担していたし、後に田沼意次は、座/同業者組合としての排他的商業特権を保証する代わり冥加金を上納するよう命じたが、農民に対する年貢のような、期待し得る所得に対する恒常的租税を規定されてはいなかった。
 労役を町人に賦課すると云っても、町人本人は富裕層であって、実際に工事をするわけではなかろう{幕府にとって「町人」とは土地や建物を所有する地主・家主であって、せいぜい借家管理人/大家までであった。借家住まいの庶民は埒外である}。結局、金納することになる。一方で徂徠は、農民に対する労役賦課を【税金の二重取り】だとして否定する。古代税制を一つのモデルとしていた徂徠は、労役{庸}を含む租庸調が統合されて年貢になったと考えている。なるほど年貢を取った上に労役を賦課すれば、二重取りだ。結局、徂徠の構想では、労役は農民以外に賦課されることになる。町人……と云っても、長屋住まいの熊さん八っつぁんではなく、せいぜい大家さん、主たる対象としては土地建物を持っている富裕層となる。一日に何両も稼ぐ商家の主人が無料で労役に従事する筈がないし、幕府が必要性を認めた普請/工事の労役負担が富裕層町人に集中するとなれば当然、貨幣で徴収することにならざるを得ない。実は徂徠、江戸に吹き溜まる無宿人対策にも考えを巡らせている。特に大名改易による浪人の増大対策に心を砕き、改易された大名家の家臣{百石以上}には五十石の知行を与え元の領地で郷士にするよう提案している。即ち幕府が養う土地付きの武士であり、当該地に入部した大名は、自らの家臣団に組み込む。此の施策は、徂徠の指向を能く示している。即ち、将軍による全国直接支配を【前提】として強く意識している。
 更に徂徠は、町人に地子銭を払わそうとしている。此は中世にも存在した一種の土地資産税で、農民にも掛けられた。徳川期の江戸で徴収された形跡はないが、とにかく将軍の支配権が、農工商漁すべての人民に及んでいる事実を以て、徴税の根拠とした。また、幕府にとって江戸町人とは土地・建物の所有者であるから、土地面積に比例して税を掛けようとすることは自然である。純然たる所得税ではないものの、家賃収入など土地・建物の面積に比例するし、商家の営業規模は、極めて大雑把に言えば、間口に{段階的に}比例する。間口の幅は面積に関係する。抑も農民に対する年貢も、田地・畑・屋敷地などの土地面積に対して掛けられていた。土地面積から、期待される所得を米の量{/石高}に換算したものが、石高制であった。此れを町人に対して適用するとしたら、所有する土地建物の面積に掛けることとなる。地子銭は、町人に対する年貢であり、即ち恒常的課税だ。だいたい法人所得税の体系を建てようとすれば、膨大な税務官が必要となる。南北江戸町奉行所の与力・同心合計三百人程度では捌けない。江戸は百万都市であり、半数が町方だった。比較的固定した所有地面積に掛けた方が遙かに簡単だ。

 勿論、徂徠の説は過激な極論である。必要な物は買ったり借りたりせずに、すべて取り上げろと徂徠は云っている。古代には、各地の特産物を朝廷が徴発していた。また物品それぞれを製造する品部を設け、朝廷に納めさせていた。実のところ徂徠の構想は、古代にヒントを得ている。古代は封建制ではなく、郡県制に範をとっていた。即ち徂徠の構想は、封建制でありながらも従来の枠を超え大名への課税により将軍権力を強化する形であり、且つ、農業生産物の収奪を主たる基盤とする封建制の枠を超え、非農業民に対してさえ恒常的な課税権を主張するものであった。簡単に言えば、徂徠の眼差しは、封建制の先を見据えていた。言い換えると、課税とは主たる経済活動の流れの中から、権力が財を掬い取る収奪行為なのであるが、封建制に於いては殆ど専ら農業生産物が対象となる。貨幣経済下の商業が活発になれば当然、商業流通の流れから財を掬い取ろうとする。しかし商業流通が活発化する近世に於いてさえ、幕府は頑なに、封建制を基盤にし続けようとした。其れが故に、支配階級である筈の武士が経済的に困窮した。徂徠は武士復権のため、町人にも労役を賦課しようとしたし、其れは自然と貨幣で納められるようになっただろう。貨幣経済の縮小を目論んだ。しかし、流石に実現しなかった。因みに「無制度」に対しては、武士の生活を質素に規定する「制度」を立て、倹約を強制するってだけである。此方は倹約令という大雑把な形で実現した。
