●伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「狸と犬の系譜」●

 引き続き、近松門左衛門作「酒呑童子枕言葉」である。前回までに山寺を追い出された童子は、比叡山の稚児となった。比叡山には一念三千、三千人の僧侶がいる。童子は、夜の玩具にされながらだろうが、三千人を向こうに回して乳房を吸いまくった。とにかく吸いたい一念だから、甘噛みしながら舌の上で軽く転がし優しく吸う、などといぅことはない、力任せに、ぎゆうぎゆう吸い絞ったのだろう、吸われる僧侶が出血した。童子は血の味をおぼえた。最澄に比叡山をも追い出されるが、ただ、このとき童子は木に化けていたようで、「我立杣を追出され」とある。
 御伽草子系の話では最澄が延暦寺根本中堂を建立したとき予定地に巨木と化した童子が居座って邪魔をしたが、最澄の法力で退けられたことになっている。即ち延暦寺建立直前の話であり、寺院がないにも拘わらず、童子は三千僧侶のモロ感乳房を吸い回っていたことになる。明らかに話が破綻している。此は複数の説話を近松が網羅的に取り込んだことによる矛盾である。しかし同時に、観衆も童子に纏わる話を知っていることを前提として書いたために起こった破綻であり、また其れが故に予備知識のある観衆は無意識にでも破綻を埋め合わせ、すんなり観劇できたのだろう。
 最澄に追い出された童子は、播磨の書写山に潜り込み、一山僧侶全員の血を吸った。とはいえ吸い取って全滅させたのではなく、少量滲み出た血を嘗めて味わっただけのようだ。童子は、山を追い出された。高野山に行くと空海に、忽ち追い出された。比叡山の一般僧侶より遙かに、男色家としての格は高い空海であったが、ただ相手の乳房を吸いたいがために稚児となって肉体を差し出してくる童子を、邪道と感じたのだろうか。それとも抑も積極的に挑んでくる稚児は、好みに合わなかったのか。文殊菩薩は犯しておいて、酒呑童子は駄目という理屈はないと思うのだが、此処で上手く手馴づけ制御しておれば、悪業も積まず仏教守護の善神にもなっただろうに。
 十歳まで母の乳房に取り付くは、幼稚といぅより近親相姦の臭いがする。ならば既に畜生道だが、一念三千、淫欲過多と馬琴のいう龍、其の龍の娘さえ成仏するのが仏教世界である筈だから、如是畜生発菩提心、の可能性はゼロではない。童子を追い出し、余計に人生を狂わせた最澄・空海の罪は重い、と断ずるは恐らく筆者だけだろうけれども……。
 高野山を追い出された童子は、吉野葛城多武と修験の場を駆け巡り、即ち相手は山伏だったろうが、彼らの乳房を吸いまくって……いや今度は食いまくって、遂に真の鬼となり、大江山へと落ちて行く。普段は、恐ろしげではあるが人の形、酔えば鬼の姿を現すという。自ら経歴を語る童子は、偽装のため女性の生き血を旨そうに飲んでいる頼光らを窘める。「人の血を吸肉を服すること、仏の教に有や否や、只今止まり給はずは次第次第に増長し童子が如く鬼神と成、悔やみ嘆き給共、其時は甲斐あらじ、我らが人を服すること、能こと丶覚すかや、面白からんと覚すかや、今は止めても止め難き鬼畜の身こそ悲しけれ」。如是畜生発菩提心にまで至れぬ我が身を嘆く童子は、「本国に帰り給はば我取殺せし幾千人の後世弔ふでたべ客僧と、しほしほとして語りしは恐ろしくも又哀れ也」。
