●伊井暇幻読本「龍統べる者」●

 続いて金光明経の内容に就いてであるが、出来るだけ簡明を心がけたものの面倒だったら末尾まで飛んでもらって構わない。

 第四章の夢見金鼓懺悔品は、宗教哲学上、本経の中核と目せる。妙幢菩薩が夢に、金鼓が光明に輝きながら鳴る様を目にする。金鼓の澄んだ音は、言葉を構成し歌となって広がる。曰く、懺悔せよ、然らば清浄の地に至りなん。いや、こう明確には云わずに色々な比喩を用いているが、まぁ要旨は「懺悔しろ」ぐらいのもんだ。人は人として罪障を犯してしまうが、其れを覆蔵せず明らかにすることで、罪が軽くなる。第四章を目前にした第三章で、急に二度にわたって【清浄】の比喩に「金」が用いられたは、当然、此の「金鼓」の発する歌が、法/清浄の境地に存在する真理の声であると云いたかったからだろう。故に「金鼓」は、最も清浄なる者、と言い換えても可だ。そして、本経が「金光明経」と名付けられたのは、此の金鼓が光明を放って真理を歌う故だ。其の金鼓が登場する「夢見金鼓懺悔品」が本経の中核であることは明らかであり、同時に此の品で語られる「懺悔」こそが、本経の思想的中核である。……あるけれども、面白くないから、日本では無視されていたかもしれない。因みに妙幢菩薩は、お地蔵さんのことである。
 第五章の滅業障品は、夢見金鼓懺悔品を補強する。金鼓の歌が終わって、世尊は毛穴すべてから総天然色の光を放つ。不可視光もあったかもしれないが、取り敢えずは億単位の多色グラデーションの光だったんだろう。帝釈天の問いに答える形で世尊が、前章に書かれていたもの以外で懺悔による具体的な効能を列挙する。まぁ夢見金鼓懺悔品の続きに過ぎないんだが、第四章では、金鼓の声に重点が置かれていたけれども、此処では光明が前面に描かれている。二章を一つにして「懺悔滅業障品」としても良かったと思うんだが、何か事情があったのか。
 また第五章で仏は奇妙な昔語りをする。まぁ世尊が分身の術を使うことは当たり前なんだが、
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我念往昔過無量百千阿僧祇劫。有佛名宝王大光照如来応正遍知。出現於世。住世六百八十億劫。爾時宝王大光照如来。爲欲度脱人天釈梵沙門婆羅門一切衆生令安楽故。當出現時初会説法度百千億億萬衆。皆得阿羅漢果。諸漏已尽三明六通自在無礙。於第二会。復度九十千億億萬衆。皆得阿羅漢果。諸漏已尽三明六通自在無礙。於第三会。復度九十八千億億萬衆。皆得阿羅漢果。円満如上 善男子。我於爾時作女人身。名福宝光明。於第三会。親近世尊。受持読誦是金光明経爲他広説。求阿耨多羅三藐三菩提故。時彼世尊爲我授記。此福宝光明女。於未来世當得作佛。号釈迦牟尼如来応供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。捨女身後。従是以来越四悪道。生人天中受上妙楽。八十四百千生作転輪王。至于今日得成正覚。名称普聞遍満世界。時会大衆。忽然皆見宝王大光照如来。転無上法輪。説微妙法。善男子。去此索訶世界。東方過百千恒河沙数佛土。有世界名宝荘厳。其宝王大光照如来。今現在彼。未般涅槃。説微妙法。広化群生。汝等見者。即是彼佛。
