◆「言葉遊びの早変胸機関」

 お約束通り、「早変胸機関」である。この作品の趣向は序文に当たる箇所に明記されている。

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扨、子供衆が何をお慰みになさるぞといふに、まづ七役の変り絵を残らせた上では、忠臣蔵ならば、おかるの姿へ定九郎のかたちをかぶせ、定九郎のからだへ、おほよ御前をかぶせ、男女入れまぜて種々かはらせて見給ふ故、猶々お笑ひがふかくて、ますます流行する事なり。されど、かりそめのお慰みものにあらず、チト小むづかしいが、つらつらかんがみるに、その形、勧善懲悪の理にかなへり。たとへば敵役のやくなる男も、人にはそうて見ろとやらにて、気だては女のやうだといふ人あり。外面如菩薩内面女夜叉、小野の小町おきやアがれ、衣通姫あきれるよ、などといふ美しい女でも、心の内は定九郎から、五節句をつかふ玉藻前もあり。おればかりは流行におくれねへと、随分わかいものに嬉しがられるつもりの男も、何時の間にか白髪となりはてて、老の浪はひたひへうちよするも知らぬなり……後略
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などと書いてある。また、裏見開き広告に「東都書林 馬喰町四丁目 菊屋幸三郎 絵本類略目録」として「絵本武勇の錦 十返舎一九 勝川春亭画」がある。あるけれども、本稿とは関係ない。しかし此と並んで「敵討観世音利生記 曲亭馬琴作 歌川貞重画」「白気忠義勲功 同作 同画」「二十四孝雅絵解 此書ハ岡田玉山乃画かれしを写し幼童のため孝行の道びきになれかしと曲亭馬琴撰にて歌川国直の画入り」とあることは、注目に値する。いや、此の一文がなくても、馬琴が同作に関する情報を持っていたと強弁しても構わないのだが、それは筆者の趣味に合わない。ただ、此の一文があるため若干は、馬琴が「早変胸機関」を知っていた可能性は高くなる、ことを指摘せねば、落ち着かない性格なのだ。で、「早変胸機関」を知っていたから如何だと言えば、単に馬琴がミーハーだったと言いたいだけだ。いや、ジャンルを超え他者の作品さえ柔軟に取り込み、自作の世界を積極的に膨らませる態度と言って置こう。どうも筆者は口が悪くてイケナイ。
 第六輯口絵に、女装の毛野が描かれている。「胸のからくり」とある。此の場合の「胸のからくり」は、つい【胸に秘めた復讐の誓い】と解釈したくなるけれども、其れだけではなく、いや、其れよりは単純に、男女早変わりの趣向を予告していると考えた方が良いだろう。此の歌に対応する漢文が男装(?)の毛野に添えられた「高哉犬坂勇且好謀避冤在胎変生剿仇」であり、「胸のからくり」には「在胎変生」が当たるだろう。これも先行する文物を取り入れた馬琴の言葉遊びのうちだろう。「言葉遊び」即ち、言葉の連想的繋がりによって、興を惹き起こそうとする技術である。
 ところで、筆者は八犬伝と徳川家康との関係に就いてウジウジ語ってきたわけだが、家康に天下が回ってきた理由が、新田義貞の討ち死に(に先だって為した祈り)であるとは、シリーズで既に述べている。其の新田義貞が、鎌倉の北条一族を討とうと立ち上がった時点の事情を、馬琴も好きだった太平記は述べている。こんな塩梅だ。