 頼光は安倍清明特製(御伽草子では神様が呉れたことになっている)神変鬼毒酒、人が飲めば薬となり鬼が飲めば毒となる酒を、酒呑童子に飲ませて酔い潰す。童子が眠りこける奥座敷は鉄の扉で守られていたが、石清水八幡の使・美少年が現れて難なく扉を開けてくれる。また美少年は、住吉熊野五十鈴川賀茂春日の各神が童子を注連縄で緊縛してくれるから遣りたい放題だと教える。さればと頼光は奥座敷に討ち入る。
 宴で親しく盃を交わした山伏が頼光たちだったと知った童子、「むつくと起きて牙を噛み、情なし客僧、鬼神に横道なきものを小賢しくも謀りし、と月日の様成眼を怒らし掴み裂かんと突つ立しが神風さつと御注連縄、蜘蛛の巣が如くにて、童子が五体に纏はれ、か丶れば足も手も締め付けられ、かつはと転び、どうど伏し、網にか丶りし小鳥の羽た丶き苦しむ風情也」。怒り狂い藻掻く酒呑童子の眼前で、茨木童子やら何やら彼にやら忠実な眷属、仲間達が次々追い詰められ切り苛まれ一人ずつ虐殺されていく。組み付いてきた渡部綱と坂田公時を膝下に押さえつけた刹那、童子は背後から忍び寄った頼光に首を切り落とされる。斬られた首は最期の執念で頼光の兜に噛み付き、息絶える。
 愚直な武人が騙し討ちに遭った悲劇的場面かと思えるほどに、討手の頼光らの卑怯さが際立っている。作者は劇作の中で時折反権威主義の表情を覗かせる近松ではあるが、此の点は彼の脚色ではない。原作の御伽草子からして、「鬼神に横道なきものを」と酒呑童子に云わせている。彼らは自ら如何とも仕様のない生理として、人を食う。他の生物(植物でも何でも)の犠牲の上に人は生きているが、童子らは其の人間よりも食物連鎖で上位にいるだけの話だ。酒呑童子は、いわば獰猛な獣、もしくは自然の脅威に類するものであった。人間世界の虐殺とは、次元を異にする。多くの女性達を虐殺しているのだから遺族にとっては如何に憎んでも余りある対象には違いないが、いやいや酒呑童子なんざ甘っちょろい本物の悪玉を見せてやるぜ、とばかりに美少女を虐待し死に至らしめる女郎屋を更なる【悪】に見立てて、近松は本作をリライトした。
 まぁ頼光の卑怯さは措いといて、騙し討ちの名人と云えば、我等が光輝ある国史には枚挙に遑はないけれど、やはり日本武尊が有名だ。女装し自らの肉体を弄ばせて油断させ、酒にも酔わせて、満足しきった周辺部族の長を、ユーディトよろしく、虐殺した。または惜しげもなく裸身を晒し相手の服も脱がせて戯れ合ったあと、相手の剣を木剣とすり替え、これまた虐殺した。そんな日本武尊の直系祖先が、八百長野郎の素盞嗚尊だ。八岐大蛇を酔い潰し、切り刻んで殺してしまっている。とは言え、素盞嗚尊の場合は大蛇が相手だ。大蛇に同情しても仕方がないとも言える。対して日本武尊の相手は、異民族ではあるけれども、人間だ。素盞嗚尊から日本武尊の転換は、魔なる大蛇を異民族と同値と考える故か、単に魔なる者も跋扈していた神代との格差に依るか、はたまた元々異民族を象徴させていた大蛇を、人間の姿に戻したのか。
 そして、酒に酔わせて悪神を退治するとの筋書きが酒呑童子の物語を思い起こさせたのだろう、八岐大蛇と酒呑童子を関連づける説話も登場した。「伊吹童子」である。ご存じの向きも多いだろうが、簡単に紹介する。
