▼どんでん返し▼

 

 魅力的な文芸の手法に【どんでん返し】がある。逆転劇である。スポーツでさえ、逆転劇は興奮を以て語られる。近世に於いても、憎まれ役が実は善玉だった、などという筋書きは陳腐化……とまでは云わないが、博く見られるものであった。読者を魅了するため有効だったからだろう。八犬伝に於いても然り。だいたいに於いて名詮自性の世界であるから、名前が出た時点で既に善玉か悪玉か判る場合もある。しかし却って、名詮自性をトラップとして用い、読者を悩ませ楽しませる箇所が、房八の悪善逆転劇である。

 前提として、信乃に対する執拗な迄の感情移入誘導がある。初出の犬士である信乃は、血湧き肉躍る番作さんの大活劇、続く麗しき手束さんとの遭遇と婚姻、二人の不遇……そんな二人をヒロイン伏姫が祝福し信乃が生まれる。清く正しく美しく、まるで宝塚歌劇の男役みたいだが、「睾丸なし」と呼ばれつつも、信乃はスクスクと育った。逆境のなかで健気に生きる信乃に、読者は没入してしまう。手束の死、伯母である亀篠と蟇六の理不尽、番作さんの切腹と、此れでもかと許り、信乃を不幸のドン底に突き落とす馬琴。浜路を置き去りに滸我に向かうが、立身のヨスガであった村雨を擦り替えられていた。旧主筋に疑われ殺されそうになり、御尋者として指名手配される。浜路は信乃を想いながら無惨に殺されており、信乃にとって唯一の親友である額蔵さえ官憲の手に落ち拷問されながら私刑の如き死刑を待っている。破傷風に苦しみ喘ぎ端正な横顔を歪める信乃に対し、欲情……いや、エロス/抗い難い求心力を感じないわけにはいかない。山林房八が登場し、信乃の所在を官憲に通報すると言い立てる。当該場面で最悪の憎まれ役だ。対して芳流閣上で信乃と四肢を絡み合わせ同時に失神して果てた現八は「犬飼」だし、薄暗がりのなか信乃と現八に白く豊満な尻を差し出し契りを結んだ小文吾は「犬田」だし、何よりストーリー上からして読者にとって現八・小文吾は既に善玉として認識されていたに違いない。

 

 読者は「房八」の名前に注目するだろう。八犬士は、如何やら伏姫と八房犬との異種婚姻により発生した。「房八」が「八房」の倒置となっている点には、何か意味があるのであろうか。既に第二回、神余光弘誤殺の場面で名詮自性の理が語られるし、伏姫切腹の段では、「渠が穉き時よりして名を大輔と喚做せしは大国輔佐の臣たれとその久後を祝せしに、わが官職もやうやく進みて治部大輔と大輔とその国訓は異なれ共、文字はかはらぬ主従同名、かゝる故にや主のうへに、あるべき崇を身に受けん」{第十四回}と語られたことは読者の印象に深く残っていたであろう。名詮自性は既に八犬伝世界で確固たる原理となっていた。

 信乃に敵対する、最悪の憎まれ役として「房八」は登場した。如何しても読者は「八房」を思い出してしまう。ハタと悩む。玉梓怨霊の憑いた八房によって、ヒロイン伏姫は畜生道に堕とされた。しかし玉梓怨霊/八房は既に浄化され成仏した筈だ。しかも伏姫と思しき神女に手束さんは祝福され玉を与えられた。そのとき伏姫が乗っていた犬は、八房でなかったのか。八房は彼岸に於いても、伏姫に寄り添い奉仕し続けているのではなかったのか。にも拘わらず、八房を思い出させる「房八」が、手束さんの息子である信乃に仇做すとは此れ如何に。……いやいや、八房が善玉に転換していることは明らかだが、房八は八房を逆転させているから、善から悪へと逆転した存在なのだ。……いやいやいや、総ては陰陽、浄化した玉梓すなわち八房は、上澄みである陽の部分に過ぎず、陰なる部分は相変わらず燻っており、其れが房八ではないか。……いやいやいやいや、頼豪阿闍梨怪鼠伝にも偽首の話はあるから、一創一奇百創百奇、もう一捻りして房八は息子の大八を殺して偽首として差し出す、とは云っても歳が違い過ぎるから、女装の似合う信乃の身代わりとして妻沼藺を……etc.

