◆「政元邪行」

 前回は「応仁前記」を引いたが、続きである。「山名入道弥安カラス思ハレケレハ鬱憤次第ニ募リケリ応仁ノ乱根多シトイヘ共第一ニ天下政道不正第二ニ公方家御家督ノ御違変第三ハ此政則故トソ聞ヘシ」と書いている。馬琴は則尚が、「応仁前記」は政則が、応仁の乱の原因だと、それぞれ主張しているが、何連にせよ、男色が原因であることに違いはない。
 八犬伝で馬琴は足利義政に批判の矛先を向けているが、弟の堀越公方・政知も荘助の父を死に追いやった悪役として登場し其の死まで書き及んでいる。では義政と政知、政知の息子の話は軍記物語で如何様に描かれているか。男色描写はないが関係する語彙も出てくるので、長くなるけど引用する。

     ◆
大樹源義政公ハ普広院殿義教公ノ御次男御母堂ハ裏松贈左大臣藤原重光公ノ御息女也義政公御童名三寅君ト申シ奉ル永享八年正月二日御誕生其後御花園院御宇嘉吉三年秋七月廿一日御舎弟慶雲院殿義勝公御早世ニ付テ三寅君御家督相続……中略……前管領細河武蔵守持之ノ嫡男右京大夫源勝元纔十六歳ニシテ管領ニ任ス于時公方三寅君御年十歳君臣何レモ幼若也宝徳元年三月三寅君北小路ノ御所ニ御移徒有リ同年四月十六日此御所ニテ御元服于時十五歳征夷大将軍義成ト称シ奉ル其後御改名有テ義政公ト申ス……中略……
○豆州堀越御所生害事同御曹司上洛事
其比東国ニ希代ノ事有リ抑伊豆国堀越ノ御所政知卿ト申スハ初洛西天龍寺ノ香厳院ノ渇食ニテマシマシケルカ御還俗ノ後関東ヘ御下向ニテ去ル寛正ノ比ヨリ豆州北条ノ堀越ニ御住居有リシ故皆人堀越殿ト称ス当時東山殿ノ御舎弟ハ此御所計御存命也……中略(北条早雲が出世する)……于時其比延徳三年堀越ノ御所政知卿二人ノ御子オハシマス長男ハ先腹ニテ今年十五歳是ヲ茶々丸ト申ス二男ハ当腹ニテ十一歳ニ成給フ然ルニ政知モ御簾中モ次男当腹ノ御曹司ニ世ヲ譲ラント思シ召シ茶々丸御曹司ノ少シハカリ酒狂酔乱ナリケルヲ誠ノ狂気ト披露有テ獄舎ニ入レ置キ参ラセラル御内ノ人々憐レミ申シ密々御用ヲ達シケルニ或時茶々丸御曹司ノ小刀ヲ乞ハセ給ケルヲ番ノ侍油断シテ竊に彼獄舎ノ中ヘ小刀ヲ参ラセタリケレハ茶々丸御曹司頓而其小刀ニテ寝入タル番ノ武士ヲ一々ニ指殺シ彼武士ノ刀ヲ奪取テ走リ出給ツ丶先ツ御継母ヲ被指殺其後所々ヨリ合力シテ数多ノ兵ヲ催シ同四月五日御父政知卿ヲ攻ラレケルニ政知折節無勢ニテ力及ハセ給ハネハ終ニ自害シ果給ケリ御歳五十七歳勝幢院殿ト追号ス哀レナリケル事共也二男ノ御曹司ハ駿州ヘ落行給フ伊勢新九郎是ヲ聞テ急キ義兵ノ旗ヲ揚ケ人数ヲ催シ豆州ヘ馳来テ茶々丸殿ヲ攻ケレハ伊豆一州ノ侍共茶々丸御曹司ハ父ヲ弑セシ悪人也此人ニ組セン事勿体無キ事也トテ皆々彼人ヲ叛キ捨テ新九郎ニ加リケル程ニ茶々丸御曹司独身ト成テ可合戦様モ無ク堀越ノ御所ヲ落テ相州ヘ逃行キ三浦介平ノ時高ヲ頼給時高甲斐甲斐敷頼マレ参ラセテ御曹