●伊井暇幻読本「一家に一つ仏像を!」●

 前回は捕鳥部万まで登場させてしまった。行数の関係で端折ったが、万は守屋の「資人」であった。守屋の時代に「資人」が何を意味したか実はアレなんだが、遅くとも日本書紀が編まれた当時の語彙としては、高位の者に対し朝廷から与え従者だ。此の意味で考えれば、天皇に直接仕える者ではなく高位者に専属する者だが、本来ならば天皇に忠誠を尽くすべき者だ。守屋は軍事面での重臣だったから陸軍大臣として、万を大臣官房副官兼大臣秘書ぐらいに考えて良いのではないか。とにかく「我こそ天皇の忠臣」と叫ぶところからすれば、守屋の【家臣/天皇の陪臣】と考えるには無理がある。尤も、古代末期ごろから、それぞれ官職を有する者同士すなわち別個に天皇へと繋がる者同士が主従関係を結び弱者が家臣化するが、必ずしも守屋の時代にまで遡って適用せねばならぬ現象ではない。
 ここで妄想を膨らませれば、朝廷から守屋に属けられた資人とすれば舎人のうちだが、東宮舎人の筆頭が帯刀先生である。万は最期の戦いで、飛び込んだ竹林を揺らして敵を陽動し動揺させた。矢を乱射して必殺必中であった。さすがは忠の男伊達である。厭でも八犬伝第四十五回、白井城郊外で偽定正を殺害し乱闘、信乃らを巻き込んでしまった何処っかの慌てん坊の戦い振りを思い出さずにはいられない。
 「道節は幾尋かある件の索を彼此の竹にからまして引動しつゝ忽地に鬨の声を揚しかば、城兵これに驚されて、こはそもいかにと見かへる処を、竹藪の中よりして射出す弦音、空箭はなく」。万の武勇を示す「万即驚匿篁■(クサカンムリに聚)以縄繋竹引動令他惑己所入、衛士被詐指揺竹馳言万在此、万即発箭一無不中」(崇峻天皇紀二年秋七月条)と、かなり近い。
 ……そぉいえば、称徳帝と聖徳太子を対照させていたんだっけ。話を戻そう。日本書紀に描かれた太子は、超人である。とても賢い。理想を掲げた十七条憲法など、まぁ古代国家体制が前提となっており、採るに足らぬものも多いけども、善いことだって云っている。第六条の「懲悪勧善古之良典、是以無匿人善見悪必匡、其諂詐者則為覆国家之利器、為絶人民之鉾剣、亦佞媚者対上則好説下過、逢下則誹謗上失、其如此人皆無忠於君無仁於民、是大乱之本也」なんて馬琴も大きく頷きそうだ。此の六条以下が特に善い。
 ……ただ聖徳太子の場合、皇太子のまま亡くなったのでボロが出なかっただけかもしれない。推古帝の信頼を受け、摂政の立場にあったものの、強大な蘇我一族が存在し、牽制役であったが故に発露した理性・知性のみ、国史に残っただけかもしれない。また太子は四天王と結びつけられてはいるが、金光明経を熟読していたや否や、筆者は確認できていない。彼の場合、聡明さのみが強調されているきらいがあり、筆者にとっては唯一、聖者の尸解を語った「辛未、皇太子遣使令視飢者、使者還来之曰飢者既死、爰皇太子大悲之則因以葬埋於当処、墓固封也、数日之後皇太子召近習先者謂之曰先日臥于道飢者其非凡人為必真人也、遣使令視、於是使者還来之曰到於墓所而視之封埋勿動乃開以見屍骨既空唯衣服畳置棺上、於是皇太子復返使者令取其衣、如常且服矣、時人大異之曰聖之知聖其実哉、逾惶」(推古二十一年十二月条)で、宗教家らしい太子を感じるだけだ。即席の四天王像を頭に載っけて喜ぶ太子も可愛いが、慕い続けた尸解した、聖者の衣をソと纏う、情けの深み濃い艶に、唆(そそ)られぬなら野郎とて、生まれた甲斐が……なくもないが、それはサテ措き、太子の聖性は、息子の山背大兄王の生き様/死に様に投影されている。
 守屋との戦いで、まるで金光明経を地で行くシーンを現出した聖徳太子であったが、彼が金光明経自体を熟読していたか、筆者は知らない。知らないが、彼が四天王に拘っている所から金光明経に関する情報は得ていたと思われる。そして息子の山背大兄王になると、時代が下る分、更に金光明経に触れていた確率は高まる。また何と云っても、山背大兄王の生き様、すなわち死に様は、金光明経に添ったものだった。「大兄」とは皇位継承順位上位者のことで、此の大兄から選ばれ皇太子となる。にも拘わらず彼は、いきなり蘇我入鹿に攻められた。お定まりの皇位継承争いである。日本書紀では、入鹿は古人大兄を推していた。
