■第四輯序を廻る若干の問題点■
 
 八犬伝物語が大きく転回し始める第四輯の序文に於いて馬琴は、次の如くに語っている。
 
     ◆ 
 狗之守夜也、性矣。敬主識主也、亦性矣。諺曰、跖狗吠堯。此非其狗之罪。臣子之於乱朝善守其職而無私者、亦当若是。何者、殷三賢不忠於西伯。然周不敢罪之。故孔子曰、君難不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子。蓋此比干箕子等之謂歟。由是観之、其性所捷、雖狗無以異人也。嗚乎与夫食君之禄、而令父母愁、夫妻相虐、兄弟為讐、遠旧迎新、■ケモノヘンに言/々呀々走利者、大有径庭。宜、国有賢相、則無姦佞之賓、家有良狗、則無窺■アナカンムリに兪/之客。於是、四隣可不勉、而衛比屋可高枕而睡也。是余之為八犬伝、所以寤蒙昧。抑〃取義於茲。其書若干巻、既刊布于世。頃又継編至於第四集。刊刻之際、書肆山青堂屡〃来、而徴序甚急。毎編有自序、今不可辞。因附増数行、以塞譴云。
文政三年庚辰冬十月端四書于著作堂西廂山茶花開処
飯台曲亭■ムシヘンに覃/史
…………書き下し…………… 
狗の夜を守るは性なり。主を敬い主を識るも、また性なり。諺{ことわざ}に曰{いは}く、跖が狗は堯に吠える。此{これ}は、その狗の罪にあらず。臣子の乱朝における、善{よ}くその職を守りて私{わたくし}なき者は、また、まさに是のごとくなるべし。何となれば、殷の三賢は西伯に忠ならず。しかれども周はあえて之を罪せず。ゆえに孔子{くし}曰く、君は君たらざるといえども、臣は以て臣たらざるべからず、父は父たらざるといえども、子は以て子たらずんばあるべからず、と。けだし比干箕子らの謂{い}いか。是によりて之を観{み}れば、その性の捷{すぐ}るる所は、狗といえども以て人に異なるはなし。ああ、夫{か}の君の禄を食{は}みて、父母をして愁えせしめ、夫婦はあい虐し、兄弟は讐{あだ}と為り、旧を遠ざけ新を迎え、■ケモノヘンに言/々呀々として利に走る者と、大に径庭あり。宜なり。国に賢相あれば則ち、姦佞の賓なし。家に良狗あれば則ち、窺■アナカンムリに兪/の客なし。是において四隣は勉めずして衛るべし。屋を比{なら}べるものともに、枕を高くして睡るべし。是は余が八犬伝を為{つく}りて以て蒙昧を寤さんとする所なり。そもそも義を茲{ここ}に取れり。その書の若干の巻は既に世に刊布す。頃{このころ}はまた編を継ぎて第四集に至れり。刊刻の際{あいだ}、書肆山青堂が屡〃{しばしば}来りて序を徴すること甚だ急なり。毎編に自序あり。今、辞すべからず。よりて数行を付け増して以て譴を塞ぐと云う。
 …………口語訳……………
 飼い犬が夜も家の番をすることは、本来の性格に依る。飼い主を敬い、飼い主を外人と識別することも、また本来の性質である。諺に云うごとく、大賊/盗跖の飼い犬は、聖人・堯を憎んで吠えかかる。此れは、犬の罪ではない。乱れた国・家に於ける臣下や子供として、よく職・分を守り私心のない者は、堯に吠えかかる盗跖の飼い犬のようなものだ。例えば、殷の三賢すなわち箕子・比干・微子は、西伯すなわち周文王に忠義立てしなかった。それでも周は、罪しなかった。これによって孔子は云った、君主が君主らしくなくとも臣下は臣下らしく振る舞わねばならない、父が父らしくなくとも子は子らしくせねばならない。なるほど、これは比干や箕子すなわち殷の三賢に就いて云ったことであろう。盗跖の飼い犬と殷の三賢とを比べて見れば、本性が優れていることは、犬も人間に異なる所はない。ああ、それ、君主に禄を与えられていながら、父母を愁えさせ、夫婦は虐げ合い、兄弟は讐となり、以前から関係のあった者を遠ざけ新参者に迎合し、罵り騒ぎながら我利のみを追求する者とは、大いに隔たっている。まことに尤もなことだ。国家に賢明な補弼の臣がいれば、姦佞の客人は寄り付かない。家に良犬がいれば、盗人が入り込むことはない。このようであれば、国家であれ家であれ、周囲近隣へも自然と外敵が侵入することはなくなるだろう。軒を並べる家々は、ともに枕を高くして眠れるというものだ。これこそ、私が八犬伝を記して世を覚醒させようとする所以である。筆を執った意義は、此処にある。既に八犬伝は若干の巻を重ね世に広まっている。最近、また続巻を執筆し第四輯に至った。本文を梓に刻む間に、書肆の山青堂が序文を再々せっついてきた。編ごとに自序を書いてきたので、断る理由が見つからない。よって、数行を付け加え、責任を果たしたわけだ。
     ◆ 
 