 徂徠が構想した、貨幣経済から武士階級を隔離する政策が実現していたら、如何なっていただろうか。時代が違うけれども、馬琴の見立てを流用すれば、武家が全く金を使わなくなると、貨幣経済市場は三割に縮小する。職人の相当数は幕府や藩に抱えられ、近世版品部として必要な財を生産することになろうが、多くの商人は帰農するかして別の道に進むことを余儀なくされる。貨幣経済は武士以外の階級のみを対象とするようになる。
 しかも武士は貨幣を必要としないにも拘わらず、従来の税率で年貢を取るとすれば、平均五公五民と仮定し、千六百万石の米を得る。しかし、如何に多く見積もっても武士階級は二百万人もいない。一日五合喰っても四百万石あれば余ってしまう。仮に副食物を納める農民に対する年貢免除も四百万石となったとしよう。それでも八百万石がダブつく。酒や糊にしたって、間に合わない。売るしかないのだが、武士は貨幣を必要としない。海外貿易にしか使いようがない。しかし年間八百万両相当の貨幣が流出すれば、すぐに貴金属が枯渇する。やはり武士も貨幣経済市場に参加せねば、経済そのものが成り立たない。
 徂徠が夢見た如き、農民から収奪した農産物を原資に、職人を抱え込んだ武家組織の内部で各種財を【自給】するならば、商人は排除される。必要な物資の流通は、総て将軍の差配に依る。理念に於ける原始的な自給自足経済がモデルとなっている。貨幣を基幹的経済流通から排除しようとした結果だ。なるほど徂徠は、若い頃、赤貧に喘いだと云われている。豆腐屋に下宿していた関係で後世、「徂徠豆腐」なる落語まで成立した。

 寄り道ツイデに、「徂徠豆腐」に就いて語ろう。貧しい中にも徂徠は、世のため人のため役立つ人間になろうと、学問に打ち込んでいた。しかし食うに困って、豆腐屋に行き、後払いで豆腐を食う。支払えるアテはない。払う意思がないなら、現行法上でも詐欺罪が成立する。客観的に払えない状態ならば、容疑を掛けられて文句は言えない。再三「後払い」で豆腐を食っていく徂徠に業を煮やした豆腐屋が、支払いの催促に行く。金はない。しかし徂徠が青雲の志を立てていることに感心した豆腐屋が、卯の花を差し入れるようになる。豆腐屋オカミが催促しようとするが、やはり【情に絆され】徂徠を支援するようになる。そうこうするうち徂徠は姿を見せなくなる。豆腐屋が貰い火で焼け出される。立派な武士が現れ、見舞いを差し出す。出世した徂徠であった。しかし相手が荻生徂徠と知って、豆腐屋は見舞いを突っ返す。徂徠は、吉良上野介を討ち果たした赤穂浪人の処罰を主張した。赤穂浪人の行動に心酔していた江戸っ子の豆腐屋は、そんな徂徠なんかに見舞われちゃぁ名折れだと息巻く。
 徂徠は応える。豆腐屋は無銭飲食で訴え得たにも拘わらず却って自分を援助してくれた。実際には財を掠められた者が、掠められたのではなく貸したのだ、と論理を転換したからこそ、自分は罪人にならずに済んだ。言わば、豆腐屋の【情】によって、現在の自分がある。
 赤穂浪人は罪を犯した。抑も浅野内匠頭は、殿中で一方的に吉良上野介に斬り付け怪我を負わせた。殺人未遂であって、喧嘩ではない。よって、喧嘩両成敗は適用されない{江戸庶民の常識では、喧嘩でも相手を殺せば処罰されたし怪我を負わせれば治療代など支払わされたり所払いなどに処された。抑も斬られたのは上野介であって、米沢藩主上杉憲綱が内匠頭に「仇討ち」するなら、まだしも筋は通る}。よって内匠頭の切腹と赤穂藩の改易は当然である。其の幕府裁定を無視して、上野介を討つとは言語道断だ。斬罪が相当である。が、其れは飽くまで【理】の話、【情】のレベルでは、赤穂浪人に【忠】を認めてしまう。元より「忠」の最高形態は諫止である。主君が間違っていれば、全力で矯正せねばならない。しかし家臣の目が届かぬ殿中松の廊下で大馬鹿をしでかし一気に改易されちゃったら、如何か。諫止することなぞ、出来やしなかった。赤穂藩士は結局、愚かな主君を正せなかった。ならば、「忠」は如何に発露さるべきか。御家再興か。其の望みも潰えた。さすれば、せめて、愚かな主君に寄り添い、未遂に終わった上野介殺害を、完遂するしかないではないか。確かに愚行であり、動もすれば幕府への反抗と受け取られるかもしれないが、愚かな主君に寄り添い、自らも愚かな犯罪者に堕すしか、ないのではないか。其れが、主君の矯正に失敗した「忠」の、着地点ではないか。犯罪者である赤穂浪人を、「情」に於いて是認したくもなる。しかし、犯罪者を何処まで減刑できるか。斬罪を切腹にまで減刑することが、自分には精一杯であった。豆腐屋は、流石に江戸っ子、忽ちのうちに呑み込んだ。徂徠の見舞いを受け取り、「先生はアッシの為に自腹を切っておくんなさった」。