 結局、小文吾に斬られた山林房八が信乃と瓜二つであること、且つ「犬江屋房八」であることが明かされる。房八は自ら信乃の身代わりとなったのだ。何だか後出しジャンケンだが、そうでもしないと【どんでん返し】は成り立たない。

 

 ちなみに筆者は既に、一部の修験道で山伏の「伏」が人/明と犬/無明を合体させたものだと定義していたことから、人と犬を【対称的】な存在と感じるココロが近世にはあったと考えてきた。「犬」は人を罵る語彙にもなる。人と犬が対称であるならば、犬の八房が人の房八になる場合、其れは順接である。犬の八房が人の八房になった場合こそ逆転が想定できる。犬と人との倒置法則が、或いは、馬琴の用意していた言い訳かもしれない。閑話休題。

 

 作中事実に於いて、房八は、総体として、八房をボンヤリとなぞっている。初出の犬士として女装までして与四郎犬に跨り伏姫ぶりを発揮した信乃に仇為す房八は、玉梓怨霊そのものであった八房を、表面上は再現している。真意は信乃を救おうとしているのだが、表面上は仇為すわけだ。そして房八は、小文吾に討たれる。伏姫を象徴する信乃に、八房を象徴する房八と沼藺の血が浴びせかけられる。授精である。その瞬間、信乃は苦しげに叫び仰け反り果てる。小文吾が「項と腋へ手をかけて起せどもはや気息なし」。信乃は【小さな死】を迎えたのだ。伏姫の死と重ね合わされている。伏姫が死ぬ瞬間に、犬士精は発生する。伏姫としての信乃と八房としての房八が死に、犬士としての信乃と親兵衛が生まれる。信乃と親兵衛は兄弟であり母子でもある。馬琴は自ら創造した伏姫割腹の悲劇を、想像しながら書いたのであろう。

 暫くして展開される額蔵救出作戦でも、力二郎・尺八という八房から派生した兄弟が活躍し、犠牲となる。八房は、とにかく殺されねばならぬらしい。しかも二人は妻・母のもとに姿を見せ一瞬は助かったのかと読者に思わせ実は幽霊、幽霊だと騒がれた姥雪世四郎の方が生きていた。古那屋で八房/房八の善悪逆転劇を演じた八犬伝は、八房を分解した力二郎・尺八の生死逆転劇で読者を呻らせる。

 逆転劇は読者の興味を継続させる。現在でも連載小説では、読者の興味を掻き立てつつ次回へ繋ぐ。単純化すれば、善玉の危機で回を終え、でも助かり、しかし更に新たな危機が……若しくは、謎が生じ、解決したと思ったら更に新たな謎が……と繰り返していく。こういった手法は、中国白話小説の水滸伝や三国志演義までには確立していたのだろう。当時中国の文芸が、例えば元々一回毎に木戸銭を取って講談みたいな形で演じられていたとすれば、現代の連載小説などより、聴衆の関心を強く惹く必要があった。文章として残るものでも、手に汗握る展開のうち決まり文句として、例えば「且聴下文分解」{三国志演義}と次回へ興味を繋いでいく。日本語に直すと、「そは次の巻に解分るを聴ねかし」{八犬伝六十三回}ぐらいになろうか。馬琴は明らかに、如斯き連載手法をマスターしている。そうでもなかったら、長大な八犬伝なんて刊行できなかったであろう。

 八房を廻る二つの逆転劇は、前半のハイライト、荒芽山危難へと雪崩れ込んでいく。若い頃に激しく愛し合い、そして引き裂かれた音音と世四郎が七夕に再会し、犬士の媒酌で婚姻を結ぶ。同じく七夕を控えた夜、若い力二郎・尺八が幽霊となって曳手・単節に顔を見せた。七夕は、愛し合うべき者が、再会する秋なのだ。

 

 七夕は、結ばれるべき男女が出逢う刻である。では、馬琴が金碗八郎孝吉の切腹を、わざわざ七夕に設定した点にも意味がなければならない。房総志料にも載っている里見家の儀礼をひけらかすためではあるまい。極めて重要な八郎切腹の段が七夕に設定されている以上、極めて重要な意味がなければならない。そして挿絵も含めて此の段で見られる両性関係は、八郎・濃萩と八郎・玉梓の二組だけである。当然、二組三人の出逢いこそ、舞台が【七夕】である理由だ。