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と、まぁ世尊は何度も現世に姿を現していたが三度目に世尊と懇ろの女性(福宝光明女)として現れていた。世尊と世尊が懇ろになったとは如何かといえば則ち、自慰行為に耽溺していたのではなく、高次元に在る最高の仏性が同時に複数の存在として化現しただけのことだ。とにかく或る時の世尊は女身であって、きっと印度系褐色豊満美熟女であったろうと思うけれども、金光明経を自らも読み他者にも説いて聞かせた功徳によって成仏を約束された。次に現世に化現したとき女身を捨て「釈迦牟尼如来」と名乗って成仏した。所謂ゴータマさんである。一種の変成男子説話なんだが、此の第五品では、もう一カ所、変成男子に触れている。「若人欲求増長勝善根者。応修如是隨喜功徳。若有女人。願転女身爲男子者。亦応修習隨喜功徳。必得隨心現成男子」である。随喜功徳とは、他者にとって善きことを施して喜ぶことだが、自分が行った功徳だけではなく、如来菩薩を含めた過去現在未来の諸々の存在が積む功徳を随喜することである。利他の誠心/精神を徹底するに外ならない。
 則ち、利他を徹底すれば女身でなくなるらしい。勿論、こんな馬鹿げた現象は実際に起こったりしない。経は非常に論理的な文学である。このような文学は、前提となる定義を必要とする。或る時期に書かれた経が、女性を罪深い穢れた存在だと定義していただけのことだろう。実際には男性にも罪深い穢れた者も多いが、話を解りやすく展開するために専ら「女性」が悪役にされただけだ。実際、女身故に利得を得ようと媚びを売る女性は確かに存在するが、彼女らを其の様な道に導くは、其の媚びを歓び利得を与える白馬の王子様気取りの幼稚な男たちだ。女性を女性であるが故に尊重したり守ったりするポーズを殊更に見せたがる、男尊女卑の性根をもった幼児たちによって、実は多くの女性たちがスポイルされている現状を見れば、とにかくも経の方が成仏の可能性を確かに開いているのだから、まだしもマシだ。
 一般に女性が差別されるのは、其の肉体に原因がある。男身と女身の市場経済を考えれば、多くの男が女身に比較的アカラサマな欲望を発露していると思量される。様々な方向性が実はありはするけれども、推し総べれば、女身への需要が最も多く、【女身は求められる】ものとなる。女性は人ではありながら【財】の側面を、より強く被せられることになる。其の様な社会が善であるか悪であるかは措いといて、其の様な社会が前提としてあるならば、成仏するためには、まず財である側面を消去せねばならない。法華経の八歳龍女にせよ、本経に説く変成男子にせよ、菩提心を起こし功徳を喜ぶ人としての本質的部分は女身の頃も成仏してからも連続している。ただ【財】として定義されている肉体だけが問題だったのだ。仏教では人間を肉体だけでは捉えず、感覚や作用まで含めた五蘊として考える。八歳龍女も含めて変成男子説話は、精神も含めた五蘊としての女性を差別はしていない。【財】としての女身を捨てただけで、彼女らは成仏できたのだ。女身とても、男が欲望しちゃうからこそ問題が起こる。逆に、嘉吉の変の原因を赤松貞村の男色に見る馬琴ならば、貞村こそ変成女子せねば成仏できぬ罪深い存在だとして捉えていたのかもしれない。
 結局、他は知らず、少なくとも八犬伝読者の我々だけは、変成男子説話を単純に男尊女卑思想の表れだと皮相な解釈に終始することなく、例えば変成男子説話に登場する女人は実存としての女性ではなく、【人として欲望の対象となり財の側面を被せられたが故に罪を与えられた存在】の記号として考えるべきではないか。信乃でも毛野でも置換可能な記号である。物語を解り易く展開するためには、記号化は止む終えないし、其の記号化が作者の腕の見せ所だろう。閑話休題。
