◆

寄一斎佐藤氏書
摂州大阪城市吏致仕大塩後素、再拝白一斎佐藤老先生、僕雖未獲仰眉宇聴声咳、吾郷間某曾伝先生愛日楼集、以投諸僕、僕荘読之、乃知先生学深乎淵水、先生文粲乎星辰、而不悖於素聞矣、既又読祭酒林公序、因復了先生之閲歴、与先生之不遇也、慕而悲之、悲而慕之、孰知僕志在乎先生哉、然而不投足門下、負牆請教、何耶、是不惟山河相隔、嘗縛吏役絆簿書、寸歩尺行、不能恣致之也、故徒翹跂耳、而僕今乃辞職家居、如宜東行待函丈自在然、然而不能遂其事、又何耶、以私讎充斥平州内外、■護の言が虫/屈乃俟時、俟時而終無其時、則聞先生年既踰六十、而僕雖四十又一、体孱病多、安知無失遭遇之期哉、然則憾無加焉、故略告僕志於未一面之先生、以乞教、夫僕本遐方一小吏矣、只従令長之指揮、而抗顔於獄訟■竹に垂/楚間、以保禄終年、無他求可也、然而不従事于此、而独自尚志以学道、不容乎世、而不愛乎人、豈不左計乎、吁、知僕者、憫其志、不知僕者、以左計罪之宜矣、而僕之志有三変焉、年十五、嘗読家譜、祖先、即今川氏臣其族也、今川氏亡後、委贄于我
神祖、小田原役、刺将于 馬前、而賞之以 御弓、又錫采地于伊豆州冢本邑焉、当大阪冬夏役、既耄矣、不能従軍以伸其志、而徒戍越後柏崎堡而已、終属尾藩、而嫡子継其家、以至于今、季子乃為大阪市吏、此即我祖也、僕於是慨然深以従事刀筆、伍獄卒市吏為恥矣、而其時之志、則如以功名気節、欲継祖之志者、而居恒鬱鬱府楽之情、実与劉仲■誨の言が日/未得志時之念、亦奚異、而非請器比焉也、而父母、僕七歳時、倶没矣、故不得不早承祖父職也、日所接、非赭衣罪囚、必府史胥徒而已、故耳目聞見、莫不栄利銭穀之談、与号泣愁冤之事、文法惟是熟、条例惟是韻、向者之志、欲立而不能立、依違因循、年踰二十、吏人未嘗有学問者、故雖有過失、無益友誡之者、其勢不得不発欺罔非僻驕謾放肆之病也、而無是非之心非人、竊自問於心、則作止語黙、獲罪於理者蓋夥矣、要与在笞杖下赭衣、一問耳、而無羞悪之心亦非人、治彼罪也、則不可不治己病也、治病奈何、当従儒以読書窮理而後愈矣、故就儒問学焉、於是夫功名気節之志乃自一変矣、而其時之志、則猶以襲取外求之功、望病去而心正者、而不能免軽俊之患也、乃与崔子鐘少年之態適相同、而非謂材及焉也、而夫儒之所授、非訓詁必詩章矣、僕偸暇以慣習之、故不覚陥於其■穴に果/曰、而自与之化、是以聞見辞弁、掩非飾言之具、既在心口、而侈然無忌憚、似病却深乎前日矣、顧与其志径庭、能無悔乎、於此退独学焉、困苦辛酸殆不可名状也、因天祐、得購舶来寧陵呻吟語、此亦呂子病中言也、熟読玩味、道其不在焉耶、恍然如有覚、庶乎所謂長鍼去遠痞、而雖未能全為正心之人、然自幸脱於赭衣一問之罪矣、自是又究寧陵所淵源、乃知其亦従姚江来矣、而我
邦藤樹蕃山二子、及三輪氏之後、関以西、良知学既絶矣、故無一人講之者焉、僕竊復出三輪氏所翻刻古本大学及伝習録坊本于蕉廃中、更稍知用功乎心性、且以喩諸人於是夫襲取外求之志又既一変矣、而僕志遂在以誠意為的、以致良知為工焉、爾来不膽前顧後、直前勇注、只尽力于現在吏務而已矣、以是報
君恩、報祖先、而報古聖賢之教、不敢譲於人也、不意虚名満州県、因思未有実得、而虚名如此、是乃造物者之所忌、故決然致仕而帰休矣、非徒恐人禍然也、是時僕年三十又八矣、而今乃専養性于小窓底、反観内省、改過遷善、惟是務、然而以無良師友故、恐弛其志於五十六十矣、是僕之日夜所憂也、自今如何下功夫、則其志益堅立、而心帰乎太虚矣、先生亦服膺良知学者、僕因自知如東行以其道願相見、則不以夫子之待孺悲者待僕、故裁是書、以告志而乞教便如此、其簡率則請勿罪焉、且社弟輩、梓僕箚記、以蔵家塾、畢竟代其転写之労耳、不敢示大方也、然僕志亦在其中、幸以間某頃寓
大府司天台、託斯人以呈箚記二冊于左右、暇日賜覧観、而彼此倶垂教喩、則幸甚幸甚、祭酒林公亦愛僕人也、先生寓其邸、故当て聞知焉、冀先生覧後、復転呈諸林公、林公亦賜一言教、以共陶鋳僕、則其愛僕之誠、敢不感、敢不感、而僕為求知于人、非云云也、伏惟先生鑒其文、而原其志、謹再拝
答大塩平八郎
陋簡拝啓。未接紫眉候処、秋暑時節御佳裕被成御興居、奉抃賀候。抑先頃は間生え御転托高著洗心洞箚記二冊被恵、副以真文手教、辱致拝受候。真文拝復可致之所、人事紛悩、且老境精力薄相成候間、俗通書不取敢御報申述候。御恕察被下度候。先以兼々御芳名伝承罷在いつそ拝顔致し度存居候処、此度不図御手牘に預り御覆歴且御志操之概、詳悉被仰示、拝範同様に存し欣聳不少奉存候。先達而間生出府之砌も御箚記中抄書小冊、間生被示、今又新刻全御恵被下、反覆致拝覧候処、数条御実得之事共、使人感発興起、不勝欣躍、拙老なと可及所に非すと奉存候。就中太虚之説御自得、致敬服候。拙も兼々霊光の体即太虚と心得候処、自己にて太虚と覚へ其実意必固我之私を免れす。認賊為子候様に相成、難認事と存候。貴君精々此処御着力被成候へは即御得力爰に可有之と存候。尚も実際に御工夫被着かしと祈入候事に御座候。扨又拙も姚学を好み候様被仰越候処、何も実得之事無之、赧羞に堪す候。姚江之書元より読候得共、只自己之箴■石に乏/に致し候のみにて都而之教授は並之宋説計に候。殊に林氏家学も有之候へは其碍にも相成り人之疑惑を生し候事故、余り別説も唱不申候、且又江都にては常に群侯百碎之間に周旋致し候事に候へは、何学なとゝ申す事詮も無之、只自己にて乍不及廸哲之実功を骨折り、夫よりして君心之非を格し、遂に治務之間にも預り候へは、漸々人之家国に寸補可有之哉に存候。兎角人は実を責すして名を責候ものかと被存候。名にて教之害を成す事少からず候へは、務て主張之念を■コロモヘンに去/りて、公平之心を求め度候。左候へは却て教化の広く及候事有之哉と被存候。返す/\も其実無之ては、何学にても埓明不申。たゝ自己之実を積候外無之とのみ心掛候得共、扨々十か一も存意通に参らす。浩嘆に堪す候。愚意之概聊申試候。尚御聖教被下度候。将亦箚記中、前人未発之条不一而足候得共、堯舜之上善無尽、殊に御年齢強壮之御事、此後幾層御長進可有之歟。不可測と御頼敷存候事故、申迄も無之、益深造之所翹望に堪す候。御著述林祭酒え示し可申之旨、致承知候。未た案上に指置申候。何れ見せ可申候。左様御承知被下度候。且又真文拝答不致候に付、雑文三篇、塾生認置之侭、呈覧丐正申候。不満貴意候所は指■テヘンに適/を厭不申候。尚追而御文通可申■馨の香が缶/。先拝復鳴酬迄如是御座候。時下玉燭不調、為道御自保可被加候。恐惶謹言。
 七月朔日  佐藤捨蔵
     ◆
 
