◆「真間の手児奈」

 前回は、頼長と讃との濫吹に就いて見たが、考えてみれば、此の「讃」、受領層だろうけれども尺八好きな野郎で、「亥刻向華山逢或武士讃相楽(楽八本作互似是)行濫吹希有之事也過夜半帰宅」(久安二年六月六甲辰)なんて箇所もある。で、こんなことしてるうちに、「今朝或人(讃妻)欲産死(不得生)深更乗馬向其所(不問日吉凶)不相逢帰(但使人告来由)」(同八月十二日)、「讃」の妻が死んでしまう。頼長は深夜に馬で讃の家に行くが、わざわざ「逢わずに帰った」と書いている所を見ると、讃と姦る積もりだったのだろう。未亡人となった讃を、その先立った妻の遺体の前で姦ろうとしたのだ。やっぱり頼長は鬼畜である。しかし頼長の我慢なぞ知れている。遅くとも十月九日には「今夜向讃第有彼事」。「かの事」とは、やはり「濫吹」だろう。
 「讃」とのリップ・サービスを気に入っていたらしい頼長であったが、「讃」一筋でもない。久安三年一月十六庚辰には、「夜半為来(有)彼朝臣漏精足動感情先々常有如此之事於此道不耻于往古之人也」。別の相手と、めくるめく快感に溺れている。「彼朝臣」、恐らくは参議藤原為通と考えられているが、此の床上手、頼長に「かの朝臣、精を漏らす。感情を動かすに足る。先々常に此くの如きあり。此の道に於いて往古の人に耻じず」と最大級の賛辞を贈られている。当時は何でも「昔の方が良かった」と考えていたので、現代語釈すれば「彼のイキっぷりは、実に感動的だ。いつも、このように素晴らしくイク。昔の人と比べても、全く恥ずかしくないほどだ」……って、恥ずかしいと思うのだが。
 こんな頼長だから、風呂に入るだけでアヤシイ。康治元年二月十三乙巳「公春奉仕湯殿(摩背)」なんて出てきただけで、「で、風呂の中で何をしたんだ?」と訊きたくなる。昔の風呂だから蒸し風呂で、垢擦り役が必要だとは思うし、誰かが「奉仕」するは当然として、わざわざ「この日は公春と、お風呂に入った。ウフ」(頼長は左府)と惚気やがっているのだから、ナニをしたかは想像がつく。ならば同年九月二十三壬午「今日公春時通等奉仕湯殿」は、三人以上で楽しんだってことだろう。湯気の中グチュグチョ濡れた肉体を絡め合う図は、現代でも都会の二十四時間サウナに見られる光景か。
 この左府生秦公春は、愚管抄で「(頼長の)無二ニアイシ寵シケル随身公春」と言われている人物で、頼長の命令で暗殺まで請け負っていた愛人だ。久安元年十二月十七丁巳に「陰時々小雨入夜風雪……白雪頻降素月猶照……今夜有不祥雲所殺召使国貞之庁下部去七日非常赦被免今夜件下部被殺云々国貞以忠事君今其仇被殺天之令然歟太政官之大慶也未知何人所為或曰国貞子召使所為云々(其実余命左近府生秦公春令殺之伐天誅之猶武王誅紂也人無敢知之)とある。
 台記では、病気になった公春のため祈りを捧げる頼長の姿が描かれている(久安元年一月二十日・二十七日)。久安元年六月十五日には、賭け碁をやって、負けた公春が頼長に馬を差し出し、同二十五日にも碁をして今度は公春が馬を得ている(自分が勝ったときは「余勝」と書いているが負けたであろう二十五日に勝敗の記述はない。頼長の性格が窺える……かも)。なかなか、微笑ましい。(▼→私家版台記抄)
 まぁ院政に於いては、男色関係による陰性な繋がりも一つの要素として機能し、「へっへっへっ、可愛がってやるから俺の云うことを聴け」とか「あぁん、犯るんだったら僕のお願いを聴いて」程度のことで、国政が左右される。だいたい公的には天皇が朝廷の主宰者であって、院は私的な政治機関に過ぎない。だから好き放題にするのだ。現在でも「院政」と呼ばれる政治形態は、オヤジ同士のリップサービス、実際の肉体関係の有無には拘わらず、私的な即ち男色関係と同様の感情的関係のみによって、権力が行使される。そんなで厳しい現実が乗り切れるわけもないから、殿様商売特有の政治形態ではあるが、殿様商売が出来ない時代になっても続けていると、其の組織は滅びるだけだ。日本も院政の影響力のみで国政を続けていたら、元寇に対処することが出来たか怪しい。元寇時、偶々武家政権、少なくとも多くの武士を一丸に纏める存在が既に登場していたから、如何にか暴風雨(神風?)が吹くまで持ちこたえ、結果として、撃退に成功した。男色関係で、即ち肉体的魅力や美貌、口唇技巧の巧拙や穴の締め具合を以て近衛少将なんかになった者が兵を率いたところで、役には立つまい。八犬伝で蟇六と亀篠のセックスは合戦に喩えられてはいるが、その種の合戦が巧かったとて、実際の戦争は出来ないだろう。
 本来なら政治には役に立たぬ筈の男色関係が、院政の政治文化のうちにはあった。頼長も政治家として男色を嗜む必要はあっただろう(必要性だけに迫られて彼が男色を嗜んだのか如何かは解らないが)。彼にとっては、男色行為も政治家の仕事のうちであった。だからこそ、そこらじゅうの貴公子やら受領やらと姦りまくっていた(政治的必要性のみで相手を選んでいたか如何かも解らぬが)。そんな頼長だったが、前述せる如く、互いの交流の中に個人的な楽しみを見出していたと思しき、公春への愛だけは、本物だったのかもしれない。
 えぇっと、何の話をしてたっけ……そぉそぉ斎藤実盛だ。実盛は、元は源氏の武士だったが、平家に乗り換える。と書けば単純だが、「源氏の武士」と云っても、まずは義朝に従い、一時期は藤原頼長の夜の玩具・帯刀先生義賢に鞍替えしたことがある。義朝のもとに舞い戻ったら、源氏同士の内輪揉めで義賢を滅ぼすことになった。このとき実盛は、義賢の息子・駒王丸を信濃へ落ち延びさせた。で、義朝は保元の乱時、義賢の肉体を玩具にしていた頼長を討つ側に回り勝ち組となったが、平治の乱で敗れてしまった。実盛は源氏を去り、平家に属く。維盛の後見役だが、維盛は重盛の息子で、絶世の美少年である。男色院政の主宰者・後白河あたりに犯られていたに違いないと疑うむきもあろうが、話を進めよう。此の維盛に従って木曽義仲と戦った実盛は、白髪首を取られた。既に実盛は、七十歳を超えていた。いや、白髪首ではなかった。白髪を黒く染めて、壮年の武者の如く獅子奮迅の戦い振りを見せたのだ。義仲の陣中、首実検で誰の首か当初は判らなかった。立派な大将級の武具を美々しく着飾っている割に誰も見覚えがないのだけれども、何だか見たことあるようにも思える。漸く「実盛かも?」と洗って見れば、果たして白髪に戻り、実盛だと定まった。義仲は男泣きする。義賢が滅んだとき、実盛に救われた駒王丸こそ、木曽義仲であったのだ。実盛が白髪を黒く染めた理由は、戦場で老人だと侮られないためだったという。此の美意識、死を覚悟した戦場で白髪を染め美々しく着飾った実盛の男伊達に、馬琴は如何な匂いを嗅ぎ取ったのか。名前を「盛実」と逆転させ、夜の玩具として八犬伝に登場させた。やはり戦場(いくさば)の英(はな)として自らを飾った実盛に、自らDesiredな存在となるべく努力する稚児の心を見てとったのだろう。しかし愛されたいと願う者は、愛され過ぎる者の悲哀を知らぬ者だ。愛され過ぎる悲劇、伝説の美少女・真間の手児奈を筆者は思い出す。
 ってなわけで、いきなりだが此処で、伝説の美少女・真間の手児奈に関係する歌を求め、国歌大鑑を漁ってみよう。これが、また、ウジャウジャある。勅撰和歌集だけでも、

