■一休の性と信仰■
 

 一休宗純という禅僧が嘗て居た。男女嫌わぬ両刀遣いで、漢詩の形で愛の賛歌を数多残している。特に「森」と表記される女性は、一休の愛人として有名だ。一時期、同棲までしたという。森の素性は不明である。
 八犬伝に於いて、一休は犬江親兵衛の第一次上洛後日談に登場し、市中を騒がせた画虎を消滅させ、道楽大御所/足利義政を誡めた。かなりの重要人物なんである。此処では暫く、一休の漢詩集「狂雲集」「続狂雲集」から八犬伝を読む上で重要と思われる数篇を取り上げ、一休の思想的パフォーマンスを楽しむ。元より筆者は信心深い方ではなく、股関節が硬いため座禅をしたこともない。禅マニアではないのだ。単なる日曜読書人である。八犬伝に於いて画虎を始末する者が何故に一休であるかを、少し考えてみたいだけだ。
 かなりの長文となりそうなので、まずは衆目を惹くため、繁く取り上げられてきた刺激的な側面、破戒女色を思わせる漢詩群を挙げよう。初めに掲げるモノはタイトルからして扇情的だ。
 


     ◆
吸美人淫水。
蜜啓自慚私語盟
風流吟罷約三生
生身堕在畜生道
超越■サンズイに為/山戴角情

蜜啓し自ら慚ず、私語の盟。風流にして吟じ三生を約すを罷める。生身、畜生道に堕在せん。■サンズイに為/山戴角の情を超越す。
     ◆
 


 長恨歌に「七月七日長生殿、夜半無人私語時、在天願作比翼鳥、在地願為連理枝、天長地久有時尽、此恨綿綿無尽期」とある。【私語の世界】とは【二人だけの秘密の花園】であって、「蜜啓」は「密啓」であろう。蜜と密は屡々混用される。だいたい「蜜」ってなぁ取って置きの味であって、いつもは隠しているものだ。よって、蜜と密は混用される。碧巌録巻第三の第二十四に、■サンズイに為/山と劉鉄磨との問答が載る。
 十里ばかり離れた庵に住む劉鉄磨尼が■サンズイに為/山{以後イザン}を訪ねた。イザンは「やぁ、老牝牛が来たぞ」。老牛といっても、鈍重ではない。逆に、「如撃石火、似閃電光、擬議則喪身失命」と苛烈な舌鋒を以て禅問答を重ねてきた闘士である。老は美称であり、成熟して大きいことを意味する。船虫を殺戮した鬼四郎の如き巨体で論敵を粉砕してしまうのだ。だいたい、「鉄磨」とは鉄の臼である。臼なれば、ペッタンペッタン餅肌に杵を衝く如き性行為も連想するが、鉄であるから固く冷たく閉じているのかもしれぬ。また、鉄の臼であるから、日常周囲に存する大抵の物を粉砕してしまいそうだ。
 鉄磨はイザンに「明日の五台山大会斎に和尚も行くの?」と訊いた。実は五台山まで千里を隔てている。赤兎馬でもいれば別だが、五、六百キロを一日では移動できない。聞くだけ野暮だが、鉄磨は訊いたのだ。イザンはバッタリ倒れた。また、イザンは語った。「百年後、私は山麓の檀家に飼われる牝水牛になっている。証拠に水牛には『イザン僧某甲』と書いておく」。予言は実現した。……此れだけでは何の事やらサッパリ解らない。風穴和尚の解答をカンニングする。
 


 「不見僧問風穴、■サンズイに為/山道、老■牛に字/牛汝来也、意旨如何。穴云、白雲深処金龍躍。僧云、只如劉鉄磨道、来日台山大会斎、和尚還去麼、意旨如何。穴云、碧波心裏玉兔驚。僧云、■サンズイに為/山便作臥勢、意旨如何。穴云、老倒疏慵無事日、閑眠高臥対青山」{不見の僧、風穴に問う、イザンの老牝牛や汝来たれるか、と道す意旨や如何。穴云わく、白雲の深き処に金龍躍る。僧云わく、ただ劉鉄磨の来日台山大会斎へ和尚還た去くや、と道すが如き、意旨や如何。穴云わく、碧波心裏に玉兎驚く。僧云わく、イザン便ち臥勢を作す意旨や如何。穴云わく、老倒疏慵無事の日、閑眠高臥して青山に対す}
 