 問題は、「孔子曰、君難不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子」である。「君、君たらずとも」は、例えば広辞苑に拠れば、「主君は主君としての徳がなくても、臣下は臣下としての道を守って忠義をつくさなければならない」{第六版/二〇〇八年一月十一日第一刷発行}となっている。他の辞書も大同小異のようだ。まぁ、伝統的な解釈ではある。字面上の問題はない。しかし、言葉尻というものは、文脈から離れて独り歩きすれば、甚だ危うい。
 「君難不君、臣不可以不臣」は、我等が大日本帝国でも度々人口に膾炙し、君主の絶対性すなわち臣下に片務義務を強制する言葉として機能してきた。今だに使っているオジサンを見たときには幻覚かと疑い、現実だと確認して酷い眩暈を感じたものだが、実際にいるんだから仕方がない。現代よりも孝経が読まれていた八犬伝刊行当時であっても、此のフレーズを君臣の片務関係を示すものとして理解する者がいた。馬琴の知音、畳翠君、大身旗本・石川左金吾である。「親兵衛か快く霊玉を預け置忠言を遣して退出さまいとあハれ也君々たらずとも臣ハ臣たりとの教に叶ひていと本意なき形勢也」{八犬伝畳翠君評}。教養ある読書人であるべき畳翠君にして、如斯き浅薄な理解しか出来ていないのだから、外人は推して知るべし、こうした理解が一般的であったのかもしれない。

 問題のフレーズは、古文孝経の序文{→▼原文}末尾辺りに在る。「古文」は「今文{きんぶん}」に対する言い回しであって、単に原書が比較的古いタイプの文字で書かれてあるだけだ。古文と今文の内容に、大きな異同はない。ただ今文が本文十八章、古文が二十二章だとの差がある。とはいえ、古文独自の章は数十字ほどの一つだけ。あとは章が分割されて増えているだけだ。古文は、前漢時代、魯恭王が孔子{/孔丘/論語や孝経に登場する「孔子」}の使っていた講堂を破壊した折、壁から出てきた石箱に竹簡が納められていたが、其の内に孝経も含まれていた、という。此の孝経に付けられた序文に「孔安国」の署名がある。即ち、馬琴の言う「孔子」は、孔安国のことであって、彼の有名な孔丘ではない。孔安国は一応、孔丘の子孫に当たる。
 しかしまぁ、取り壊された古い建物の壁から竹簡が出てきたなんて、偽書臭が強烈に漂ってくる話だ。焚書坑儒を避け誰かが慌てて隠したとでも云いたかったのだろうか。孝経の原型だと云うならば、そもそも焚書坑儒以前に世に出なければならない。何故に隠されていなければならなかったのか。古文が発掘された時、世に通用していた孝経は今文であった。古文が今文より後に出現したのである。
 周知の如く、論語{顔淵}に「斉景公問政於孔子。孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子」とある。孔丘は「君君、臣臣、父父、子子」としか云っていない。君臣・父子が互いの責務を果たす状態こそを、是としている。更に重要な点は、孝経本文が、決して臣下や子に片務的な忠孝を強制していない点だ。

 そもそも孝経は、まず対人関係の基盤に人間愛とでも云うべき天然自然の感情を据える。相手が主君であれば忠、親であれば孝、兄姉ならば悌、友には信/友情を以て対する。「孝経」と銘打ってはいるが、なにも孝のみを語っているわけではない。人間一般に対する敬意と愛情こそが、社会を安定させると説く。
 多くの人間にとって、初めて親しく接し愛情を注いでくれる者は、親だ。親との関係が最も一般的で解り易かろう。だからこそ、「孝」を主な題材として採用しているけれども、決して「孝」のみを説明するものではない。古代中国の人間関係は、主君/臣下・親/子・年長者/若年者・友人/友人に集約されたということだろう。
 当然、感情は一方通行であるべきではない。君主・父母・兄姉・友としての感情は、臣下・子・弟妹・友としての感情と離れることは決してない。「あぁして愛して貰ったから、こぉして愛してやろう」が基本である。
 例えば筆者が若い頃、先輩に教えて貰ったりオゴってもらったりした。筆者が【弟】である次元だ。単純浅薄な反応とすれば、オゴってくれた相手に反対給付したくなる。いや、ひょっとしたら其れを期待されていたのかもしれない。しかし、其れでは関係性が先輩と筆者の二者で完結してしまう。ヒトが将来も地球上で繁栄すべきだと考えるならば、関係性を閉じるべきではない。先輩にオゴられたら、先輩にオゴり返すのではなく、自分の後輩にオゴれば良い。人類が、まさに此の瞬間に断絶することを予定するならば、二者間のみの関係性だけで終始すれば良い。しかし、現時点での断絶を臨まないならば、後続に引き継がねばならぬ。バトン・リレーだ。与えられた恩恵は、自分も次の世代へ与えねばならぬ。よって、先輩にオゴられたら、其の【恩返し】は後輩をオゴることを以て、果たさねばならぬ。人間関係は片務的であるべきではなく、双方向ベクトル、双務的でなければならぬ。裏返せば、後輩に恩恵を与えないまま、先輩としての利得だけ得ようとする人間の屑は、あるべき人間関係ラインから外れているので、先輩として遇する必要は全く無い。儒学が教える【革命】の論理である。
 則ち当然、恩恵を与えてくれた先輩には一応の反対給付も必要であって、礼を以て遇するなり何なりの態度が必要となるけれども、加えて、後輩に恩恵を与えねばならぬ。ならば、己から出る恩恵が受け取った恩恵の倍となり不均衡ではないか、との疑問もあろうが、云うまでもなく、其れは、人間発生一世代目以外は、【お互い様】なので差別はない。実のところ、{発生初代以降は}各世代とも、与えられた恩恵を先輩に返し後輩へも引き継ぐのだから、各世代の発する「恩恵のエネルギー」は【主観的に等しい】。但し、「主観的に等しい」だけだから、第三者から見れば、等しくないよう感じられるかもしれない。其の不均衡が抑も、「あの人は特別に善い人だ/あの人は特別なほど忘八者だ」との評価差に繋がる。勿論、個々人の評価も【主観的】なものであらざるを得ないから、各人マチマチであろう。其の中で、共有せるものが【社会的評価】として定着したりする{場合によっては情報操作によって偏向させようとする人間の屑も介在しがちだ}。
 結局、原初儒学は、恩恵/愛の流れを我利我利と堰き止めることなく、時間軸に沿って後生へと伝えるべきことを標榜していた、ってだけの話だ。実の所、恐らく、原初儒学の核心/確信は、後生への愛を確保するためにこそ、上長への従順をも説く所にあって、決して逆ではない{過ぎたるは猶、及ばざるが如し、此の道行きも偏向すれば後生への過度な期待となって人間関係を歪めるかもしれないから、何事も中庸が肝心である}。余りに当たり前の議論で多くの読者は退屈であっただろうけれども、ときに当たり前なことを語りたくもなるのが人情。御宥恕を。閑話休題。