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新田義貞謀叛の事付けたり天狗越後勢を催す事
懸かりけるところに新田太郎義貞、去んぬる去三月十一日先朝より綸旨を賜ひたりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り便宜の一族達を潛に集て、謀叛の計略をぞ被回ける。懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内西国の乱を可静とて、武蔵上野安房上総常陸下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には有徳の者多しとて出雲介親連・黒沼彦四郎入道を使ひにて、六万貫を五日中可沙汰と堅く下知せられければ、使ひ先彼所に莅で大勢を庄家に放入て譴責する事法に過ぎたり。新田義貞、是を聞給て、我館の辺を雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ争か乍見可怺(こらう)とて数多の人勢を差向られて両使を忽生取て出雲介をば誡め置き黒沼入道をば頚を切て同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道、此事を聞て大に忿て宣けるは、当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし、然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也、剰藩屏の中にして使節を誅戮する条、罪科非軽に此若緩々の沙汰を致さば大逆の基と成ぬべしとて、則武蔵上野両国の勢に仰て新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進すとぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、此事可有如何と評定有けるに、異儀区々にして不一定。或は沼田圧を要害にして利根河を前に当て敵を待んと云義もあり。又、越後国には大略当家の一族充満たれば津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ勢を付てや可防と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して進出て被申けるは、弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て其命を重ぜずと云処なし、されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ、又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず、指たる事も仕出さぬ物故に此彼へ落行て新田の某こそ相摸守の使を切たりし咎に依て他国へ逃て被討たりしかなんど天下の人口に入らん事こそ口惜けれ、とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて朝家の為に捨たらんは無らん跡までも勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む、先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当、各宣旨を額に当て運命を天に任て、只一騎也共、国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落、勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義をとし勇みを宗と して宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏子息孫次郎幸氏二男弥次郎氏明三男彦二郎氏兼堀口三郎貞満舎弟四郎行義岩松三郎経家里見五郎義胤脇屋次郎義助江田三郎光義桃井次郎尚義是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見鳥山田中大井田羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける、と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし、と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞義助不斜悦て、是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留、とて同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野下野上総常陸武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、穴ことごとし、何程の事か可有。唐土天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異、と欺合り。物の心をも弁たる人は、すはや大事出来ぬるは。西国畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中よ り起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■(ヤマイダレに有)にして越は腹心の病也。と云しに不異、と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重同孫四郎左衛門加治二郎左衛門入道に、武蔵上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共ことごと敷此を晴と出立たりしかば、馬物具太刀刀皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先鬨の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎三百騎千騎二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治長崎二度の合戦に 打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国加治長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道安保左衛門入道城越後守長崎駿河守時光左藤左衛門入道安東左衛門尉高貞横溝五郎入道南部孫二郎新開左衛門入道三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢)十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て鬨を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。
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 要するに鎌倉側の無礼極まりない搾取に怒った新田義貞が、一方的に北条氏打倒を決意したのだ。一つの時代が動くとき、其の表面の動きは案外ちょっとしたことが原因だったりするものだ。挙兵を知られぬうちにと、仲間が十分に集まっていない段階で、挙兵した。が、連絡もしていないのに、里見氏を始めとした越後の源氏が、何故だか降って湧いたように現れた。結局、新田側は鎌倉側の反撃で敗走した。しかし鎌倉側は追撃をしなかった。義貞にとっては命拾いであったが、鎌倉側としては脇の甘さを露呈した事件、滅亡の予兆として描かれている。
 では何故に、呼びもしない新田の援軍が現れたのか。太平記は、「天狗山伏」が新田挙兵の報を触れ回ったからだと、説明している。即ち、挙兵が計画段階で素早く広まったこと、交通機関が未発達で通常の方法では関東から越後への連絡は時間を要する筈だから、不可思議な連絡方法を採ったというほどの表現だろう。
 が、手品にタネがあるように、不可思議な現象にも合理的な説明がつくことがある。人は其れを、【秘密】と言う。では、「天狗山伏」なる虚構に託された事実/秘密は、何であったか。江戸前期には成立していた、太平記読みの必読書「太平記評判秘伝理尽鈔」を読めば、何となく察しがつく。ちょっと引こう。

