◆「細川政元掠奪事件」

 承前。月光を看る(←それは「牀前看月光」だってば)。太陽がアカラサマならば、月はヒソカ。女性と姦するが天照/太陽に祝福された行為ならば、男を抱くは陰間の愉しみ、陰なる月の輝き、ルナティックの狂気こそ似つかわしい。
 密かなる悦は、何時の時代にも魅力があるらしい。前回に引き続き、実隆公記の話題だが、長享三年七月十日条で、此の変態親父、「密々」の遊びをしやがっている。「月光晴朗」たる晩のことだ。身分は低いが美声の少年たちを集めた秘密クラブで酒を啜りつつ、貫いたとき此の伸びやかに歌う声が如何に緊張しくぐもり涙に潤むか、逆に細やかな声は殊更に細く尾を曳きつつ納豆の糸の如く伸びきって絡み付いてくるか、妄想を膨らませ鼻の下を伸ばす腐りきった貴族ども(密々有地下之小美声等、時宜快然一献、及深更)。更に会員を限定した秘密クラブでは、「山上之小童優美之者招寄之。尤可謂狂事。莫言々々」。比叡山で数千の僧侶の欲望を一身に受けるが如き美童を徴用し、視姦し尽くす。全く以て「狂事」である。人様に言えたもんぢゃない。
 二週間ばかりの間に実隆も欲望を貯め込んだか、二十三日には、「等衞美人同被、千載一歓也」。訳すれば、「等衞っていぅ美人とセックスした。一生涯で最高の感覚だった」ぐらいである。現在では「美人」は女性に対する称であるが、当時は、男も男の性欲の対象だったので、女性には限定できない。ってぇか、女性の場合は、だいたい「美女」と謂う。どちらかといえば「美人」は男性であると云いたいぐらいだ。十日条から続く文脈からすれば、「等衞」は男と断ずるべきでもある。しかも猿楽大夫が来ている。広沢彦次郎は猿楽大夫の息子だった。また前に引いた大乗院雑事記からして、猿楽を性的に即ち強く人を引き付ける魅力的なパフォーマンス集団として取り上げている。因みに鎌倉幕府の執権北条家は、猿楽ではないが、同様に動的な田楽によって堕落した。
 性は、動である。ラインダンスではないが、動のうちに性を感ずるは、自然だ。現時点での停滞を破ることは、次世代へ進展、生殖によって希望を繋ぐことだ。性は、動である。しかし同時に、性への耽溺は、変化を次世代に丸投げする態度にもなり得る。生殖は、あくまで次世代の生成を目的とする。易きに流れる人の性、現在をば固定したい、との固定観念に陥れば、動的な性への希求は、単に変動を次世代に期待する、他力本願へと堕する。閑話休題。

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(明応十年二月)十一日(庚寅)晴。令聴聞遺教経。前関白同之。女中衆同罷向。四辻前中納言綾小路中納言飛鳥井宰相等来会。相国寺広徳軒院主相伴喝食来。彼喝食当時大樹寵愛云々。有盃酌事。当寺長老同来。帰路近辺巡見相尋懸松(後法興院記)。
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 続いては同じく上級貴族・近衛政家の日記「後法興院記」だが、此処には足利義政の弟・政知の息子で、御家騒動のため京都・光厳院の喝食になってはいたが細川政元によって将軍に取り立てられた足利義澄の愛人である喝食が登場している(ちょっとヤヤコシイ)。
 以上、若干の史料から、八犬伝が舞台とする時代の男色記事を取り上げた。此の様な男色蔓延する世相を前提に、漸く文明十一年、数え年十四歳の細川政元少年の肉体を襲った不幸なる事件に就いて語ることが出来る。まずは当時の史料を引こう。

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(文明十一年十二月)三日{甲寅}晴。今日細川九郎俄令下向丹波国、被官人一宮大輔号野遊同道、自路中捕令下向。其子細守護代内藤以下彼国人等対一宮一類成敵輩為退去令造意相具之。一家被官人悉不知之仰天、母儀尼公周章公方御仰天云々。後聞一類{一宮}於国構館令守護、傍輩等同意外不寄付云々。当時京都大名山名赤松志波礼部等被下国無人之処、亦此事出来。一向京中無人不可然事也。(長興宿祢記・同日条)