 近江国伊吹山の弥三郎は八岐大蛇を祀る豪族だったが、無類の酒好きで肴に鳥獣を食し殺生を重ね、往来の商人から酒を奪うなど暴虐の限りを尽くしていた。舅の大野木殿は末恐ろしく感じ、弥三郎の酒好きに付け込み酔い潰して暗殺した。遺児も幼くして酒を好み、酒呑童子と呼ばれた。段々父親に似てくる童子を末恐ろしく感じた祖父の大野木殿は、童子を日吉山に捨てさせた。庇護者もなく狼にでも食われるかと思っていたが、案に相違して童子はスクスク育って、鳥獣を食するようになった。小比叡に移るが二宮権現に追い出され、比叡山の東では八王子権現に苛まれ駆逐され、大比叡で息をついていたところ今度は釈迦が来たので逃げだし、西城で漸く安住の地を見付けた。が、暫くすると最澄が寺を建てると言い出して、抵抗を試みるものの、やはり追い出された。「酒呑童子は三世の諸仏に嫌はれ七社の権現に憎まれしかば、つゐにこの岩屋にも住むこと叶はずして、それより丹波国に逃げゆき、大江山といふ所に一つの巌窟を求め得たり」。話は大江山で酒呑童子が愉しく暮らす所で終わる。
 此の物語は、酒呑童子の出自を詳説したものだが、性的な色彩を拭い去っていて面白くない。……いや単に、酒呑童子が八岐大蛇の生まれ変わりだ、と云っているに過ぎない。理詰めだから面白くないのだ(と云っておこう)。「伊吹童子」の作者は、日本武尊と素盞嗚尊を習合しているようだ。素盞嗚尊に討たれた八岐大蛇は、伊吹山の大蛇となって復讐を試み、首尾良く素盞嗚尊の写し身。日本武尊を死に追いやった、との解釈である。
 「伊吹童子」は、八岐大蛇と、伊吹山で日本武尊を殺した神と、酒呑童子を、一つの系譜で繋いだ。また、同時に引かれた第二の線、素盞嗚尊と日本武尊を結ぶラインは、まぁよく云われる話で、何となく頷いてしまう。ただ問題は、此の第二の線が延長され、源氏の嫡流・頼光まで繋がっていく点だ。そりゃ素盞嗚尊は天照太神の弟だし、日本武尊も天皇家の一員だし、頼光は天皇の分家たる清和源氏の嫡流であるから、互いに全く無関係だとは言えないのだけれども、殊更に濃い血脈で繋がっているわけではない。
 にも拘わらず、素盞嗚尊・日本武尊・清和源氏をブットい一本線で繋ぐ目論見が、「伊吹童子」には看て取れる。天津日継尊たる天皇の源淵・天照太神と対になる暴風雨神、有り体に言えば姉を凌ぐほどの【日陰者】素盞嗚尊、皇太子の資格を持ち圧倒的な武勇を備えながら各地を転戦した挙げ句に野垂れ死んだ日本武尊、両者とも(象徴的に)天皇を圧倒的に凌駕する実力の持ち主であるにも拘わらず、其れをしない。天津日継尊に寄り添う影の如き、生を謳歌する陽気な連中の陰で陰惨な殺戮に明け暮れる男たち。此の男達の系譜に、「伊吹童子」は清和源氏を置き、決して天津日継尊にはなれないまま天津日継尊の対であり続けることを宿命づける。……とまでは強弁しないが、悪神と闘った素盞嗚尊・日本武尊と同じように、魔/世の乱れを抑える機能を清和源氏が宿命付けられたことは確かだ。この「宿命」は中世以降になれば邪魔臭い義務ではなく、【特権】ともなった。天皇から乖離した最高の武力機能は、近世までに清和源氏の独占ってことになった。「伊吹童子」の作者が自覚していたか否かは窺い知ることも出来ぬが、結果として此の説話は、魔を抑えることで象徴的に示された治安維持の機能を清和源氏に継承させる政治イデオロギーを孕む。
 また、些細なことではあるが、伊吹山で生まれた酒呑童子は、日吉山で順調に育った。伊吹山で育ってから大江山に行けば良いのだが、多くの説話で幼い頃に親元を離れたことになっているので同調したか。親元から離れ色々あって人間性を歪めていく過程が必要だったのかもしれない。それで日吉山に行って順調に育ったとは、此処が京から見て鬼門、鬼が集まる場所だったからだろう。それ故、鬼の楽園と考えたか。まぁ如何でも良い話だ。