司ヲ吾館ニ入置参ラセ……中略……(伊勢新九郎長氏ハ)明応三年九月廿三日相州三浦ヘ押渡リ一戦ニ打勝テ三浦介ヲ攻落ス茶々丸御曹司今ハ落行給ハン方ナク其侭自害シ果給ケリ法名ヲハ成就院福山広徳ト号セリ抑故三浦介高明ハ主君鎌倉ノ故典厩持氏朝臣ヲ亡シテ其天罰ニヤ己カ養子時高ニ亡サレケリ時高己カ悪意ニ同シキ茶々丸殿ノ味方シテ今角亡ケル時モ父ヲ弑セル因果ニヤ時高カ子荒次郎義同モ父ト不快ノ事有テ上州ニ在ケルカ上杉方ヨリ催サレ相州ノ案内シテ寄手ノ勢ニ加リ三浦ヘ先懸シテ終ニ時高ヲ攻亡ス誠ニ父子共ニ大悪人トソ聞ヘケル……中略……扨又故政知卿御最期ノ時二男ノ御曹司ハ其年延徳三年ニ此長氏ヲ頼マセ給テ駿州ヘ落サセ給ケルヲ長氏守護シ奉テ国守ノ今川氏親カ許ヘ送入奉ル氏親思案シテ此若君ノ東国ニマシマシテハカハカシキ事有マシケレ只イカニモ京都ヘ上セ奉ラント其年延徳三年ノ夏ノ比密ニ京都ヘ差上セ奉リ御亡父政知卿ノ御ヨシミ有レハトテ 是モ亦天龍寺ノ香厳院ニ入レ奉リ御渇食ニテマシマシケルニ氏親カ思案ヤ深カリケン此渇食ノ御曹司後ニハ公方トナラセ給ヒ終ニ世ニ出給ケル義澄将軍是也……中略……
○堀越御曹司被任大樹事 付前将軍家御没落事
角テ細川政元河州ヨリ帰洛シテイカ様此世ニモ公方ナクテハ不可叶ト相議シタル処ニ幸関東堀越ノ御所ノ御次男ノ天龍寺香厳院ニオハシマシ渇食ノ御身ニテ未タ落髪シ給サルカ是又東山殿ノ御甥ニテマシマセハ是ヲ公方ニシ奉可然ノ趣其比九条禅定殿下政基公ニ内縁有テ様々被仰下ケル故政元此儀ヲ承伏シテ早速ニ取立奉リ彼渇食ノ御曹司御元服マシマシ御実名ヲ義通ト申シ奉ル其後義高ト改ラレ終ニハ義澄公ト申ケル今年明応二年十一月左馬頭ニ被任同十二月御年十六歳ニシテ征夷大将軍ニ被任公方ト仰カレ給ケル抑モ今年ノ四月御前公方ヲハ上原左衛門大夫ト云ケル者カ和州筒井ノ城ヨリ取奉テ頓テ政元計ヒ申シ将軍職ヲ解官有テ忝モ前将軍義植公ヲ伯々下部紀伊守ニ預ケ置奉リ獄舎ヲ造テ入置参ラセ……中略……其後前将軍家ハ頓而御伯母御前ト一ツ乗輿ニ召サレツ丶獄舎ノ中ヲ忍出安々ト遁レ落給テ北国ヘ御下向……中略……又中国ヘ御没落有リ周防国マテ御著成テ当国ノ太守大内左京大夫義興ヲ御頼有ケレハ此人ハ器量有ル大名ニテ甲斐甲斐シク頼マレ奉リ……後略(応仁後記巻上)
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 此処では、先妻の子で長男の茶々丸を政知が後妻と組んで虐待したこと、このため政知と後妻は政知に殺されたこと、茶々丸は最後に孤立して滅び去ったこと、政知も次男も天龍寺香厳院の喝食であったことが分かればいい。義政は、オマケだ。