 まず八郎・濃萩に就いて見る。それまで八郎さえ存在を知らなかった息子の加多三が登場する。後の丶大、金碗大輔孝徳である。抑も名前というものは、個人を識別するためのものだ。特に名詮自性の世界では、個有名の意味が当該特定個人のキャラクター/内包を表す。此処で初めて登場する子どもの名前は、加多三であった。意味は、産後の肥立ちが悪く亡くなった【濃萩の形見】であった。即ち加多三の存在が表す意義は、濃萩の形見、である。加多三は、一個の独立した生物としての加多三でもあるが、濃萩の形見として登場した。形見とは、其れを遺した者を想起するヨスガとなるものであるが、物にも霊が宿り纏うとイメージしていた前近代日本に於いて、または八犬伝世界に於いては、加多三は濃萩の霊の一部を纏っている。八郎と知られざる息子加多三の初対面は、八郎と濃萩{の一部}との再会でもあった。八郎を想い詰めて逝った濃萩と、死にゆく八郎との再会は、余りに哀切である。せめて彼岸で固く結ばれることを願わずにはいられない……が、八郎を新たな出逢いが待ち受けている。其方が実は、本命だ。此処で加多三は里見義実に引き取られ、大輔と名を改める。即ち此処で加多三は、濃萩の形見としての性格を一応は払拭され、金碗大輔孝徳となる。

 続いて、八郎と玉梓の絡みを考える。八郎が割腹する様を心地良げに眺める玉梓の表情を見ていると、とても幸せそうだ。自分を刑戮した八郎が死ぬのだから、喜んでいるのだろうか。そうではあろうが恐らく、それだけではない。

 

 とにかく、七夕を舞台にした八郎の割腹は、後に、再び七夕を舞台に繰り返される。

 

 里見義実は名将であり仁君である。異論もあろうが、八犬伝では其の様に定義されている。しかし彼にも過ちはある。まず、結城合戦で敗残した挙げ句、窮して安西景連を頼ったは仕方ないとしても、景連を愚将と見抜いた筈なのに、家臣になろうとする。いや、馬琴としては家臣にする積もりがなかったから、如斯き場面を設定したのだろうが、とにかく作中で、義実は愚将景連に扶持を願った{「願った」割に態度がデカいが、馬琴が人格支配ではない互いの職分・能力による双務契約を想定していたのなら義実の態度は自然だ}。また、神ならぬ身で仕方ないとはいえ、居もしない鯉を釣ってこいと言われ三日も過ごしている。此は義実が君子たるゆえに騙され、且つ約束を履行しようとしているとの描写だろう。

 しかし読者にとっては、義実が間抜けにも見える。「安南竜門の鯉、瀑布に沂るときは化して竜となるといへり。われ三浦にて竜尾を見たり。今白浜へ来るに及びて人又鯉を釣といふ。前象後兆憑しからずや」なぞと暢気極まりない。此の一言がなかったら、或いは景連に騙された被害者に過ぎぬが、如斯き太平楽を宣うから、間抜けに見えるのだ{但し、此の言葉を、八犬伝に於ける一般論を我が身に引き付けて語っていると考えれば、親兵衛が河鯉孝嗣と出会い、狐龍の昇天を目の当たりにすることを、既に此処で吉兆と定義していることになる}。金碗八郎に発掘されなかったら、むざむざ景連に殺されていたところである。

 そして首尾良く玉下城を落とした後、刑場に牽かれてきた玉梓の美しさ哀れさに、まぁ二十歳前の童貞君{?}だから仕方ないにせよ、金碗八郎に死刑求刑を思いとどまるよう提案したものの、見事に説き破られた。玉梓に付け込まれ、怨霊となるを許した。とどめに、落城寸前に追い込まれた極限状況だし相手が犬だから仕方ないとはいえ、八房に景連を殺せば伏姫の婿にしてやると言ってしまった。すぐに八房の目の前で撤回の言葉を呟いたが、後に前言の貫徹を求められた。結論から言えば、義実は、或いは弁解可能な範囲で失敗し、悪辣な相手に付け込まれる隙を見せ続けている。

 

 要するに、お人好しなのだ。特に玉梓そして八房相手の失策は、相手に相応の知性があり且つ寛大な善人ならば、少なくとも論理上は、何連も【なかったこと】に出来る程度のものであった。勿論、玉梓の場合は生命が懸かっているから、テキトーな判断は許されやしない。しかし義実は、強硬に玉梓を死刑にしたがる八郎に対し、「なにも其処までしなくても」と罪を減ずるよう提案しているに過ぎない。助命を断言してはいない。大雑把に言えば、格上の義実に判決の裁量権があると見られるので裁判官の要素が強く、格下の金碗八郎は事実を提出し意見を具申する検察官の色彩が濃い。

