■船虫のセクシャリティー■
 

 船虫は八犬伝読者に鮮烈な印象を残す毒婦である。初登場時には、
 「この女房船虫は年歳も三十のうへを六ッ七ッにやなりぬべからん。物のいひざま進止まで、よろづ男めきたるが、さりとて容貌の醜きにもあらず。頭髻は竪ざまに結束ね、櫛は横ざまに挿光らしたる、をり\/釵を抜出して額髪を掻く癖あり。男帯のふりたるを、腋下に結垂ても、前掛のみ綺羅やかなるに、単衣の袖も身幅も、いと広く長かるは良人に貸て被せん為歟、迭代に被る歟なるべし」{第五十二回}
 と、中性的な魅力を振りまいた。対して、例えば浜路姫は八犬伝中屈指の美女と思しいが、このように生気溢れる描写をされたことがない。浜路姫の美は、極めて記号的なのだ。トイレにも行かないに違いない{但し、魂の次元では前浜路の激情を秘めている……筈だ}。一方で、船虫には【女】のリアリティーがある。肉感も体臭も感じさせる、BitchNextDoorだ。「よろづ男めき」ながらも、ガサツさ故の醜悪さを感じさせない船虫は、端正ではないかもしれぬが、極めて魅力的な、恐らくは男好きする容貌だろう。浅黒くヌメやかな膚は、適度な皮下脂肪と筋肉により張り詰めている。貧しいので日雇肉体労働にも従事しているのだろう。活動的な雰囲気を漂わせている。現代風に云えば、WildでFoxyなのだが、別に狐の眷属ではなさそうだ。野性味溢れるSlutである。船虫が男物を身に着けている理由は恐らく、彼女が、男の甘っちょろい幻想を決して内面化せぬ存在であることを示していよう。船虫がシオらしくする時、決まって相手の男を誑し込もうとしている。船虫にとって、男が夢見る所の女性性なんぞというものは、愚か者を騙す手管に過ぎないのだ。女装を、社会的に規定された女性性を受け容れる所作とするならば、「よろづ男めきたる」船虫は、其れを拒絶している。馬琴は、上記の如き船虫の本質を初登場場面で暴いている。当然、小文吾の訪問が予期せぬことであったが故に、素顔を垣間見せてしまっただけだ。予め並四郎と打ち合わせて小文吾を迎えたならば、きっと、籠山逸東太に見せた如く、手弱女を演じていただろう。
 

 逸東太は護送中の船虫を逃がす失態を犯すが、此のとき船虫は懸命の媚態を演じた。逸東太は、「この船虫は歳もはや、四十に近き欲落の花、さのみ見どころあるものならねど、然とて捨たる女人にあらず」。要約すれば、【薹も立ち特別な美人というわけでもないが、姦りたくなるぐらいには魅力的だ】となる。
 いやまぁ、例えば、身勝手な男の構築した愛らしい女性像を必死に演じる老女を、伊勢物語つくも髪に登場する昔男は、抱いた。一度ではない。二度以上、抱いた。男の身勝手な幻想の是非は措き、昔男在五中将は、幻想を刷り込まれ内面化してしまった老女に対し、身勝手な男を代表して、責任をとったのだ。実のところ、共有せる「幻想」を利用した詐欺行為ではあるが、此処まで徹底すれば、罪は罪としても、起訴猶予されるのではないか。元より件の老女は訴えまい。
 


 しかし逸東太に、其れ程の覚悟はない。昨年から独身状態で姦りたくなっていたし、飯盛女{宿屋つきの売春婦}の如く性病の心配もない、と計算した上で、船虫の肉体を弄ぼうとしただけだ。即ち、船虫の性的魅力が、さほど大きくなくても姦りたくなったであろう状態ではあった。しかし、此の事は、船虫の性的魅力が低かったことを意味しない。性的魅力が高くとも、逸東太は姦っただろうから。既に中年に至っているにも拘わらず、逸東太は、船虫がしなだれかかってくると、急に世話を焼き始める。残り物の冷や酒で三三九度の真似までする。かなり調子に乗っている。容貌そのものではなく、船虫が、男を誑し込む手管もしくは雰囲気を十分に持っていたからだろう。実際、行為を始めた逸東太は、船虫の肉体に溺れ、「闘戦数刻更闌て、疲労果たる逸東太は、前後もしらず臥たりける」。中年男を此処まで熱狂させるのだから、船虫の手練手管が如何に優れていたかが想像できよう。まぁ、逸東太は、既に三人の妻に先立たれており、青髭一角……いやさ、偽赤岩一角こと山猫と同類で、精力絶倫だったとも思われるのだが、とにかく、船虫が床上手であったことは、後に職業売春婦になることからも諒解せられよう。
 