…………
三日(甲寅)綾小路黄門入道来、数刻雑談、令借用行幸次第勧一盞。按察卿来、令対面就行幸御次第事度々以書状申入候、恐存候由謝之。還幸来五日治定処、自昨日禁中犬死穢出来、非直事歟。但作事未調云々。大略十一日可為治定歟之由相語之。申刻細河九郎俄逐電云々。被官人所行云々。但未知是非之儀云々。言語道断事也。一族所従等馳走東西云々。有宣卿進暦。泰清卿来令対面(後法興院記)
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十二月六日
一細川一家事ニ申事出来、一家可滅亡由雑説。依之細川讃州入道雖興道心、一門大事出来之間、自紀州先日罷上了。近日希有之雑説共在之、実否不聞者也(大乗院寺社雑事記・同日条)
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十日
随心院殿御状到来。四日細川九郎、一宮宮内大夫取之下向丹波了。是去年一宮党二人其外人済々、為内藤之沙汰切腹了。其訴訟云々。随而細川六郎可取立之由及其沙汰、一家引分了。京都ニハ畠山管領方五六十人外男切無之、珍事(大乗院寺社雑事記・同日条)
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十二日{自夜前雨下}
一松林院申給、細川事一宮色々訴訟、内藤・秋庭・池田・伊丹・安富・赤松之ウラカへ各訴申入云々。万一不叶者、公方御息三宝院若君可奉成細川云々(大乗院寺社雑事記・同日条)
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十二日{癸亥}降雨及晩止。伝聞細河九郎下向丹波云々、被官人一宮宮内大輔奪取云々。乱中丹州知行在所国人守護代等押領間以屋形下知去々年同名{親類}入部処不及去渡剰悉令誅伐云々、依此訴訟企此大儀云々、自昨日七里(大乗院寺社雑事記・十七日条には「六里」)奥{江}引籠云々、依是一族中可取立別人歟之由評定云々(後法興院記・同日条)
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 政元は、事もあろうに、獰猛なる男共の手で、幼さ残る青い肉体を掠奪され、約百日間に亘って監禁された。掠奪事件発生を文明十一年十二月四日とする史料もあるが、朝廷実務官僚の中枢にあった官務・小槻長興を信じて十二月三日と考えておこう。「お外に遊びに行こうよ」と誘われた政元は、そのまま掠奪されてしまった。犯人は一宮(いちのみや)宮内大輔、丹波の国人だが当時は京都に定住していた。細川家被官ではあったが、内衆という程の立場ではなかった。一宮家は先代管領・勝元から荘園の年貢免除を言い渡されており、それを自らの権利と考えていた。丹波は細川家の領国だったが、守護代として内藤なる内衆を置いていた。此の内藤が一宮家の年貢免除を認めず、争いとなって一宮家側は三十人ばかりを殺された。一宮家側は当初、有力な武家、畠山家なんかに訴え、内藤を切腹させようとしたのだけれども、最終的な裁きを下すべき細川家内部で、内藤の方が発言力が強いもんだから、埒が開かない。遂に政元掠奪を強行したのだ。
 細川家では十日も経たぬうちに、当主を別に立てる意見が出され、具体的な名前まで挙がっている。当初から、丹波守護代・内藤元貞の理不尽が原因と解っていたのに内藤側を処罰せず、政元に代わる当主を立てようとしている。此が細川家の実態なのだ。
 取り替え用の部品として名前の挙がった候補者は、将軍の息子で三宝院に入っていた足利義覚である。政元とは、だいたい同じ年だ。此の計画は実現しなかったのだが、どうせ御輿に過ぎないのだから、とにかく毛並みの良い所から持ってこようとしたんだろう。
 掠奪したとはいえ、少なくとも八犬伝に於ける政元の哲学は、【監禁して犯っちゃったら親兵衛だって自分に忠義を尽くすようになる】であった。ならば政元も「監禁されて犯られちゃったら一宮の云うことを聴きます」とならねばならぬ。