 此の遣り取りは現在でも云々されることがあるけれども、筆者の関心に引き付けて解釈すれば、以下の通りとなる。
 佐藤一斎は陽朱陰王/公朱私王と評された如く、寛政異学の禁以降の昌平坂学問所で学頭を務めた朱子学の大家でありつつ陽明学にも造詣が深かった。論者によっては、近世陽明学の系譜を、佐藤一斎から大塩中斎に繋いだりする。なるほど、中斎は一斎を尊敬し書物を通じて私淑していただろう。
 上の書翰で一斎は、学派は何連であっても根幹に良心を保持すれば良い、と云っているし、効率的な世直しとして君主に直接働き掛け心を正すことを実践していると、やや誇らしげに書いている。勿論、此の部分は、「孟子曰、人不足与適也、政不足阮轣A惟大人爲能格君心之非、君仁莫不仁、君義莫不義、君正莫不正、一正君而国定矣」{孟子・離婁章句上}の受け売り……もとい、引いたものである。儒学の淵源は孔子であるが、確立したは孟子の手柄だ。朱子学も陽明学も、孟子には逆らえない。
 中斎の書翰からは明らかではないが、一斎の返答からすれば、中斎が当時の政治に対し不満を抱いていることを一斎は知っていたようだ。そうでなければ、このような事は書かないだろう。恐らくは、共通の知人である間氏から、中斎の言動や性格に就いて、或る程度の情報を得ていたのだろう。後に乱を起こすとは思わなかっただろうが、過激な性向で周囲と軋轢を発する虞は、敏感に察知したか。或いは、間氏を介し口頭で、幕府中枢に働き掛け政治を正すようにとの要請でもあったか。何連にせよ一斎は中斎を敬して遠ざくに如くはないと判断した。一斎の書翰からは、保身の腐臭が微かに漂う。且つ、大阪町奉行所の元与力ごときが政治に不満を持ったとて無意味であり、自分は江戸にあって諸侯の相談に与り、大人の風を以て感化し君心の非を正している、との儒者らしからぬ虚栄心さえ感じさせる。
 しかし、後述する如く、佐藤一斎に対しては、詩文に優れるも経学には疎い、との評価もある。抑も経学は、其の掲げる理念を以て現実に働き掛けるために学ぶ。君心の非を正すなんて云っているが、詩文に偏った儒者が、世直しに熱誠を以て当たったとは到底、思えない。そりゃ昌平坂学問所の筆頭だから名士であって、諸侯からも敬意を以て遇されただろう。何たって、学問所のバックは徳川将軍家なんである。さほど学問も出来ぬし関心もない大名ふぜいが一斎を敬するは、其のバックの徳川将軍家の威勢に頭を下げているだけのことだ。商売人が、客にではなく金に頭を下げると一般である。だいたいからして、熱誠を以て世直しを希求し周囲に激しく働き掛け続けるような者が、昌平坂学問所のトップにはなれないだろう。
 表では公認の朱子学を講じ、裏では陽明学を信奉する……器用だとは思うが、釈然としない。それが一斎の【学】であった。信念があれば陽明学をこそ講じるべきだが、如何やら一斎には信念がなかったようだ。信念なき「学」なぞ、知識を弄ぶ遊戯に過ぎぬ。抑も、一斎が陽明学に関心をもったキッカケは、王陽明の文章の書きざまであって、思想ではなかったとの噂もある。そんなことも見抜けず、一斎に私淑していた中斎こそ、いい面の皮だ。
 一斎の、中斎に対する言葉、「自分は自分なりに君心の非を正して、国をよくしようとしている。此の方法は孟子の云う如く効率的なものだ」。此の言葉は、大坂町奉行所元与力ごときは、天下国家を論じられないことを強く自覚させたのではないか。市井にあって社会の現実を肌身で感じている中斎の言は所詮、君主/将軍には届かない。町奉行の不正さえ、上聞に達することはない。中斎には、通常のチャンネル、縁故を辿って幕閣にまで実情を排他的に伝えるルートがなかった。直訴か挙兵しか、上聞に達する手段は無い、と早急な覚悟を決めたとて、不自然ではない。聖人になり切れない中斎は、郷原より、狂を撰んだ、か。
 上掲、一斎の書翰は単に、中斎からの片恋を拒絶したもの程度に受け取られていたりする。しかし一歩進め、中斎が真の【狂】に陥るトリガーとなった契機ではないかと、筆者は疑っている。儒者ならば今すこし緩衝し以て抱き取り善導する術を採っても良かったのではないか。保身の為か何か、余りに性急な拒絶は、中斎を、必要以上に過激な【狂】へと追い込んだのではないか。
 なるほど一斎、経学に疎い詩文家らしい態度だ。

