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結城落城の時兄弟三人生捕にして上りけるを舎兄二人は(十二十三)おとなしく御座ありければ美濃国垂井の道場金輪寺にて生害す。永寿王殿六歳にていまだ東西不覚の体なれば一命を助、美濃の守護土岐左京大夫にあづけらる。此人いかなる果報にや。兄弟三人同心に上り二人は被殺候へども不思議に命たすかり給ふ事たゞ事にあらず。偏に神明の御加護也。此人誕生の時より御祈祷師にて有し僧、此人の上洛の前夜一首の歌を夢中の告を蒙りけり。
罪の身をよそにさなから引かへてつけに聞つゝ喜ひとしれ
……中略……
越後の守護人上杉相模守房定、関東の諸士と評議して九ケ年が間、毎年上洛して捧訴状を、基氏の雲孫永寿丸を以関東の主君として等持院殿の御遺命を守り京都の御かためたるべきよし望て無数の圭幣をついやし丹精を尽しなげき申ければ諸奉行人も尤と感じ頻に吹挙申けるが宝徳元年正月御沙汰ありて土岐左京大夫持益にあづけられし永寿王をゆるし亡父持氏の跡をたまはり公方御対面あり。御太刀御馬を被下。同二月十九日関東へ下らるゝ。此若君の和歌の師にてありし正徹書記餞別の歌を送る。
九年きみこゝのへのうちをたにみすともなれし月な忘れそ
あやうきを天かけりてやまもり剣雲井のつるか岡のへの神
いにしへの契たかへすさかへなは都をあふけ君か行すゑ
此人五歳のとき被召捕十三にて関東の主となり致下向事、君恩とは申ながら偏に鶴が岡八幡宮荏柄天神の御加護なりとて上洛のとき護持の僧が無想の歌を語り給へば徹書記
よろこひと思ひあはせき此秋をつけに北野の夢のしるしは
かくて永寿王殿、関東におもむき給ふ。これにより上杉相模守は越後上野の境へ出むかひ致、事を補佐し、同顕定は上野国府へ参、還御の御支度を馳走被申。八月廿七日上州白井をたち鎌倉へおもむきたまふよし……後略
{鎌倉大草紙}
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