 マクベスは「女の股から生まれた者には倒されない」との予言により、ならば安泰だとタカを括っていたところ、帝王切開で生まれた者に倒された。頓知オチだが、其れは措き、人たるもの一般、親から生まれる。人として、何者かの子でない者はいない。よって、人として、孝を向ける相手がいない者は、無い。故に孝は、万人が保持すべき徳である。
 更に言えば、儒学は士/読書人以上の階級が習得すべきものであったが、士・大夫・諸侯・天子は、何者かの臣下たり得る。例えば或る種の天命を受けた者が天子となるが、天命の「命」は命令であり、命令を受けるとは臣下の状態にあることを示している。天子とて天の臣下{もしくは子}であることは当然である。絶対基準は天であって、天子ではない。天子以下の読書人は、何者かの臣下である{士には主君に仕えない者もあり得る}。
 人間が複数寄り集まってしまえば【社会】であり、表皮により絶対的に隔絶された人間同士が共存する為には、互いに共通せる抽象論理が必要となる。共有できたものを言葉にすれば、例えば儒学の「天」となる。
 忠・孝・悌・信は通常、天子以下の人間関係すべてを網羅できる{主君も兄も姉も友もいない者さえ、生死に拘わらず親だけはいる}。結局、孝経が人間関係全般の要諦を説いていることが解るだろう。孝経は、相手を愛し敬する重要性を諄々と説き続ける。終盤間際、今文で言えば第十五章で、弟子が孔子に尋ねる。「結局、孝とは親に絶対服従することなのですか」。対して孔子は、「自分、なに言ぅてけっかるねん」と言う。しかも、二度言う。怒り狂っているようだ。そして、弟子が孝に就いて質問したにも拘わらず、忠と信/友情に関して答えた。忠も孝も信/友情も{悌も}同根であるから、孝に就いての質問へ忠で答えても構わないのだ。

     ◆
曾子曰、若夫慈愛恭敬、安親揚名、則聞命矣。敢問、子従父之令、可謂孝乎。子曰、是何言与。是何言与。昔者、天子有争臣七人、雖無道、不失其天下。諸侯有争臣五人、雖無道、不失其国。大夫有争臣三人、雖無道、不失其家。士有争友、則身不離於令名。父有争子、則身不陥於不義。故当不義、則子不可以不争於父。臣不可以不争於君。故当不義、則争之。従父之令。又焉得爲孝乎{孝経・諫争章第十五}。
子曰、君子之事上也、進思尽忠、退思補過。将順其美、匡救其悪。故上下能相親也。詩云、心乎愛矣、遐不謂矣。中心蔵之、何日忘之{事君章・第十七}
子曰、君子之事親孝、故忠可移於君、事兄悌、故順可移於長、居家理、故治可移於官、是以行成於内、而名立於後世矣{同・広揚名章第十四}。
資於事父以事母而愛同。資於事父以事君而敬同。故母取其愛。而君取其敬。兼之者父也。故以孝事君則忠。 以敬事長則順。忠順不失。以事其上。 然後能保其禄位。而守其祭祀。蓋士之孝也。詩云。夙興夜寐。無忝爾所生{同・士章第五}。
………………………
子貢問於孔子曰、子従父命孝乎、臣従君命貞乎。孔子曰、鄙哉、賜、汝不識也、昔者明王万乗之国有争臣七人、則主無過挙、千乗之国有争臣五人、則社稷不危也、百乗之家有争臣三人、則禄位不替、父有争子、不陥無礼、士有争友、不行不義、故子従父命、爰■言に巨/為孝、臣従君命、爰■言に巨/為貞、夫能審其所従之謂孝、之謂貞矣{孔子家語・巻第二・三恕第九}。
     ◆