 過激な大塩中斎および去勢された儒者/佐藤一斎に就いて、中庸を心掛ける筆者は、折衷学派の猪飼敬所書翰に顕れたる二人の動向・評価を以下に抽出したいと思う。大塩と一面識のあった敬所は乱後も同情的である。佐藤一斎に対しては、詩文を高く評価しつつも、経学には疎いと手厳しい。敬所は歴史考証に就いて特に厳しかった……ってぇか重箱の隅を突くような印象もある。
 

     ◆
大塩平八郎貴家ニ両日逗留。如貴諭当時ノ豪傑。学術陽明ニテ記誦詞章ノ徒ト大ニ懸隔、有用ノ話可之。御感服之段察入候。江戸ノ佐藤、議論著実。京師ノ村田庫山、先日モ近著写本、酔郷三種、庫山日記ヲ示シ、愚評を乞候。白沙陽明ヲ宗トスル故ニ愚見ト不合事不少候ヘ共、要之心身ヲ治ル実学也。老拙少年手島氏ノ心学ヲ学フ。当時彼社中之高弟両三人、忘年ノ友タリ。常ニ治心身ノ工夫ヲ論シ我身上ノ過ヲ無腹蔵相正シ候。其後儒学ヲナスニ一人モ如此ノ友無之候。心学ハフ好候ヘ共、於今老拙ノ学者ト異リ候ハ、少年心学ヲ為スノ功ナリ。虚心ニテ物我ノ隔無之、他人ニ比スレハ名利之心モ少ク候。読書候テモ常ニ我心身ニ省之候。今老拙ニ従フ門人伊藤斎藤等、記誦詞章ヲナサゝル故、言語文字ノ外ニ老拙ヲ信シ候。然レ共、虚心ニ無之、手島門下ノ旧友ノ如ク心ヲ洗被為候事ハ出来不申候。全レ共只今手島門ノ師トナル人々ノ心術行事ヲ見候ニ名ハ心学ニテ実ハ口耳ノ学ニテ是亦末弊也。前輩トハ大ニ劣リ候。以是観之、古学モ朱学モ陽明モ手島モ一ニハ其人ノ賢不賢才不才ニテ学術而已ニテモ無御座候。賢才之人ハ何レノ学ニテモ可取事多ク賢才ニアラサレハ何レノ学ニテモ可取事少シ。如貴論、学術ノ異同ヲ以テ其人ヲ排スルハ実ニ儒者根性ニ御座候。近世如来山人雖門下之士、不論学術之異同、唯以実用為主。我輩ノ法トスヘキ所ナリ。
……後略{猪飼敬所先生書束集巻二}

