■浜路復活■

 

 信乃・毛野は、女装犬士なる範疇に於いて、対称である。ならば復讐の天使・毛野に対し、信乃は慈愛の天使であろうか。後にはそうなるが、元々は信乃だって、優しい美女ではない。案外、薄情者なのだ。真情を吐露する(前の)浜路を軽く受け流して旅に出る。信乃は気品ある美女ではあるが、優しさを余り見せない。それどころか司馬浜の閻魔堂で船虫を捕らえた折、まず「八創に斬切みて悪を懲さん」と口火を切ったのは信乃である。ほかには道節、荘介、小文吾、現八、大角がいた。信乃と道節は、船虫から直接害を与えられてはいない。小文吾は二度殺されそうになった。大角は妻・雛衣を死に追い遣られた。道節は刀を使うのも勿体ないと、牛に突き殺させるよう提案する。牛は飼い主を殺されている。五犬士は賛成し、船虫と夫を木に縛り付ける。信乃は牛に近付いて、「こは多からぬ逸物なれば村人們が主の名を搭してこれを牛鬼と喚做けんも名詮自性、牛頭馬頭冥府の獄卒に擬すべかりける自然の妙契、畜生なりともこゝろあらば這義を思ふて主の仇なる賊夫賊婦を劈けかし。心を得よや」{第九十回}と死刑執行を命ずる。小文吾と現八が牛の尻を叩いてけしかける。船虫夫婦は阿鼻叫喚のうちズタズタに突き殺される。

 興味深いのは、最も手酷い仕打ちを受けた大角が、当初は残虐な刑罰に同調しない点だ。大角の温厚な人柄が偲ばれる。此が彼の「礼」なのだろう。礼は、社会の安定のため真情/剥き出しの感情を包み込む機能を有する。刑罰は必ずしも残虐でなくとも良い。しかし船虫は重大な失策を犯した。信乃らが残虐な刑罰を主張しているなか、独り沈黙していた大角に、助命を願ったのだ。愛する妻を死に追いやられた大角が、船虫を助命する筈はない。大角はただ、残虐な刑罰の必要性に疑問をもっていただけだ。罪は船虫の命で贖わなければならない。にも拘わらず、船虫は助命を願った。過剰な要求に、大角はキレた。キレてしまった大角は、過剰/殊更に残虐な刑罰に賛成した。「過剰」であったことは、船虫の処刑が終わったとき、流石に犬士らは後悔したのか、粛然と目を合わせたことからも解る。船虫が自分を断罪する信乃・道節に向かって「アンタら関係ないでしょ」と怒鳴り上げたら事態が変わったであろうが、元より馬琴に其んな積もりはない。

 

 とにかく船虫に対する残虐な刑戮を主導するのが信乃なのだ。船虫に何もされていないクセに……。即ち信乃は、第三者であるのに、道節と共に刑戮を主導しているのだ。此は既に、個人的な復讐者ではなく、裁判官としての機能だ。冥界の裁判官である閻魔王を祀る堂から道節が出現し、閻魔と一仏二体の地蔵を納めた堂から信乃が飛び出してくる。【天】もしくは近世に於ける【公儀】の権限に踏み込んでいる。結城法会を目前に控え船虫を刑戮した物語は、毛野・道節の仇討ちへと場面が移っていく。且つ、隠し持っていた復讐心を露わにして、いきなり信乃が五十子へと突入し攻略するのだ。

 

 正式に里見家に仕えるまで、毛野の行動原理は一貫して「復讐」である。愚かなる男どもの欲望を一身に纏い擦り抜ける彼女は、ただ復讐だけを望む。父の復讐のため必要とあらば、まさに父の血に塗れた仇の指で弄ばれ蹂躙されることすら厭わない。いや「蹂躙」は拒む者を陵辱するときの謂いである。彼女は傀儡女/売笑婦として自ら進んで肉体を開き、仇に与える。彼女は、馬並だったか否かは知らぬが馬加に跨り律動し、消耗させ果てさせる。ユーディットなら此のタイミングで、幸せに微睡むホロフェルネスを斬首する所だが、毛野は、そんなお人好しではない。そもそも彼女の復讐には、馬加の生首だけでは不足なのだ。対牛楼に於ける彼女の復讐は、命を奪うことにより、負の次元で平衡させようとするものであった。粟飯原首胤度、妻・稲城、嫡子・夢之助、幼女・玉枕{玉枕は良い夢を見るための呪物}の命は、馬加大記常武、妻・戸牧、嫡子・鞍弥五常尚、幼女・鈴子の命で贖われなければならない。一人でも生き残れば、完璧な平衡が取り戻せない。族滅には族滅を以て報ずる。此れが毛野の復讐である。復讐は、負の次元ではあるが、平衡である。