 天子に{事に当たって諫争してくれる}争臣七人あれば、無道と雖も其の天下を失わず。諸侯に争臣五人あれば、無道と雖も其の国を失わず。大夫に争臣三人あれば、無道と雖も其の家を失わず。士に争友{一人}あれば則ち身は令名に離れず……である{孔子家語にも類話があるが、質問者が子貢になっている}。天子に七人、諸侯に五人、大夫に三人、士に一人との配分は、恐らく「天子七廟、三昭三穆与太祖之廟而七。諸侯五廟、二昭二穆与太祖之廟而五。大夫三廟、一昭一穆与太祖之廟而三。士一廟」{礼記・王制}と無関係ではあるまい。多分、孝経より礼記が先行するから、身分差による七・五・三・一の配分は、孝経が礼記を参考にした【数合わせ】であろう。数合わせだから別に、里見家に諫争してくれるほどの忠臣/争臣が八人いようと、四家老含めて十二人いようと、別に構わない。なお、付言すれば、祖廟数と争臣数が対応していることは、君主に対し諫争してくれるほどの忠臣/争臣を、祖廟の如く尊重し大切に扱うよう求めているようにも読める。争臣は、君主の師とも父とも兄とも擬すべき存在である。忠孝の論理を是認する君主ならば、すべからく従わなければならない。

 今文孝経は、第十五章以前でも、諫争に言及しているのだが、終盤近くになって、わざわざ一章を立ててまで「諫争」を称揚している。諫争こそ、忠・孝・悌・信/友情の最高形態なんである。

 さて、現代日本で「忠」と云えば武士道、武士道と云えば葉隠聞書{山本常朝語る}であるが、此の有名な哲学書……と云うよりは経世書が諫言を如何に表現しているかを確認しておこう{以下、【巻数・岩波文庫項目番号】}。読むのが面倒なむきは、いつもの如く次の「◆」まで飛ばせば良い。

     ◆
【一・一四】人に意見をして疵を直すと云ふは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。人の上の善悪を見出すは安き事なり。それを意見するも安き事なり。大かたは人のすかぬ云ひにくき事を云ふが親切の様に思ひ、それを請けねば力に及ばざる事と云ふなり。何の益にも立たず。人に恥をかゝせ悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。意見と云ふは、先づその人の請くるか請けぬかの気をよく見わけ、入魂になり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なし候てより、好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し時節を考へ、或は文通、或は暇乞などの折か、我が身の上の悪事を申し出し、云はずしても思ひ当る様にか、先づよき処を褒め立て気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水呑む様に請け合せ、疵直るが意見なり。殊の外仕にくきものなり。年来の曲なれば、大体にて直らず。我が身にも覚えあり。諸朋輩兼々入魂をし曲を直し一味同心に主君の御用に立つ所なれば、御奉公大慈悲なり。然るに恥をあたへては何しに直り申すべきや。
【一・六一】前略……私に曰ふ、君臣の間と恋の心と一致なる事、宗祇註に見当り申し候。
【一・一一一】主人に諫言をするに色々あるべし。志の諫言は脇に知られぬ様にするなり。御気にさかはぬ様にして御曲を直し申すものなり。細川頼之が忠義などなり。むかし御道中にて脇寄り遊ばさるべしと仰せ出され候節、御年寄何某承り、某一命を捨てて申し上ぐべく候、段々御延引の上に脇寄りなど遊ばされ候事、以の外然るべからず候と、諸人に向ひ御暇乞仕り候と詞を渡し、行水、白帷子下着にて御前へ罷り出でられ候が、押付退出、又諸人に向ひ、拙者申し上げ候儀聞し召し分けられ本望至極、皆様に二度御目に懸り候儀不思議の仕合せ、などと広言申され候。これ皆、主人の非を顕はし我が忠を揚げ威勢を立つる事なり。多分、他国者にこれあるなり。