前略……
大坂大変。貴藩御屋敷類焼、定メテ追々恩留守居ヨリ様子御承知ト存候。京地ニテモ只此沙汰ノミ致シ候。廿日之朝、門生云、昨日ノ大火、天満与力屋敷ヨリ出火ト。拙子思フ、大塩災ニ逢ヒシ一昨年夏ヨリ絶音信候ヘ共、見舞ニ書状遣スヘシト。高槻ヨリ来寓ノ門生アリ。夜高槻ヨリ飛脚来リ、大坂大火ハ大塩ガ所為ニテ夜前四ツ半時ヨリ大坂御城代ノ御頼ミニテ甲冑ニテ御加勢出候。城下騒々敷、早々帰ルヘキ由、其父ヨリ云来リ、門生帰リ候。二十一日之朝、笹山京邸留守居之子息来リ。高槻屋敷留守居ヨリ諸方京邸留守居ヘ廻状廻レリト。其写見セラレ候。大塩作乱、援兵出候事顕然タリ。追々旗ヲ立テ棒火矢ヲ以テ所々ニ放火シ白刃ニテ乱入ス。鉄砲ニテ人ヲ威シ候故ニ土蔵モ戸サゝス逃走リ土蔵多ク墜。火ヲ消ス者無ク、大災ト成リ人モ多ク殺サレ候ト。所々沙汰有之。廿二日京ヘ彼輩迯来候哉ト。見付次第注進スヘク御触有之。拙宅ヘハ両度中座来リ。大坂ヨリ御客有之候哉ト尋候。以前大塩ノ来リシ家ヘハ皆尋来ルノ様子ナリ。大塩カ党ノ名前ト其出立ノ様子ハ別紙ニ詳也(拙家門生ハ大坂相識ノ方ヨリ来リ候)。彼書ニ石火矢ト有之候ヘ共、官ヨリノ御触書ニテハ棒火矢ト有之候。拙家ノ僕、十八日大坂迄帰リ(備中ノ産、渡辺七郎トイフ者ナリ)。逗留、二十二日ニ上京致シ候。彼ニ聞候処、十九日八ツ頃ヨリ鉄砲ノ音不聞。旗モ見エス。大塩何方ヘ行候哉不知候ト。尼崎岸和田高槻加勢到リシハ先後アレトモ皆夜ニ入候ヘハ相手ハ無之候。廿三日、大塩摂州尼ケ崎ノ西甲山ニ籠リ居ト云風聞アリテ大坂城代ヨリ京師御所司代ヘ申来リ町奉行人数ヲ山崎ヘ被出ヘクト。膳ところヘ加勢申来リ。黒田五平次一番手先陣。武具支度、今一度申来リ候ハゝ出立ト相待候。其節膳所藩中ヘ命セラレ候触状、斎藤ヨリ写来候書状ニ付シ候。京町奉行ニモ恩支度候処、甲山ニハ一人モ不居、虚説之由、大坂ヨリ申来リ候由、其節亀山淀高槻ヘ大坂ヨリ告来リ、皆恩手当之由。大塩ハ於今行方知レ不申。大塩若党、廿二日伏見ニテ捕ラレ候。此節ハ京坂往来之者、所々ニテ吟味有之。荷物ヲ解キ改メラレ候。大塩母ノ兄弟吹田之神主ヘ捕手ヲ被遣候所、早ク妻子ヲ殺シ切腹致シ候。河内守口之百姓捕ヘラレ候ヘ共、是ハ脅サレ従フ者ニテ何之趣モ分リ不申。門人等モ捕ヘラレ候ヘトモ、何モ知リ不申候。其腹心之弟子ハ大塩ニ付従候故、同シク行方不知候。大塩ハ大坂町人皆服シ居リ候故、丸焼ニ合候テモ、ヤハリ大塩様ノ御働ニテ世直リ可申ト悦居候由、此節風聞ニハ大塩先期関東寺社奉行ヘ其企ヲ届ケ上ノ政ヲ譏リ救民之為ニ事ヲ挙グ。由井丸橋ガ類ニアラスト云。関東ヨリ此書ノ事ヲ事発スル後ニ申来リ候。大和河内ヘハ大塩落書致シ置、其趣意ヲ述候由、十八日ニ其党ノ同心裏返リ町奉行ヘ注進ス。格之介此者ヲ切候テ其書露顕ニ及候ヘトモ其他ノ与力同心、其党カ党ニアラサルカ疑敷、速ニ糾サス。翌十九日、事ヲ発ス。元来十八日挙事ノ志ニ候処、内モメニテ一日延引セシト云。大塩趣意、誅其君弔其民ト云様ナル事ト見ヘ候。依之町人於今称誉ス。然レトモ旗ヲコシラヘ棒火矢ヲ造リ白昼ニ町家ヘ放火シ候ハ只作乱ナリ。姦吏ヲ殺ス意ナラハ夜ニテモ其方ヘ仕懸ヘキ也。一円趣意分リ不申候。彼カ学術一死生ヨリ不畏死。心剛ニシテ思慮ハ少ク、故ニ決断アリ。眼空一世、無厳諸侯、如此ノ盲挙ヲナシ、大坂御陣二百年来ニテ甲冑ヲ見ル。逆罪不容於誅。其家ヲ滅シ族類門人ニ禍及フ。如何ナレハ如此ニ到ルヤ。或云、往年耶蘇ノ獄深刻、其亡魂彼ニ憑テ祟ヲナスナラン。是戯言ナレト不然ハ狂人ト云フヘシ。元来死ヲ極テナス事ナルニ、今何処ニ迯ルヤ。彼ニ似合ハサル事也。猶後挙アリヤ。罪人未得、衆情不妥。大坂ニ風聞ス、大藩守邸彼ト親シ。此ヨリ船ニテ西海ニ迯ルト。未知実否。佐藤一斎ヨリ大塩ヘノ返書ニ意必固我、良知之発、イカンソ此ニ至ル。王陽明ノ徒ニモ、カゝル乱賊ノ行ヲナス者ヲ未聞。彼落書等ヲ見ハ、趣意アルヘシトイフ人アレト趣意ハアリトモ憑婦ノ虎ノ如ク識者ノ笑ナルヘシ。或人云、王陽明邪説ナリ、故ニ如此。老拙云、朱学者、王陽明ヲ邪説トイフ、聖学ノ正格ニアラサルヲ云、邪悪之義ニアラス。王学ノ罪ニアラス。貴兄モ御懇意ニ被成候ニ、如此之事、不堪御嗟歎候。拙子モ一見、数度文通。俗ニ云天魔カ見入候哉ト。存外之義、気之毒之至リニ御座候。
凶荒ニテ世上騒々敷、老拙貴藩ヘ参リ候ハゝ貴家又ハ川村氏ニテ保護被下候様被仰下、御懇志之段、千歳感謝仕候。三四日前、斎出雲ヨリ大塩大乱、京師モ不穏、荒年、繁華之地尚禍乱計ラレス、彼地ヘ避候ハ石山之明寺ニテモ借リ世話可致ト申来候。老拙答ニ、禍ヲ避テ難ニ逢事、古ヨリ有之、京師数十万人、余非一人、禍福任天ト申遣候ヘハ、尤ト申来リ候。当時門生モ両三人有之。外ニ門人出席、講釈も致シ候。日々ニ四方ヨリ往返之書通モ有之。此節他出ハ差当リ勝手悪敷。九月ニハ出津可仕候。
  二月二十七日