 しかし前近代日本に於いて、青砥藤綱摸稜案ではないが、判事と検事は近代以降のような形で分化していたわけではない。義実・八郎ともに、判事であり検事である。つまり、義実が八郎に、死刑を宥めるよう提案した場面は、義実が上席とはいえ、裁判官同士の合議に於ける一齣に過ぎない。評定ってヤツだ。密室で評定してたら何も問題は起こらなかったのだが、玉梓の面前で遣ったから、禍根を残しただけなんである。

 また、義実の過失は、過去の事実関係を知らぬまま、現在の玉梓の容貌やら表情やら雰囲気やらだけを判断基準にしたことにこそ在る。情状酌量てったって、過去の事実と照らし合わせて行うべきものだ。八郎ら神余家の忠臣たちの悔しさ苦しさなんて、義実にとっては他人事だからこそ、「玉なすごとき玉梓が、さばかりの疵ありぬとも非を悔て助命を乞ふ、これも亦不便なり、赦さばやとおぼせしかば」{第六回}なんて考えるのだ。

 義実が「さばかり」と言うのは、「寵に誇りて主君を蕩し政道にさへ手をかけて、忠臣を傷賊たる……定包と密通せり」である。現代の感覚なら確かに{忠臣を直接的に殺したってんだったら殺人になるが作中に明言されている構成要件だけなら}、死刑にはならないし、特に後者は律する法がない。しかし密通だけでも前近代では死罪とされる場合もあった。しかも八犬伝は、想定読者として江戸人士を中心に据えていたと思しいが、此は、江戸に於ける、東京裁判なんである。八郎側からすれば、玉梓らが忠臣を放逐しなければ、且つ神余光弘が殺されなければ、戦争は起こらなかったのだ。玉梓は、まさに平和に対する罪によって勝者側に裁かれている、A級戦犯なのだ。しかも実際の「東京裁判」とは違って、馬琴の構築した物語世界だから、八郎・義実側は絶対的に正しい。

 

 此処で玉梓の「呪詛」と呼び習わされてきたものを復唱しよう。「怨しきかな金碗八郎、赦んといふ主命を拒て吾儕を斬ならば、汝も又遠からず刃の錆となるのみならず、その家ながく断絶せん。又義実もいふがひなし。赦せといひし舌も得引ず孝吉に説破られて、人の命を弄ぶ、聞しには似ぬ愚将なり。殺さば殺せ。児孫まで畜生道に導きて、この世からなる煩悩の犬となさん」。しかし馬琴は続けて、「玉梓が悪念は良将義士に憑ことかなはず、その子/\に■夕のした寅/縁て、一端の不思議のいで来る事、その禍は後竟に福の端となる」と書いている。馬琴は、良将義士に悪念が憑くことはない、と定義している。

 よって、金碗八郎に向けられた「汝も又遠からず刃の錆となる」は「呪詛」としては実現し得ない。金碗八郎は実際に切腹し「刃の錆となる」のだが、其れは玉梓悪念が直接に働きかけた結果ではない。あくまで八郎が、玉梓の意思とは無関係に、勝手に切腹しただけだ。一方で、玉梓は義実本人に対し元々「呪詛」により働きかけようとはしていない。「児孫まで畜生道に導きて」としか言っていない。「導き」のみである。論者には、玉梓の「呪詛」に〈他者依存性〉を見るむきもある。首肯すべきであろう。伏姫が玉梓の後身たる八房と配偶し畜生道に堕ちることも、伏姫自らの判断で決定づけられた。玉梓の後身たる八房は、伏姫との配偶者たる資格を義実の失言により獲得し、約束の履行を迫るのみである。また、先に馬琴は、良将義士に玉梓の悪念が憑くことはないと定義しているので、義実の失言は、玉梓の悪念ゆえではない。どちらかと云えば、義実の言葉に依って、玉梓怨念は呪いの世界へと導かれている。

 故に玉梓最期の言葉は、【積極的かつ決定的に事態を悪化させる】との意味での「呪詛」ではない。広い意味での「呪詛」ではあるが、より精確に表現するならば、【悪しき予言】とでも謂うべきものだ。やや過剰に思える八郎による玉梓糾弾、過剰に思える正義の実現要求は、其の過剰さ故に、自らの行動をも厳しく制限する。ヒロイズムの宿命だ。