【一・一二四】諫言の道に、我その位にあらずば、その位の人に言はせて、御誤直る様にするが大忠なり。この階の為に諸人と懇意する所なり。我が為にすれば追従なり。一方は我等荷ひ申す心入れからなり。成程なるものなり。
【一・一四六】奉公人は、喰はねども空楊枝、内は犬の皮、外は虎の皮、と云ふ事、これ又神右衛門常常申し候。士は外めをたはみ内々費なき様にすべきなり。多分、逆にするなり。
【一・一四八】聖君賢君と申すは、諫言を聞し召さるゝばかりなり。その時御家中力を出し何事がな申し上げ何事かな御用に立つべしと思ふ故、御家治まるなり。士は諸朋輩に頼母敷く寄り合ひ中にも智慧ある人に我が身の上の意見を頼み我が非を知りて一生道を探促する者は御国の宝となるなり。
【一・一五三】諫言の仕様が第一なり。何もかも御揃ひなされ候様にと存じ候て申し上げ候へば、御用ひなされず、却つて害になるなり。御慰みの事などは如何様に遊ばされ候ても苦しからず候。下々安穏に御座候様に御家中の者御奉公に進み申し候様にと思召され候へば、下より御用に立ちたしと存じ候に付て、御国家治まる儀に候。これは御苦労になり申す事にてもこれなく候と申し上げ候はば、御得心遊ばるべく候。諫言意見は和の道、熟談にてなければ用に立たず。屹と仕つたる申し分などにては当り合ひになりて安き事も直らぬものなり。
【一・一七六】忠臣は孝子の門に尋ねよとあり。随分心を尽して孝行すべき事なり。亡き跡にて残り多きことあるべし。奉公に精を出す人は自然にはあれども、孝行に精を出す人は稀なり。忠孝と云ふは、無理なる主人、無理なる親にてなくば、知れまじきなり。よき者には他人迄も懇ろにするなり。松柏は霜後に顕はるとあり。元政法師は、夜明けに魚の棚に行きて苞を衣の内に隠し、母に進んぜられたりといふ。案じて見ても常体のことにてなし。
【二・二】角蔵流とは如何様の心に候や、と申し候へば、鍋島喜雲草履取角蔵と申す者、力量の者に候故、喜雲剣術者にて取手一流仕立て角蔵流と名づけ方々指南いたし今に手がた残り居り申し候。組討やはらなどと申し打ち上りたる流にてはこれなく候。我等が流儀もその如く上びたる事は知らず、げす流にて草履取角蔵が取手の様に端的の当用に立ち申す故、この前から我等が角蔵流と申し候。又この前、寄り合ひ申す衆に咄し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に、
恋死なん後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
【二・一四】諫言意見など悪事の出来てよりしては、その験あり兼ね、却つて悪名をひろげ申す様なるものなり。病気出来てより薬を用ふるが如し。兼養生をよくすれば、終に病気も出でず。病気出でてより養生するよりは、兼養生は手間も入らず仕よきものなり。未だ悪事思ひ立たざる前に、兼々心持になる事を何となく諫言意見仕り候はば、兼養生の如くなるべき候由。
【二・一四〇】我等は親七十歳の子にて塩売になりとも呉れ申すべしと申し候処、多久図書殿、神右衛門は陰の奉公を仕ると勝茂公常々御意なされ候へば多分子孫に萌え出で御用に立ち申すべし、と御留め、松亀と名を御付け、枝吉利左衛門より袴着させ申され九歳より光茂公小僧にて召し使はれ、不携と申し候。綱茂様よりも御雇ひなされ御火燵の上に居り候て、わるさども致し御かるひなされて候てども御遊びなされ、その時分何ともならぬわるさ者にとられ申し候。十三歳の時髪立て候様にと光茂様仰せ付けられ一年引き入り居り申し、翌年五月朔日罷り出で、市十と名を改め申し候て、御小姓役相勤め申し候。然る処、倉永利兵衛引き入れて元服いたし御書物役手伝仰せ付けられ余りの取りなしにて権之丞は歌も読み申し候に付、若殿様より折々召し出され候と申し上げられ候に付、差し支へ、暫く御用これなく候。利兵衛心入れはその身の代人に仕立て申すべき存じ入りと、後に存じ付き候。右の後江戸御供を仕らず、ぶらりと致し罷り在り候に付て、以ての外不気味になり、その頃、松瀬に湛然和尚御座候。親より頼み申すと申し置き候に付て懇意に候故、節々参り出家仕るべきかとも存じ入り候。その様子五郎左衛門見取り、前神右衛門加増地を差し分け申すべしと数馬へ内談仕りたる由承り候。弓矢八幡、取るまじと存じ候処、請役所に召し出され、新たに御切米仰せ付けられ候。(外に両人あり)この上は小身者とて人より押し下さるゝは無念に候。何としたらば心よく奉公仕るべきかと昼夜工夫し申し候。その頃、毎夜、五郎左衛門咄を承りに参り候に、古老の話に、名利を思ふは奉公人にあらず名利を思はざるも奉公人にあらず、と申し伝へ候。このあたり工夫申し候様にと申し候故、いよ/\工夫一篇になり不図得心申し候。奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治むる事なり。下の方にぐどつき廻りては益に立たず。然れば家老になるが奉公の至極なり。私の名利を思はず奉公名利を思う事ぞと、篤と胸に落ち、さらば一度家老になりて見すべしと、覚悟を極め申し候。尤も早出頭は古来のうぢなく候間、五十歳ばかりより仕立て申すべくと呑み込み、二六時中工夫修行にて骨を折り紅涙までにはなく候へども黄色などの涙は出で申し候程に候。この間の工夫修行即ち角蔵流にて候。然る処に御主人におくれ兼々出頭仕候者は、すくたれ御外聞を失ひ申し候に付て、かくの如く罷り成り候。本意は遂げず候へども、しかと本意を遂げ申し候事段々咄し申し候通りにて候。思ひ立つと本望を遂ぐるものに候。又御用に立ち候者の罰こき候は、自慢の天罰故に候。この事愚見に書き付け候通りなり。誠に身の上咄、高慢の様に候へども、奥底なく不思議の因縁にて山家の閑談、他事無き有体咄し申し候となり。翌朝、
手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期酔
朝顔の枯蔓もゆる庵かな   古丸
     ◆