 第六章の最浄地陀羅尼品は、師子相無碍光焔菩薩の問いに答えて世尊が、幾つかの陀羅尼/呪文を述べる。せっかく第五品まで哲学的だったのに、いきなり呪術の世界に突入した。此処で挙げられている陀羅尼は、悪鬼や苦悩を遠ざけるものである。哲学なんて面倒臭いものより、「此の呪文を唱えたら効くよ」と云ってもらった方が、解りやすい。ただ陀羅尼は梵語の音写が大部分で、意味は如何やら仏教賛歌だから古代インドなら無意味ではなかったろう、教えのエッセンスを繰り返し唱えることで、元素記号の順番や歴史年号の暗記法みたいに、或いは教えが身に付く場合もあろう。けれども梵語が解らぬ者にとっては、意味不明な音の羅列であり、其れだけに効きそうで有り難そうではあるんだけども、本来の目的からズレて、単なる妖しい呪文となってしまう。ただまぁ訳したら、全然面白くも何ともない綺麗事だから、敢えて訳さなかった中国の仏教学者たちの作戦勝ちって側面も感じる。仏教なかんづく密教は或る時期の中国に於いて、道教に対立し得るエキゾチックかつ最新流行のマジックだと考えられたが故に、皇帝や貴族達の熱狂的な支持を得て、布教の便宜を得たのだから。封神演義なんて、道教と仏教が呪術的に習合されてワケワカラン世界メクルメクが、其れが魅力となっている。筆者には怪力乱神を語る趣味は余りないので(少しはあるけど)、文学作品としてしか御経は読んでいない。そして、つい思想に目がいってしまい、呪術的な部分は読み飛ばしてしまうんだが、呪術的側面は恐らく仏教史に於いて非常に重要な部分だと弁えてはいる。人民の関心は、其処にこそ集中していたであろうから。哲理なんぞは、二の次だ。但し此の章前半では、まだしも菩提心を得るための階梯を示している。
 閑話休題。第七章の蓮花喩讃品は、菩提樹神善女天に仏が語る形だ。金龍主王が諸仏を称えた蓮花喩なる賛美歌を紹介する。内容は「金光懺悔の福」や仏の容貌を改めて称えるもので新味はない。第八章の金勝陀羅尼品で仏は、善住菩薩摩訶薩に語る(……一人ずつじゃなくって、みんなに言えよ)。仏は、とにかく強力な陀羅尼を教える。如何くらい強力かってぇと、「此陀羅尼乃是過現未来諸佛之母。是故當知持此陀羅尼者。具大福徳已。於過去無量佛所。殖諸善本今得受持。於戒清浄。不毀不缺無有障礙。決定能入甚深法門」。此の陀羅尼は、現在過去未来に於ける全ての仏の母なんである。だから、とっても凄まじいんである(←訳すのに疲れたらしい)。誦すれば、阿耨多羅三藐三菩提の記を授かるのである。第九章の重顕空性品で仏は、品名の如く、【空性】に就いて語る。此処では誰に向けて語ったかは書かれておらず、釈迦が勝手に喋り始める。非常に簡潔に語っており、やはり此処も新味はない。
 そうこうするうち第十章の依空満願品では、一座の中から如意宝光耀女天が飛び出し随喜し踊り狂って歌い始める。現代印度映画でも、とにかく登場人物は歌い踊ったりするが、経典でも登場する諸仏天神諸々が屡々歌い狂う。如意宝光耀女天が歌い終わって、世尊が「五蘊能現法界」すなわち、肉体・感覚・思考・意志・認識の五側面一体としての、すなわち作用まで含めた総合的な人間存在も、生きている以上は俗塵に塗れてはいるが、本来は「空」であるが故に、完璧に清浄な状態に入ることが出来る、と主張する。自らを特権化するのではなく、「オイラが出来たんだから、みんな出来るよ」と呼びかけているようだ。続けて世尊は、「若善男子善女人。欲求阿耨多羅三藐三菩提。異真異俗。難可思量。於凡聖境。体非一異。