 徂徠は、「制度」というものを、大切にする。人間、放っとけば好き勝手にする。制度/法による統治が必要である。しかし徂徠は、儒者である。法家ではない。儒学は、仁/龍と義/虎の絶え間なき闘争のダイナミズムのうちにこそ、人間の心裡/真理を見ようとする。若い頃にタダ食いした徂徠を、豆腐屋は理義をもて断罪せず、情を以て援助した。訥朴たれば、仁に庶し。とは云え、仁/情に流されるだけでは、統治/秩序付けは出来ない。ならば赤穂浪人を遇するに、切腹に如くはない。何故なら、幕府にとっては「処罰した」との体裁を整えることが出来るし、浪人の潔さも強調できる。実のところ、浪人が断罪されず却って称賛され栄耀栄華を極めれば、如何だったか。人情は、不遇の者に同情する一方で、成功者を妬み呪う。切腹した後にこそ、豆腐屋は浪人を称揚しているが、浪人が許され他藩や幕府に仕官していれば、如何だったか。切腹したからこそ称揚された側面はないか。いまだに毎年十二月十四日辺りになると執拗にテレビドラマが放映されている。徂徠が断罪したからこそ、浪人が高みに昇ったのではなかったか。浪人に深いシンパシィを寄せていた豆腐屋は忽ち、徂徠に賛同する。閑話休題。

 徂徠の経世済民論に話を戻そう。徂徠の構想のうち有効であるのは、町人への労役賦課のみだ。富裕層である町人が本人や、仕事を任せている奉公人を差し出すとは思えないし、偶の公共工事に応じるため余分な奉公人を常雇いするとも思えない。よって金納とならざるを得ない。この金で人足を雇い工事を行うことになる。但し、日雇い人足の供給源は農村からあぶれ出た無宿者など定職を持たない者であり、彼等の増加は江戸の治安悪化を招きかねない。公共インフラの日常的な管理・改修のため、非武士身分として常雇いする道もある。財源は勿論、町人への恒常的課税だ。幕府が扶持する常雇い人足がダブついたり経済悪化により町人への課税が難しくなれば、開拓団として何処かに派遣し自活させれば良い。抑も町人への課税は、武士の困窮が深まるに従って、恒常化するだろう。前にも云ったように、室町幕府だって町人に課税していた。徂徠の発想は、全国を支配/治安維持する将軍が町人からの借金することを否定する。平和の恩恵は、農民だけが享受しているものではない。町人、即ち商人も職人も、享受している。
 但し、農民に対する課税を、武士階級が必要とする食物のみに限れば如何か。年貢は忽ちに半減する。人口の八割を占める農民は、年貢半減により可処分所得を大きくのばすだろう。貨幣経済下の市場は、武家が占めていた七割を喪失するが、農家需要の増大により、再び拡大に向かうことになる。
 但し、農民が求める商品は、数こそ幾層倍にもなるだろうが武家が求めるモノより品質で劣るかも知れない。品質低下と大量生産の方向となる。また、馬琴が云うには、「江戸近在の百姓ばら、畊作の外は雪駄を穿羽織を着て、雨ふる日には木履傘をもたぬもなし。女子も亦是に準じて、衣裳髪の上の物迄、をさ/\江戸様を写さゞるは稀なり。これらは三四十年来の事なれば、余が見聞く所をもていふなり」。筆者は前に「以前なら村落内で自給していた雨具なんかも、商品として購入されるようになった」と書いたが、馬琴の発言を念頭に置いたものであった。以前なら自給できる藁を使って簑などを雨具としていたが、馬琴の時代には雪駄や木履下駄や傘を常用するようになっていた。馬琴は農民さえ奢侈となった側面を歎いているが、筆者から見れば、農民が貨幣経済に深く浸っている描写となる。武士の収奪から洩れた商品作物の御蔭か、農民は既に貨幣経済下の消費生活を当然として受け容れていた。よって、年貢が半減すれば、消費活動に向けられる部分が更に大きくなる。また米の町人需要は、武士の放出によって満たされたが、農民が供給元となる。武士が貨幣経済から隔離される一方で、農民は深みに嵌る。一方で、商人は、商品流通の七割を占める武家需要を失う。農民の購買欲昂進により市場は再び拡大するが、すぐに武家需要分を回復できやしないだろう。商人の多くは農民になるなり幕府の人足になるなり、他の生業を見つけなければならない。残った商人のうち、廉価多売・大量生産販売に成功した者が、肥大化しよう。則ち技術革新が求められ、日本人は必ずや実現したであろうから、産業革命が東亜から発生したかもしれない。其処まで夢想しなくとも、生き残り成長を続け得た商人は、違和感なく近代商業資本へと変身する。