 要するに、「奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治むる事なり」{二・一四〇}に尽きる。但し、「下の方にぐどつき廻りては益に立たず。然れば家老になるが奉公の至極なり」{二・一四〇}。下っ端が直接に藩主を諫めることは出来ないから、家老となって諫争することが、最大の忠である。けれども、当時は相当する家柄でないと簡単には家老まで昇進できないので、現実には「我その位にあらずば、その位の人に言はせて、御誤直る様にするが大忠なり」{一・一二四}。そして抑も、忠とは何かといえば、「私に曰ふ、君臣の間と恋の心と一致なる事」{一・六一}、即ち心の真ん中から自然と滾り出す恋慕の情と一般なのだ。其処には一片たりとも功利心・功名心があってはならない。「恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に、恋死なん後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは」{二・二}、恋も忠も見返りを求めてはならないのだ。しかし人間、他人の悪事は見え易いが、批判されると腹が立つ。諫言も友への忠告も、自分の至らぬ処を語るように見せかけたり、とにかく、それとなく語り聞かせるようにしなければならないし、相手の悪事が病膏肓に入ってからでは遅いので、予兆が顕れたときに対処せねばならない{一・一四、一一一、一五三、二・一四}。
 また、「聖君賢君と申すは、諫言を聞し召さるゝばかりなり」{一・一四八}。明君とは、ただ諫言を聴き容れ素直に至らぬ所を正す君主を謂う。よって、「忠孝と云ふは、無理なる主人、無理なる親にてなくば、知れまじきなり」{一・一七六}。完璧な君父ならば、諫争する必要もなく、臣子が忠孝を心に抱いていても発揮する場がない。しかし、Nobody‘sPerfect、君主は必ず誤る。無理無道な君父のもとでこそ、忠孝は輝く。「君難不君、臣不可以不臣」{古文孝経・孔安国序}である。

 葉隠聞書に目を通すと、偶然か学習の成果か、常朝さんが単なる男色贔屓ではなく、孝なんかに就いても正当な理解をしていた相応の知識人であったことが判る。なるほど、相手を大切に思え敬え、と言われたら、単純に直線的な延長発展をして【絶対服従】こそが最高形態と誤解しがちかもしれないが、決して其んなことはない。昨今、話題となっているパラサイト虐待なるものも結局、甘やかされまくり親に過度な依存をしてしまった子どもが体と自我のみ成長し、其れでも甘やかされ続けた挙げ句に発生しているようだ。甘えたバカガキが、暴君化するのである。そして逆に、実のところ、絶対的な片務関係を強制する暴君は、本質として、甘えたバカガキに過ぎない。

 ところで「諫争」が発生する条件が何かと言えば、君主や友人の【無道/間違い】である。君主……天子さえ誤り得ることが、諫争の前提条件なのだ。此の空間に、絶対善としての人君は存在し得ない。善を統治の正当性とすれば、絶対君主は存在し得ない。何故ならば、【天】こそが絶対者であり、天子さえ天の臣下もしくは子に過ぎない。天子も天に対しては、忠もしくは孝を、尽くさなければならない。天子さえ傍若無人に振舞うことが許されない。【天】は、儒学が夢見る、社会で共有さるべき理想である。
 結局する所、諫争とは、君主が天の規定した【道】から外れた場合、臣下が矯正を強制する行為である。言い換えれば、天から下された命令/天命から君主が外れそうになった場合、天に代わって君主の軌道修正を強いる責任が、臣下にはある。其れこそが忠である。

 如斯く孝経を素直に読めば、孔安国序の「君雖不君、臣不可以不臣。父雖不父、子不可以不子。若君父不敬其為君父之道、則臣子便可以忿之耶」が主張する所は明白となる。孝経はじめ論語でさえ、君臣の双務関係を規定している。よって孔安国序がバカみたいな片務関係を規定していると見ることは、絶対に不可能だ。孔安国序は、外ならぬ孝経の序なのだから、孝経の主張に沿っていなければならない。君父が天道を敬せねば、それは「無道」だということだ。孝経諫争篇の記述を念頭に書いたものでなければならぬ。即ち、孔安国序の意味は、「君父が己の歩むべき道に敬意を払わず無道となった場合、臣下が何もせぬまま忽ちに安易なるまま怒り狂い己の責務たる諫争を行わないなどということは決して許されない」である{「便」が利いている}。忠経も云っている。「違而不諫、則非忠臣」{忠諫章第十五}である。なるほど孔安国の云う如く、「各自敬其為君父之道、臣子乃悦也」とのテーゼは、君父が誤った場合の対応まで視野が及んでいない。ただ「君臣ともに責務を守れ」と云ったところで、現実に君主は高い確率で道を誤る。孔安国の規定の方が、より現実的な分だけ優れている。