 大坂ヨリ門生ヘ来リ候書写
  天満与力騒動之事
天満与力大塩平八郎同格之介瀬田済之介同所同心渡辺良左衛門近藤梶五郎庄司儀左衛門ト申者、及乱妨、去ル十八日夜、大塩平八郎家内不残手打ニ致シ、翌十九日朝、河内辺之百姓共百四五十人モ施行致候旨申、呼寄集候処、門内ヘ入レ装束ヲ付サセ天照皇大神宮万民施行之為ト申御旗ヲ二三本立、平八郎ハ鍬形付兜ニ黒陣羽織ヲ着、鑓刀抜身ヲ携ヘ其外ハ様々ノ出立、大塩居宅ヘハ火ヲ掛ケ置、大筒ヲ五六挺車ニ乗セ悠々ト出立、町中所々ヲ鉄砲ヲ打、焼立、諸方ヨリ火消集リ候ヘトモ鉄砲ヲ以テ手寄不申様仕懸、迯去候者ヲ見付次第大塩ニ付ケ左モ無之モノハ打殺ト申、方々ヘ火矢打込ミ、センバヘ押寄、鴻池善右衛門ヨリ天王寺屋平野屋三井岩城升屋ヲ焼立、玉水町加島屋ヘ押寄ルト申、御屋敷近辺ノ事故、混雑仕候。大変ニ付テハ諸屋敷御城代御中屋敷前ヘ相詰、土井様ハ追手前へ陣ヲ被取、其外御役人方モ同様出勤。皆々切火縄ニテ御出張、誠ニ乱世ノ様ニ御座候。夫ヨリ尼ケ崎堺御奉行、郡山岸和田ヨリモ御手当三百人程被固、町場之者ハ皆天保山伝法村之方ヘ迯去候。又々加賀屋敷薩摩屋敷松山屋敷ナト甲冑ニテ御加勢罷出候。右ニ付テハ守口吹田、西ハ野崎其外渡場、厳敷御固ニ御座候。乍併御シラヘ御座候ヘ共、未タ前文ノ六人ハ逃去候テ相知不申候様風聞御座候。右徒党之内ニモ浜田浪人高槻浪人之者、余程組シ候様相聞申候。此度之変儀ハ由井正雪再来ト皆其噂ニ御座候。又々取沙汰多ク候ヘトモ尚重便ト申留メ右一件何ヨリ発候哉。頓ト相分リ不申候也。右ニ組シ候内之雑兵ハ召捕之者有之。又手打ニ逢候者、余程御座候。大塩ハ中々魔術モ行ヒ如何様成鬼神ニテモ叶不申ト風聞致シ候。

 別紙ニ又曰
落シ候橋ハ天神橋天満橋今橋高麗橋芳屋橋平野橋、先出火ハ天満堀川ヨリ東不残、権現様社天満宮センバ鴻池善右衛門三井岩城平野屋五郎兵衛天王寺屋五兵衛、上町ニテハ米屋平右衛門焼失、両奉行所御城代御中屋敷ト御城ハ無別状。十九日四ツ時分ヨリ翌廿日夜八ツ時迄ニ漸ク火鎮リ申候。
  二月

   幟
                      拾目鉄砲
                    鑓
幡(救民ト云文字)    持人足 庄司儀左衛門    持人足
                 同 大塩格之介     大筒 両三人
                 同
                 同
       湯武両聖主     玉造与力
    幟  天照皇大神宮    大井庄三郎       大筒 持人足
       八幡大菩薩                         両三人
  槍             槍            槍
    白井孝左衛門     深尾作兵衛      阿部七助
    荻野郡治        志村周蔵(江州)   曽我善蔵
                  幡田小次郎      同 忠五郎
    杉山三平        大塩平八郎      西川郡三郎
    橋本忠兵衛       高島九左衛門    西川喜三郎
    梶屋深右衛門     堀井儀左衛門     西川七助
    同 伝七         安田図書(勢州山田)
    渡辺良左衛門     大筒数不知    凡人足
                  小筒二十挺     百参拾人計リ
    瀬田済次郎 具足
             長持 申年十二月出生十四才
                   今井太郎
    近藤梶五郎  葛籠
                    橋本林太郎