 山背大兄の側近は、東国に援軍を要請するよう勧めた。「三輪文屋君進而勧曰請移尚於深草屯倉従茲乗馬詣東国以乳部為本興師還戦其勝必矣、山背大兄王等対曰如卿所■(道に口)其勝必然但吾情冀十年不役百姓以一身之故豈煩労万民又於後世不欲民言由吾之故喪己父母豈其戦勝之後保元丈夫哉夫損身固国不亦丈夫者歟」(皇極天皇紀二年十一月丙子朔条)。仲間を集めれば入鹿を討つこともできようが、自分一人のために百姓が死んだり苦労することは許されない。結局、大兄王は「軍将等即以兵囲寺、於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍将等曰吾起兵伐入鹿者其勝定之然由一身之故不欲傷残百姓是以吾之一身賜於入鹿、終与子弟妃妾一時自経倶死也」(同上)。彼は一族を道連れにして、首を吊った。金光明経の教えのうち重要なものの一つは、「捨身」である。餓虎に自らの肉体を与えることを謂う。「吾之一身賜於入鹿」この山背大兄王の言葉は、父・聖徳太子そして太子に憑依した四天王を通じて、金光明経にまで繋がっていくように思う。
 息子の入鹿が山背大兄王を死に追いやったと聞いた蘇我蝦夷は驚き叫んだ。「嗔罵曰噫入鹿極甚愚癡専行暴悪■(ニンベンに尓)之身命不亦殆乎」意訳すれば「これで、蘇我氏も亡びる」だ。直訳すれば「そんな馬鹿乱暴なことをした以上、自分の身も滅びるぞ」だが、入鹿は既に蘇我大臣となっており当主であるから、其の身の破滅は一族の滅亡を意味する。予言通りに入鹿は、中臣鎌子と中大兄皇子に大極殿で、華々しく虐殺された。蘇我宗本家は亡び、傍流の蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の舅として朝廷を支える。「於是中臣鎌子連議曰謀大事者不如有輔、請納蘇我倉山田麻呂長女為妃而成婚姻之昵、然後陳説欲与計事成功之路莫近於茲、中大兄聞而大悦曲従所議」実は中臣鎌子が中大兄皇子を唆して婿入りさせ、入鹿暗殺計画に蘇我倉山田石川麻呂を引き摺り込んだのだ。
 しかし入鹿を虐殺し自分の立場も固めた中大兄皇子は、讒言を軽信して蘇我倉山田石川麻呂を、謀叛者として攻め立てた。僧侶となっていた蘇我倉山田石川麻呂の息子でさえ抗戦を主張した。しかし石川麻呂は「夫為人臣者安構逆於君何失孝於父、凡此伽藍者元非自身故造奉造天皇誓作、今我見譛身刺而恐横誅、卿望黄泉尚懐忠退所以来寺使易終時」そう云って従容と死を選んだ。遺品は明らかに、石川麻呂が中大兄を愛していたことを物語っていた。落ち込む中大兄に歌を捧げる者があった。「山川に鴛鴦双つ居て偶い好く誰か率にけむ本毎に花は咲けども何とかも愛くし妹が復た咲きて来ぬ」歌は鴛鴦夫婦の雄を中大兄、雌を石川麻呂に見立てている。二人が如何ような形で繋がっていたかは詳しく解らないが、かなり深い仲だったのだろう。
 こんな中大兄(天智帝)だから、死後は弟の大海人皇子に裏切られ、息子が死に追いやられる。天智十年九月、帝は体調を崩した。翌月丙辰、息子の大友皇子は、蘇我赤兄など五人の重臣を「内裏西殿織仏像前」に集め「六人同心」することを誓い合った。誓いの内容は不明だが、大友皇子を中心に六人で力を合わせて頑張ろう、ぐらいのことだろう。さて、誓いの言葉は「若有違者四天王打天神地祇亦復誅罰三十三天證知此事子孫当絶家門必亡云々」、例えば中世以降に於ける起請文(誓約書)の決まり文句は「梵天帝釈………」だけれども、其の原型として面白い。併し此処では、まず仏教守護神である四天王、そして仏教以前からいる天神地祇、最後に帝釈天が統括する三十三天が登場している。冒頭にあることから、四天王が最も重く考えられていたことが解る。また、違反者すなわち敵に回った裏切り者に対し、罰を下す者として最も重きをなす者は逆に、守護に於いても重きをなさねばならぬ。四天王は、近江王朝に於いても、守護神の位置にあったようだ。
 しかし四天王は、近江王朝を守らなかった。仏教守護神は、経典を守り信奉する者のみを救う(ことになっている)。どうも近江王朝、信心深くはなかったようだ。とはいえ、血みどろの戦いに勝利して王権を簒奪した大海人皇子が信心深い筈もないんだが、大海人皇子から始まる天武系王朝が、古代日本の鎮護国家仏教を確立させたんだから、ややこしい。しかも日本書紀に於いて、金光明経の初見は天武五年十一月の「甲申、遣使於四方国、説金光明経仁王経」だ。四天王に拘った聖徳太子あたりは金光明経に関する情報を得ていたんじゃないかと思うし、私的な教養として情報は流布していたと疑っているが、此の時点で漸く国史に載す国家的行事で明らかに金光明経の使用が確認されるのだ。