 現在でも儒学の「忠」と云えば、やれ封建道徳だ、やれ非人間的絶対服従だ、人格支配だ、とトンチンカンな解釈を繁く聞くが、諫争こそ本来の【忠】であり、唯々諾々イエスマンが蔓延っている現状こそ、封建道徳的であり非人間的絶対服従であり人格支配であろう。いやさ如斯く日本社会が堕落した一因は、権力が誤ったとき民衆の側に矯正する責務があるとの理論、抵抗/革命の理論ともなり得る儒学に、真逆のレッテルを貼って葬り去った点にある。しかし我々日本人は、本来の「忠」の痕跡を言葉に、いまだ残している。現代語に於いて、「諫言」は余り使われない。しかし、同様の意味で広く使われている語句は「忠告」である。真に相手を思い遣り、「間違い」を正そうとする所作だ。【忠】の最たるものである。忠とは、愛なのだ。記憶の残滓が消え失せぬうちに、再生産することは可能であろうか……。

 八犬伝第四輯序、馬琴は「君難不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子」に続けて、「蓋此干箕子等之謂歟」と云う。馬琴は「三賢」と表記するが、一般には「殷三仁」の方が馴染みがあるか。常識に属するが、煩雑を厭わず「殷三仁」を思い返そう{現在は商との国号を使う場合もあるが此処では馬琴や孔子に従い殷とする}。「紂愈淫乱不止。微子数諫諫不聴、乃与大師、少師謀、遂去。比干曰、為人臣者、不得不以死争。迺強諫紂。紂怒曰、吾聞聖人心有七竅。剖比干、觀其心。箕子懼、乃詳狂為奴、紂又囚之」{史記・殷本紀}。
 箕子は、暴君化した紂王を何度も諫めたが容れられず、発狂したふりをして獄へ下った。殷の滅亡後に解放され、優秀さを認められ、臣下の扱いを受けず朝鮮の地に封ぜられた、ともいう。比干は、箕子と同じく紂王の叔父であったが、やはり暴君化した紂王を度々諫め、逆ギレした紂王に殺された。「聖人の心臓には七つの穴が空いているらしい。見たいものだ」と心臓を抉り出されたのだ。無道の極みである。微子は、紂王の兄であったが、穏やかな人物であった。恐らくマゾヒストだったのだろう。紂王を度々諫めたが容れられず、封地に引き籠もった。殷滅亡時には、上半身裸体となり、自ら緊縛し捧げ物を携え武王の前に跪いた。葦も持っていたと云うから、鞭打って欲しがっていたのだろう。簡単に言えば、降伏したのである。武王は微子を宋公に封じた。きっと縄目の似合うマゾ系美青年だったに違いない。やや童顔ポッチャリ系の餅肌だったであろうか……其れは措き、三賢/三仁は共に主君を諫めている。唯々諾々と暴政を許容したりはしていない。悪しきは批判し、正そうとしている。運悪く比干は虐殺されてしまったが、箕子は発狂したふりをして紂王の怒りをかわし、微子は紂王に絶望し且つ見放し隠遁した。万里小路藤房/金碗大輔の道行きに重なる。殷の滅亡後、箕子と微子は周に封地を与えられ栄えた。箕子は武王の師もしくは友として遇されたから忠節を尽くさなくても良い立場であったが、微子は思いっ切り降参し恭順の意を示している。共に殷の仇を討とうとした形跡はない。馬鹿な主君を厳しく諫めた点で、三仁は一致している。比干が殷滅亡後も生きていれば周に対し如何な態度をとったか甚だ興味があるけれども、当然ながら不明である。武王は個人の感情をもとに箕子を臣下として扱わなかったが、敗者に連なる者であり、影響下にあったと云わねばならぬだろう。微子に至っては、完全に無条件降伏者であって周に対して臣下の立場に立ったといえる。それでも馬琴は、三賢/三仁を最高度の忠節/「君難不君、臣不可以不臣」の典型例として挙げた。孝経の論理と一般であり、主君の絶対性を信じていない所が、如何にも正統派儒学っぽい。孔安国の「君難不君、臣不可以不臣」も、君主の絶対性なぞ端から考えてもいない。孝経を熟読していたであろう孔安国にとって、君主が道を誤り得ることは前提であって、云わずもがなの定義であった。七人の争臣がいなければ、中国皇帝は天下を失い放伐されても仕方がないのだ。
 殷の紂王には、少なくとも三仁/三賢と西伯/文公の四人がいたわけだが、七人より少なかったので、暴君の侭であったか。殷は滅ぶ。ところで中東亜細亜辺りであったか、ソドムなる街があり、住民こぞって男色に耽っていた。でもソドムにだって女性はいた筈であり、ソドムの女性が「男色」に耽っても別に何の問題もないと思うのだが、或いはソドムの女性は、こぞって女色に耽っていたのかとも思うけれども、其れは措き、とにかく、ソドムの街があったという。ソドムの街は、十人の義人がいなかったためヤハウェに滅ぼされた。「義人」とは単にヤハウェ好みの性格をもつ人々だが、其れが定員に満たなかったために、ソドムは滅ぼされた。「諸侯有争臣五人、雖無道、不失其国」と似たような話である。八犬伝の場合は、勝敗がキッチリついた南関東大戦でさえ滅亡した大名家はなかったわけだが、争臣/河鯉佐太郎を刑戮しようとして逃げられた扇谷上杉家は、徐々に勢いを失っていく。本来ならば諸侯に当たるので、河鯉クラスの争臣が五人いれば、里見家と敵対することはなかったかもしれない。扇谷上杉家で争臣と目せる者は、巨田道灌・助友父子と河鯉守如・佐太郎父子の四人である。残念ながら一人足らなかった{蟹目前を合わせると五人だが臣ではないし、抑も馬琴に扇谷上杉家を救済する意思は皆無であっただろう}。関東足利家には、里見家との敵対に反対した下河辺荘司行包がいるし、捕虜/成氏を受け取りに来た下河辺二郎行正・間中大内蔵直充も争臣の可能性はあるが、それでも三人である。