 

 対牛楼の殺戮劇に先立って、八犬伝物語は三つに分岐する。荒芽山で散った犬士が、それぞれの道を歩む。其のうち小文吾の挿話に対牛楼の殺戮劇が接続しているのだ。小文吾による毛野の【発見】である。散らばった犬士のうち現八は大角を「発見」する。大角が父の仇である山猫を退治する話となっている。そして信乃は甲斐で、里見五の姫を、「発見」する。荒芽山の後、三つの【発見伝】があるのだ。信乃らが発見した里見五の姫は、浜路であった。故に「発見」と云うより、【再発見】かもしれない。

 

     ◆

曲亭主人自評して云、大約犬士の妻子眷属たるもの浜路沼藺雛衣曳手単節等は貞操心烈よのつねに捷れしも咸薄命にして夫婦偕老に至らず。これらも所以ある事をこゝには解尽しがたかり。全輯結局の段に■台にシンニョウ/て看官冰塊するよしあらん。そが中に沼藺雛衣曳手単節の四婦人は各々良人に斉眉く日の久しきにあらねども既に鴛鴦の衾を襲て瀋楊の睦み空しからず。只浜路のみ■人のした小/らず。赤縄足に繋ぐといへども合■丞のした巳/いまだ整はず。身は悪棍に傷殺せられて箕箒を冥府に執るに由なし。誰かこれを憐ざらん。かゝるゆゑに別に一個の浜路ありて更に信乃と匹配す。便是二女一体冤鬼陽人異なれども前身後身一般の如し。この処作者一段の工緻にして初より意中に包蔵す。看官後話をおもひ得ずして只見るところをのみ推て評するものもありと聞えたり。細工は流々落成を見よといふ鄙語に似たる事よろづのうへに多かるべし」{第六十九回}。

     ◆

 

 馬琴の「大約」を更に約せば即ち、【殊更残虐に屠った浜路であるが、道義/勧懲に照らして復活せしめ信乃と添い遂げさせる】となろうか。要点のみ抽出すれば、【前後の浜路は作中に於いて同一存在】である。現実にはありえぬが、稗史/フィクションならではの、【救済】である。救済は、【回復】であり【平衡】である。

 (前の)浜路虐殺は、一応は網干左母二郎によるけれども、既に論じてきたように、道節の復讐を代行している疑いがある。道節は嘗て、浜路の母・黒白に殺された経緯がある。此の時、道節は母・阿是非と共に殺され、同じ墓に埋葬された。腐乱した母の遺骸の横で、道節だけ甦った。道節の告発で黒白は刑戮されたのだが、浜路は養女に出された。平衡が取れていない。浜路も虐殺されねばならぬ。道節自身は生き返ったのだから、浜路は許してやれって? 筆者が許しても、八犬伝世界では許されない。特に道節は、復讐マニアだ。因果は応報せねばならない。浜路は、とにかく殺されねばないのだ。……そして、甦らなければならない。だからこそ、(前の)浜路は虐殺され、(後の)浜路として復活を果たす。

 

 浜路は浜路姫として、甲斐で復活を果たす。安房で鷲に攫われ、村長・四六城木工作に養われていたんである。村長・大塚蟇六の養女となった浜路が虐殺され、村長・木工作の養女として再登場するのだ。平衡は保たれている。違うといえば、既に滅亡した犬山家でなく、上り調子の戦国大名・里見家の娘となる点ぐらいのものだ。上昇移動は単に、最悪の悲劇のうちに死して尚も抱き続けた、信乃への愛ゆえである。別に何も問題はない。債権が回収されただけのことであり、これも平衡のうちだ。道節が左母二郎に代行させた復讐は、黒白に殺された道節が甦っている以上、浜路の復活を以て完了する。且つ浜路は信乃への愛ゆえに復活したのだから、愛を成就すべきであり、故に信乃と出会わなければならない。後に、籤引きの偶然もしくは天の采配で浜路は信乃と婚姻する。浜路の養父・木工作が信乃と婚姻させようとする条は、擬制に終わるとはいえ、信乃を想いつつ復讐の犠牲にされた浜路に、報いるためであろう。そして道節も、浜路の復活に立ち会わねばならない。浜路虐殺の場面で修行者に化けていた道節は、甲斐武田家の眼代に化け浜路の復活に立ち会った。何処までも平衡に拘る馬琴であった。