 流離いの女船虫は、越後に辿り着き、酒顛二に求愛された。「強盗聞て、しからんには越に一箇の商量あり、俺も亦いぬる比、女房を喪ひて、譬ば脱剣に鞘なきごとく、縫刺薪水の技はさら也、出納共に極て便なし、俺身は今年四十二歳、和女郎も四十許なるべし、恁れば此彼年庚門第、相応しからずとすべからず、和女郎今より機を易て、俺と夫婦になるならば、常綺羅さして寵愛せん」。
 酒顛二が船虫に求めたものは、ピュアな愛……ではなかろう。求愛に先立ち、二人は殺し合った。船虫の「胆勇の挙動」を評価して、酒顛二は結婚を申し込んだのだ。また、酒顛二は、船虫に家事をこなすよう期待している。更に、「脱剣に鞘なきごとく」は、単に独身生活全般の不如意を形容しているとも思えるが、セクシャルな意味をも込めているかもしれない。とにかく酒顛二は、船虫の「胆勇の挙動」を賞美して求婚した。
 此の時点で酒顛二は全くの独身で手下もいない。家事労働は実際、膨大なエネルギーを必要とする。酒顛二も独身生活を送りながら、チクチク針仕事をしたかもしれないし、炊事だってしていただろう。案外、鴨の山賊風ソテーなんてのが得意料理かもしれない。しかし家事は膨大なエネルギーと多大な時間を必要とする。嬉しそうに時間を掛けて料理なんざ作っていたら、立派な盗賊にはなれまい。しかし酒顛二が欲したのは、単に家事労働を提供し或いは性欲処理もしてくれる者ではなかった。酒顛二は、相棒が欲しかったのだ。家事労働と性欲処理だけならば、何処からか家事の出来る者を攫ってくれば済む。子孫繁栄を望まないなら、女性である必要すらない。江戸には陰間茶屋もあった。
 性欲処理までの期待はアカラサマではないものの、酒顛二は女性の船虫なら家事に熟練しているだろうとジェンダーな期待を抱いているようだ。結局、酒顛二は、【家事の出来る盗賊仲間】が欲しかったのだ。それが女性であれば、盗みの対象者を{一般に}油断させることさえ期待できよう。家事労働から半ば解放され、且つ有能な共犯者を得た酒顛二は、手下を組織するに至る。船虫と家計を共にし、一個の経済ユニットとなることで、酒顛二の事業は発展したのだ。八犬伝は犯罪の面で酒顛二を甲斐甲斐しく助ける船虫の様子を列記している。船虫は酒顛二の事業発展を資けた有能なパートナーであった。酒顛二は、良き配偶者を得たと喜んだかもしれない。しかし万事は塞翁が馬である。船虫と配偶することで酒顛二は犬士と敵対した。八犬伝で犬士と敵対することは、破滅を意味する。山賊風紅葉鍋でもつつきながらチマチマ独りで稼いでいたら、手下をもつこともなかったかもしれないが、もう少し長生きできたであろう。惟えば船虫と運命的に出逢ったとき、酒顛二は四十二歳の大厄であった。此処から酒顛二は、滅びの道を転げ落ちることになる。
 


 さて、此処で酒顛二と船虫という似合いのカップルが何時出逢ったかを少し考えてみたい。偽赤岩一角の妻として大角・雛衣を虐待していた船虫が、大角・現八の活躍で捕らえられたのは文明十二年九月であった。逸東太に護送される途中に脱走したのも、同月中であろう。そして、「嚮に信濃の沓掛にて籠山逸東太縁連を誑惑りて那木天蓼の短刀と盤纒三十金を窃取り当晩旅宿を逃亡て足に信して走る程に、当時越後半国は縁連が主なりける長尾景春の所領なりしを知ざりければ忌むよしもなく、那里は米魚の郷なれば由縁の人はあらずとも這身の所寓を討るに便りよからん、と思ひつゝ知らぬ山路を辿々も軈て越後に赴きて、なほ彼此と玲塀つゝ有一日古志郡なる金倉山の麓路を過る折」、酒顛二と出逢った。沓掛から越後まで一カ月もあれば辿り着けるだろう。そして、船虫は越後で暫くウロウロしてから酒顛二と出逢った。船虫が小文吾を襲ったのは文明十四年五月である。よって、文明十二年の冬から十四年春頃までの間に、船虫は酒顛二と出逢った。また、酒顛二は船虫の、内助の功だか犯罪幇助だか知らぬが、協力によって十数人の手下を組織した。不況下で募集広告を出したわけでもないだろうから、此だけの人数を集めるには、相応の時間がかかるだろう。そんなこんなで二人の出逢いは文明十三年中ではなかったかと、筆者は疑っている。則ち、馬琴が酒顛二の年齢を、例えば地の文で四十過ぎとか何とかテキトーに表記するのではなく、「四十二歳」と明確にしている点が気になるのだ。文明十三年段階で四十二歳ならば、永享十二年に生まれたことになる。永享十二年は庚申だ。庚申の夜に孕んだ子は盗賊になるとの言い伝えがある{単に庚申守しながら性交なんかするな、と云いたいだけなんだろうが}。安政期の演劇/三人吉三廓初買でも、そんな話があった。まぁ、単なる酒話レベルの話であって、馬琴の茶目っ気と受け取っておこう。
 