 茶々丸は少々酒乱の気味があることを誇張され、精神病者として座敷牢に入れられた。皆の同情を集めていたが、警護の武士に頼んで小刀を手に入れた。眠っている警護の武士達を殺して脱獄、真っ先に継母を斬り殺した。茶々丸のもとに多くの兵が集まった。政知を攻め、自殺に追い込んだ。一時的にでも茶々丸のもとに兵が集まった理由は、政知が嫌われていたか、茶々丸への扱いが不当であると思われていたかだろう。相対的に父を殺す事実は問題にされていない。しかし伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、父を殺した不当を詰り攻め寄せた。今度は茶々丸に味方する者なく、呆気なく茶々丸は敗れ相模の三浦介時高に匿われた。此処では時高は上杉家から養子に来た義同に殺された。そうこうするうち再び早雲が、上杉定正・今川氏親の加勢を得て相模に攻め込んだ。三浦勢は破れ、茶々丸も十八歳を一期に自害して果てた。……余りにドラマチックだが実は、この事実関係には疑問がある。けれども、まぁ軍記物語だから別に構わない。気にしないことにしよう。応仁後記の此処でのテーマは、父が子を虐待し、子が父を殺す戦国の世。血腥くなってきた。では、そろそろ細川政元に登場してもらおう。
 まず応仁後記に載す細川政元像は、如何なものだったか。

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○同政元邪行事
其ノミナラス政元ハ心ノ侭ニ奢ヲ極メ君臣上下ヲ不弁諸事ヲ挙動ケル故ニ公方家ヲモ粗略ニシテ上意ニ背ク事多シ公方家内々此趣安カラス口惜ク思召暮サレケレ共今御衰微ノ折カラ政元ヲ伐亡サレン事思モヨラヌ時節ナレハ誰御味方申サン者無シ還而ナマシヒナル事ナト御企有ナアラハ御身ノ為悪シク成テ忽ニ大変有ヘキ危機鏡ニカケテ覚ヘケレハ毎事ノ御鬱憤日夜只御胸ヲ焦シ給フ故去ル文亀二年ノ秋御述懐ノ余リニヤ同八月七日北山岩倉ノ金陵寺ヘ入御有テ既ニ御遁世有ラントス此事隠レ無リケレハ公家昵近ノ面々并細川等俄ニ彼寺ヘ馳参テ様々宥メ奉リ勅書ヲ被成下テ叡慮ノ重カリケレハサスカ公方家モ御黙止カタクシテ御所ヘ還リ入ラセ給ヒ先ツ御安堵ノ分ナリケリ其後政元モマタ述懐シテ文亀三年二月ノ比京都ノ宅ヲ脱出テ家人安富筑後守カ居所槙ノ島ニ隠レ居テ一切幕府ノ事務ヲ抛ツ角テモ事行クヘカラヌハ同四月廿三日公方家即チ槙ノ島ヘ御成有テ様々宥メ仰アッレテスナハチ政元承伏シ翌廿四日帰京ス其後漸々ニ御和睦打トケ給ケルニヤ今茲永正元年正月十日公方家御参内ニ政元供奉申シケルカ御執奏有ケル故歟政元折烏帽子小素襖ノ装束ニテ天盃ヲ頂戴ス寔ニ希有ノ面目也是ハ去ル永享ノ比先祖故右京大夫持之朝臣ノ例トソ聞ヘシ彼ニ付ケ是ニ付ケ政元ノ奢侈世ニ超タリ抑政元ハ世ノ人ニ替リ行年四十歳ノ頃迄女人ニ近属事ヲ禁シ精進潔斎繁シテ魔法飯綱ノ法愛宕ノ法ヲ行ヒ澄シ経ヲ誦シ多羅尼ヲ呪シサナカラ出家山伏ノ如クナレハ見ル人聞人皆身ノ毛ヲヨタツ計也サレハ男子モ女子モ無ク家督ヲ継ヘキ様無レハ家