     ◆
新田義貞陰謀の事
○伝云、義貞後に楠正成・名和長俊に語り給ひしは、謀を回らし、相州の一家を滅ぼさん事を思ひ立侍れども、身不肖なれば、誰に如何許りの事を申談ぜん様もなかりつるに、越後国の一族に、里見修理助見参の為にとて、三月廿一日の晩景に見へ来たれり。義貞も不審に思ひて、当時数度の上落につかれ、家もまどしき人の、何故に今、事もなきに見参の為とては来るべき、と思ひ居たる所に、舟田入道善昌来て申けるは、里見殿の今何の用共なきに来り給へるこそ、御心の中不審に候へ。此人も相州の執事に付て恨むる意の多き人にて侍れば、思ひ立給ふ事もや侍ると申す。
 匠作は先、舟田が宿所に入て、入道とものがたり数刻に及ぶ。而して天下近年の乱、諸人の煩ひ、最も歎きに余り有となり。舟田、去ばこそと思ひて、公家の帥てもはかばかしからず覚へ侍る。良将をゑらんで節度を給はる者有らば、代は静まる事の侍るべきを、西国の中には楠が外、都て良将のなく侍るやらんと、何となく戯れければ、匠作、いさとよ、和国の風俗は、子孫にあらざれば人従がはず候、去ば西国の中に源平両家の内何れの者か人にそれと思るる者の侍るや、東国の内には猶侍るらんと申す。舟田、是にて弥心付て猶も彼心中を伺ひ知らん為に、東国には誰か侍るらんと申す。匠作、東国には思ひ立給へば、いかほども源平の子孫多く侍るぞや、あらあら算へ給へとて、あら恐ろし、枝葉の事を申出したるものかなと謂いしとにや。舟田さらぬ体にもてなし、匠作に先立て義貞に語るにぞ最嬉しく思ひし。
 然ば義貞も常よりもきらめいて饗さんと思ひ成りたる所へ匠作出来たる。酒三献の後、義貞が杯を受けんと仕侍る時、匠作常より礼義を正しふす。義貞、をどろき入り侍る、何事にして左様の礼を尽くし給ぞと謂うに、匠作云、存る子細の侍るぞや、最初上宮太子未だ七歳になり給ひし時、新羅の相人来て太子を拝み奉りて、君は是、観音にて在ますなりと申しとて打笑ひにげり。義貞、貴辺は相人にて在ますや、某は我身ながら如何なる仏菩薩の再来とも覚へずと笑ひければ、匠作、某こそ相人にて侍れとて打過ぬ。
 義貞も猶心有て思ひければ、少々引き出でものなどして有りけるほどに、夜に入て人を除けさせ義貞に申けるは、当時の事、相州の悪逆勝て計うべからず、義を金石に類し、事を天道にまかせて、朝家の為に一命を軽んずる謀を回らされ侍らば、某に於ては二た心ろあるまじきにて候、左だに思召立給ば、越後一州の御一族、誰か与し申さぬ者の侍るべき、然ば相州に恨みを含むの類ひ皆馳せ参べきなれば、御勢に不足は侍るまじ、先舟上へ綸旨を申まいらせ給へと、謀細々と語て猶も、某が心の中いつはりと思召なと、神に懸け仏に懸けて誓ひの言葉あり。
 義貞、思所、其所謂なきにあらず、執事にて召し使ひ侍る舟田とよくよく謀り給へ、さらば舟田参れとて、善昌を呼びて此事を評し合はせ、舎弟の義助、大館江田堀口岩松桃井五六人に申合て、匠作をかへし、越後の一族どもをば里見に謀らはさせ、甲州信州へは江田大館、野州へは山名次郎、相州へは堀口などに謀らせさせしに、凡そ同ぜし大名三十七人、此等の兵を集めば五六万にも及びつべしとなり。……後略(太平記秘伝理尽鈔巻十)
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 いや、本シリーズでは、「◆」の間にある引用文を読まなくても話が通ずるようには書いているので、読まなくても結構。解釈は次回に回しているので、其方を、どうぞ。(お粗末様)

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