     ◆
▼千載和歌集第十八雑歌下
一一六四 しもつふさのかみにまかれりけるを任はててのぼりたるころ、源俊頼朝臣のもとにつかはしける 源仲正
あづまぢの やへの霞を わけきても きみにあはねば なほへだてたる心ちぞすれ
一一六五 返事 源俊頼
かきたえし ままのつぎはしふみみれば へだてたるかすみも はれてむかへるがごと
▼新勅撰和歌集第十九雑歌
一三〇一 よみひとしらず
かつしかの ままのうらまを こぶ舟の ふな人さわぐ 浪たつらしも
一三〇二 前大僧正慈円
かつしかや むかしのままの つぎはしを わすれずわたる はるがすみかな
▼続後撰和歌集巻第十四恋歌四
八〇九 百首歌たてまつりし時、寄橋恋 前大乗大臣
ゆめにだに かよひし中も たえはてぬ 見しやそのよの ままのつぎはし
八九〇 中納言資季
かづらきの 夜半の契の いは橋や たえてかよはぬ たびひなるらん
八九一 おなじ心をよませ給うける 土御門院御製
ゆめならで またやかよはむ しらつゆの おきわかれにし ままのつぎはし
▼続拾遺和歌集巻第十四恋歌四
一〇四七 醍醐入道前太政大臣女
別れにし ままのつぎはし 中たえて ふみかよふべき 道だにもなし
▼新後撰和歌集巻第十三恋歌三
一〇七三 従三位藤原宣子
うつつとて かたるばかりの 契かは あだなる夢の ままのつぎはし
▼続千載和歌集巻第五秋歌下
四八八 建治三年九月十三夜五首歌に、江月 前右兵衛督為教
くもりなき 影もかはらず 昔みし ままの入江の 秋のよの月
▼続後拾遺和歌集巻第十四恋歌四
九一六 嘉元百首歌たてまつりける時 逢不会恋 贈従三位為子
さても猶 かよはばこそは たのまれぬ たえじといひし ままのつぎはし
▼風雅和歌集巻第四夏歌
三六一 千五百番歌合に 参議雅経
五月雨に こえゆく浪は かつしかや かつみがくるる ままのつぎはし
     ◆