一昨夜大塩大乱。略聞及候事書認、昨日飛脚屋へ出シ候。今朝笹山京留守居、町奉行書へ被出候テ聞帰ラレ候。大塩之党(与力)瀬田済之助(同心)渡辺良左衛門、郡山良ニテ切腹シテ死シ、昨日三条宿屋ニテ大塩之妾二人(一人ハ四十歳一人ハ十六歳)其親ト共ニ捕ラル。大塩ト共ニ川口迄逃レ大塩ト分レ丹波ヘ逃レ夫ヨリ京都ヘ出候。大塩之行衛ハ存不申ト白状致シ大塩ノ踪跡最早手付候様子、此間ヨリ大塩何方ニ潜居、再事ヲ仕出シ可申哉ト人心不安候。如此ニテハ其党モ散シ逃レ隠ルベキ地無之、自殺シ大塩家人ヲ手打トシ決死シテ出候モ空言ニテ一人ノ妄挙ニテ東照宮ノ廟ヲ始奉リ数千ノ民家ヲ焼亡シ数千人ヲ害シ甲兵ヲ動シ国家ヲ犯シ族類ヲ累シ莫大ノ罪アリテ何ノ為トイフヘキ義ナシ。誠ニ不可解之事也。今ニテハ何方ニテモ自殺セハ幸ナリ。若召捕レ棄市セラレハ大恥ナルヘシ。吾輩一面識アレハ尚其恥ノ少カラン事ヲ思候。渡辺亮太郎、笹山京屋敷ニテ唯今聞帰リ候ヘハ実説ニ御座候。右申入度如此御座候。
   二月廿九日
尚々大塩先月書物器財不残売払、四十貫目ノ銀ヲ得て一万人ニ金一朱ヅゝ施シ候事、遠近ニ聞候。此度大塩ニ従ヒ候河内守口ノ百姓モ此施行ヲ受候而、又施行スルニ欺レテ来リ脅従ス。今ニテハ此施行モ皆謀略ニテ尽ク姦悪ニ帰ス。扨又其書籍買候書物屋皆呼出サレ御吟味アリ。今日モ町年寄ヨリ拙家ヘ十四五年来ニ大坂ヨリ寄寓ノ書生無之哉ト尋来リ候。其官ヲ煩ス事、是ニテモ知ルヘシ。嗚呼。
一昨日大塩一件。略書認メ飛脚屋ヘ出シ候。定テ相届可申候。昨日播州門人ヨリ彼ノ落シ文写シ来候。又大阪ヨリ人数行列書写シ上シ候故、入御覧候。大阪町人、皆大塩ヒイキ。瀬川ヨリモ申来候ハ町奉行諸役人ヲ殺シ富民ノ金銀及御金蔵ヲ開キ窮民ニ施シ其後切腹スル覚悟之処、手違ニテ不得其儀ト。甚惜シミ候由、愚案ニモ彼ノ学一死生、カゝル大事ヲ起シ候ヘハ妻子ヲ殺シ死ヲ極メ可申ト存候処、右落書ノ趣ニテハ湯武漢高祖ニ擬シ天命ヲ奉シ民ヲ救フ。誰ヲ桀紂トスルヤ。其本謀事ヲ挙ケハ摂河泉播四国之民集リ来リ其中ヨリ壮健ノ者ヲ士卒トシ仁義ヲ唱候ハゝ四方ノ民必己ニ応シテ海内鼎沸、漢高明祖ノ業可成ト其党ノ壮士、豈殺身救民ノ志アランヤ。皆無深慮、彼ニ誘動セラレ功名富貴如拾芥ト思フテ従ヘルナリ。大塩性剛ニシテ、思慮浅シ。故ニ慷慨激烈ニシテ決断アリ。知進而不知退。見成而不見敗。此学必成ヘシトオモフ故ニ敗ニ至リ、妾ヤ子ヲ他処ヘ逃シ其党モ散々ニ狼狽シテ或ハ死シ或ハ擒トナル。先日十四才ノ者捕ヘラレ白状シテ云、初議甲山ニ立籠ラント図之。大阪ヨリ討手ヲ被遣ト、京ヘ申来リ、膳所迄加勢ヲ徴セラル。然処探聴セラルゝニ甲山ニハ一人モ居ラスシテ事止ヌ。其童ハ行列ニ見ユル今井太郎ナルヘシ。無知ノ童子為之陥罪。可憐也。因テ思フニ、四国ノ民集ラハ甲山ニ籠リ根拠トスルカ本謀ナレト其謀相違シテ四国ノ民来ラス。脅従シタル守口ノ百姓モ追々逃散リ其党モ危疑ヲ生シ散々ニ成テ甲山ヘ籠ルコト能ハス。川口ヨリ舟ニテ逃レタルナリ。先便京ニテ執ラレ候四十歳ノ女ハ大塩平八之妾ニテ十八歳ハ格之助ノ妾ニテ乳ノミ子ヲ抱ヘ候ヨシ。二十日ニ大阪ニテ守口ノ百姓侠ヲ以テ聞ヘ候者、切腹シテ死シ候。湯武ノ事ヲ知ラス。故ニ富貴ヲ計ル意ナケレハナリ。他ノ者共ハ奉天命致天討{誅カ}ノ美名ニ惑ヒ必死ノ覚悟無之。瀬田済之助渡辺良左衛門、人相書ニテ御尋アリ。逃ルゝニ所ナク数日ノ後、蘆原ノ中ニテ自殺セリ。大塩カ志大ナルコト世人ノ及フ所ニアラス。然レトモタトヒ大阪役所ヲ破リ愚民是ニ帰ストモ一旦騒動サセルノミニテ封建之世、封君世辟、誰カ匹夫ニ従ハンヤ。是ハ目前之知レタル事也。如此ノ浅慮ニテ湯武ヲ学フコト狂妄ノ至。憫笑スベシ。然レトモ乱ヲ語ルヲ悦ハ人情ニテ京ニテモ大塩ノ喜ヒ噂致候故、官ヨリ其噂ヲスル者ハ捕ラレ候。夫故右落書、門生ニモ示シ不申候。大塩ガ落書ニ言ヘル所、下民ノ快トスル処ニテ上タル人ノ深誡トスヘシ。古ヨリカゝル事アル。乱之端ナリ。竊ニ冀フ、上位ノ人々是ニ因テ畏懼ヲ生シ奢侈ヲ戒メ民ヲ恤ミ玉ハンコトヲ。
  二月二日

京寺町鳩居堂、先年以来救荒ニ心ヲ尽シ一昨年ヨリ昨年秋迄、京并ニ近在ノ飢民ヲ救候事、誠ニ殊勝ナル事ニ候。然レトモ中々一人ノ力ノ所及ニアラス。世間餓死多ク又是ガ為ニ或ハ寺ニテ大法事ヲ為シ其由ヲ記シ石ヲ建ントス。然ルヲ官ヨリ止ラレ候。其故ハ京奉行書ヨリ関東ヘハ御仁政ニテ京地一人モ餓死無之ト申上ラレ候。是ニ差支レハナリ。京人別去年十万人減シ候由(付箋ニ云、人別十万人減スルハ信シ難ク候。半分ニ聞テヨシ。我邦ノ風ニテ何事モ秘セラルル故ニ実数ハ明ニ聞難シ。西土ノ如ク天下ノ戸口ノ実数ヲ明ニ上下ニ示セハ驚タノ心生スヘキ也)其内ニハ乞食トナリ又ハ他国ヘ去ル者モアリ。皆悉ク餓死ニモアラネト七八分ハ餓死ニテアルヘク候。然ルヲ困窮ノ時ニ官ヨリ命シテ祇園ノネリ物ヲサセ京ハ困窮セヌ様ニ上ヘ申上テ我役所ヲ繕ヒ下ノ困窮ヲ上ヘ蔽ハルゝ事、扨々不忠ノ至ナリ。然レ共独京有司ノ咎ニアラス。関東ノ大政皆然リ。大塩ノ刑、今ニ於テ行ハレス。是何故ソヤ。大塩ノ党、既に多ク病死ス。去秋摂州能勢ノ乱、張本山田屋大助妻子モ於今大阪ニ入牢シ其刑無之。其家主篠崎永左衛門、毎日牢飯ノ代銭一貫文出シ候。去年七月初ヨリ今ニ至レハ三百六十日ニ及候。其費三百六拾貫文。尚不死ハ其費益大ナリ。篠崎ハ富メトモ大ニ迷惑スヘシ。是ニテ其他ヲ推スヘシ。阪本鎮之助カ鉄炮ニテ大塩忽敗ル。其節ニ御加番遠藤侯ヨリ当座ノ賞状ニ御伝来ノ名刀ヲ賜リ委細ニ関東ヘ申上レハ追テ上ヨリ賞アルヘシト被申渡候由、阪本ヨリ慥ニ聞候人有之候。於今其刑ナケレハ賞モ亦無キナルヘシ。去年如此乱ノ有之候事、誠ニ大乱之端ニ候ヘハ国家畏懼ノ警アルヘキヲ上下相蒙シ如此粉飾ノミ。治不忘乱トアル聖戒トハウラハラニテ周書ニ所謂不畏入畏ノ憂アリ。歎スヘキノ甚シキナリ。
  六月十四日