不捨於俗。不離於真。依於法界。行菩提行」とまで云う。浄化された世界に閉じ籠もることなく、さりとて離れず、俗世を捨てぬまま、菩提行を行うことは出来ると説く。其れは、前に挙げた金鉱石の喩え通り、人は皆、清浄なるイデア世界に繋がっているから……いや、より簡単に云えば、高次のイデア世界の真理が下位次元に表現した所の一部分が個々の人間であるのだから、俗塵に塗れて見えなくなっている真理への繋がり/臍の緒を洗い出し辿っていけば、「依於法界。行菩提行」らしい。世尊の説明を理解した如意宝光耀天女は感激し、教え通りに修行することを誓う。すると「時善女天説是語已。一切五濁悪世所有衆生。皆悉金色。具大人相。非男非女。坐宝蓮花受無量楽。猶如他化自在天宮無諸悪道。宝樹行列。七宝蓮花遍満世界。又雨七宝上妙天花。作天伎楽。如意宝光耀善女天。即転女身作梵天身」。濁世の衆生が、男でもなく女でもなく、清浄で完成された存在(大人/アンドロギュノス?)となって、人間としての苦悩から解放された。美しい花が散りかかるなか、如意宝光耀女天は女身から梵天身に転じた。此の部分は、法華経の八歳龍女変成男子などと同様、女性は成仏できないから成仏しそうになると女性から別の性に転化するって御約束に従っていると考えられる。が、前段で衆生は、「男でもなく女でもなく」と性そのものを捨てており、皆が男になったわけではない。本文中の「悉皆金色」は、別に裸身に金粉を塗りたくって淫らな踊りをしたのではなく(若い方は「金粉ショー」って知らんかな)、縷々述べてきた如く、「金」は清浄を表す。則ち、性という柵(しがらみ)を脱したことを示しており、故に如意宝光耀女天が転じた「梵天身」も単に男体と解する必要はない。寧ろ、性を超えた存在が「梵天身」である。第五品の解釈部分で長々と変成男子に就いて語ったが、此の第十品で種明かしがしてあるのだ。金光明経は、女性を差別しているのではなく、性そのものを超えることを企図していることは、第五品と此の第十品を併せ読めば明らかとなる。変成男子説話を男尊女卑思想の証拠として論うのは結構だが、其処に留まり全体を見ようとしない浅薄な理解を評価するほど御人好しでもなし、先を急ぐので、此のくらいにしておこう。閑話休題……と、此処迄は、何だかヤヤコシイ議論なのだが、恐らく次章からが日本人にとって影響を与えた馴染みのストーリーとなる。
 第十一章は「四天王観察人天品」だ。ここまでの宗教劇を見て感激した多聞・持国・増長・広目の四天王が立ち上がり、本経を奉ずる者を守護すると宣言した。第十二章は「四天王護国品」では四天王の誓約を世尊が許可し、再び四天王が誓いを立てる。両章とも、本経を信奉する国を四天王が眷属の薬叉大将らを率いて守護することを説いている。第十一章は「観察」となっているが、これはパトロールの意味だ。また、四天王が共に誓いを立てる部分と、多聞天が単独で語る部分がある。多聞天が四天王のリーダーであることを明示している。はっきり云って両章とも、理そのものとしての意味はない。
 第十三章は「無染著陀羅尼品」だ。世尊が具寿舎利子に語りかける所から始まる。此の陀羅尼は「是諸菩薩所修行法。過去菩薩之所受持。是菩薩母」と位置づけられている。此処で説かれている陀羅尼は、願いが叶い、且つ災厄から身を守るためのものだ。