 未熟な僧が風穴和尚に質問した。「イザンが鉄磨に、老牝牛め、来やがったな、と云った意味は何でしょうか」。穴は云った。「煩悩の雲の奥深くにこそ金色に輝く太陽の如き仏心がある」。僧は云った。「劉鉄磨が、千里離れた五台山で明日行われる大会斎に和尚も行くのですか、と訊いた意味は何ですか」。穴は云った。「水面に映った月は波に従い揺らめく。細波立ち乱れる煩悩の裡では、闇夜に輝く月の如き仏心は驚き打ち震えてしまう」。僧は云った。「イザンが急に伏せてしまった意味は何ですか」。穴は云った。「老いさらばえ何もする気がなく為すべき事もない日に至れば、隠棲して青山を眺め安眠するに限る」。
 


 「老牝牛」は十牛禅図の牛/仏心でもあろうか。但し、此処でイザンは「煩悩の奥にこそ仏心がある」と云っているので、結局、鉄磨に対し「女の身で独り俺の所を訪ねて来るとは、まだオマエには煩悩があるんだな。きっきっきっ、俺ってイケメンだしな。あぁ、いいよ、いいよ、煩悩の背後には仏心があるんだから」と厭味を云っていることになる。鉄磨は、「千里離れた五台山で明日開かれる会にアンタも行くのかね」と尋ねた。則ち「出来もしない事を、遣るなんて云うわけぢゃぁないだろうね」である。「そりゃそぉかもしれないけどさ、男だ女だなんて区別する低次元では、仏心はあっても乱れきってて、人前に出せるようなシロモノぢゃなさそぉだね」と厭味で返したことになる。
 イザンは更に厭味とも求愛ともとれる仕草で答える。バッタリ倒れたのだ。地に身を投ずるは、仏を礼拝する作法にもあるが、イザンの場合は地/Earthとの一体化、人為を排し捨身する意思表示であり、契りを結ぼうと鉄磨を誘惑しているようにも見える。試みに、「便作臥勢」を、やや言葉を足して意訳してみる。
 「けっ、男と女を区別するなだと? 解った風な口利くんぢゃねぇよ、このスットコドッコイ。スットコドッコイが嫌なら、アンニャモンニャと呼んでやらぁ。良いぢゃねぇか、区別したって。男と女は違うんだから。それが自然ってもんだ。俺がマス掻きゃ子どもが生まれるか? オマエがレズって子どもが生まれるのか? 違うんだよ、男と女は。問題は、如何違っているかってのを正しく把握してるかって事だろが。だいたいがだなぁ、俺だって人間だ、牝牛と姦るもんか。そんなに長かねぇ。オマエなんか対象外。鉄臼みたいなケツしやがって。配達頼んでオマエなんぞが出てきたら、即Changeだ、Chaーnge! それとも何か? 大層な御面相してながらオマエのボボは水仙花の香りがするとでも云うのか? 最高名器だってぇのか、水仙の精/凌波仙子が腰の辺りをフワついてるとでも云うのか? けっ、腐った鯖みたいな臭いが漂ってきそうだぜ。何だよ、泣きそぉな面ぁしやがって。泣きゃぁ勝てるとでも思ってやがるのか、このスベタ。煩悩ないんだろ、男女一如なんだろ、無差別なんだろ、え、仏心さんよぉ。だったら良いぢゃねぇか、腐った鯖でも鰯の頭でも醍醐でも。俺だって烏賊臭ぇや。あ? あぁ、醍醐ってなぁチーズだよ。だから約めて云やぁ、俺ぁオマエを性欲の対象としては見てねぇってことだ。其処迄腐っちゃいねぇよ。だいたい俺ぁ阿修羅みてぇな美少年の方が……あ、ヲホン、えぇっと因みに醍醐がチーズで女色なら、後醍醐は後ろのチーズで男色だってジョーク知ってるか? 知らない? 知らないよなぁ、いま俺が創ったんだから。云ってみたものの、面白くねぇな。まぁ、んなこたぁ如何でも良ぃ。所詮、女色も男色も蛋白質の腐敗臭を伴うってぇこった。蛋白質の腐敗臭ってなぁ即ち屍臭だ。でも不思議だよなぁ、生を謳歌しようとして、屍臭のうちに組んづ解れつ、のたうち回るんだから。男と女は同じだって云ってるうちは、悟ろう悟ろうと悟りに執着してる段階なんだよな。自然な青山であることを受け容れ、且つ青山も人間も結局は自然という大きな括りで一如/無差別なんぢゃねぇかな。天然自然の摂理に従って、いま此処に在る、其れだけだ。でさ……俺ぁよ、オマエのこと好きなんだよ。抱きたいんだ。勿論、牝牛のオマエなんかとセクースしてぇってんぢゃぁねぇよ。俺にも審美眼ってぇもんがある。姦るなら阿修羅と姦るよ。ただ、オマエと一緒に居れば、なんか、十牛図っぽい悟りが得られそうな気がすんだよな。ほら、三生石の説話でも、円沢は牛飼い童に生まれ変わっただろ。牛が悟りなら、円沢は悟りを携えた者に進化したってワケだ。オマエが俺の悟りだ。俺の悟りを映し出してくれる老牝牛って気がするんだよ。俺ぁ百年後に牛として生まれ変わるんだ。悟りそのものに、な。牝牛ってのが気に入らないなら、青山って言い換えるよ。なぁ、俺を悟らせる聖母になっちゃくれめぇか」
 