 可能性は低いものの、一宮家は政元を「丹波国守護」として擁立し、守護代・内藤元長を否定する戦術を採ることも出来た。実際に当時、政元は管領ではないものの、公式に丹波国守護ではあった。本来ならば守護あっての守護代なんだが、内藤が守護代として丹波国内の利権を維持しようとすれば、一宮に後ろ取りされた……いや一宮を後ろ盾とする守護・政元を否定せねばならない。自分に都合の悪い細川家当主・政元を否定するため、より上位の権威を代わりに据えるってなぁ誰でも思いつく。何たって、細川家当主の後任候補は、将軍・義政の息子なのだから。

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(文明十一年十二月十七日)
一河内国へ去十二日自京都注進云々。細川九郎ハ六里奥へ引入、一宮以下与力衆済々在之、京都ニハ安富内藤以下六郎を引立、成細川了。上意又成下候歟。一家二ニ成条必定々々。于希代不思議之神慮難有々々
一或公方有御下向丹波国、召具細川可有御上洛之由雑説有之、比興之次第也。不可申承引、如此事伝聞天下儀不可有正体之間、東北院僧正俊円可隠居之由申云。世情様存余之故歟(大乗院寺社雑事記)
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御書畏存候。随心院殿御書実説候。昨夕和泉守護方へ下候神人上候。守護方へ自京注進候{天}随心院殿如御書候。一の宮の宮内大夫と申候者本来国人候処、定在京之者候。故細川右京大夫之時、丹波に闕所を自細川一宮にくれ候を守護代内藤不承引候{天}一宮方を剰三十人計うち候。結句自其細川方之年貢無沙汰候間、取細川候{天}丹波へ下候。一宮かたちに近辺に野陣に細川方之者(以下欠/大乗院寺社雑事記・十七日条裏文書)
…………
(文明十二年)二月四日
一権中納言光臨。此間河内八尾ニ被座云々。細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決旨、河内辺之沙汰也云々。則丹州辺煙見之云々(大乗院寺社雑事記・同日条)
…………
廿二日{癸酉}晴。昨日又丹波国諸方炎上。内藤被官牢人企徳政之間、一宮方輩押寄悪党館放火。国中錯乱、無是非云々(晴富宿祢記・同日条)
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三月廿三日、於丹波国一宮宮内大輔父子被打了。一宮備後子共沙汰云々(大乗院日記目録・同日条)
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一宮備後守内藤則繁ニ通ジテ宮内大輔父子ヲ斬リ政元京都ニ帰ルコト十二年三月二十三日ノ条ニ見ユ(大日本史料第八編十一・和漢合符)
…………
廿四日{甲辰}晴陰。伝聞細河九郎明日帰洛一定云々。一宮備後返忠盗取之云々。治光朝臣上洛(後法興院記・同日条)
…………
廿六日{丙午}晴。今日細川九郎自丹波国上洛。被官一宮備後計略盗出所捕置。一宮々内大輔父子打死。安富新左衛門尉・庄伊豆守等発向、合戦執首云々。当時第一之大名也。公私大慶哉。申刻京着。数百騎召具之云々……後略(長興宿祢記・同日条)
…………
三月廿六日
一抽留木注進状到来。一宮備後守之子共引分テ細川九郎相具。安富・秋庭・香川一所ニ所成了。則一宮宮内少輔父子責殺了。十余人自害了。廿三日事也。則細川真日上洛云々。天下大慶不可過之云々。此事前表也。重而曲事可出来、内者共自雅意事興也。可憑様無之。彼頸六人分京着云々(大乗院寺社雑事記・同日条)
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廿九日{己酉}晴。是日細川九郎自丹波上洛之後初出仕云々(長興宿祢記・同日条)
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三十日{庚戌}朝間小雨未刻以後霽。申刻終参武家両所依御昇進也。余着直衣烏帽子乗車、両所各有対面。先参大樹、入夜庭田源大納言按察三条新中納言伯民部卿頭中将宣親朝臣右中弁光忠大外記師冨朝臣等来賀拝賀事、令対面。就細河九郎上洛遣使者嗣賢朝臣下向丹州(後法興院記・同日条)