 八犬伝では酒呑童子をモデルとした酒顛二は越後で活躍(?)する。また酒呑童子とは別に、盗賊として伊吹山出身の蟇田素藤が登場する。蟇田素藤が、日本武尊に仇なした悪神の写し身として、里見家に敵対するとは既に書いた。蟇田は土気であり、木克土、木気の親兵衛に討たれる運命にあった。では馬琴は八犬伝に於いて、酒顛二/酒呑童子を、日本武尊に仇なした悪神の写し身、八岐大蛇の末裔として扱っているかといえば、明確な表徴はない。ただ海には遠い内陸部であるのに、鮫守磯九郎なる如何にも水気っぽい名前の男が無惨にも殺された。北方/水気と関わる石亀屋が攻撃対象となった。土克水、酒顛二は土気とも考えられ、蟇田素藤と細い糸では結ばれる。しかし、やはり現段階では、酒顛二は、例えば近松の「酒呑童子枕言葉」に登場する、さほど政治イデオロギーは感じさせない単なる御伽噺上の悪神を直接のモデルとしていると、一応は考えておいた方が良いだろう。
 以上、掻い摘んで云えば、まず、魔なる悪しき神を打ち倒す英雄犬・竹箆太郎は、丹波国桑田郡(犬飼村)から誕生した。恐らく、「桑下漫録」が考察しているように、日本書紀に登場する足往が発想の源だろう。馬琴によれば、足往と狸の関係は、犬士と八百比丘尼妙椿の関係と、パラレルである。そうなると、足往から派生した竹箆太郎を回国の和尚が探し回り探し当て共に悪神たる大狸を倒す昔話が、犬士を回国の和尚・丶大が探し回り探し当て共に悪神たる老狸・妙椿を倒す八犬伝と、無関係とは思えない。
 五行説三十六禽の理のもとでは、虎が狸の眷属であると執拗に述べてきた。甕襲玉を腹中に蔵せし狸がいなければ、足往の名が国史に残ることもなかった。画虎は犬士の随一・親兵衛のパワーを見せつけ、且つ親兵衛の次元を上げるために登場した側面がある。親兵衛に倒された甕襲玉もつ妙椿の余殃にも見えて画虎は、実は悪しき者たちを啄み、やがて親兵衛の抑留を解く縁となる。妙椿は親兵衛はじめ里見家中を苦しめるが、結局として悪しき者どもを道連れにして亡び、対関東連合軍戦で勝利の宝貝(アイテム)となる甕襲玉を、里見家にもたらす。此れ以上書けば「天機を漏らす虞あり」だが、要するに馬琴の勧懲小説に於いては、世界の絶対神・馬琴の恣、悪役は善玉の引き立て役に徹する。画虎は、嘗て足往に征せられた大狸の投影であり、妙椿狸とも繋がっている。しかし妙椿狸は死ぬとき「如是畜生発菩提心」と約束された。菩提心を発した後の妙椿狸こそ画虎であるので、既に【魔なる悪しき神】ではない。釈迦は前世で「捨身飼虎」、飢えた虎の親子のため自分の肉体を食べさせた(金光明最勝王經卷第十捨身品第二十六)。菩提心である。ならば菩提心を発した妙椿狸が虎と変じ、親兵衛に目を射られて画虎に戻るは、「捨身飼人/仁」だ。隠微である。此の様な虎は、元来の甕襲狸との関係を明示する為にこそ、甕襲狸と同様に、丹波国桑田郡で発生せねばならなかった。甕襲狸→妙椿→画虎は、以前から執拗に述べてきたが、対立する線、足往→犬士のラインの途中に竹箆太郎を今回は挿入した。
 また、八犬伝とは直接の関係を現時点では認められないものの、京都から見れば八岐大蛇の故郷・出雲などある山陰道への入り口/境界地域にあった丹波国桑田郡は、かなり妖しい空間だと認識されていたであろうとも語った。其の証拠に、魔なる悪しき者の象徴的存在である酒呑童子は、丹波国桑田郡大江山にもいた。また、日本武尊が命を喪う原因となった場所・伊吹山こそ酒呑童子の故郷であり、酒呑童子が八岐大蛇の子孫であるとの説も存在した。天孫の素盞嗚尊が征服した以上、大蛇は異民族の象徴である容疑もあり、だとすれば同様に、酒呑童子も、まつろわざる異民を象徴している可能性がある。また、邪なる蛇の棲む伊吹山は、妙椿と連んだ蟇田素藤の故郷でもある。更に云えば、異民族を象徴せる酒呑童子より、社会の中の、例えば悪徳女郎屋の如き者の方が、魔なる悪しき者としての資格を有するとの、戯曲もあった。