瀬川剛司大阪篠崎塾ヨリ上京致候。能勢騒動ノ一件語リ候。篠崎借家ニ山田屋大助ト云フ薬屋有之候。此者摂州能勢ノ産ニテ多田満仲ノ後胤ニテ能勢ニ田地多ク所持、頗富家ニテ今春大塩カ挙事拙策ニテ己今般事ヲ起シ大業ヲ成ント彼郷里ノ農民ヲカタラヒ千余人党ヲナシ池田伊丹ヘ向テ大家ヲ毀チ当月三日ノ夜ヨリ発シ候。其方角ヨリ大阪ヘ願出救ヲ乞候故、大阪ヨリ役人出テ獵戸ヘ命セラレ鉄炮ニテ向ハレ候処、彼党ノ百姓忽逃散リ大将山田屋大助鉄炮ニテ自滅致シ乱ハ即時ニ静リ埒モ無キ愚ナル事ニ候。扨彼山田屋妻子入牢。家内ハ闕所ニ成、家財御改ノ処、大塩カ落文アリ。是ハ何方ヨリ得候哉ト吟味之処、家主篠崎長左衛門ヨリ借写シ候ト娘答ヘ、因之篠崎御咎ヲ受候テ町役ヨリ番付キニテ寄寓書生モ出申事不出来。八月朔日、瀬川主君御参府ニテ大阪御通リ御目見之義、官ヘ願候テ篠崎方ヨリ出候事不相成ニヨリ上京致シ拙家ヨリ伏見ヘ出、御目見致候心得ニテ上リ候。半香ハ申訳立候テ無程出牢之由。
  二十八日夜
大塩ノ時ハ岸和田郡山尼崎高槻笹山姫路、甲冑ニテ多勢出候。割鶏用牛刀ナル事ニテ物笑ニ候。此度ハ大阪ヨリ役人出候テ其辺ノ獵人ニ命セラレ何之造作モ無之、御取計宜ヲ得候ト存候。

大塩父子死シ其党追々被捕候。江州小川村藤樹先生ノ居里ニ志村周助ト云医、大塩門人ニ成候。乱前ニ招カレ出阪、無程郷里ヘ母ト妻ト迎ニ来リ呉候様申越シ、母妻出阪シ彼家ヘ至ル。何角トイヒテ周助ヘ対面サセス。其間ニ周助手討ニ成候ト聞テ大ニ驚キ出候処、無程火事ニ成リ泣々帰リ葬礼セントスル処、大溝侯ヨリ葬ヲ禁シ母妻村方ヘ御預ケニ成候。小川ノ隣村ニ南市村アリ。是ハ膳所領ニテ其庄屋モ志村カ紹介ニテ彼門人ニ成候。是モ大阪ヘ招カレ出鐘楼処、幸ニ伏見迄著候処、大阪大乱聞候テ驚キ帰村ス。膳所ヘ被召、御吟味有之候ニ入門之節、以後此方一大事有之時ハ同意可致ト誓約為致候由、此度カクマヒ候三芳屋五郎兵衛カ妻ハ彼家ニ遣候下女ニテ是迄恩恵ヲ受候故ニ無是非カクマヒ候由。白井孝左衛門ハ大阪近辺之庄屋、先年御咎メヲ受クヘキ事アリシニ彼ガ門人ニ成リ其罪ヲ免レ候。其義理ニテ両親子供五人モ有之候ニ逆党ニ入候。守口油屋モ是ハ同様ノ者也。其党大略如此。由井カ党トハ不同。半香モ入牢ス。子細ハ不知。後ニ人相書ニテ御尋ノ大井正一郎、三月晦日京都ニテ悲田院ノ手ニテ捕ラレ候。
……中略……
大塩平八真知実践ヲ唱候。佐藤一斎モ亦然リ。是レトモ真知実践ハ王陽明ノ学ノミニアラス。古之君子皆然リ。今人之学問、文雅風流ト好名トニ流候故、大塩常ニ云、天下無儒者ト。如此ニ嘲リヲ受候事、天下読書ノ人大恥辱ト存候。野拙ハ幼年ヨリ手島先生ノ教ヲ受ケ、文字ヨリ入候学問ニ無御座候故、真知実践ハ珍シカラス。壮年ヨリ世間之学者ト調不合。書札ノ往来モ不致候。貴兄去年大塩ノ方ニ御逗留之様子、定テ真知実践之旨、御熟聞可被成、何レノ学流ニテモ真知実践ニアラサレハ経学モ詩文ト同シク実益無之候。存出候侭、任筆申入候。
  二月廿五日
{猪飼敬所先生書束集巻四}

前略……
佐藤一斎藤大学一家私語、未見候。先年一斎ノ論語欄外書ノ評ヲ乞フ人アリ。拙評ヲ加ヘ還之候。其説ハ不全記候ヘトモ不通ノ説多ク有之候。昨年一斎ノ愛日楼ノ集ヲ日野公ニ托シテ評ヲ乞候故、十九ケ条申遣候処、心服之旨ニテ拝昌言ノ意ニテ雁皮紙五帖、公ニ托シ贈リ候。詩文ハ精錬ト見エ候ヘトモ陽明ノ心学ヲ宗トシ経義ニハ不竭心ト存候。一斎之文評ハ差置、彼ノ学術経解ノ偏失ヲ言遣セト。勤候人モ有之候ヘトモ老年乏精力、無暇於此、且開争端候ト存、是ハ不致候。拙子門人東行、見一斎候ヘハ逸史糾謬{イトヘン}ヲ以テ拙子ノ精密ヲ毎々称シ候テ松崎慊堂モ西河折妄ヲ奇トスル由、承及ヘハ一斎モ西河折妄ハ見申ヘクト察シ候。然レトモ陽明ノ学術ナレハ瑣屑ノ論弁ハ決シテ不好ト存候。
……中略……
  正月二十一日{猪飼敬所先生書束集巻三}