 天武帝の高齢化に伴い、仏教行事の頻度が高まり、茸が如何の稲が如何のと「瑞祥」が現れた報告が諸国から上がってくる。「十二年春正月己丑朔庚寅、百寮拝朝廷、筑紫大率丹比真人嶋等貢三足雀」なんてこともあり、「乙未、親王以下及群卿喚于大極殿前而宴之仍以三足雀示于群臣」と大ハシャギだ。九年五月に「是月、始説金光明経于宮中及諸寺」と金光明経は宮中にまで進出している。十四年三月には「壬申、詔諸国毎家作仏舎乃置仏像及経以礼拝供養」、一家に一台仏像を! と呼びかけている。貫徹したとは思えない。
 この頃から帝による仏教行事が頻繁になるので、恐らく体調不良から救いを求めていたんだろう。翌年六月、占ってみると草薙剣が帝に祟っていると判明した。この月のうち、わざわざ火気が最も旺ずるべき丙午の日に「請一百僧読金光明経於宮中」、火気の王朝を僭称した天武帝の、水気精たる草薙剣に対する恐怖が伝わってくる。更に翌月、戊午(うちのえうま)即ち土気の強い日を選んで火気っぽい「朱鳥」と改元した。土克水、土は水を堰き止める。また火生土であるから、土扶火。此処まで徹底すれば、解り易くて哀愁を誘う。散々人を殺しておいて、自分だけは死にたくないらしい。更に七月中「諸王等為天皇造観音像、則説観世音経於大官大寺」と今度は観音に助けを求めた。病を移して身代わり観音になってもらいたかったか、心の平安を求めたか。八月にも「庚午、度僧尼并一百因以坐百菩薩於宮中読観音経二百巻」。しかし九月「丙午、天皇病遂不差、崩于正宮」。
 三年後の持統三年正月には、新羅王から観音と勢至菩薩の金銅像が贈られた。同年七月には、陸奥国蝦夷の僧侶に薬師如来と観音菩薩の金銅像が与えられた。この時期、辺境民族からも僧侶が輩出したことが特筆されている。日本国家としては、【皇化】の成果として自慢したかったか。
 また持統八年五月には「癸己、以金光明経一百部送置諸国必取毎年正月上玄読之其布施以当国官物充之」とあり、上玄は上弦だろうから、概ね七日か八日だし、正月ころには、ほぼ弦が水平になる。其処に何か意味を見出したようだが、諸国で必ず金光明経を読ませている。更に同年「十二月己巳朔、勅旨縁読金光明経毎年十二月晦日度浄行者一十人」と一週間前から読経の準備に入るよう追加で命じている。後から、何か気付いたらしい。金光明経は懺悔や捨身を説く経典ではなく、単なる呪文に堕しているよう感じる。
 持統帝の後を襲った孫の文武帝の時代に役行者が伊豆に流されている。役行者は日本仏教呪術の象徴的な人物だが、昔の弟子に讒言されて流された。宗教的呪術よりも、単なる虚偽による誣告・讒言すなわち現在でも大流行している(広い意味での)呪術の方が、実のところ強力なのだ。
 文武帝の大宝三年七月は打ち続いた災異のため穀物の実りが悪かった。同月「壬寅、四大寺読金光明経」。四大寺とは大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺で、この頃、よく帝の祈願に使われていた。同様の詔は慶雲二年夏四月壬子にも出されている。因みに大宝三年九月の「癸丑、僧法蓮豊前国野四十町、褒■(醫のしたが巫)術也」は記憶に留めておかねばならぬ。元明・元正帝紀で金光明経に関して特記すべきことはない。
 此処で真打ちが登場する。聖武帝である。神亀五年八月甲申、皇太子の病気平癒を願い帝は観音像百七十七体の造立と経百七十七巻の書写を命じた。翌月、皇太子は死ぬ。此も災厄の一つと考えられたか、十二月には「己丑、金光明経六十四帙六百四十巻頒於諸国々別十巻、先是諸国所有金光明経或国八巻或国四巻至是写備頒下随経到日即令転読為令国家平安也」全国の金光明経による護国体制を統一強化した。また、それまで四巻・八巻本が諸国で混在していたが、十巻本を一揃えずつ各国に頒布、経が到着した日から転読を始め国家の平安を祈れと命じた。そうこうするうち奇妙な長屋王の変が起こったりしたが、話を進めよう。