 浜路{再}発見伝は、道節による浜路への復讐完了を物語るものでもあった。浜路は兄・道節への債務を返済し、道節の同胞たる信乃との愛を許可される。地獄の呵責は、苦しめることが目的ではない。苦しみで浄化し極楽へ送り出すことが、地獄の目的である。平衡である。浜路は、十分過ぎるほどに、苦しんだ。現八による大角発見伝は、怪奇趣味ではあるが、此も復讐劇である。実は筆者の謂う平衡とは、勧懲に於ける事実関係の側面を謂っているに過ぎない。

 毛野や道節の挿話のみならず、八犬伝には復讐譚が満載だ。信乃さえ復讐を認めている。何故なら八犬伝に於いては、復讐は当然の行為、日常茶飯事だからだ。平衡を求めるホメオスタシスは、自然の摂理である。ただ其の中で、信乃は、浜路の復活という【正の平衡】を指向する特殊な復讐にも関わるのだ。もう一人の女装犬士・毛野は、負の平衡、殺人には殺人を以て返す一般的な復讐を人並み外れて断行する。即ち、程度に於いて甚だしいとの特殊性をもつ。対して信乃は、一般的な復讐も行うが、逆方向の「復讐」にも身を置く。喩えるならば、異性交遊が「一般的」である世界に於いて、信乃は同性愛交遊にも身を任せ、毛野は極度に甚だしく異性愛交遊に邁進し耽溺する。共に特殊であり、変態さんだ。信乃・毛野は、八犬士中、女装という特殊性を共にもち、且つ方向性が対称なんである。

 

 勧懲もしくは平衡への指向が、馬琴世界の揺るぎない前提である。少なくとも奪われた命と同じ数だけ、仇の命を奪う毛野の復讐も「平衡」だ。そして浜路・信乃の如く、喪われた命、失われた愛を取り戻すことも「平衡」である。共に理念上は最も理解し易い平衡だが、前者はより現実的であり、後者は稗史の中でのみ実現可能だ。但し前者は陰、後者は陽である。恐らくは信乃は水弟/癸、であり、水兄/壬の毛野より、水気が少ない即ち陰の度合いが低い。故に信乃は酷薄なる美女だが、やや陽寄りなのだ。

 

 此処まで論じてきた平衡は、復讐を含め、個人間もしくは特定の家同士の間で希求されたものであった。しかし殺伐とした乱世に生まれた酷薄の美女・信乃は、妹とも思う美少女の一途な愛を取り戻した。信乃が見もし行いもしてきた復讐は、負の平衡を指向するものであった。其れしか、実際にはあり得ない。死者が復活する筈はない。しかし、あり得ぬ筈の、正の平衡が実現した。奇跡である。そして、此の奇跡は、怨霊ではない幽霊、浜路によって衝き動かされた。八犬伝発端は、玉梓怨霊であった。負の霊である。しかし浜路幽霊は、怨むため化けて出たのではない。愛するために出現した。正の霊である。

 正の霊たる浜路は、地獄の苦しみの中で血の池に沈んだにも拘わらず、最期の願いさえ拒み冷酷に看取った兄・道節、いや実は浜路殺害の隠れた主犯・道節を、全く怨むことなく、ただ失った命を、想いを、後の浜路に託し、即ち実質的に復活して、正の平衡を見せつけた。

 此の時、負の平衡/復讐を希求してきた宇宙が、弾ける。人の認知する現象は、総て個々人の裡に於ける銀幕への投影でしかない。其れが現世。仏教世界観だ。しかし浜路の復活は、個々人の裡に密閉された認知上の「現世」のみが宇宙でないことを教えた。宇宙の外にも宇宙がある。現世から消えた浜路が現世に戻ってきたならば、消えていた間は何処に存在していたのか。現世以外の宇宙がなくてはならない。浜路の復活は、個人認知裡の外にも宇宙があり、且つ其の宇宙と通交が実現し得ることを証明した。個々人の裡に暗く密閉されていた宇宙が弾け、更なる外部に新たな宇宙が出現した。現世・彼岸の併存と両者間交通の実現として描かれた浜路復活の場面は、密閉された個人・家なる宇宙が極限まで密閉し抑圧され尽くした挙げ句のビッグ・バン、新たなる宇宙の創造であった。個人の外部にも、実は宇宙があった。此の発見が、浜路復活の意味である。

 

 陰に籠もった八犬伝世界が新たなるステージに向かうとなれば、其れは光に満ちた者でなければならない。浜路の復活/回陽は当然、陽の気が満ちていく前兆、富山/戸山に籠もった太陽が再び昇る予言ともなっていた。(お粗末様)

 

→ Next

← Prev

↑ 犬の曠野Index

↓ 旧版・犬の曠野Index