長ノ面々色々ニ唯此事ヲ諫ケリ其頃当公方家義澄卿ノ御母堂ハ柳原大納言隆光卿ノ御娘今ノ摂政九条太政大臣政基公ノ北ノ政所トハ御連枝ニテマシマス故公武ノ貴賎オシナヘテ九条殿ヲ崇敬ス政元当時公方家ノ権ヲ執テ驕ヲ極ル余ニアヤラヌ心出来テ政基公御末子ノ公達ヲ己カ養子ニ申シ受ケ吾童名ヲ付奉テ聡明丸ト号シ其後今年十二月十日此聡明丸元服ノ時ハ忝クモ公方家御手ツカラ加冠ナサレテ細川源九郎澄之ト名ノラセラル角テ公家武家相共ニ此澄之ヲ崇敬シイツキ冊キケル程ニ九条殿モ繁昌スサレハ古ヘ鎌倉ノ征夷大将軍頼経卿ト申セシハ光明峰寺摂政殿ノ公達ナルヲ武家ノ上将トナシ給シサヘ珍敷例也其レハ右大将頼朝卿ノ親戚ニテ右大臣実朝公ノ跡目ナレハ軽キ事トハ云難シ今ノ澄之ハマサシク摂政相国ノ公達ナルガ将軍ノ家ノ執事政元カ子ト成給テイカメシキ事トシ給事末世トハ云ナカラ浅猿カリケル次第也ト謗人モ多カリケル 其後又如何有ケン政元熟案スルニ吾家ハ代々公方ノ管領ヲ相勤メ親類数多有ル所ニ他家ノ子ヲ養テ家督ヲ立ル者ナラハイハレ無キ所行ニテ一家ノ面々モ他家ノ大名モ同心挙用スヘカラスト急度思ヒ属ケル程ニ彼九郎澄之ニハ丹波国ノ守護ヲ譲リ彼国ヘ差遣シ今茲永正元年ノ春ノ頃家臣薬師寺与一郎元一ヲ使トシテ阿波国ヘ差遣シ彼国ノ一族細川慈雲院入道成之ニハ孫讃岐守義春ノ子ノ十一歳ニ成給フヲ養子ニセント所望セラル成之モ義春モ細川宗徒ノ一族ナレハ早速同心スヘケレ共政元ノ行迹難見届覚ヘケレハ後難如何有ヘキトテ様々辞退シ給ケルヲ元一古今ノ例ヲ引テ種々様々ニ理ヲ尽シテ申シ達シケル程ニ成之義春漸ニ同心シテサラハ養子ニ参ラスヘシト堅ク契約セラレケル政元悦テ頓而此子ヲ元服サセ是モ公方家ヨリ御一字ヲ申シ受ケ細川六郎冠者澄元トソ名ノラセケル未タ若年ナレハトテ上洛ヲモサセス阿波国下ノ屋形ニ差置カル下ノ屋形トハ阿波国ノ守護所也昔常久禅門大忠功ノ人ナル故摂津丹波阿波讃岐四箇国ノ守護ニ補セラレケル時自身ハ在京シテ管領職ヲ相勤メ四国ニハ一族共ヲ賦リ置カル中ニモ阿波国ニハ舎弟讃岐守詮春ヲ留メ置テ分国ノ政事ヲ執行ハセテ是ヲ下ノ屋形ト号ス常久禅門嫡流ノ管領家ヲハ上ノ屋形ト名付ケリ今ノ義春モ詮春ノ子孫ナレハ上ノ屋形ニ子無キ時ハ必下ノ屋形ヨリ可相続筋目也カ丶ル由来ノ有ナカラ政元何事ソ身ノ栄耀ニ不飽足奢ヲ極ル余ニヤ摂家ノ貴族ヲ養テ終ニ一家ヲ二流トシ後日ノ殃ヲ招ク不遠慮ノ義是只事ニアラス政元不忠不孝ナレハ忽天罰ヲ蒙テ一家此時滅亡セン其先表トソ覚ヘケル
○薬師寺騒動事