 天平八年「二月丁巳、入唐学問僧玄ム法師施封一百戸田一十町扶翼童子八人」とラスプーチンが中央政界に登場し始めている。そして、
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天平九年
三月丁丑、詔曰、毎国令造釈迦仏像一躯挟侍菩薩二躯兼写大般若経一部
(八月)○癸卯、令四畿内二監及七道諸国僧尼清浄沐浴一月之内二三度令読最勝王経又月六斎日禁断殺生
○丙辰、為天下太平国土安寧於宮中十五処請僧七百人令転大般若経最勝王経度四百人四畿内七道諸国五百七十八人
(十月)○丙寅、講金光明最勝王経于大極殿朝廷之儀一同元日、請律師道慈為講師堅蔵為読師聴衆一百沙弥一百
天平十年
○夏四月乙卯、詔為国家隆平宜令京畿内七道諸国三日内転読最勝王経
(八月)○丙辰、為天下太平国土安寧於宮中一十五処請僧七百人、令転大般若経最勝王経度四百人四畿内七道諸国五百七十八人」
天平十二年
(六月)○甲戌、令天下諸国毎国写法華経十部并建七重塔焉
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 着々と鎮護国家体制が整いつつある。天平十二年六月甲戌条は、鎮護国家の中核的事業、国分寺建立へと直接繋がるものだ。そして同年八月、大宰府に左遷されていた藤原広嗣が意見書を提出する。「癸未、大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣上表指時政之得失陳天地之災異因以除僧正玄ム法師右衛士督従五位上下道朝臣真備為言」。内容は書いていないが、「時政の得失を指し天地の災異を陳べ」たとあるので、政治の乱れと災害を関連づけ、僧侶でありながら玄ムが名指しされている以上、玄ムが政治に介入し悪政の原因となっていると批判したんだろう。後世に成立した史料では具体的に書かれていたりするが、筆者には何ともいえない。
 ただ妄想を逞しぅすれば、玄ムは仏教好きの帝に信頼され政治的問題に就いての相談を受けていただろうし、災異による被害や不作に対して各種の仏教行事を紹介したとも思える。宗教行事だから非生産的であり、国力を浪費するのみだ。物余りの時代なら良いが、足らない時に浪費すれば、欠乏を招く。とにかく帝の寵愛を受けている玄ムを真っ向から批判したのだから、大したもんだ。因みに広嗣が左遷された理由は、一族である藤原氏を誹謗したというものだ。或いは、前に起こった長屋王の変は無実の長屋王を藤原氏が陥れた謀略だとの説が根強く、讒者が長屋王関係者に殺害されたりしている。或いは広嗣、「長屋王の変」が変だと指摘したのではないか。得意の絶頂にあった玄ムを批判する漢だ、親戚の悪事を広言するなぞ朝飯前だったろう。
 「九月丁亥、広嗣遂起兵反」、翌月、藤原広嗣は筑紫で兵を起こした。広嗣は、飽くまで玄ムらを除きたいだけだと主張するが、朝廷は反乱軍として鎮圧した。
 藤原広嗣が筑紫で乱を起こした天平十二(七四〇)年九月、「己亥、勅四畿内七道諸国曰、比来縁筑紫境不軌之臣命軍討伐、願依聖祐欲安百姓故今国別造観世音菩薩像一躯高七尺并写観世音経一十巻」とあり、明らかに乱への対応として国別に観音像を造らせ観音経を写させている。また、十月には「壬戌、詔大将軍東人令祈祷八幡神焉」とある。広嗣追討の大将軍・大野東人に八幡神への祈願を命じている。鎮護国家建設に邁進する聖武帝を恐怖のドン底に陥れた広嗣の乱に当たって、八幡と観音がセットで祭られている点は興味深い。追討将軍には八幡を祭らせ、民心を穏やかにさせるため国毎に観音を祀っている。惟へば八幡神(応神帝)の母・神功皇后は観音と習合されている。国史上の事実として、両者は一組とされているのだ。
 故に八犬伝に於ける八幡神と観音菩薩の関係は……と云いたいところだが、まだ早い。とにかく仏教の理想は経典に示されてはいるが、僧侶を含めた俗塵塗れの手にいぢくり回されると、とんでもなく民衆を苦しめる狂気/凶器となる。日本書紀・続日本紀を一読すれば、能く解る。しかし一度狂った組織の歯車は、よほど英雄的な指導者が現れないと是正は不可能だ。そして英雄は、この時代、現れなかった。(お粗末様)
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