これを私撰、私家集まで広げると、      ◆
▼万葉集巻第三挽歌
四三四
過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌、東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡
古昔 有家武人之 倭文幡乃 帯解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手児名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不所忘
四三五 反歌
吾毛見都 人尓毛将告 勝壮鹿之 間間能手児名之 奥津城処
四三六
勝壮鹿乃 真真乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手児名志所念
▼巻第九挽歌
一八一一 詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌
鶏鳴 吾妻乃国尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言来 勝壮鹿乃 真間乃手児奈我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹?有 斎児毛 妹尓将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏虫乃 入火之如 水門入尓 船己具如久 帰香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物乎 何為跡歟 身乎田名知而 波音乃 驟湊之 奥津城尓 妹之臥勢流 遠代尓 有家留事手 昨日霜 将来見我其登毛 所念可聞
一八一二 返歌
勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水?家牟 手児名之所念
▼巻第十四相聞(下総国歌)
三四〇二
可都思加能 麻末能手児奈乎 麻許登可聞 和礼尓余須等布 麻末乃弖胡奈乎
三四〇三
可都思賀能 麻万能手児奈我 安里之婆可 麻末乃於須比尓 奈美毛登杼呂尓
三四〇五
安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都芸波思 夜麻受可欲波牟
▼夫木和歌抄巻第七夏部一
二三八六 家集 鴨長明
かつしかや かはぞひうつぎ さきしより なみよりかよふ ままのつぎはし
▼巻第二十一雑部三
九四四二 なごのつぎはし越中越後八雲には、越後こしぢのかたなる人に 和泉式部
いそぎしも こし路のなごの つぎはしの こころもしらず いざかへりなん
九四六八 家集 鴨長明
かつしかや かはぞひうつぎ さきぬらし 浪よりつたふ ままのつぎはし
九四六九 堀川院御時百首 大納言師頼卿
いまさらに こひぢにまどふ 身をもちて 友にはたかけむ ままのつぎはし
九四七〇 屏風ゑに かち人のはしわたる其所 鎌倉右大臣
かち人の わたればゆるぐ かつしかの ままのつぎはし くちやしぬらん
四四七一 題しらず万十四 読人不知
あのおとせず ゆかんこまもが かつしかの ままのつぎはし やまずかよはん
▼巻第二十六雑部八
一二四三二 洞院摂政政家百首 光明峰寺入道摂政
かつしかや ままの井づつの かげばかり さらぬおもひの かげをこひつつ
一二四三三 題不知 万九 虫丸
かつしかの ままの井みれば たちならし 水をくみけん てこなしぞおもふ
▼好忠集
一〇八 四月中
うつぎはら てこながぬのを さらせると みえしははなの さけるなりけり
▼散木奇歌集
障子の絵に海のつらに人ながめてゐたり船の行くをみる所をよめる
かつしかの ままのうらわの おきつらに あけのそほぶね からろおすなり
▼林葉和歌集 夏野
夏ふかみ 草ふきわくる 風なくは たどりやせまし ままの次はし
▼拾玉集
七九一 橋
かつしかや むかしのままの つぎはしを 忘れずわたる 春霞かな
二四二〇 詠百首和歌 法門妙経八巻之中取百句
かつしかや 法のみちにぞ わたしつる むかし思ひし ままのつぎはし
▼壬二集
二八九 恋部 恋歌あまたよみ侍りしに
かたしきの 袖にもさわぐ あだ人の 立別れにし ままのうらなみ
▼拾遺愚草
一七五 内大臣家百首 建保三年九月十三日講 恋廿五首 寄名所
わすられぬ ままのつぎ橋 思ひねに かよひしかたは 葛にみえつつ
▼金槐和歌集
七〇三 かち人のはしわたりたる所
かち人の わたればゆるぐ かつしかの ままのつぎはし 朽ちやしぬらん
▼明日香井和歌集
二二二 千五百番歌合百首 建仁元年 秋日同詠百首応製和歌 従五位上守左近衛権少将臣藤原朝臣 夏
五月雨に こえゆくなみは かつしかや かつみがくくる ままのつぎはし
▼後鳥羽院御集
五八三 恋
から衣 袖もひとつに 朽ちにけり みしやその夜の ままのつぎ橋
     ◆

まだまだあるから次回に続く。(お粗末様)

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