抑薬師寺ハ細川家被官ノ中ニモ歴々ノ者也今ノ薬師寺与一郎元一ハ摂州ノ守護代ニテ淀ノ城ニ住シ其弟与次ト共ニ其頃名高キ勇士也度々合戦ノ手柄ヲ顕シ忠功諸人ニ越アリケルカ就中与一ハ一文不通ニテ文才無キ物ナレ共天性正直ニテ理非暁キ徳有ケレハ細川一家ノ人々皆是ヲ重ンセラルサレハ此元一ナレハコソ此年月様々政元ヲ諫言シオホセテ終ニ一塁ノ澄元ヲモ養子ニハセサセケル然ルニ近年政元ハ政務ヲハ粗略ニシテ一向魔法ヲ行ツ丶空上ヘ飛上リ空中ニ立ナントシテ不思議ヲ顕シ後々ハウツ丶無キ事ノミ宣テ狂乱ノ如クナレハイカ様今ノ分ニテハ当家ノ滅亡近キニ有ラント見ヘケリ因茲元一モ諫言及カタケレハ赤沢宗益入道沢蔵軒ト相談シ六郎冠者澄元ヲ家督ニ取立テ政元ヲハ隠居サセ細川ノ家ヲ末長久ニ治ムヘシト頓而評議一決シテ永正元年九月四日薬師寺元一ハ淀ノ城ニ楯籠リ同六日赤沢宗益京ヲ落シカ是モ多勢ヲ催シテ淀鳥羽ヘ責上ル由巷説ス且又西ノ岡ニモ土一揆起リ是モ京都ヘ攻入ル由洛中ノ風聞頻ニシテ皆人騒動シケル程ニ政元是ニ驚テ元一カ弟薬師寺与次ヲ討手トシ多勢ヲ遣シ淀ノ城ヲ攻囲ム与次ハ当城ノ案内者ニテ兄ニ劣ラス剛ノ者故淀ノ城ヲ攻詰ケルニ城兵モ能ク防キ同十日寄手ノ随一讃州ノ守護代安富某ヲ討取同十四日西岡ノ土一揆ハ散々ニ打負四ノ宮ト云者父子淀城ヘ落入然処兼而味方ニ頼ミ置シ前将軍家御方四国ノ細川慈雲院阿州ノ畠山卜山等後詰ノ出勢遅キ故ニ久敷抱カタクシテ同廿日終ニ淀ノ城攻落サレ四ノ宮父子ヲ始トシテ悉討死シ城将薬師寺ノ与一ハ生捕ト成テ京勢帰陣ス政元大ニ悦テ与一ハ汝カ心ニ任セ腹切サセ申スヘキ由弟与次ニ命セラル与次畏リ候トテ船橋ノ辺ニ先年与一ガ菩提所トテ建置タル一元寺ト云フ寺ヘ具シ行キ与一ニ腹ヲ切ラセケリ与一最期ニ云ケルハ某主君ヘ野心ノ企由ルニ非ス只是細川ノ家ヲ長久ニト思フヨリ事起リシ者也某一世ノ中終ニ無二心者故ニ其心ヲ名ニ顕シ与一ト云ヒ一元ト名乗リ寺ヲモ一元寺ト名付タリ唯今腹ヲモ一文字ニ切ヘシトテ腹一文字ニ切テ死ケリ……後略(応仁後記巻中)
     ◆

 のっけから「邪行」である。「抑政元ハ世ノ人ニ替リ行年四十歳ノ頃迄女人ニ近属事ヲ禁シ精進潔斎繁シテ魔法飯綱ノ法愛宕ノ法ヲ行ヒ澄シ経ヲ誦シ多羅尼ヲ呪シサナカラ出家山伏ノ如クナレハ見ル人聞人皆身ノ毛ヲヨタツ計也」すなわち「魔法飯綱ノ法」を行い呪文を唱えていた。そして「政元ハ政務ヲハ粗略ニシテ一向魔法ヲ行ツ丶空上ヘ飛上リ空中ニ立ナントシテ不思議ヲ顕シ後々ハウツ丶無キ事ノミ宣テ狂乱ノ如クナレハ」すなわち政務を顧みず、魔法ばっかり使って、空を飛び空中に立とうとして不思議な現象を起こし、あらぬことばかり口走っていた。まぁ筆者は他人だから「単なる変態」と面白がっていれば良いだけなのだが、こんなアブナイ親父が親戚にいたら、堪ったもんじゃない。細川家は領国の阿波に下屋形すなわち血のプールがあったんだけれども、既に養子縁組みして阿波に居残っていた澄元が、とうとう上洛することになった。

     ◆
○両畠山和睦事 付細川澄元上洛事