 結局、八犬伝第四輯序の「孔子曰、君難不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子」は、紂王に対し諫争した「比干箕子{と微子か}」のことだと断じているから、明らかに君臣の片務関係ではなく、孝経が標榜する正当な忠、諫争を最高形態とする忠を云っているものであり、孔子/孔安国の意を正当に理解して引いていることが明らかとなる。
 八犬伝第四輯序は、続けて、「国家に賢明な補弼の臣がいれば、姦佞の客人は寄り付かない。家に良犬がいれば、盗人が入り込むことはない」と語る。孝経本文および孔安国序を踏まえているので、君主が暗愚な場合、無道な場合の話である。何せ、「跖狗吠堯。此非其狗之罪」と条件設定している。悪逆非道の大盗賊/盗跖ばりの無道君主を前に、臣下が如何に行動すべきかがテーマなのだ。また、賢明な補弼の臣がいれば奸佞の客人は寄り付かない、としている所から、当該国では君主の独断専行は許されておらず、補弼の臣が正当に機能し無道の君主を掣肘して実務を取り仕切っていることが暗黙裡に語られている。賢明な補弼の臣が介入する余地がないほどの暴君ではないわけだ{暗君に対抗するには当然、良臣同士の連帯が必要ではあるが}。実権を剥奪してさえいれば、盗跖ばりの無道君主であっても、臣下が正当な職務を果たすことで、国は如何にか運営できる。八犬伝第四輯序の求める所は、君主をホンチョホンチョと甘やかし唯々諾々と暗愚さを助長することで暴君に育て上げることではないのだ。バカな君主は賢明な補弼の臣/大臣/家老が、おだてて押さえ込むかブチ喰らわせるか犯すかして黙らせ、以下の臣下は臣下、番犬なら番犬の職務を果たせば良い。それで国/家は治まる。もし賢明な補弼の臣でさえ暴君を制御できなければ、「比干箕子等」のように諫争すれば良い。諫争が容れられず状況が好転しないなら、箕子等の如く、天道を敬せざるバカは見捨てて出奔すれば良い。天道を敬することが万人の義務であり、其の義務を果たさない君主には君主の資格が抑も無い。そんなバカに好き放題させる王朝は、交代せざるを得ない。交代した後の王朝に仕えれば良い。「君臣」とは云うものの、実の所、君臣ともに【天】に従属しており、天の臣下だ。共に天の理に忠実であるうちだけ、同じ世界に存在する。其処でのみ「君臣」関係は成立する。君主が天道から外れたら、LookingThroughYou、臣は君主を通り抜け、より上位の君主たる天を優先し、眼前の{下位}君主を見捨てねばならない。天に勘当された君主は、「臣」にとって赤の他人だ。
 「斉宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸。孟子對曰、於伝有之。曰、臣弑其君可乎。曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之残、残賊之人謂之一夫、聞誅一夫紂矣、未聞弑君也」{孟子・梁惠王章句下}。孟子の態度は明確である。要するに、道から外れた君主は、君主と認められないのだ。「誅」は責任を追及して責める、ほどの意味だが、此処では罰し滅ぼすぐらいの意味である。桀や紂は、罪人なのだ。君主ではない。「赤の他人」だ。君主でないから、攻め滅ぼしても弑逆には当たらない。罪人を懲らすは、当然である。罪人の人権は現在に於いても制限される。紂ほどの極悪人ならばブチ殺そうが犯そうが構うこたぁない、と武王や孟子は考えたのだ。現在日本も死刑制度を採用している。
 例えば、君臣関係を理念上で突き詰め尖鋭化させた幕末志士たちも上記と類似した思考に至ったのではないかとは思うが、だとすれば天皇を人君と見ず天と同一視してしまうとの勘違いに陥った可能性もある。まさに、今文孝経の第十五章冒頭、「曾子曰、若夫慈愛恭敬、安親揚名、則聞命矣。敢問、子従父之令、可謂孝乎」までで思考が停止してしまったのか。「是何言与。是何言与」と叱り飛ばしてくれる師がいなかったのだろう。
 君主は共同体の一機関であらねばならない。人君は殆ど必然として暗愚に陥り無道となる。共同体共有の理念が「天」であり、争臣は【天の理】を維持すべく機能する。国家に於いて争臣が機能しなければ、甚だ危うい。争臣を排除することこそが、共同体の存続を脅かす最悪の行為なのだ。
{お粗末様}

 

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