 さて、小文吾に捕らえられ、庚申堂で緊縛され次団太にペシペシ叩かれたSM嬢船虫の描写は「怪むべし一個の女人の年齢は四十許、面貌の醜からぬが最も緊しく縛られて梁に吊られてありけり」{第七十六回}であった。勇猛な立ち居振る舞いから考えて、船虫は比較的マッチョであったと思われる。而して挿絵を見れば、堅太り系のマッチョ女性ではなく、フィットネス系スレンダー艶女である。だいたい「面貌の醜からぬ」は字面通りの【醜くはない】ではなく、美貌とは云えぬ迄も【魅力的/ソソる】であろう。折角の緊縛シーンが台無しにならない程度に「醜くはない」ならば、苦悶の表情が醜くないと妄想すべきであって、殊更に歪めた顔が「醜くはない」ならば、素は十分に魅力的であらねばならぬ。媚態の染み付いたフィットネス美熟女が苦しく喘ぐなら、男は獣欲を掻き立てられるに違いない。アダルトDVDなぞ見るまでもなく、或る種の女性は性交中、殊更に苦しげな表情を見せ、以て自らの官能を、敢えて強調して表現しようとする。そんな時、男は「苦しいんなら止めようか」なんぞと気を回すべきでない。下手をすれば、ビンタを喰らう。苦悶と行為中の表情は、なかなか見分けがつかぬ場合もあるのだ。
 


 とはいえ、偶々通りがかった犬士は、石部金吉ならぬ金気犬士の荘介であった。荘介自身もWaterBondage経験者であるから、船虫の緊縛淫姿から受けた衝撃は素人より弱かったかもしれない。マゾヒスト同士の交感が、あったや否や、{恐らく無かったが}荘介は船虫に同情して縛めを解く。船虫はアカラサマに、自分の【女】を荘介に押し付け、籠絡しようしている。同居する夫の酒顛二を「家兄」としている。「お兄ちゃんと一緒に暮らしてるの」とは即ち、「アタシ独身よ」と強調しているに外ならない。「アタシ独り暮らしなの」と云えば、屋外に愛人を飼っている可能性がある。しかし、兄と同居しているとなれば、いやまぁ兄妹相姦でないとは言い切れないし船虫なら【勃ってるモノは親でも使う】かもしれず祖父母・父母・兄弟姉妹・子・牛馬・飼い猫などであっても欲望の侭に活用するだろうけれども、常識的には、兄と同居しているならば孤閨を託つていることを意味する。則ち船虫は、荘介に対し、自分が独身であると偽っている。真に独身ならば単なる自己紹介だが、偽っている以上、明らかに荘介を誑し込もうとしている。犬士でなければ、咥え込まれていたかもしれない。
 


 船虫は最初に登場した折、いきなり顔を合わせた小文吾に対し、「よろづ男めき」と、【女性性】を前面に出してはいなかった。「男」とか「女」とか云ったところで性的な自己像は、所詮は調教に依る人為的な産物であって、船虫は自己像として「男」でも「女」でもない。
 郷士/偽一角の妻であったとき、或いは小千谷でマッサージ師に化けたとき、一般的な女性らしく振る舞うが、擬態に過ぎない。船虫は、「男」でも「女」でもない。己の欲望を達成するための方便として、「女」に化けるのみである。船虫は、緊縛された状態で荘介と出逢ったとき、女の性を前面に出して強調し、誑し込もうとした。己の欲望を達成するための方便として、女を演じているのである。船虫の女性性は、辻君/売春婦となったとき最も強調される。「女性」としての美を、{軽口の類であっても表記上}最大限に賞賛されている。勿論、此の「女性性」は、演技/欺瞞に過ぎない。船虫は、社会的イメージとして規定されている所の女性性を、決して内面化していない。都合の良いときだけ、演じているに過ぎない。男でも女でもない生来のセクシャリティーを貫いた点は見事であるが、己を偽りたくないのなら貫徹すべきであって、都合によって偽り化け利得のみ求める船虫は、真の意味で【女の敵】だ。船虫のような女が存在するために、女性一般への信頼が揺らぐ。男と女の共生を妨げている。こういうのを、小悪魔とでも呼ぶのだろう。
 


 一方で、父に逆らい犬の妻となる伏姫、悪辣な両親に不満を抱き信乃への愛を貫こうとする前の浜路、父と夫に隠れて犬士を助けた重戸らがいる。実は、八犬伝の善玉女性は不孝者ぞろいであって、女大学の如き前近代の通念上、必ずしも社会で一般的に期待された女性像ではなかっただろう。しかし主要な善玉女性として描かれている以上、当時にあっても魅力的なキャラクターであったに違いない。主要な女性登場人物は、善悪ともに【自らの意思で活動する】。父母や夫の気持ちを踏みにじって自らの良心に従う者が善玉女性であり、同じく周囲のココロを踏みにじって自らの利得のみを求める者が悪玉女性である。人として自らの意思で行為する方が、共感を得られたのだろう。しかし、「自らの意思で」行為するだけではニュートラルであって、如何な理想を求めるかが善悪の分かれ目となっている。結局、近世一般というのではなく、八犬伝の指し示す理想的な女性のセクシャリティーは、己の良心に従い自らの意思で行動し発言することを必要条件としているのだ。
{お粗末様}

 

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