 今回の予定は尽きたが、紙幅が若干あるので、犬士の安房から上洛する旅程に就いて簡単に触れる。まず、里見家の対関東連合戦とパラレルな意味を有つ、親兵衛(第一次)上洛に於いては往路、船を使う。朝廷・幕府への膨大な貢ぎ物を輸送するためには、合理的な選択だ。特に里見家と関東諸勢力との間が緊張している中で、荷車を連ね東海道中を暢気に歩いては行かれない。行けばリアリティーを喪失しかねない。海路であるから、暫くは東海道中と併走する。が、伊勢からはグルッと大回り、東海道中を飛び越え浪速に到着し、京都まで戻る。
 京都で色々あった後、親兵衛は細川政元の勧めで陸路、東海道街道を通る。が、追ってきた秋篠広当に石薬師で諭され、木曽路に向かう。此の度の上洛では、薬師如来の影が付き纏っていた。故に石薬師宿が分岐点となったのだろう。が、冗談として云えば、東海道中に併走して海を行った場合、恐らく四日市宿沖から、陸海路は大きく隔たっていく。石薬師宿は四日市の隣だから、親兵衛は、往路に於いて東海道中を四日市まで海上併走、復路で陸上を京から石薬師まで歩いた(騎馬だけど)。つまり、往復かけて東海道中(に近い所)を通ったとは言える。
 二度目の上洛は、此れ以上ない程、平穏無事であった。「六月六日の早天に主僕巨舫にうち乗りて大磯を投て漕するに、旦開涼しき順風にて、この日亭午の時候に件の浦に来にければ、這里より舩を洲崎へ返して陸地を西へ赴くに、貌姑峰足柄は胤智が故郷にて、伊豆は荘介の故国なれば、有繋に懐旧の情なきにあらず。恁而、日に歩み夜に歇り、ゆくこと十余日にして障ることなく京師に来にけり」(第百八十回上)これだけである。
 そして最後の旅行は最も重要だ。美濃垂井金蓮寺で息部局平に出会ったことで、信乃物語としての八犬伝は幕を閉じる。結局、上洛自体にも意味はあるのだが、復路の方が重要である。往路は単に移動の為であって、最も意義のない旅行であった。其の「最も意義のない旅行」でのみ、犬士は東海道中を最も忠実に歩いている。
 結論としては、八犬伝に於ける、東海道中は殆ど価値を有しない。しかも安房が発着点だから、江戸期に確立した「五十三次」としての東海道中とは全く無縁だ。番作の墓参りとか何とか、江戸まで行く用事を作り、徐に東海道中を歩き出せば、或いは「東海道中五十三次」即ち華厳経に説く善財童子の遍歴と八犬伝との間に関連があると主張することも可能になろうけれども、犬士は、最も忠実に東海道中を歩いた二度目の上洛往路でも大磯から歩き出すから、江戸期の駅制で七宿すっ飛ばしている。故に「五十三次」即ち華厳経と八犬伝との間に関係は認められず、親兵衛と善財童子の関係も、軽々に語るべきではない。文殊菩薩の存在を過大に評価しようと強弁するためか、「東海道中五十三次」を媒介に、八犬伝と華厳経との間に関係を見出す説もあるやに聞くが、まずは八犬伝の基本的な作中事実との齟齬を埋めねば、首肯し得えない。(お粗末様)
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