 禅問答なんて極めて難解だし玄妙の理を説いているから、解ったフリして言葉少なく大雑把に直訳して誤魔化すべきなんだが、其れは筆者の趣味に合わない。やや悪のりした箇所はあるけれども、現時点で風穴和尚に対する筆者の訳は上記の通りだ。如斯く訳せば、一休の「風流吟罷約三生、生身堕在畜生道、超越■サンズイに為/山戴角情」が解り易くなるのではないか、と思う。
 また、牛とかイザンとか云えば、以下の二詩が狂雲集に載せられている。「牛」の四十篇ほど後に「牛庵」が配置されている。
 


     ◆

異類行中是我会、能依境也境依能、出生忘却来時路、不識当年誰氏僧
異類行中、是、我が会。能は境に依り、也た境は能に依る。出生し来たる時の路を忘却す。識らず、当年、誰が氏の僧なるを。
「私の元来は人間でない。異類{中}行をしている最中であり、牛こそが私の過去生なのだ。仏性の発現は置かれた状況に依るし、置かれる状況は発現できる仏性に依る。高僧イザンが牛に生まれ変わったという話がある。私の過去生である牛も、其の復た過去生で、僧であったかもしれない。しかし私は輪廻の果てに人として生まれ出てきたものの、長い道程のうち、自分が如何いう素性の僧であったか忘れてしまった」
……………………………………
牛庵
某甲■サンズイに為/山{以下:イザン}僧一頭、長渓路上即不忘、闌中無復祖師見、花属春風月属秋
某甲イザン僧の一頭。長渓の路上、即ち不忘れず。闌中、復た祖師の見なし。花は春風に属し月は秋に属す。
「高名な禅僧が生まれ変わった牛にはイザン僧某甲と書いてあった。其の牛は、名前が書いてあったぐらいだから、輪廻の長い道程で自分の過去を忘れずにいたのだろう。とはいえ、牛小屋の中に祖師の姿はない。僧たるイザンも牛たるイザンも、其の仏性の中核は同一であるとも思えるが、姿は似ても似つかない。自然の摂理は、或る時には春風を起こし、或る季には秋となる。花は春風に属し、月は秋に属するものだ。花と月は全くの別物ではあるが、元を辿れば、自然の摂理に依る存在だ。僧としての仏性を発現するためには人間の姿をとるだろうし、牛として仏性を発現するに当たっては牛の姿になるということなのだろう」
     ◆
 


 イザンが牛に生まれ変わった話を引いている以上、牛にも仏性がある、牛は輪廻の記号たり得る、の二点が確認し得る。八犬伝第九十回で鬼四郎牛による船虫刑戮を思い起こせば、牛は人語を解し飼い主の復讐を果たす。即ち、人間っぽい。また、同場面で鬼四郎牛は、何者かが生まれ変わった、若しくは何者かに憑依されているようにも見える。畜生であっても、人間と置換可能な側面を有しているようだ。
 


 さて、復た、一休は「木凋葉落更回春、長緑生花旧約新、森也深恩若忘却、無量億劫畜生身」とも詠っている。愛人である森に受けた恩を忘れたとしたら未来永劫、畜生となって人間に生まれ変わることはない。ならば、「風流吟罷約三生、生身堕在畜生道」は、前世・現世・来世の三生に於いて、即ち永遠の愛を誓い合った仲を裏切れば、生きたまま畜生道に堕ちることにはなるが、それでも「イザンの至った悟りを超越した」。よって、一休は、森女に対し、エロス/一体化を指向する欲望を、抱いた。但し勿論、此の時点で既に高齢の一休が実際に性欲に駆られてオッ勃てた、ことは意味しない。飽くまで思念、心の動きとして筆者は語っている。イザンはセクースと悟りへの指向を切り離したと思しいが、一休は、悟りを指向する心は性欲と一如である、と考えたのではないか。イザンは煩悩の奥底にこそ仏心があるとは認めても、セクースの肯定までには至らなかったようだ。一休は、イザンの一歩先に進んだのだ。リッシンベンに生、生を指向する心が性欲ならば、悟りを生への指向とするならば、性欲は即ち悟りである。性欲は煩悩の最たるものだが、其の最大煩悩の裡にこそ、悟りが在るのではないか。風流とは、物事に執着しないことを要件とする。異性を愛するならば、執着せずに取っ替え引っ替え、恩愛に執着することなく、ただ只管、生への指向を以て行為した方が良いとの謂いだろう。性欲自体を肯定する態度である。性欲と悟りは、或いは両立し得る。要は、執着するか否かである。執着せず、浮浪雲のごとくアッチを突っつきコッチに遊んでも、個体でなく異性/生命一般を抽象的に博愛すれば、生身は畜生道に堕ちたとしても、悟りに至り得る。……いや、畜生道に堕ちる覚悟なくて如何に悟るか。其の事を教えてくれた森女の恩を忘れては、生身どころか「無量億劫畜生身」。斯く一休は考えたのではなかったか。イザンは生まれ変わって牛身/悟りに至ったというが、性欲の肯定まで至らなかったため畜生道に堕ちたのだ、と一休が批判しているやに思える。
 