五月七日貴書、廿六日着。笠翁之事、如来論老拙モ存候。往年心疾ヲ患ヒ数年廃学、其節伝奇小説等ヲ読、消日月候。笠翁伝奇数種読候。我邦ノ其碩時笑京伝馬琴之類ニテ大慰病情候。其人軽薄可知ナリ。
水滸伝、神行大保カ甲馬ノ事、貴論ノ如クナルヘク候。老拙モ壮年小説ヲ好ンテ読候。シカシ寓目ノミニテ心ハ留メ不申候。後世彼国ノ風俗人情ハ是ニテ通シ候。水滸伝作者、地理ニ疎ナル事、甚シク、イカニ虚妄ノ話ナレハトテ大名府ヨリ東京■抃のテヘンがサンズイ/梁ヘ来ル生辰綱カ梁山泊ヘ迂途シテ通スルヤ。九紋龍史進カ落艸スル桃花山ハ陜西ニテ古ノ秦ノ地ナリ。後ニ魯智深史進カ桃花山ヨリ出テ来ルハ梁山泊ニ近キ山東ノ桃花山ナリ。是古ノ斉ノ地ナリ。両地相去ル事数千里、名同シケレト是ヲ混スルハイカナル事ゾ。其他モ此類多シ。此書彼土モ流行シ人々是ヲ知ルニ此書ヲ作ル程ノ者カ如此ノ誤アルハ大ニ怪ムヘシ。足下定メテ是ヲ知ルヘシ。
……後略{猪飼敬所先生書束集巻三}

前略……
旧冬十一月末ニ一斎小学欄外書ヲ贈テ指摘アラハ大幸ト申来リ候。六十条計リ疎失ヲ書テ寄示シ候。返書未来候。是ハ学術ニ渉ラス候ヘハ、一斎カ意ニ逆ヒ不申ト存候。此頃一門人ノ云、江戸ニテ聞ク、一斎ハ文人ニテ経学ハ不深、嘗テ自言フ、王陽明ノ文ヲ面白ク思ヒ夫ヨリ彼学ヲ好ミタリト。余モ亦可然ト思候。
  正月廿四日{猪飼敬所先生書束集巻三}

陸隴其四書松陽講義之事、御尋被下候。老拙未一覧候。近来江戸聖堂ニテ陸隴其四書大全、困勉録等甚重セラレ当時朱学ノ徒珍重致シ候。老拙往年陸隴其ノ三魚堂集一覧致候。誠ニ偏枯ナル朱学者ニ候。夫故彼人ノ書ハ読ニ不足ト存候。古賀精里偏固ノ朱学故、陸隴其ヲ好ミ候ヘトモ其門人斎藤徳蔵塩田又之丞等ハ是ヲ厭フ。然レハ松陽講義モ朱学専門ノ人ニアラサレハ必読ノ書ニハアラスト存候。
往年岡田南涯、王陽明伝習録晩年定論ヲ見テ甚感シ候。其節学蔀通弁ヲ見セ候処、大ニ感服、大ニ感服。麻姑ノ手ヲ以テ癢キ所ヲ掻クノ如キ書ト被申候。香川景樹モ王陽明カ説ガ歌学ニ合候故、頗信シ候。学蔀通弁ヲ見セ候処、其非ヲ悟リ候。中村佐五右衛門、一斎ニ学フコト十五年、王陽明ヲ篤信ス。此書ヲ示候処、翻然トシテ王学ヲ棄候。大和谷新介モ往年陸王ヲ喜候処、此書及羅欽順ノ困知記ヲ読候テ其非ヲ悟候ト申来候。近来一斎大塩彼学ヲ唱ヘ是ヲ信シ候者多ク有之候故、此書ヲ示シ度存候処、焼板ニテ本乏シク漢土ニハ清儒門戸ヲ立テ相排斥スルコトヲ嫌候故、四庫全書ノ総目ニモ此書無之、此方ニテ再刊致度兼テ存候故、先頃大阪篠崎ヘ再刻勧メ候。同意ノ趣ニ申来候処、此節御咎メヲ受ケテ閑居ス。事済候上ニテ尚々勤メ可申候。宋学ノ是非ハ此書ニ不限候故、是ニハ拙子論シ不申候。

八月六日之貴書、廿八日到着。近来何者歟。儒者番付出シ候由、当夏江戸神田聖堂ニ寄寓致候森田謙蔵ヨリ申来候。京師ニテモ先頃ヨリ流布ノ由、老拙ハ未見候。東関松崎関脇佐藤小結朝川西ハ老拙山陽愚山ト承リ候。佐藤一斎愛日楼集、日野公ヘ托シ拙評ヲ被乞候。一覧致候処、議論正大、文章綿密ニテ当時無双、不能賛一詞、京師諸儒其文章ニ服シ候。此人王陽明ヲ宗トスル故ニ其学ハ可議処有之候ヘ共、夫ハ所謂細工流々ニテ誠ニ可畏者、此一人也。其他ハ不足畏候ヘハ関ト称セラル々共、左ノミ面目ト存不申候。然レトモ世人此番付ヲ見テ肝ヲツフシ候由、淡路一蔵ヨリモ此間申来候。虚名益高ク相成候哉。中元後江戸ノ人、書画帖ニ老拙旧作ニテモ書候様望ミ玉泉ヲ以乞来候。老拙悪筆故、書画帖ニ書候事、旧来固ク辞候。玉泉ハ当時先生姓名無之テハ難叶候、代筆ニテモ不苦ト固ク乞候故、不顧拙筆書遣シ候。又西国ノ人モ同様ニ乞来リ書遣シ候。当春越前一藩中医員、十二月景物ノ古画ヲ得テ三都ノ名家ニ序ヲ乞候。既ニ大略集候処、老拙ノ作無之テハ如何ト。京師書林ヘ托シ請来候。仁寿山ニテ書遣シ候。誠ニ不才ノ拙子、如此虚名有之候事、後来得毀候本ト畏レ候。
  九月四日{猪飼敬所先生書束集巻六}
     ◆

 
 
 

← Back