永正元年十二月廿五日畠山尾張入道卜山ト同苗上総介義央ト両家和睦シテ河内国富田ノ八幡宮ニ会シ互ニ和平ノ酒宴シテ年来ノ遺恨ヲ忘ル是公方家ノ御下知ニ依テ也サレハ和平ノ験ニトテ此八幡宮ヘ鎧太刀等ヲ両家ヨリ奉納シテ誓約ヲ相堅ム紀伊大和河内ノ人々国民等迄和睦シテ相悦事限無シ然レハ五機内ハ暫ク安治セシメケレ共又兵乱ノ世トナルヘキ妖怪既ニ顕レテ同二年ノ春天下大飢饉餓■(クサカンムリに孚)岐ニ満タトヘハ十人ノ者ハ九人ハ死スル計也同三年諸国ニ億万ノ鼠出来テ耕作ノ米穀山林ノ竹木ヲ悉ク喰損ス是ハ凶年ニテ餓死ノ者ノ亡霊ナラントテ諸国在々所々ニ於テ餓■(クサカンムリに孚)ノ骨ヲ取集メ是ヲ収メ寺ヲ立テ吊ヒ祭ケル程ニ頓而此鼠ノ静リケルコソ不思議ナレ同年ノ秋春日山ノ大木七千余本枯果タリ是ハ藤原氏ノ人凶事也ト取沙汰ス如何様カ丶ル奇怪ノ上ハ近日又イカナル乱カ出来ラント諸人安堵ノ思ヒヲナサズイマイマシクソ見ヘケルニ去程ニ細川六郎澄元ハ其頃未阿波国ニ居給ケルカ祖父ノ慈雲院入道成之ハ一家ノ宿老ニテ知恵深キ人アンリケレハ倩京都ノ為体ヲ察スルニ政元ノ行跡逐日昏乱スル程ニ当家ノ安否計リ難シ澄元急キ上洛シテ養父ノ行衛ヲモ見遂ケ一家ノ治乱ヲモ可執計旨被下知澄元畏リ候トテ阿州ヲ立テ上洛ス于時四月廿一日也此澄元未タ十三歳ノ若輩故ニ実父讃岐守義春ヨリ三好筑前守之長并ニ高畠与三郎二人相共ニ武勇ノ達者ヲ選出シテ澄元後見ノ執事トシ補佐ノ臣ニ命セラル中ニモ此三好ハ阿波国ノ守護代ニテ是モ小笠原ノ末孫名誉ノ者トソ聞ヘケルの地ニハ長輝ト号シ剃髪ノ後ハ希雲居士トソ称シケル又政元ノ家臣ニ香西又六郎元近ト云者有リ武勇ニモ長シケレハ讃岐国ノ守護代トシ一方ノ将ト成リ居ケルカ常ニ三好ト中悪クシテ互ニ確執ノ心ヲ挟ミ威勢ヲ猜合ケルニ又其比薬師寺ノ三郎左衛門ハ兄ノ与一ヲ誅シテヨリ政元ニ寵セラレ重恩ニ耽リ権威ニ募テ傍若無人ニ挙動居ケルカ今度三好之長カ澄元ノ後見シテ在京セシヨリ以来香西薬師寺カ非法ノ下知ヲハ不用シテ威勢高ク挙動ケル程ニ今更洛中ノ諸人ハ我モ我モト澄元ヲ崇敬シ三好等ニ奔走スルヲ香西薬師寺二人共ニ大ニ猜憤テ確執日々ニ重リケリ其レヨリシテ此者共ハアハレ六郎殿ニイカナル事モ出来ヨカシ三好等ヲ亡シテ本意ヲ遂ント思廻ラス是ソ早大兵乱ノ根サシ也……後略(応仁後記巻中)
     ◆

 阿波細川家の長老・慈雲院入道成之が「政元はあの調子だから、どうも不安だ。お前、養子なんだから、上洛して家を纏めろ」と十三歳の澄元に言い渡した。魔法を操る変態親父を十三歳の澄元が後見できる筈もない。頼りになる家臣・三好之長を属けた。管領家では、徳用の父である香西又六と、細川家安泰のため政元を除こうとした兄・薬師寺与一を討った弟・与次が牛耳り、理不尽な事を色々としていた。奸臣跋扈する京都に乗り込んだ二人目の養子・澄元少年と、頼り甲斐はありそうだが何だか濃そうな三好之長が、如何な事件に巻き込まれるか、それは次回の、お楽しみ。(お粗末様)

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