 結局、「吸美人淫水」は、美女のラブジュースだかスキーン腺液だかを舐めた、若しくは美少年を尺八してイカせ飲み下した、ではなかろう{「美人」だけでは男女の別は判らない}。いくら一休が、尺八好きだと云っても、余り生々しい話ではなさそうだ。思念上のセクース、広い意味でのエロス/別の生との一体化を指向する欲望を詠っているのではないか。さて、続いて一休の詩を味わおう。
 


     ◆
森公乗輿。
鸞輿盲女屡春遊
鬱々胸襟好慰愁
遮莫衆生之軽賤
愛看森也美風流
森公、輿に乗る。鸞輿の盲女、屡、春に遊ぶ。鬱鬱たる胸襟、好{よ}く愁を慰む。遮莫{さもありなん}や、衆生の軽賤するは。愛し看る、森や、美しく風流。
     ◆
 


 売春が「春を売る」なら、「春遊び」が「春遊」だろう。「春遊」は恐らく、誰かとのセクースである。「誰か」とは人間であり、男女の区別はなかろう。一休は狂雲集で、男色・女色ともに謳歌している。また、「鸞輿」は高貴な者の乗り物だ。森は高貴な女性らしい。よって差し当たっての訳は、「高貴な森が男女漁りをしているという。俗世の煩悩に悩み抜いている彼女のことだ、人と交わり慰安を得ることも必要だろう。凡俗は、そんな彼女を謗っている。ありがちなことだ。私は、森を愛しているし目が離せない。あぁ、森よ、なんと美しく、風のように自由なのか」程となる。
 但し筆者は一休の【性欲】を思念上のもの、生への指向、人間への愛、と広く解釈している。だから上記の訳を、更に我田引水し且つ、やや詳しくすれば、「高貴な森が様々な人間と交際している。俗世の煩悩に悩み、生とは何かを考え抜いている彼女のことだ、無意識の裡にでも生命/人間に惹き付けられ出逢い語らい合って心を通わすことで、慰撫されているのだろう。しかし鸞輿に乗って様々な男女の家を訪ねる森を、凡俗はセクースしているに違いないと決め、付け矮小化して理解したがる。仕方のないことだ。しかし私は、そんな森を愛しているし目が離せない。凡俗の譏りなぞ森には如何でも良いから、人々と交際することを止めないのだ。あぁ、森よ、なんと美しく、風のように自由なのか。森こそ私の【女性】イメージそのものであり、私を悟りに導く者だ」。

 一休の名声に拠り、己が自由濫望を正当化したがる我利我利亡者の論理には、説得力のみは感じても正当性を認められないので、筆者は与しない。一休は、己を安易の流れに置いて以て当然とするが如きスイーツではない。狂雲集を読めば、一休の峻厳さが垣間見える。自らを律する良心を有たぬ者の風狂を、一休が認める筈もない。如斯きは、真面目腐って黄衣を纏い実は名利を求める反仏教信者と一般である。
 


 一休が詠う過剰な性の賛歌が、性/生の横溢を凡俗に解り易い形で示すパフォーマンスであると、筆者は解釈する。抑も此等の漢詩群は、一休が高齢になって、七十や八十代になってから、怒濤の如く編み出されたモノどもだ。座禅により腹筋・背筋を鍛え気を錬っていたため春気を維持していたのかもしれず、老年となり誰にも遠慮する必要がなくなったからといって、此等の漢詩群が、一休の現在行為を描写しているとは考え難い。また、過去の事実であったとしても、其れは追憶を思念にまで昇華し以て現在の思想として展開したものだと考えたい。筆者も実は、老齢の一休が美しい男女を追い回す図を妄想したいのはヤマヤマなのだが、漢詩群を読む限り、姦淫が事実描写であるか否かは問題ではなく、其の思想的パフォーマンスに注意を払うべきだと思うしかない。
{お粗末様}

 

 

 
 

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