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一去月廿二日家門右大将拝賀廿六日関白殿御拝賀。廿七日除目。廿九日入眼、源義尚任権大納言。同日細川九郎所々礼節ニ罷出云々。廿六日自丹波上洛(大乗院寺社雑記文明十二年四月三日条)
…………
(四月)七日{丁巳}晴。今夜細川九郎被管人帯甲冑馳集。安富与庄伊豆守、去月所打執之一宮々内大輔首相論。於庄方自公方被成下御感状、安富不及沙汰之間、憤申失面目之由述懐。安富者打執之処、庄之手件首耳取之、専支証由称之云々。後聞、彼御感状自九郎方召返、両人無分別之間、静謐云々(長興宿祢記・同日条)
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九日{己未}晴陰。晩景藤中納言右衛門督忠顕朝臣顕基夏弘等来有鞠興。自細河九郎許有使者。{一宮備後}先日預御使候。謝畏入存之由、可参申之処、近日出腫物間、且以使者申入云々(後法興院記・同日条)
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一為細川礼節寺門使者ニ唐門被上洛云々(大乗院寺社雑記四月九日条)
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 文明十一年十二月十二日までに、政元の後継者の名前が挙がっていた。が、まだ反対意見もありはしたのだろうか、それとも如何でもいいやと放っておいたのか、三カ月ほど大きな動きはない。事態が大きく転がったのは翌年二月に入ってからであった。二月四日までに細川家は、政元が殺されていたら出家中の細川勝之を還俗させて当主に据えると決定した。此の日のうちに戦闘が始まったが、三月二十二日まで膠着している。
 奇妙なことが起こった。三月二十三日、一宮側の一宮備後守と息子たちが裏切って政元を救出した。一宮側が最後の切り札として生かしておいた政元を、細川家は既に見捨てている。人質として価値を喪ったのだから政元なんか切り刻んで血祭りに挙げ全滅を覚悟すべきなんだが、救出すれば一部でも家を存続させると持ちかけられたか。結果論としては細川家側の作戦勝ちだが、進行中に於いては政元は完全に見捨てられていた。
 ただ、如何やら政元放棄論は、内藤が先導したものだったらしく、細川家内には抵抗感のあった勢力もいたか。不自然なことに、圧倒的優勢にあった細川家側が一宮家攻略まで一カ月半以上を要している。細川家内部の足並みが揃わなかったのではないか。こんな時、足並みをそろえるには如何したら良いか。政元が救出されるか、殺されれば良い。
 殺されても、政元に同情していた勢力は、まぁ内藤一派への反感を募らせるかもしれないけれども、当座は一宮攻撃に賛成するだろう。とはいえ筆者には、一部勢力が政元の安否を気遣ったとしても、紅涙誘う美談であるとは思えない。政元が当主である方が都合の良い連中が、政元の死に直結する一宮家潰滅に消極的だったに過ぎぬ、と思えてならないのだ。其の後も政元は、周囲を(奇矯な行動で)翻弄しつつ、(政治的には)翻弄された印象が強く、弄ばれた結果としての死を迎える。
 まぁ何連にせよ、一宮家攻撃への慎重論が多い場合、とにかく救出作戦が発動しなければ、局面を簡単に動かせない。結果は、どちらに転んでも別に良い。果たして、恐らくは偶々、政元は救出された。安富・庄の二将が一宮家に襲いかかり押し潰した。呆気なく決着がついている。それまで一カ月半の膠着が嘘のようだ。やはり、政元の存在によって、細川家側が本気で攻撃できなかった事情が窺える。
 最大軍閥の当主として、拉致監禁され辱められた政元が、およそ百日を経て解放された。が、本当に、めでだし、めでたし……だったのだろうか。(お粗末様)

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