 結局、徂徠のヴィジョン{イルージョン?}は、武家が治安維持や国土防衛といったサービスにより、農漁民から食糧を、鉱山や山林などから各種物資を収取し、階級内に取り込んだ職人集団に各種財を製造させ供給、幕府を介し大名間で特産品を物々交換するものであった。武家内部に自閉する経済である。また、幕府は、大名には特産品、旗本と町人には労役を賦課する。一面では課税の網を、階級を超え全人民に掛けるものであった。此の構想は、当時の常識を超越していたが故、陽の目を見ることはなかった。
 例えば、八犬伝が刊行されていた時代に、上知令なる政策があった。江戸・大阪十里四方を幕府の直轄地とするため、所在の大名・旗本領を没収し新たな替え地を与えるものだった。此の政策でさえ大名・旗本の反発が強く、推進した水野忠邦の老中罷免にまで発展した。大名・旗本への課税は、夢想以外の何者でもない。また、商人からの借金で首の回らなくなった大名たちは、家臣の知行を【借り上げ】た。借金を返さなかったら、商人は文句を言うが、家臣なら言えない。「借り上げ」と云っても、返す気はない。益々下級武士は困窮した。此の問題に就いて馬琴は次のように批判している。
 「又借リ米といふ事はから国にも周の時よりあり。この事、墨子(七患篇)に見えたり。その借米に五等あれども凶年飢饉ならずして臣下の禄を減すことなし。一旦臣下に借るといふとも遠からずして返すことなり。又天朝もいにしへは天子供御の教を減ぜられ公卿大夫は請まうして職田を減少せし事しば/\あれども凶年ならでは許させ給はず。翌年五穀登をまちて則返し給はりき。和漢にかゝる例はあれども今ノ世のごとく財用足ラざるによりて家臣の禄を減らすと或は五年或は十年或は年の際限なく借リて返さずといふ沙汰は、いにしへに聞くことなし。この故に君の為に忠を尽し歓て使るゝ家臣は稀になるもあらん」{独考論}。
 困窮し且つ従来のビジネスモデルに固執して新たな収入の道を得られない無能な藩主は、家臣の減給しか思い付かなかった。激動の時代、無能は罪悪である。しかも此のバカガキは餓鬼のくせに権柄づくだから、【子泣きジジイ】に外ならない。まぁ現在でも企業経営者の多くは、同様か。馬琴が現在にいれば、痛快な企業小説でも書いたに違いないが、其れは措き、貨幣経済の発展という現実を理解できないまま、古法に執着する大名は、商人や家臣から【借金】するしか出来なかった。「借金」ではなく制度的収奪にしようとする徂徠の構想は、実のところ体制変革の契機たり得た。勿論、徂徠の構想そのままでは、経済が畸形化する。武家、特に将軍家に財が【死蔵】される傾向となる。武家が必要とする財は総て収奪により賄われ、しかも貨幣が流入する。公共事業として放出するしかない。ハリネズミの如く列島沿岸を砲台で覆うか。治水や交通網整備に使うか。徂徠の改革が実現していれば、短期としては失敗しただろうが、封建制経済を脱皮する契機にはなった筈だ。町人/商業への課税が確立すれば、其れだけでも意味がある。

 実は、徂徠の政談と馬琴の独考論の書きぶりは似ている。共に武士階級の困窮が奢侈を原因としているし、製造される器物の品質が劣化していることを指摘、貨幣の流通量が物価を左右し、米の価値が下落していると説く。また共に、武士の支配が農民のみならず、国内全域に及ぶと主張する。ただ馬琴は、徂徠ほど過激な論を展開していないだけだ。如何やら馬琴は、徂徠を参考にしているのではないかと疑いたくなる。勿論、馬琴は自らの構想を詳述していないため、徂徠の具体的献策と総て一致しているか全く不明である。ただ、馬琴が農民のみならず町人をも課税対象にすべきだと考えていたことを確認できるのみだ。
 農民以外にまで収奪対象を広げようとの意思は、一般化はしていなかったものの、江戸中期には唱えられ、密かに語られ続けたのだろう。徳治主義を超えた経世済民である。農民以外をも収奪対象として認識する馬琴は、なかなかにリアリストであった。

 

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