 第十四章は「如意宝珠品」だ。世尊が阿難陀に告げる形で始まる。如意宝珠は陀羅尼の名である。如意宝珠陀羅尼の効用は「遠離一切災厄。亦能遮止諸悪雷電」だ。一切災厄を遠ざけるものであり、特に雷電を遮り止めると明記している。如何やら、如意宝珠陀羅尼の背景には、雷電を操る者が控えているらしい。「於此東方有光明電王名阿掲多。南方有光明電王名設羝■(口に魯)。西方有光明電王名主多光。北方有光明電王名蘇多末尼」。東の光明電王アガタ、西のシャトロ、西の主多光、北のソタマニである。こんな奴等に逆らったら、舵九郎みたいに股裂きにされてしまう。「タニャタ・ニミニ・ミニミ・ニミンダリ・チリロカ・ロカニ・チリシュラハニ・アラクシャ・アラクシャ、我某甲、及此住処一切恐怖所有苦悩雷電霹靂乃至抂死、悉皆遠離、ソワカ」。世尊が如意宝珠陀羅尼を誦すると、一座の中から観自在菩薩が立ち上がり、「如意宝珠神呪」の略を唱える。「タニャタ・カテイ・ビカテイ・ニガテイ・ハラチタイケイ・ハラチミチレイ・シュデイ・モクチ・ビマレイ・ハラバシャレイ・アンダレイ・ハンダレイ・ゼイテイ・ハンダラバシニ・カレイ・カダレイ・コウヒレイ・ヒョウカラアキ・ダジモクキ・アラクシャ・アラクシャ、我某甲、及此住処、一切恐怖所有苦悩乃至抂死、悉皆遠離。願我莫見罪悪之事、常蒙聖観自在菩薩大悲威光之所護念、ソワカ」。「略」と云いつつ長くなっていることは、内緒にしておいてほしい。如何やら「如意宝珠(陀羅尼)」の担当者は、観自在菩薩すなわち観音のようだ。続いて執金剛秘密主菩薩が無勝擁護陀羅尼呪、索訶世界主梵天王が梵治神呪、帝釈天主が名跋折羅扇■(ニンベンに爾)陀羅尼、四天王が施一切衆生無畏神呪を説く。「タニャタ・ホシュベイ・ソホシュベイ・ドマハラハレイ・アリヤハラシッチテイ・センテイ・ネモクテイ・ボウキャレイ・ソトテイ・シタビテイ・ソワカ」。それぞれのパワーを引き出すための呪文を公開しているのだ。そして最後に電光・無熱池・電舌・妙光の四龍王が龍としての慳貪の種子を断つため独自の「如意宝珠陀羅尼」を唱える。「アニャタ・アシャレイ・アマレイ・アミリテイ・アシャエイ・アヘイエイ・ホンニハリヤホウテイ・サツバハシャ・ハリセンマニエイ・ソワカ・アリエイ・ハンヅ・ソハニエイ・ソワカ」。特に雷電を避ける効果があるらしい。また此のことは即ち、龍王が「如意宝珠」の担当者・観音の支配下に在ることを示していよう。因みに、第六章の「最浄地陀羅尼品」及び第十三章は「無染著陀羅尼品」では専ら世尊が陀羅尼を説いていたが、此処では抽象的な真理の総体たる世尊が説いた後、具体的な側面を示す各種仏格が、それぞれの呪文を唱えている。より直裁に効果がありそうである。
 第十五章の「大弁才天女品」は二つに分かれているが、内容は一貫して、大弁才天女が本経を称え、この経を聞く儀式に使用する香薬や陀羅尼を列挙している。後半では婆羅門が登場し、大弁才天に対し賛歌を捧げる。賛歌では印度土着の神々やら各種仏教守護神、諸天が登場し、オールスターの豪華版となっている。
 今回は、実用面で最も重要とされた四天王守護の誓願など紹介した。誓願に続いて、心を虚空にする陀羅尼を説き、徐に観音菩薩が重要な役割を持って登場する。犬士の母たる伏姫は、観音菩薩の化権であった。また本経に於ける観音は、雷を操る強力な龍王をも統括する存在であり、如意宝珠を操っている。此の第十四章が「如意宝珠品」と名付けられており、観音が如意宝珠の担当者であることを示している。如意宝珠を持つとなれば如意輪観音であり、七星如意輪曼荼羅の本尊だとは夙に「輪宝剣」で述べている。(お粗末様)
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