 韓非や商鞅など法家者、即ち峻厳な治安維持を求めた当人たちが、恐らく反感によって孤立し、自ら構築した過酷な法体系によって凄惨な刑死を遂げたことを思うとき、小さくは表面を取り繕っているだけの本質的無能者が厳格なルールを他者にのみ押しつけ保身を図っている光景が浮かぶが、八郎・伏姫は過剰な峻厳さを以て自らに対した。問題は、峻厳な者たちを追い込む背景、拘束を嫌い自由濫望に肥大化しがちな人の本性がシブトイところにある。表面上は服従していた自由濫望なる心性は、機を見て峻厳なる者に逆襲し逆恨み的に酷刑を押し付けて抹殺し、ルールを無効化しようとする。自分たちの過去を棚に上げ自分たちのみ無罪化し人様にはシッカリ責任を押し付ける者がのさばれば、ルールは無効化する。ルールの無効化を防ぐには、自由濫望なる心性が逆襲する前に、例えば八郎で云えば、濃萩を姦した前科が暴露される直前までに切腹を始めればよい。断罪される前に、自らの意志で自殺しちゃえば、峻厳なる立法者の倫理性は保存され得る。即ち、八犬伝に於いて、峻厳なるルールは有効であり続ける。何かと言い募り、峻厳な立法者の瑕疵を論って自らの自由濫望を保持しようとする者の口を、自殺を以て封じている、とも言える。

 

 だいたい玉梓の悪しき予言は、表面上【過剰に正義を貫こうとすれば己を縛ることになり結局は不幸になる】ほどの繁く聞く馴れ合い一般論を云っているに過ぎない。堕落の温床である。しかし例えば聖徳太子の十七条憲法にも、「六曰、懲悪勧善、古之良典。是以无匿人善、見悪必匡。其諂詐者、則為覆国家之利器、為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君、无仁於民。是大乱之本也」とある。伝統的かつ一般的な、日本の倫理だ。八郎の立場にも通じる。

 

 ちなみに此の憲法は、「以和為貴」の四文字のみ取り上げられ、目先の平穏のみ願い声の大きい佞人に対する人々の抗議を封殺して滅亡の道を転がり堕ちたがる【優しい善い人】とやらの安易なイーワケに頻用されているが、此だって続く部分は「人皆有黨、亦少達者。是以或不順君父、乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成」であるから、互いに真心を以て相手を理解するよう努め対話を尽くせと云っているだけであって、実態として党利党略のみ論ずるバカが多くて混乱してるから其れを窘めてるだけのことだ。真の和ではない、即ち社会矛盾を内包しつつも表面だけ取り繕う「和」を、勧めているのではない。

 実在したや否やは会ったことがないので知らないが、元々聖徳太子に纏わる説話は、なかなか奇抜といぅか、ラディカルな側面をも伝えている。当時の超大国隋、日本にとっての相対位置関係からいって現在の米帝国にも相当しようが、其の皇帝に対し「日没する処の天子」って嫌味とも思える手紙を書いたと言われている。そんなキャラクター設定の聖徳太子が、安易で無責任な意味しか込めず「以和為貴」とか云うわけがないではないか。閑話休題。

 

 過剰とも思える八郎による玉梓糾弾は、正鵠を射たものでもあった。お人好しな義実のように過剰な仁心を以て、いや、仁云々というより、美貌ゆえ性的魅力ゆえに玉梓のような混乱の元凶を許していれば、組織は壊滅する。だいたい秩序の混乱は、優しい善い人とやらが佞人と組み合わさって、起きるものだ。優しい善人とやらに罪はないと言いたくもなろうが、佞人をのさばらせるのが、優しい善い人とやらなんである。

 八郎の玉梓糾弾は、正しい行為であった。しかし厳しく糾弾した八郎本人は、厳しい立場に立たされる。憎まれ役を引き受ける犠牲者の側面がある。八郎の切腹は、新旧二君に対する忠を両立し得ないためにこそ行われるが、正義の過剰な表現とも云える。玉梓を刑戮したケジメでもある。時を経て、伏姫は玉梓の後身たる八房と配偶するが、犬相手の約束履行も、正義の過剰な表現であろう。秩序・仁政を厳正に維持するため、二人は遣らずもがなの正義の過剰表現を行うのだ。八郎と伏姫の過剰なる論理は共通している。八郎と玉梓、伏姫と八房の組み合わせによって、二度、同根の悲劇が繰り返されるのだ。過剰なる正義が甚大なる不幸に結果する。優しい善い人とやらを佞人から切り離し、善い人たちの平穏を保証するための犠牲だ。無防備な理想、【仁】の藩塀/犠牲こそ、八郎であったのだ。{お粗末様}

 

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